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第2話「鏡の中の水守なぎ」

 入学式が終わる頃には、朝から張っていた緊張が少しだけ抜けていた。


 体育館を出る生徒たちの声が廊下まで響き、真新しい上履きが床を擦る音と、保護者同士の話し声が混ざっている。誰かが廊下の窓を開けたらしく、外から入ってきた春の風がカーテンを揺らしていた。


 わたしは教室の自分の席に座り、机の上に置かれた大量の配布物を順番に鞄へ入れていた。


 校則。


 年間予定。


 保健関係の書類。


 部活動の案内。


 進路についての簡単な冊子。


 最後の一冊だけ、少し手が止まった。


 まだ高校一年生になったばかりなのに、冊子の表紙にはもう「卒業後の進路を考える」と書かれている。


 当然といえば当然なのだろう。


 高校へ入った時点で、3年後には何をするのか考え始める人もいる。


 大学へ行く人。


 働く人。


 専門的な学校へ進む人。


 元のわたし――と呼ぶのも少し違う気がするので、元の水守なぎ、と考えることにしている――には、そういう選択肢がほとんど現実味を持っていなかった。


 学校の進路希望調査には、それらしいことを書く予定だったかもしれない。


 けれど、本当に何かになるための進路ではない。


 高校卒業後も水守家に必要な教養を身につけ、家が必要だと判断すればさらに学び、その後は適切な婚姻を結ぶ。


 それが、彼女にとっては将来だった。


 それを不幸だとも思っていなかった。


 むしろ、自分にはきちんと役割があるのだと安心していた記憶が残っている。


「水守さん?」


 突然呼ばれ、わたしは顔を上げた。


 隣の席の女子がこちらを見ている。


 名前はわかる。


 中等部から一緒だった。


 名前だけではない。彼女が2年ほど前に前髪を短く切って失敗したことも、体育祭では足が速かったことも、甘い飲み物をよく買っていたことも知っている。


 それらは全部、記憶の中にある。


「何ですか?」


「いや、すごい真剣に見てるなって。進路のやつ」


「ああ」


 手元の冊子を見る。


「ちょっと気になって」


「もう大学とか考えてるの?」


「まだ何も決めてないです」


「水守さんって大学行くのかなって、前からちょっと思ってた」


 そう言われて、わたしは彼女を見る。


「どうしてですか?」


「え?」


「どうして、そう思ったんですか」


 問い返すと、彼女は少し困った顔をした。


 変なことを聞いたらしい。


「いや……水守さんって、家すごいじゃん。だから普通の大学とか行くのかなって」


「普通の大学」


「いや、変な意味じゃなくてね?」


「わかってます」


 わたしは少し考えたあと、冊子を閉じた。


「わたしもわかりません」


「そっか」


 相手はそれ以上深く聞かなかった。


 その距離感に、少しだけ助かった。


 元のなぎなら、同じことを聞かれたとき、どう答えただろう。


 考えなくてもわかる。


 きっと、柔らかく笑って「まだ家と相談していないので」と答えた。


 そこに不満も疑問もなかった。


 それが自然だったからだ。


 今のわたしは、「家と相談する」という言葉より先に、「わたしはどうしたいんだろう」と考える。


 その違いは小さい。


 表面だけなら、ほとんど誰にも気づかれない程度の違いだ。


 けれど、その小さなずれが積み重なるたびに、自分と水守なぎの間に薄い膜のようなものがあるのを感じる。


「そういえば、髪」


 隣の子がもう一度話しかけてきた。


「最近ずっと自分でやってる?」


 わたしは後頭部に手をやった。


 朝、適当にまとめた髪は、すでに少し緩んでいる。


「はい」


「前もっときっちりしてたよね。編み込んだり、リボンつけたり」


「そうでしたね」


「今のも似合うけど」


「ありがとうございます」


 そう答えると、相手はにこっと笑って前へ向き直った。


 わたしはしばらく、自分の髪の毛先を指で触っていた。


 以前の髪型も嫌いではない。


 むしろ綺麗だったと思う。


 使用人に整えてもらった髪は、朝から夕方までほとんど崩れなかったし、鏡に映ればちゃんと「水守家のお嬢様」に見えた。


 今は、少し乱れている。


 今日も朝から何本か髪が落ちてきている。


 けれど、こっちのほうが落ち着く。


 なぜなのかは、説明しにくい。


 綺麗に整えられすぎていると、自分ではない誰かの格好をしているような感じがする。


 それはきっと、この身体そのものにまだ完全には慣れていないせいでもある。


 ホームルームが終わり、解散になった。


 母は校内で保護者向けの説明を聞いているため、少し時間がある。


 教室を出たわたしは、廊下の端にある洗面所へ向かった。


 人が少なくなった頃を見計らって中へ入り、手を洗う。


 顔を上げると、大きな鏡の中に制服姿の少女が立っていた。


 朝にも見た顔。


 学校の明るい蛍光灯の下で見ると、家の鏡より少し青白く見える。


 黒に近い灰色の髪。


 蜂蜜色の瞳。


 小さな顔。


 細い首。


 制服の肩幅も少し余っている。


 わたしは鏡の中の自分をしばらく見た。


 もう、驚きはしない。


 最初の頃は、鏡を見るたびに息が止まった。


 手を動かせば、向こうも動く。


 瞬きをすれば、向こうも瞬きをする。


 当然のことなのに、その当然が怖かった。


 自分ではない顔が、完全に自分の動きをする。


 それが何より気味が悪かった。


 でも、人間は慣れる。


 朝起きて。


 顔を洗って。


 髪を梳いて。


 この顔で人と話して。


 この身体で眠る。


 毎日繰り返していれば、違和感は少しずつ薄くなっていった。


 消えたわけではない。


 鏡の中の顔へ触れるように、自分の頬へ指を当てる。


 肌が冷たい。


 ちゃんと感覚がある。


 当たり前だけれど、自分の身体として反応する。


「……水守なぎ」


 小さく名前を口にしてみる。


 鏡の少女も同じ形に唇を動かす。


 呼ばれれば自然に振り向くようになった。


 書類へ名前を書くときも、もう迷わない。


 学校の名簿に「水守なぎ」と書かれていても、他人の名前には見えない。


 それでも、心のどこかに引っかかりがある。


 この名前は、最初からわたしのために用意されたものではない。


 この家族も。


 この部屋も。


 この15年間の記憶も。


 全部、誰かが先に使っていたものだ。


 誰か、という言い方もおかしい。


 その誰かも水守なぎだった。


 今、鏡の中にいるわたしと同じ顔をしていた。


 その子の記憶を持っているせいで、完全な他人とも思えない。


 幼い頃に熱を出した夜、母が隣で眠ってくれたことを覚えている。


 兄に隠れて菓子を食べたことも。


 父に褒められて嬉しかったことも。


 白さまへの初めての拝謁で緊張して、着物の袖を握っていたことも。


 思い出せば、その場面はちゃんと自分の視点から見える。


 感情まで残っているものもある。


 なのに、その記憶を「わたしの思い出」と言おうとすると、少しだけ喉につかえる。


 自分が体験したわけではないと、どこかでわかっている。


「水守さん?」


 洗面所の入口から声がして、わたしは反射的に振り返った。


 さっき隣の席にいた女子が立っている。


「すみません。鏡、使います?」


「ううん。水守さん、ずっと鏡見てたからどうしたのかなって」


「髪が崩れてたので」


 口からすぐに出た。


 嘘ではない。


 実際、髪は少し崩れている。


「ほんとだ。直す?」


「これくらいなら大丈夫です」


「そっか」


 彼女はわたしの隣へ立ち、自分の前髪を鏡で確認し始めた。


 二人の女子高校生が並んで鏡を見る。


 たったそれだけの光景だった。


 わたしは鏡越しに彼女を見る。


 彼女も、今のわたしにとっては知っている人であり、知らない人だった。


 元のなぎは彼女と何度も話している。


 一緒に昼食を食べたこともある。


 けれど、今のわたし自身は、今日ほとんど初めて彼女と話した感覚に近い。


 それなのに、向こうからすれば昔から知っている水守なぎだ。


「ねえ」


「はい」


「水守さん、ちょっと変わったよね」


 心臓が、ほんの少しだけ強く鳴った。


 顔には出さない。


 鏡の中の自分がどう見えるのかを確認する。


「そうですか?」


「うん。悪い意味じゃなくて」


 彼女は前髪を直しながら続けた。


「前より気楽そうっていうか……なんか、普通に話しやすくなった」


「前は話しにくかったですか」


「そういうわけじゃないけど、水守さんってずっとちゃんとしてたから」


「ちゃんとしてた」


「言葉遣いとかもそうだし、何かいつも綺麗だった。今も綺麗だけど、なんて言えばいいんだろ。最近ちょっと適当じゃん」


 適当。


 少しだけ笑いそうになった。


「褒めてます?」


「褒めてる、たぶん」


「たぶんなんですね」


「あ、そういう返しするのも前はなかった」


 彼女が笑う。


 わたしも、ほんの少し口元を緩めた。


 たしかに、元のなぎなら言わなかったと思う。


 相手の発言をそのまま受け取り、曖昧に笑って終わらせていた。


「嫌でした?」


「全然。今のほうが好きかも」


 何気ない言葉だった。


 きっと相手も深い意味では言っていない。


 それでも、わたしは返事をするまで少し時間がかかった。


「……ありがとうございます」


「何その間」


「何でもないです」


 本当に、何でもない。


 ただ、「今のほうが好き」と言われたことが、思っていたより胸に残っただけだ。


 今のわたしを、以前とは違うと感じる人がいる。


 それでも、それを悪い変化だと思わない人もいる。


 そのことに少しだけ安心した。


 洗面所を出たあと、母と合流して学校を後にした。


 帰りの車では、母が入学式の話をしていた。


 担任が感じのよさそうな人だったとか、校長の話が長かったとか、校舎が以前より綺麗になっていたとか。


 わたしは適当に返事をしながら、窓の外を見ていた。


「それにしても、なぎ」


「はい」


「本当に最近、髪を自分でやるのね」


 またその話だった。


「変ですか?」


「変ではないけれど。前は人にしてもらうのが好きだったでしょう?」


「……そうでしたね」


「高校生になったから、自分でやりたいのかしら」


「たぶん」


 便利な答えだと思う。


 高校生になったから。


 年頃だから。


 気分が変わったから。


 そういう理由で説明できる程度の変化なら、周囲も深く疑わない。


 母はしばらくわたしの顔を見ていたが、やがて微笑んだ。


「少し大人になったのね」


 その言葉に、すぐ返事はできなかった。


 大人になったわけではない。


 同じ子どもが成長したのではなく、途中から別のものが入った。


 そう言えたら、どんな顔をするのだろう。


 想像したくなくて、わたしは再び窓の外へ目を向けた。


 家へ戻ると、入学祝いの花がいくつか届いていた。


 親戚。


 晶守家と関係のある家。


 水守家と長く付き合いのある人たち。


 どれも立派なものだった。


 使用人がそれらを整理している横を通り、自室へ戻る。


 制服のブレザーを脱ぎ、椅子の背へ掛ける。


 クローゼットを開いて、家で着る服を探した。


 淡い色のワンピースが目に入る。


 元のなぎがよく着ていたものだ。


 記憶の中で、この服を初めて着た日のこともわかる。


 母が似合うと言ってくれた。


 元のなぎは嬉しかった。


 その感情まで覚えている。


 わたしはワンピースの裾を指で触ったあと、その隣に掛けてある黒いパンツを取った。


 白いシャツも一緒に出す。


 最近、自分で選んで買ったものだった。


 最初に店で値札を見たとき、この家では大した額ではないのだろうと思いながら、それでも少し迷った。


 結局、自分のために自分で選んだ服というだけで妙に気に入っている。


 着替えて、鏡の前へ立つ。


 制服姿よりも落ち着く。


 白いシャツを少し緩く着て、黒いパンツのポケットへ手を入れる。


 鏡の中にいるのは、朝と同じ顔をした水守なぎだ。


 でも、少しだけ違って見える。


 顔は同じ。


 身体も同じ。


 髪も目も変わらない。


 着ているものと、立ち方が違うだけだ。


 それだけで、朝より少し自分に近く見える。


「……変なの」


 鏡へ向かって呟く。


 服一枚で自分になるわけでもない。


 元のなぎが着ていた服を着たからといって、元のなぎになるわけでもない。


 そんなことはわかっている。


 それでも、自分で選んだものを身につけていると、少し安心する。


 この身体の中にも、自分で決めたものがあるからかもしれない。


 机の前へ座り、今日もらった書類を整理する。


 途中で、学生証の仮カードが出てきた。


 顔写真の下には、


 水守 なぎ。


 そう印刷されている。


 写真をじっと見る。


 撮影されたとき、もう今のわたしだった。


 この写真の表情は、元のなぎのものではない。


 少し気怠げで、口元もほとんど笑っていない。


 家の人には「もう少し笑ったほうがよかったのでは」と言われたけれど、これでいいと思っている。


 15年間の記憶は借り物かもしれない。


 名前も身体も、最初からわたしのためのものではなかったかもしれない。


 でも、この写真を撮ったのは今のわたしだ。


 今日、高校へ行ったのも。


 隣の席の子と話したのも。


 鏡の前で「今のほうが好き」と言われたのも。


 全部、今のわたしが経験したことだ。


 それなら、これから増えていく記憶については、少なくとも迷わなくていい。


 引き出しを開け、学生証をしまう。


 そのとき、部屋の入口付近で小さな音がした。


 振り返ると、扉の隙間から黒い顔が覗いている。


「墨」


 名前を呼ぶと、黒猫はしばらくこちらを見てから、静かに部屋へ入ってきた。


 まだ若い雌猫で、長めの黒い毛が歩くたびに揺れる。


 最初に保護したときはかなり警戒心が強かった。


 家の人間にはなかなか近づかず、わたしに対してもすぐには懐かなかった。


 だから、かえって楽だったのかもしれない。


 墨は元の水守なぎを知らない。


 わたしが以前と違うとも言わない。


 目の前にいるわたしだけを見て、近づくかどうかを決める。


 床へ座ると、墨は少し警戒しながら近寄ってきた。


 無理に手を伸ばさず待つ。


 やがて猫のほうから膝へ鼻先を寄せてきたので、顎の下をそっと撫でる。


 小さく喉が鳴った。


「あなたは楽でいいですね」


 もちろん返事はない。


 墨はわたしの膝の横へ座り、尻尾だけをゆっくり動かしている。


「わたしが誰でも、たぶんあまり関係ないでしょう」


 そんなことを言うと、墨が一度だけこちらを見上げた。


 猫に同意を求めても仕方がない。


 わかっている。


 それでも少しだけ笑ってしまった。


 自分が水守なぎなのかどうかは、まだわからない。


 元のなぎの代わりなのか。


 同じ人間の続きなのか。


 まったく別の人間なのか。


 それを決める方法も知らない。


 ただ、今日一日だけでも、昨日まで存在しなかった記憶が増えた。


 高校へ入った。


 新しい教室に座った。


 進路の冊子を見た。


 昔から知っているはずの子と、今のわたしとして話した。


 今のほうが好きだと言われた。


 そういうものが一つずつ増えていけば、そのうち「水守なぎ」という名前の中に、今のわたしが占める場所も増えていくのかもしれない。


 墨の背中を撫でながら、向かいの姿見へ目をやる。


 床に座るわたしと、その隣にいる黒猫が映っている。


 朝に見た、水守家のお嬢様らしい制服姿ではない。


 髪は少し崩れたままで、シャツの袖も適当に捲っている。


 それでも鏡の中の少女は、やっぱり水守なぎの顔をしていた。


 わたしはしばらくその姿を眺めてから、鏡越しの自分と目を合わせた。


 以前よりは、少しだけ長く見ていられるようになった気がした。

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― 新着の感想 ―
知っているはずの家や家族なのに、自分の記憶じゃないっていう感覚がすごく印象に残りました。 「今のほうが好き」って言われるところも良かったですし、墨だけは今のなぎしか知らないっていうのも好きでした。 こ…
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