第4話「晶守さまが来る」
新しく買った白いシャツを着た翌日の午後、水守家に晶守さまが来ると聞かされた。
その名前を聞いたとき、最初に浮かんだのは、背が高い、という感想だった。
もちろん、それ以外のことも知っている。
慈 夜也。
晶守家現当主。23歳。極めて強力な「晶」の遺能を持つAランク上位の遺能者で、現在の晶守家において最も大きな権限を持つ人物。
制度上、晶守さまは男性でなければならない。
夜也本人は女性だが、公的には男性として扱われている。男性ホルモンを使用していることも、晶守家の内側では特に秘密ではない。
元のなぎは、その事情を知っていた。
知ったうえで、夜也を「晶守さま」として見ていた。
幼い頃から何度か顔を合わせたこともある。夜也がまだ現在ほど完成された当主ではなかった時期の記憶も、断片的には残っている。
ただ、わたし自身が夜也と直接会ったのは、この身体になってからまだ一度だけだった。
そのときは大勢が同席する場だったので、ほとんど会話をしていない。
だから今日が、実質的には初めてまともに話すことになる。
「なぎさま、本日はそのお召し物で?」
部屋へ呼びに来た使用人に尋ねられ、自分の服を見下ろす。
昨日買った白いシャツに、黒いワイドパンツ。
水守家で晶守さまを迎える格好としては、たしかに少し軽いのかもしれない。
「駄目ですか」
「いえ。ただ、晶守さまがお越しになりますので、念のため確認を」
責める言い方ではなかった。
わたしは少し考えてから、シャツの袖を直した。
「着替えたほうがいいですか」
「奥さまからは特に何も伺っておりません」
「なら、このままで行きます」
「かしこまりました」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
廊下へ出ると、いつもより家の中に人の気配が多い。
晶守家の当主が来るのだから当然なのだろう。
水守家も晶守家の一角ではあるけれど、家格や役割が同じというわけではない。特に今の夜也は、家の当主というだけでなく、公的な仕事も多い人物だ。
元のなぎの記憶を辿れば、晶守さまが来る日は家全体が少し緊張していた。
今も、それは変わらないらしい。
応接間へ向かう途中、母と会った。
「あら。その服にしたのね」
「はい」
「昨日買ったもの?」
「そうです」
「似合ってるわよ」
母はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「今日は夜也さまがいらしているから、最初はきちんとご挨拶なさいね」
「わかっています」
「なぎは昔から知っているでしょうけれど、今はお忙しい方なんだから」
昔から知っている。
たしかにそうなのだろう。
でも、それは元のなぎの話だ。
「……はい」
曖昧に返し、母と一緒に応接間へ向かった。
扉の前にはすでに晶守家側の人間が立っている。
母が軽く会釈し、扉が開かれた。
最初に視界へ入ったのは、長い脚だった。
座っていても大きい。
以前に見たことがあるはずなのに、近い距離で改めて見るとやはりそう思う。
夜也はソファへ腰掛け、父と話していた。
青みを帯びた黒髪は首元まで伸び、毛先に軽く動きがある。黒に近い濃紺のスーツは身体にきれいに沿っていて、広い肩と長い手足が余計に目立った。
顔立ちは整っている。
男性的に見ようと思えば男性にも見えるし、女性だと知っていれば女性にも見える。
ただ、どちらかということより、慈夜也という人間の見た目が完成されすぎている、という印象のほうが強かった。
深い瑠璃色の目が、こちらへ向く。
「あ」
父との会話を止め、夜也が笑った。
「なぎじゃん。久しぶり」
声も低い。
公の場だからか、以前聞いたときより少し落ち着いている。
母が先に頭を下げたので、わたしもそれに続いた。
「ご無沙汰しております、晶守さま」
言うと、夜也が少しだけ眉を上げた。
「え、なにそれ」
「何がですか」
「いや、そんな堅かったっけ」
父が困ったように口を挟む。
「夜也さま、なぎももう高校生になりましたので」
「そういう意味じゃなくてさ」
夜也はソファの背へ軽く身体を預けたまま、わたしを見ている。
視線が長い。
失礼にならない程度に、こちらも見返す。
「高校生になったんだってね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「制服じゃないんだ」
「今日は休みなので」
「それは見ればわかるよ」
夜也が笑う。
「その服、自分で選んだ?」
少し驚いた。
「……そうです」
「へえ」
何が面白いのかわからないけれど、夜也の口元がさらに上がる。
「やっぱり」
「何がですか」
「別に。似合ってるよ」
「ありがとうございます」
「黒、好きになった?」
「最近は」
「最近は、ね」
言葉を拾われる。
夜也は会話をただ聞いているのではなく、相手が何をどう言ったかまで見ているらしい。
わたしは少し警戒した。
元のなぎと何度も会ったことがある人物だ。
家族ほど近くはなくても、変化へ気づく可能性は十分にある。
「まあ座りなよ。ぼく、なぎにも少し聞きたいことあるし」
「わたしに?」
「高校どう?」
「まだ始まったばかりです」
「楽しい?」
「わかりません」
「友達できた?」
「昔から知ってる人はいます」
「新しい人は?」
「まだそんなに」
「部活は?」
「決めてません」
「進路は?」
「……それ、今聞きます?」
思わず返した。
一瞬、部屋が静かになった。
父と母がこちらを見る。
失礼だったかもしれないと思ったとき、夜也だけが声を上げて笑った。
「あはは。そう、それ」
「……何ですか」
「それだよ、それ」
何を指しているのかわからない。
夜也は楽しそうにこちらを見る。
「前のなぎなら、ぼくにそんな返ししなかったよね」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
表情には出さないようにする。
「昔より、遠慮がなくなっただけでは」
「そうかもね」
あっさり認められた。
けれど、視線は外れない。
「高校生になったし?」
「そういうことです」
「服の趣味も変わって?」
「それもあります」
「髪も自分でやるようになって?」
今度は、すぐに返せなかった。
なぜ知っているのだろう。
こちらの疑問が顔に出たらしい。
「水守のおばさまから聞いたわけじゃないよ」
夜也は自分の髪の横を指先で示した。
「見ればわかる。前はもっときっちりしてたでしょ。毎回綺麗に編んでもらってたし」
「よく覚えてますね」
「ぼく、人の顔とかけっこう覚えるよ」
さらりと言う。
それから、夜也は少し首を傾けた。
「でも、そこじゃないんだよね」
「何がですか」
「変わったところ」
また、胸の奥が冷える。
今度はさっきより少し強い。
父が笑いながら口を挟んだ。
「年頃ですから。女の子は変わるものですよ」
「うん。それもあると思う」
夜也は否定しなかった。
けれど、こちらから目を逸らさない。
「ただ、なんていうか……なぎ、ぼくを見る目が変わったよね」
息が止まりそうになった。
「目?」
「うん」
夜也は軽く自分の膝へ肘を置き、こちらへ少し身を乗り出した。
それだけで距離が急に縮まる。
近い。
「前はもっと、“晶守さま”って見てた」
夜也は自分自身を指して笑う。
「今は、ぼくを見てる」
意味がすぐにはわからなかった。
いや、わかってしまったから、返事に困ったのかもしれない。
元のなぎにとって、慈夜也はまず「晶守さま」だった。
女性であることも知っていた。
傍流に近い立場から当主になったことも知っていた。
それでも、その前に晶守家当主という肩書きがあった。
その肩書きを通して夜也を見ていた。
わたしは違う。
晶守家当主であることは知識として理解している。
でも、目の前にいるのは背が高くて、よく喋って、人の変化を面白がっている23歳の女性だ。
肩書きより先に、人として見ている。
それを夜也は、もう見抜いたらしい。
「……それは、失礼ですか」
しばらく考えた末、そう聞いた。
夜也が目を丸くする。
次の瞬間、また笑った。
「いや。むしろ面白い」
「面白い」
「うん。すごく」
こちらは全く面白くない。
でも、夜也は楽しそうだった。
「夜也さま」
父がやんわりと制する。
「なぎをあまり困らせないでください」
「困ってる?」
本人が直接聞いてくる。
「少し」
「そっか」
夜也は全く反省していない顔で笑った。
「じゃあ、少しだけにする」
「やめるという選択肢はないんですね」
また言ってから、しまったと思った。
でも遅い。
夜也の目が明らかに輝いた。
「あはは、ほんとに変わったね」
「……そんなにですか」
「うん。かなり」
父と母は、娘が思春期になって少し口が達者になったくらいに考えているらしい。
特に深刻な顔はしていない。
夜也だけが違う。
笑っているけれど、その奥で何かを観察している。
わたしは少し落ち着かなくなった。
「前のほうがよかったですか」
口にしてから、自分でもなぜ聞いたのかわからなかった。
夜也も一瞬だけ笑うのをやめた。
「ん?」
「前のわたしのほうが」
言いながら、少し喉が詰まる。
「ちゃんとしてたみたいなので」
それだけ補足した。
本当に聞きたいこととは少し違う。
前の水守なぎのほうがよかったか。
今のわたしではなく。
でも、そんな聞き方はできない。
夜也はしばらくわたしの顔を見たあと、肩を竦めた。
「どっちがいいとか、まだわかんない」
意外な答えだった。
「まだ?」
「だって、今のきみのこと、ほとんど知らないし」
夜也は当たり前のように言う。
「前のなぎは前のなぎで、素直でかわいかったよ。ぼくに会うとちゃんと座り直して、言葉も選んで、いかにも水守のお嬢さんって感じだった」
胸の奥が少し重くなる。
でも、その次に続いた言葉は違った。
「今のきみは、さっきからぼくに普通に言い返してくるし、服も自分で選んでるし、ぼくのことも晶守さまっていう置物みたいには見てない」
「置物みたいに見ていたわけでは」
「例えだよ」
夜也は笑う。
「だから、今のところは面白い。もっと見てみたいとは思う」
あまりにも夜也らしいのかもしれない。
わたしの不安を察して慰めるのではなく、単純に興味を持ったと言う。
優しい答えなのかはわからない。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「観察対象みたいですね」
「嫌?」
「少し」
「じゃあ、友達候補」
「年齢差がありますけど」
「35歳差とかじゃないんだからいいでしょ」
「8歳差です」
「細かいね」
夜也は楽しそうに笑った。
そのあと、ようやく本来の用件らしい話へ戻った。
今日、夜也が水守家へ来たのは、白水の審律側との調整について父と話すためだったらしい。
詳しい内容までは聞かされない。
元のなぎなら、家の大人たちが話すことへ自分から割って入ろうとはしなかった。
今のわたしも、知らなくていいことまで聞きたいわけではない。
ただ、会話の中で「白さまの今後」という言葉が出たときだけ、少し気になった。
「今後って、何かあるんですか」
尋ねると、父がこちらを見た。
「なぎにはまだ関係のない話だ」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
でも、夜也はまたこちらを見ていた。
「気になる?」
「少し」
「前なら聞かなかったね」
「……またそれですか」
「ごめんごめん」
絶対に悪いと思っていない。
わたしは小さく息を吐いた。
その様子まで、夜也は面白そうに見ている。
やがて話が一段落し、父が書類を取りに席を外した。母も使用人に呼ばれて部屋を出たため、ほんの少しのあいだ、応接間にはわたしと夜也だけが残った。
急に静かになる。
夜也がこちらを見る。
わたしも見る。
「……何ですか」
「いや?」
「ずっと見てます」
「見てるね」
「どうしてですか」
「変わった理由、ちょっと考えてた」
心臓が跳ねた。
「何かわかりました?」
なるべく普通に聞く。
「全然」
夜也は即答した。
少し力が抜ける。
「ただ、服の趣味が変わったとか、高校生になったからってだけじゃない気がする」
また緊張する。
夜也はソファへ深く座り直し、脚を組んだ。
「人って、考え方が変わると見るところも変わるんだよね。前のなぎは、ぼくが何を言ったかより、“晶守さまが言った”ってことを先に受け取ってた」
静かに聞く。
「今のきみは逆。ぼくが何者かより、何を言ったかを見てる」
「悪いことですか」
「全然」
夜也は少し笑った。
「ぼくはそっちのほうが楽しい」
わたしは返事をしなかった。
夜也は、それ以上追及してこなかった。
理由を知りたがってはいる。
でも、無理やり聞き出そうとはしていない。
その距離感は少し意外だった。
「ねえ、なぎ」
「はい」
「きみ、今、自分のこと好き?」
あまりにも突然だった。
「……急に何ですか」
「思いついたから」
「思いついたこと全部口に出すんですか」
「けっこう出すよ」
否定しない。
答えなくてもいいのだろうと思った。
でも、少し考えてしまった。
自分のことが好きか。
この身体ではなく、自分自身を。
わからない。
「まだ、よくわかりません」
正直に答えた。
夜也は笑わなかった。
「そっか」
それだけだった。
「夜也さんは?」
今度はわたしから聞いた。
呼んでから、少し空気が止まった気がした。
晶守さまではなく。
夜也さん。
意図してそう呼んだわけではなかった。
質問に集中していたら、自然に出ただけだった。
夜也は目を瞬いてから、ゆっくり口元を上げた。
「ぼく?」
「はい。自分のこと、好きですか」
「好きだよ」
一秒も迷わなかった。
「かなり」
「……そうですか」
「強いし、顔もいいし、頭もいいし。よくここまでやったなって思ってる」
あまりに堂々としていて、逆に何も言えない。
「すごいですね」
「でしょ?」
褒めてはいない。
でも夜也は満足そうだった。
「なぎもそのうち好きになればいいじゃん、自分のこと」
「簡単に言いますね」
「難しく言えばできるの?」
「それは……できないですけど」
「じゃあ簡単でいいよ」
夜也は笑う。
その理屈は雑な気がする。
でも、少しだけ覚えておこうと思った。
父が戻ってきて、二人だけの会話はそこで終わった。
その後はまた大人たちの話が続き、わたしは必要なときだけ返事をした。
しばらくして夜也が帰る時間になる。
玄関まで見送りに出ると、晶守家の車が門の前に待っていた。
夜也は靴を履き、立ち上がる。
近くに立つと、本当に大きい。
わたしの視線はかなり上を向く。
夜也はそれに気づいたらしく、少し屈んだ。
「なに?」
「……近いです」
反射的に一歩下がる。
また、夜也が笑った。
「あはは。ごめん」
謝りながら、あまり離れない。
「ねえ、なぎ」
「はい」
「次会ったときも、今みたいに話してよ」
「今みたいに?」
「晶守さま用じゃないやつ」
少し考える。
「失礼でも?」
「ぼくが嫌なら言うから」
「……わかりました」
「あと」
夜也が少しだけ顔を近づける。
「さっきの呼び方、けっこうよかったよ」
「さっき?」
「夜也さん」
言われてから気づいた。
「あれは」
「別に戻さなくていいからね」
「晶守さまじゃなくていいんですか」
「二人で話してるときくらい、いいでしょ」
夜也はそう言って、今度こそ身体を起こした。
「じゃあね、なぎ」
「……お気をつけて、夜也さん」
一瞬だけ、夜也が満足そうな顔をした。
「うん。またね」
玄関を出ていく。
長い脚で歩いていく後ろ姿を見送りながら、わたしは少しだけ息を吐いた。
疲れた。
嫌だったわけではない。
ただ、あの人と話していると、自分でも意識していなかったところまで見られているような感じがする。
それが少し怖い。
同時に、少しだけ楽でもあった。
晶守さまとして接しなくていいと言われたからかもしれない。
それとも、「前と違う」と気づかれても、嫌な顔をされなかったからなのか。
よくわからない。
自室へ戻る。
鏡の前を通ったとき、新しく買った白いシャツが目に入った。
夜也は一目で、自分で選んだのかと聞いた。
髪も。
話し方も。
見る目も。
周囲には小さな変化としてしか映っていないものを、あの人だけはずいぶん細かく拾う。
鏡の中の自分を見る。
昨日と変わらない、水守なぎの顔だった。
でも今日、初めて誰かから、変わったことそのものを面白いと言われた。
以前のほうがよかったとも。
元に戻れとも。
言われなかった。
それだけなのに、胸の奥にあったものが少し軽くなっている。
わたしは鏡の前で、自分の髪を一度だけ触った。
きっちり整えられていない。
自分で選んだ服を着ている。
晶守さまへ言い返した。
そして最後には、慈夜也を名前で呼んだ。
今日のことは、元の水守なぎの記憶にはない。
当然だ。
今のわたしが初めて作った記憶なのだから。
それなら、これもまた一つ、わたしのものとして覚えておけばいい。
そう思いながら、わたしはシャツの袖を少しだけ捲り直した。




