第3話「自分で選ぶ服」
高校へ入学して最初の休日、わたしは自分のクローゼットの前に立っていた。
扉を開けると、服は十分すぎるほどある。
淡い水色のワンピース。白地に細かな花柄が入ったブラウス。柔らかな生地のスカート。季節ごとに揃えられたカーディガンやコートもあり、どれも綺麗な状態で並んでいる。
着るものがなくて困るような量ではない。
むしろ普通に考えれば、これだけ持っているのに新しい服が欲しいと言うほうがおかしい気もする。
それでも、朝から何度クローゼットを見ても、着たいと思えるものがあまりなかった。
「……あるんですけどね」
誰に言うでもなく呟いて、端に掛けてある黒いパンツを引き出す。
これは少し前、自分で選んで買ったものだった。
正確には、一人で買ったわけではない。
水守家の人間が一人で街へ出ることはほとんどなく、当時も運転手と使用人がついていた。ただ、それまでと違っていたのは、店へ入ってから何を買うかを自分で決めたことだった。
それだけで、今でも妙に覚えている。
服を買うこと自体は、元のなぎも何度も経験していた。
ただし、「選ぶ」という行為の意味が違った。
母や使用人が何着か候補を出し、その中から好きな色を尋ねられる。
仕立てる場合も、形や生地は家の人間と店側が相談したうえで、「なぎさまにはこちらがお似合いです」と勧めてくる。
元のなぎはそれで満足していた。
好みに合わないものを押しつけられていたわけでもない。
自分をよく知る人たちが、似合うものを選んでくれる。その中から一番好きなものを選ぶ。
それを不自由だとは感じていなかった。
わたしも最初のうちは、そういうものなのだと思っていた。
身体も生活も借りたような状態で、わざわざ服だけ変える必要があるとも思わなかった。
けれど、毎朝クローゼットを開くたび、少しずつ違和感が積もっていった。
嫌いではない。
でも、自分では選ばない。
その違いがわかるようになってしまった。
黒いパンツをベッドの上へ置き、その横に白いシャツを並べる。
今持っている中では、この組み合わせが一番落ち着く。
それでも二着とも偶然見つけたものなので、着回せるほど数はない。
学校では制服だから困らないが、休日になるたび同じような服ばかり着ることになる。
「なぎさま?」
開けたままの扉の向こうから声がした。
振り返ると、いつも身の回りの世話をしてくれている女性が立っている。
「はい」
「失礼いたします。奥さまから、本日お召しになるものを確認するようにと」
そう言いながら、彼女は開いたクローゼットへ目をやった。
「お出かけでしたら、こちらはいかがでしょう」
迷いなく一着を取り出す。
薄い灰青色のワンピースだった。
胸元は詰まっていて、腰の位置が少し高く見える形になっている。装飾も多すぎず、わたしでも綺麗だと思える服だった。
「お似合いになると思います」
「そうですね」
実際、似合うとは思う。
以前なら、そのまま着ていただろう。
断る理由がないから。
けれど今日は、渡された服へ手を伸ばす前に少し考えた。
「……今日は、こっちを着ます」
ベッドの上のパンツとシャツを指す。
彼女はそちらを見て、一瞬だけ目を丸くした。
「そちらですか?」
「はい」
「もちろん構いませんが……今日は奥さまとお買い物へ行かれると伺っておりますので、もう少しお出かけ向きのもののほうがよろしいかと」
「これは、お出かけ向きじゃないですか?」
「あ、いえ。そういう意味では」
困らせてしまったらしい。
責めるつもりはなかった。
「すみません。変な聞き方しました」
「いいえ、とんでもございません」
彼女は少し迷ったあと、ベッドの服を見直した。
「なぎさまは、最近こういった装いがお好きなのですね」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「まだ、そんなに持ってないので」
答えると、彼女がほんの少し笑った。
「では、本日のお買い物で増やされてはいかがですか」
思わず彼女を見る。
「いいんですか?」
「もちろんです。なぎさまのお召しになるものですから」
ごく当然のように言われた。
それだけのことなのに、少し拍子抜けした。
自分の中では、もっと何か言われるものだと思っていたのかもしれない。
水守家の娘らしくない。
女の子なのだからもっと綺麗な服を。
そういう言葉を予想していた。
少なくとも、元のなぎの周囲には「若い女性にはこういうものが似合う」という感覚がかなり強かった。
けれど、目の前の彼女は服を元へ戻しながら、「白いシャツでしたら、今の季節にもよさそうですね」と普通に続けている。
「……ありがとうございます」
「何がですか?」
「いえ。何でもないです」
黒いパンツへ着替えて、一階へ下りる。
母は居間で出かける準備をしていた。
わたしを見ると、最初に服へ視線を落とした。
「あら」
その一言で、また少し身構える。
「その格好で行くの?」
「はい」
「最近、本当にパンツが好きね」
「駄目ですか?」
「まさか」
母は少し笑った。
「似合ってるわ。ただ、前はスカートばかりだったから、好みが変わったのねと思って」
「……そうですね」
「高校生になったものね。自分で好きな服も増えるでしょう」
そこでも、やはり強く咎められることはなかった。
母にとっては、娘の趣味が少し変わった程度のことなのだろう。
わたしにとっては、それほど小さくない。
でも、それを説明する必要はない気がした。
「今日は何を買うんですか?」
「春物を少し。あなたの服も見ましょう。高校へ上がったし、今までのものだと少し幼いものもあるから」
「自分で選んでもいいですか」
母がわたしを見る。
質問したあとで、自分でも少し変なことを聞いたと思った。
服なのだから、自分で選んでもいいに決まっている。
けれど、この家では今まで、「何を買うか」はわたしが店へ着く前からある程度決まっていることが多かった。
「もちろんよ」
母は不思議そうに答えた。
「着るのはなぎでしょう?」
「……はい」
また、少し拍子抜けする。
どうやら今日の敵は、誰かではないらしい。
むしろ、自分の中にある「こうするものだ」という記憶のほうなのかもしれなかった。
車で向かったのは、元のなぎも何度か訪れたことのある百貨店だった。
正面玄関から入ると、店員が母へ軽く頭を下げる。水守家の人間が頻繁に利用している店らしく、何人かはこちらの顔も覚えている。
「水守さま。ご入学おめでとうございます」
「ありがとうございます」
名前を呼ばれることには、もう驚かなくなった。
案内された売場には、春物の服が綺麗に並べられている。
店員はわたしを一度見てから、すぐに何着か取り出した。
「お嬢さまでしたら、こちらなどいかがでしょう。新作でございます」
差し出されたのは、淡い色のブラウスとスカートだった。
綺麗だとは思う。
母も「似合いそう」と言う。
「試着なさいますか?」
以前なら、ここで頷いていた。
似合わないとは思わないし、着ることそのものが嫌なわけでもない。
けれど今日は、自分で選ぶと決めてきた。
わたしは売場を見回した。
女性向けの服ばかりが並ぶ中にも、パンツはいくつもある。シャツも、柔らかなブラウスだけではなく、襟の形がすっきりしたものが置かれていた。
「あっちを見てもいいですか」
「もちろんでございます」
店員が少し意外そうにしながら案内してくれる。
黒いワイドパンツ。
濃い灰色のスラックス。
短めの黒いトップス。
白いオーバーサイズのシャツ。
手に取ってみる。
生地を触る。
鏡の前で身体へ当ててみる。
服を選ぶというのは、意外と時間がかかる。
今まで誰かが候補を絞ってくれていたから気づかなかった。
「こちらでしたら、少し細身のものもございますが」
「これは?」
「そちらはかなりワイドなシルエットになります」
「こっちが好きです」
口にしてから、少しだけ止まった。
好きです。
たったそれだけの言葉だった。
けれど、誰かに「どちらがお好きですか」と二択を渡される前に、自分から言ったのは初めてかもしれない。
店員は何も特別なことだと思わず、「ではサイズをお持ちいたします」と離れていく。
母が隣からわたしを見ていた。
「本当に好みが変わったのね」
「変ですか?」
「だから、変じゃないって」
少し呆れられた。
「なぎは昔から、そういうことをあまり言わなかったから驚いているだけよ」
「そういうこと?」
「これがいい、あれは嫌って」
言われて、黙る。
元のなぎは確かにそうだった。
好き嫌いがなかったわけではない。
ただ、周囲が用意したものの中に大きな不満を持つことが少なかった。
自分が少し違うものを望んだとしても、「こちらのほうがお似合いです」と言われれば、それで納得した。
「わがままになりましたか」
聞くと、母が目を瞬いた。
「どうしてそうなるの」
「これがいい、とか。嫌、とか言うのは」
「それくらいでわがままにはならないでしょう」
あまりにも簡単に返された。
「服くらい、自分の好きなものを着なさい」
母はそう言って、近くにあった白いシャツを一枚取った。
「ただ、これだけだと少し寂しくない?」
「寂しい?」
「アクセサリーとか」
「なくてもいいです」
「そう」
母は少し残念そうだったけれど、それ以上は言わなかった。
試着室へ入る。
最初に選んだ黒いワイドパンツと、白いシャツに着替える。
鏡の前に立つ。
学校の制服でもない。
水守家が用意したワンピースでもない。
自分で棚から取って、自分で好きだと言った服。
鏡の中には、いつもの水守なぎがいた。
顔も。
髪も。
細い身体も。
当然、何も変わっていない。
それなのに、少しだけ息がしやすい。
シャツの裾を整え、袖を少し捲る。
パンツは思っていたより幅が広く、小柄な身体には少し大きく見える。
でも、それがいい。
「いかがですか?」
外から店員の声がする。
「今、出ます」
カーテンを開ける。
母と店員がこちらを見る。
「まあ」
母が最初に声を出した。
「思ったより似合うわね」
「思ったより」
「悪い意味じゃないわよ」
店員も頷いている。
「腰位置が高く見えますので、お嬢さまの体型にもよくお似合いです。シャツも、もう少し大きめにして抜け感を出してもよろしいかもしれません」
「もっと大きいのありますか?」
「ございます」
すぐに別のサイズを持ってきてもらう。
今度は少し肩が落ちる。
そちらのほうが好きだった。
「これにします」
自分で決める。
もう一着、濃い灰色のパンツも選ぶ。
黒い短めのトップスも試す。
最初は何を基準に選べばいいのかわからなかったのに、一着決めると次からは少し楽になった。
これは好き。
これはあまり着ないと思う。
こっちは形が好きだけれど色が違う。
自分の中に判断基準があることに、選び始めてから気づいた。
最後に、母が一着だけワンピースを持ってきた。
「これは?」
黒に近い濃紺で、今まで持っていたものより装飾が少ない。裾も広がりすぎず、かなりすっきりしている。
「パンツじゃないけれど、なぎが好きそうかなと思って」
少し考えて、試着する。
鏡を見る。
嫌ではなかった。
むしろ、好きなほうだった。
「これも欲しいです」
「あら」
母が嬉しそうにする。
「パンツしか着なくなるのかと思った」
「パンツしか着たくないわけじゃないです」
自分で言って、それも一つわかった。
女性らしい服が嫌いなのではない。
誰かに選ばれた「あなたにはこれが似合う」を、そのまま自分の好みだと思うことに違和感があっただけなのだ。
自分で選べるなら、スカートでもワンピースでもいい。
選んだ結果として着るのと、最初からそれしかないのでは、わたしの中では少し違う。
会計になると、別の問題が出てきた。
店員が読み上げた金額を聞いて、わたしは思わず表示を見直した。
「……高くないですか」
母がこちらを見る。
「何が?」
「服です」
「これくらいでしょう」
「これくらい」
元のなぎの記憶では、その反応が普通だった。
でも、今のわたしの感覚では普通ではない。
シャツ一枚にこの金額を出すのか、と少し躊躇する。
「やっぱり一枚減らしても」
「なぎ」
母が笑った。
「必要ないなら減らしていいけれど、値段だけなら気にしなくていいわよ」
「でも」
「今日買ったもの全部合わせても、あなたが前に仕立ててもらっていたドレス一着より安いから」
「……そうなんですか」
それは知らなかった。
いや、記憶としては知っていたのかもしれない。
金額を気にしたことがないので、意識に上がってこなかっただけだ。
結局、最初に選んだものは全部購入した。
店を出るとき、紙袋は使用人が持ってくれた。
自分で持とうとしたら、「これはお任せください」と笑われたので、そこは任せることにした。
全部を一度に変える必要もない。
帰りの車で、母が隣から聞いてきた。
「楽しかった?」
少し考える。
「はい」
「珍しいわね。前は服を見ても、何でもいいって感じだったのに」
「そうでしたか」
「何を着せても似合うから、こちらとしては楽しかったけれど」
母は窓の外を見ながら笑った。
「でも、自分で選んでる今日のほうが楽しそうだったわ」
返事ができなかった。
まただ。
今のほうが。
数日前にも、学校で同じようなことを言われた。
前より話しやすい。
今のほうが好き。
そして今日は、今のほうが楽しそう。
別人なのだから当然だ、と考えることもできる。
でも、それを認めると少し怖い。
母が好きだった娘は、元のなぎだ。
15年間育てたのも元のなぎだ。
もし、わたしが別人だと知ったら。
今と同じように笑うのだろうか。
考えても答えは出ない。
わたしは窓へ目を向けた。
「お母さん」
「なに?」
「前のわたしって、そんなに自分で選ばなかったですか」
聞いた瞬間、自分でも少し踏み込みすぎたと思った。
けれど母は特に不審には思わなかったらしい。
「そうねえ」
少し考えている。
「選ばなかったというより、こだわらなかったのよ。こちらが勧めれば素直に着てくれたし、嫌だって言うこともほとんどなかったわ」
「それは、いいことですか」
「いい子ではあったわね」
母はそう言ってから、わたしを見る。
「でも、嫌なら嫌って言ってよかったのよ」
「……そうなんですね」
「当たり前でしょう」
当たり前。
また、その言葉だった。
元のなぎにとっての当たり前と。
今のわたしにとっての当たり前。
家族にとっての当たり前。
たぶん全部少しずつ違う。
水守家だから。
女だから。
白さまを守る家だから。
家に言われた通り生きることが当然だと、元のなぎは思っていた。
でも、もしかすると全部を周囲から強制されていたわけでもないのかもしれない。
元のなぎ自身が、そうすることを疑わなかった。
周囲も、本人が嫌がらないからそのまま続けた。
そうやって「当たり前」は作られていく。
誰か一人が悪いわけではないまま。
家に戻って、買った服を自室へ運んでもらう。
袋から一着ずつ取り出した。
新しい白いシャツ。
黒いパンツ。
灰色のパンツ。
黒いトップス。
濃紺のワンピース。
クローゼットを開けて、空いている場所へ掛けていく。
淡い色の服ばかりだった空間へ、黒と灰色が増える。
少しだけ景色が変わった。
たった数着だった。
クローゼット全体から見れば、ほんの一部分にしかならない。
明日になれば、誰も気にしない程度の変化だと思う。
それでも、わたしはしばらくその場所を見ていた。
自分で選んだ。
言われた中から選んだのではなく、最初に「これがいい」と言った。
それだけだった。
高校をどこにするかは家と相談して決まった。
住む場所は最初からここだった。
水守という姓も、この身体も、自分で選んだものではない。
この世界へ来たことすら、自分で望んだわけではない。
だからなのかもしれない。
たった一着のシャツを自分で選んだことが、思っていたより嬉しい。
わたしは新しい服の袖へ触れた。
さらりとした生地が指先を滑る。
これを着ても、水守なぎの顔は変わらない。
水守家の娘であることも変わらない。
元のなぎの記憶が消えるわけでもない。
それでも、この服だけは、今のわたしが選んだ。
誰にも決めてもらわなかった。
その事実だけで十分だった。
夜になり、風呂を終えてから鏡の前へ立つ。
今日買った白いシャツをもう一度だけ羽織ってみた。
袖は少し長い。
肩も落ちている。
使用人が選ぶなら、きっともう少し身体へ合ったサイズを勧めただろう。
でも、こっちが好きだ。
鏡の中の水守なぎは、やっぱりまだわたしと完全には重ならない。
それでも、その少女が着ている服には、今日のわたしの意思が入っている。
少なくとも一つ。
これがいい、と自分で決めたものがある。
わたしは鏡の前でシャツの袖を一度折った。
もう一度折る。
そのほうがしっくりきた。
「……これでいい」
今度は誰かに確認するためではなく、自分に向かってそう言った。
クローゼットの中では、新しく買った黒と白の服が、昔からあった服の間に並んでいる。
古いものを捨てるつもりはなかった。
元のなぎが好きだった服も、別に嫌いではない。
ただ、その隣に、今のわたしが選んだものを増やしていけばいい。
たぶん人生も、それくらいのところから始めればいいのだと思う。
全部を一度に自分のものにする必要はない。
今日一着選んだのなら、次はもう一つ。
そうやって、この部屋にも、この名前にも、少しずつ自分で選んだものを増やしていく。
鏡の中の少女を見ながら、わたしは初めて、その方法ならできるかもしれないと思った。




