第1話「知らない春、知っている家」
目が覚めると、見慣れた天井があった。
白を基調にした天井には、中央を囲むように細い装飾が施されている。寝台のすぐ横には、淡い色のカーテンが下がった大きな窓があり、隙間から差し込んだ朝の光が床の上へ細長く伸びていた。
この部屋がどこにあるのか、わたしは知っている。
窓を開ければ、水守家の庭が見えることも知っている。正面の廊下を右へ曲がれば階段があり、その手前には小さな飾り棚がある。階段を下りて一階へ行けば食堂があって、その奥には家族が普段使う居間がある。
全部知っている。
けれど、最初からわたしが知っていたわけではない。
枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばし、画面に表示された時刻を確認する。予定していた起床時間より3分早かった。もう一度寝るほどでもないので、わたしはそのまま上半身を起こした。
寝巻きの袖から出た手を、少しだけ眺める。
白くて、細い。
指も長くはない。爪は綺麗に整えられていて、手の甲には目立つ傷一つない。
もう、見慣れた手だった。
自分のものではないと思っていた時期もあった。
今でも、完全にそう思わなくなったわけではない。
鏡を見るたびに、そこに映っている少女を「わたし」と認識するまで、ほんの少し時間がかかる日がある。
ただ、それでもこの手で歯を磨き、この足で歩き、この声で人と話す生活を何か月か続けていれば、身体というものはそれなりに馴染んでくるらしい。
わたしはベッドから降り、窓際へ向かった。
カーテンを開けると、春の朝の光が一気に部屋へ入ってくる。
水守家の庭は、今日もよく手入れされていた。
石畳の両脇には低い植木が並び、その向こうでは桜がほとんど満開になっている。庭師の人たちが早朝から手を入れているのだろう。落ちた花びらまで、妙に整って見えた。
今日から高校一年生になる。
正確には、水守なぎが高校一年生になる。
わたしも、その水守なぎとして高校へ行く。
そこまで考えて、窓ガラスにうっすら映った自分の顔を見る。
黒に近い灰色の髪は、寝ていたせいで少し乱れている。蜂蜜色の目は眠たげで、特別機嫌が悪いわけでもないのに、昔から少し愛想がないように見えるらしい。
この顔も知っている。
この顔が幼い頃、どんなふうに笑っていたのかも知っている。
わたしの記憶ではない記憶として。
水守なぎは、15年間ここで育った。
この庭を走ったことがある。池の縁で足を滑らせ、着物を濡らして叱られたこともある。母に髪を梳かしてもらった朝があり、兄の勉強を邪魔して追い出された夜もある。
白さまに初めて拝謁した日のことも覚えている。
白い髪。
白い目。
水守家が代々守ってきた、水の白。
幼い水守なぎは、その姿を見て心から美しいと思っていた。
そして、自分もいつかあの方をお守りするのだと、疑いもなく考えていた。
それらの記憶は、今もわたしの中にある。
だから、家族の顔を忘れることもない。
使用人の名前もわかる。
礼儀作法も、家の歴史も、水守家が晶守家の中でどういう立場なのかも知っている。
ただ、その記憶を思い出したときに湧いてくる感情だけが、少し違う。
元の水守なぎが当たり前だと思っていたことを、わたしは時々、変だと思う。
その違いを誰かに説明したことはない。
説明できるとも思っていない。
ある日、自分の娘が突然別人になりましたと言われて納得する親がいるとは思えないし、わたし自身、この状況を完全に理解しているわけではなかった。
なぜこうなったのかもわからない。
元の水守なぎがどこへ行ったのかもわからない。
ただ、ある日を境に、わたしはこの身体の中にいた。
そして、この身体の記憶だけが、最初から自分のものだったかのように残っていた。
そこまで考えたところで、扉が控えめに叩かれた。
「なぎさま。お目覚めですか」
「はい」
返事をすると、少し間を置いて扉が開いた。
幼い頃から水守家に勤めている女性が入ってくる。彼女の名前も、好物も、腰を痛めたことがあるのも知っている。元のなぎが彼女に懐いていたことも覚えていた。
「おはようございます。ご入学、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「お支度のお手伝いをいたしますね」
そう言って彼女がクローゼットへ向かおうとしたので、わたしは先に口を開いた。
「今日は、自分でやります」
足が止まる。
ほんの一瞬だけだったけれど、彼女は驚いた顔をした。
「……かしこまりました。制服は昨日のうちにこちらへご用意しております」
「はい。大丈夫です」
「髪も?」
「自分でします」
また少しだけ驚かれた。
わたしがこの身体になってから、この種類の反応を見ることは珍しくない。
元のなぎは、身の回りのことを何もできなかったわけではない。ただ、やってもらうことが自然な生活をしていた。
服を用意してもらう。
髪を整えてもらう。
学校へ行く車を出してもらう。
食事を運んでもらう。
それを特権だと意識することもなく、ごく普通の日常として受け入れていた。
だから今のわたしが自分で何かをしようとすると、周りは少し戸惑う。
「では、朝食のご用意が整いましたらお呼びいたします」
「お願いします」
一礼して彼女が退出してから、わたしはクローゼットを開いた。
整然と並んだ服の中から、今日着る高校の制服を取り出す。
濃紺のブレザーに白いシャツ。指定のスカート。
制服なので仕方がない。
それでも、着替えながら少し落ち着かない気持ちになる。
この家にはスカートが多い。
ワンピースも多い。
色も白や淡い青、薄い桃色など、柔らかいものばかりだった。
元のなぎに似合っていたのだと思う。
実際、鏡で見れば今のわたしにも似合う。
ただ、好きかと聞かれると、よくわからない。
最近は自分で選んだ黒いパンツやシャツが少しずつ増えているけれど、それらは広いクローゼットの中ではまだ少数派だった。
制服へ着替え終わり、髪を簡単にまとめる。
昔のなぎは、使用人に綺麗に編み込んでもらったり、髪飾りをつけてもらったりすることが多かった。
わたしはそこまで器用ではないので、後ろで適当にまとめる。
少し崩れているくらいのほうが落ち着いた。
鏡の中の少女が、昨日までより少しだけ高校生らしく見える。
「……似合ってる、とは思う」
自分に言っても仕方がない。
けれど、他に言う相手もいなかった。
机の上に置かれた鞄を手に取り、その隣にある一枚の紙へ目が止まる。
入学式の案内。
保護者欄には、すでに父の名前が記入されている。
進路希望を書く欄は、まだずっと先だ。
高校卒業後、自分が何をするのか。
元のなぎの記憶を辿れば、ぼんやりした答えはある。
大学へ進学する兄たちとは違い、水守家の娘であるなぎには、もともと明確な職業への道は想定されていなかった。
必要な教養を身につける。
家の祭祀や歴史を学ぶ。
白さまをお守りする者として恥ずかしくない振る舞いを覚える。
そして、いずれ家にとって適切な相手と結婚する。
それが、元のなぎにとって特に不自然ではない未来だった。
今のわたしには、不自然に見える。
別に大学へ行きたいと決めているわけではない。
何か特別な職業に就きたいわけでもない。
ただ、「女だから最初から必要ない」という理由で選択肢そのものが用意されていないのは、変な気がする。
今のところ、それだけだった。
自分が何をしたいのかは、まだわからない。
この世界で何をするのか。
そもそも、この人生をどこまで自分のものとして考えていいのかも、まだわからない。
わたしは案内の紙から目を離し、鞄を持って部屋を出た。
廊下へ出ると、朝の静かな空気が流れている。
知らない家ではない。
この床板が冬になると少し冷えることも知っている。突き当たりの窓から午後になると西日が入ることも、階段の三段目だけわずかに軋むことも知っていた。
だからこそ、妙な感じがする。
知っているのに、自分で知ったことではない。
懐かしいのに、わたしが懐かしがる資格があるのかわからない。
階段を下りて食堂へ入ると、すでに家族が揃っていた。
「おはよう、なぎ」
母が最初に声をかけてくる。
「おはようございます」
「制服、よく似合ってるわ」
「ありがとうございます」
父も新聞から顔を上げ、わたしを一度見た。
「今日から高校生か。早いものだな」
その言葉にどう返せばいいか、一瞬だけ迷う。
父にとっては、生まれた日から15年間育ててきた娘なのだ。
その15年間を、わたしは知っている。
でも、生きたわけではない。
「……そうですね」
結局、それだけ答えて席へ座った。
朝食は和食だった。
焼き魚と味噌汁、小さな副菜がいくつか並んでいる。
こういう食事にももう慣れた。
最初の頃は、一人分の朝食にこれだけ器が出てくることに落ち着かなかったけれど、毎日見ていると感覚も麻痺してくる。
「入学式には母さんと行く」
父が言う。
「おれは午後から晶守のほうへ出なければならない」
「わかりました」
「高校へ入っても、水守の者としての勉強は続けなさい。学校の勉強より軽く見るものではないからな」
「はい」
返事をしたあと、味噌汁を一口飲む。
反論するほどのことではない。
家のことを学ぶのが嫌なわけでもない。
知らないより、知っていたほうがいい。
ただ、「水守の者として」という言葉を聞くたびに、胸の中へ小さな違和感が残る。
水守だから。
女だから。
本家の娘だから。
白さまを守る家だから。
そういう言葉は、いつも答えの前に置かれている。
自分で考えるより先に、「あなたはこういう人間です」と説明されているような感じがする。
「なぎ?」
母に呼ばれ、顔を上げる。
「何ですか」
「ぼんやりして。緊張してる?」
「少しだけ」
嘘ではない。
新しい学校へ行くのだから、それなりには緊張している。
「大丈夫よ。中等部から一緒の子もいるでしょう?」
「はい」
「それに、何かあれば家へ連絡しなさい。学校にも水守のことは伝えてあるから」
「……何をですか」
「家のことよ。晶守家との関係もあるし、あなたは普通の生徒とは少し立場が違うでしょう?」
母は悪気なく言った。
本当に、悪気はない。
むしろ娘が困らないように、学校側へ配慮しているつもりなのだと思う。
元のなぎも、それをありがたいと受け取っていただろう。
「そうですか」
わたしはそれ以上何も言わなかった。
高校くらい、ただの生徒でいたかった。
そう思ったけれど、それを口にするほど強い願いなのかは、自分でもまだわからない。
食事を終え、家を出る。
玄関の前には黒い車が待っていた。
母と一緒に後部座席へ乗り込む。
学校までの道も知っている。
ただし高校の校舎へ入るのは今日が初めてだ。
車窓を流れる春の街を見ながら、わたしは鞄の持ち手を握った。
桜が咲いている。
制服姿の学生が歩いている。
信号の前には自転車が並び、コンビニの前では会社員らしい人がコーヒーを飲んでいる。
この景色だけを見れば、わたしが以前いた世界とそう変わらない。
けれど、交差点の大型モニターには、力環による異能事故防止の啓発広告が流れている。
画面の端には、遺能使用時の安全基準が表示されていた。
それを眺めながら、わたしは窓へ額を寄せる。
まだ、この世界を自分の世界だとはうまく思えない。
水守家も。
白水の審律も。
晶守家も。
遺能も。
全部知っている。
それなのに、知らない。
「なぎ」
母に呼ばれて顔を向ける。
「着くわよ」
正面に高校の校門が見えていた。
桜の向こうに、新しい校舎がある。
わたしは一度だけ息を吐いてから、鞄を持ち直した。
今日から高校一年生になる。
水守なぎとして。
それがどこまで自分の人生なのか、今はまだわからない。
でも少なくとも、今日学校へ行くのはわたしだ。
車の扉が開く。
春の空気が入ってくる。
わたしは地面へ足を下ろした。
知らない場所へ行くはずなのに、不思議と、何も知らない場所へ行く感じはしなかった。
たぶん、この世界でわたしが一番困っているのはそこなのだと思う。
知らないなら、もっと簡単だった。
わたしは何も知らないまま、最初から覚えていけばよかった。
けれどわたしは、水守なぎの15年間を知っている。
この家を知っている。
この名前を知っている。
この世界で、自分がどう生きるはずだったのかまで知っている。
だからこそ、そこから外れるたびに、自分が誰なのかを考えることになる。
校門の向こうで、春の風が桜の花びらを舞い上げた。
制服の袖へ一枚だけ落ちてきた花びらを、指先で摘まむ。
それを捨てる理由もなかったので、わたしはそのまま制服のポケットへ入れた。
今日から始まるものが何なのかは、まだわからない。
ただ、水守なぎの記憶にはない春が、ここから先にはある。




