第40話「仕事じゃなくても」
その日の放課後は、何も起きなかった。
ホームルームが終わり、倭へ連絡する。
『終わりました』
少しして、いつもの返事が来る。
『いる』
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
昨日と同じ場所に、昨日と同じ車が停まっていた。
赤い髪もすぐに見つかる。
尾行している車はいない。
知らない人がこちらを見ている気配もない。
倭も今日は車の外へ出ず、運転席から軽く手を上げただけだった。
助手席へ乗る。
「お疲れさまです」
「ん。眠くねえ?」
「朝よりは大丈夫です」
「途中で保健室行った?」
「行ってません」
「授業寝た?」
「寝てません」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんって何」
倭が少し笑う。
エンジンがかかる。
シートベルトを締める。
車が学校を離れる。
昨日は、同じ時間に帰ろうとして尾行に気づいた。
そこから何度も道を曲がり、人の少ない場所へ移動して、倭の線を見た。
今日はまっすぐ帰る。
いつもの大通り。
いつもの信号。
昨日まで何度も通っていた道が、そのまま続いている。
「今日、こっちなんですね」
「何が」
「いつもの道」
「そりゃ何もいねえからな」
「確認した?」
「した」
「いつ」
「なぎ出てくる前」
やっぱり何もしていなかったわけではないらしい。
「昨日より警戒してます?」
「ああ」
「見た感じわかりません」
「わかるようにやる意味ねえだろ」
「それもそうですね」
倭は普段と変わらない顔で運転している。
それでも、ミラーを見る回数は昨日までより少し多い気がした。
わたしが気づくくらいなので、本当はもっと細かく周囲を確認しているのかもしれない。
「力環から連絡ありました?」
「あった」
「昨日の人?」
「ああ。まだ詳しく調べてるって」
「もう一人は?」
「車の持ち主までは追えてる。本人と同一かはまだ確認中」
「振の情報は?」
「そこも調べてる」
倭は一度こちらを見る。
「もっと聞く?」
朝に言っていたことを覚えているらしい。
どこまで知りたいか、一度聞く。
「今はそれくらいでいいです」
「わかった」
そこで話が終わる。
詳しい情報を知るよう強く勧められることもない。
逆に、「知らないほうがいい」と決められることもない。
聞きたいところまで聞く。
今は、それでよかった。
車内には倭の音楽が流れている。
朝より少し音量が大きい。
でもうるさくはない。
低い音を聞きながら、窓の外を見る。
夕方。
制服姿の学生。
買い物袋を持った人。
自転車。
信号待ち。
普通だった。
本当に、何も起きない。
昨日までなら当然だったことを、今日は少しだけ意識する。
「コンビニ寄る?」
倭が聞いた。
「今日はいいです」
「腹減ってねえ?」
「夕飯あるので」
「そ」
「倭さんは?」
「帰ってから食う」
「何を?」
「まだ決めてねえ」
「魚?」
「何で」
「好きだから」
「毎日焼き魚食ってるわけじゃねえよ」
「卵焼き?」
「なぎ、あたしの飯を何だと思ってんの」
「前に好きって言ってたもの」
「それしか覚えてねえじゃん」
少しだけ不満そうだった。
「他にも言ってました?」
「……別にいい」
「今度聞きます」
「好きにして」
会話が途切れる。
でも、昨日までと同じように気まずくはならない。
むしろ昨日のあとだからこそ、この静けさが少しありがたかった。
倭が運転している。
わたしは隣に座っている。
誰も追ってこない。
それだけでいい。
しばらくして、昨日の夜のことを思い出した。
家へ帰り、自室で墨を撫でていた頃。
倭から一度だけメッセージが来た。
『何かあったら連絡しろ』
それだけだった。
力環からの追加情報でも、明日の迎えの時間でもなかった。
わたしが返したのは、
『わかりました』
だけ。
そのあと実際に連絡することはなかった。
夜中に何度か目を覚ましたときも。
倭へ送ろうとは思わなかった。
でも、連絡してもいい場所があるということは、覚えていた。
「倭さん」
「何」
「昨日、ありがとうございました」
「昨日?」
「全部です」
「ああ」
倭は少しだけ肩を動かした。
「護衛なんだから当たり前だろ」
予想通りの返事だった。
尾行に気づいたこと。
人の少ない場所へ誘導したこと。
線を張ったこと。
戦ったこと。
怪我をしながら守ったこと。
力環へ連れていったこと。
全部、倭にとっては護衛の仕事らしい。
「そうですか」
「ああ」
「では」
「ん?」
「昨日の夜のこともですか」
倭が一瞬止まった。
視線は前。
車も普通に走っている。
でも、返事だけが来ない。
「……何」
「メッセージ」
「ああ」
「何かあったら連絡しろって」
「……あれは別に」
「護衛ではない?」
倭の眉が寄る。
「そういう話じゃねえよ」
「では、何ですか」
「……」
返事がなくなった。
困っているらしい。
ハンドルの上で、右手の指が一度開いて閉じる。
最近、かなり見慣れた。
「仕事が終わったあとでしたよね」
「そうだけど」
「わたし、もう家にいました」
「知ってる」
「水守家の中なら倭さんの護衛範囲ではないでしょう」
「まあ」
「では、どうして送ったんですか」
「……」
また黙る。
信号が赤になる。
車が止まった。
倭は前だけを見ている。
「気になったから?」
聞いてみる。
「決めんな」
「では違う?」
「そういう意味じゃなくて」
「難しいですね」
「なぎが細けえんだよ」
「倭さんが説明しないからです」
「説明するほどのことじゃねえ」
「なら教えてください」
「だから」
倭がこちらを見る。
何か言いかける。
やめる。
前へ戻る。
「……別に、連絡くらいしてもいいだろ」
「いいですけど」
「ならいいじゃん」
「倭さんの仕事ではないのに?」
「仕事じゃなきゃ連絡しちゃ駄目なの?」
「そうは言ってません」
「じゃあいいだろ」
少し強引だった。
でも、嫌そうではない。
どちらかというと、自分でも上手く説明できなくて困っているように見える。
「倭さん」
「何」
「昨日の夜、もし連絡してたらどうしてました?」
倭が少し考える。
「内容による」
「眠れません、だったら」
「電話するか聞く」
「電話?」
「嫌ならメッセージでいいし」
「怖いです、だったら」
「何が怖いか聞く」
「昨日の人が来るかもしれない、だったら」
「水守に状況確認する。必要なら行く」
「倭さんが?」
「他に誰がいんだよ」
当然のように言われる。
「でも仕事終わってるでしょう」
「緊急なら関係ねえだろ」
「緊急じゃなかったら?」
「……」
また止まる。
信号が青になる。
車が発進する。
「例えば、ただ眠れないだけ」
「連絡来たなら返す」
「話してほしいって言ったら?」
「できるなら」
「目的のない話でも?」
「……まあ」
倭は少し嫌そうな顔をした。
「毎日何時間もとかは無理だけど」
「それはわたしも嫌です」
「ならいい」
「でも、何で?」
「また戻んの?」
「気になるので」
「ほんと細けえ」
倭が小さく息を吐いた。
少し先に、いつものコンビニが見える。
今日は寄らずに通り過ぎる。
「なぎ」
「はい」
「全部に理由つけなくてよくねえ?」
珍しい言葉だった。
「倭さんが言うんですね」
「何」
「倭さん、いつも理由を確認するから」
「安全の話ならな」
「これは安全じゃない?」
「……たぶん」
「たぶん」
「うるせえ」
また少し黙る。
「昨日みたいなことあったあとで、一人で変になってても困るし」
「それは護衛では?」
「だから、それだけじゃなくて」
言ってから、倭自身が止まった。
わたしも少しだけ目を向ける。
「それだけじゃない?」
「……今の忘れろ」
「無理です」
「だろうな」
倭は諦めたように前を見る。
それ以上は続けなかった。
わたしも聞かなかった。
まだ、倭自身にもわからないのかもしれない。
わたしも、何と呼べばいいのかわからない。
護衛。
依頼主。
毎朝迎えに来る人。
帰り道を一緒に過ごす人。
お菓子を半分渡した人。
能力の相性がいい人。
昨日、わたしと知らない能力者の間に立っていた人。
今朝、触れたければ触れられるように、何も言わず手を差し出した人。
そのどれも倭だった。
どこまでが仕事なのかは、わたしにはわからない。
たぶん倭にも、まだきれいには分けられていない。
水守家へ続く道へ入る。
あと10分くらい。
「倭さん」
「まだあんの?」
「最後です」
「ほんと?」
「たぶん」
「信用できねえ」
「昨日の夜は連絡しませんでしたけど」
「ああ」
「今度、何かあったらしてもいいですか」
倭が一度こちらを見る。
「何で確認すんの」
「仕事の時間じゃないかもしれないから」
少し間があった。
倭は前を向く。
返事を考えている。
「……していいよ」
「本当に?」
「ああ」
「夜でも?」
「起きてりゃ返す」
「寝てたら?」
「起きたら返す」
「急ぎなら?」
「電話」
「倭さん、意外とちゃんとしてますね」
「何だと思ってんだよ」
少し笑う。
車は水守家の門へ入った。
玄関前で止まる。
シートベルトを外す。
「今日もありがとうございました」
「ん」
鞄を持つ。
扉へ手をかけたところで、倭が呼んだ。
「なぎ」
「はい」
振り返る。
倭は一瞬こちらを見て、それから前へ戻った。
「何かあったら連絡しろ」
「護衛の連絡先に?」
「……」
少しだけ間が空く。
倭の指がハンドルの上で動く。
「仕事じゃなくても」
それだけだった。
わたしは少し倭を見る。
本人も、言ったあとで何となく居心地が悪くなったらしい。
「何」
「いえ」
「じゃあ帰れ」
「はい」
扉を開ける。
「また明日」
「おう」
車を降りる。
玄関へ向かう。
後ろで車のエンジン音が続いている。
いつものように、わたしが家へ入るまで待っているのだろう。
振り返らずに歩いた。
護衛だから。
仕事だから。
今までは、それで説明できることが多かった。
でも今日、初めて。
その言葉だけでは少し足りないものが、ほんの一つだけ増えた気がした。




