第39話「眠れましたか」
翌朝、7時5分にスマートフォンが震えた。
『着いた』
いつもと同じ三文字だった。
昨日、学校から尾行されて、知らない能力者と倭が戦った。
力環で事情を説明して、家へ戻った頃にはかなり遅くなっていた。水守家でも改めて話を聞かれ、しばらく移動時の警戒を強めることになった。
それでも朝は来る。
制服へ着替え、鞄を持つ。
鏡を見る。
顔はいつもと同じだった。
少し眠いくらい。
玄関を出ると、門の近くに倭の車が停まっていた。
昨日と同じ車。
運転席から赤い髪が見える。
わたしが近づくと、倭が車から降りた。
「おはようございます」
「おはよ」
いつもの声だった。
倭はわたしの顔を一度見る。
それから鞄。
歩き方。
肩。
何となく順番に見られている気がする。
「何ですか」
「別に」
「またそれ」
「乗って」
助手席へ乗る。
シートベルトを締める。
倭も運転席へ戻る。
朝の車内はいつも静かだった。
低い音の曲が小さく流れている。
カップホルダーには倭の飲み物。
わたしの側には、昨日までと同じように何も置かれていない。
いつも通り。
なのに、今日は少しだけ身体が重かった。
眠いのとは違う。
腕や脚が動かないわけでもない。
ただ、何かを始めるまでにいつもより少し時間がかかる。
倭がエンジンをかける。
すぐには車を出さなかった。
「なぎ」
「はい」
倭は前を向いたまま聞いた。
「……寝れたか」
少し考える。
「はい」
「そ」
それだけだった。
車が動き出す。
門を抜ける。
住宅街へ入る。
わたしは窓の外を見る。
昨日も通った道。
でも、昨日は帰りだった。
夜だった。
今は朝で、通学する人がいる。
自転車。
犬を散歩させている人。
ゴミを出している人。
普通の朝だった。
「……途中で何度か起きました」
自分から言い直した。
倭がこちらを見る。
ほんの一瞬。
すぐ前へ戻る。
「そっか」
それだけだった。
何も続かない。
信号を一つ通る。
わたしは少し待つ。
それでも、倭から質問は来なかった。
「何も聞かないんですか」
「何を」
「途中で起きたって」
「聞いてほしいなら聞く」
倭は運転しながら答える。
「言いたくねえなら、それでいい」
少し意外だった。
「気にならないんですか」
「気にはなる」
「じゃあ聞けばいいのに」
「気になるのと、聞いていいのは別だろ」
倭らしい言い方だった。
わたしは窓の外へ視線を戻す。
「昨日のこと思い出したのかもしれません」
「うん」
「夢を見たわけではないです」
「うん」
「目が覚めて、少ししたらまた寝ました」
「そっか」
「三回くらい」
「けっこう起きてんじゃん」
「たぶん」
「今眠い?」
「少し」
「気持ち悪いとか、頭痛いとかは」
「ないです」
「なら学校は行けそう?」
「はい」
そこは聞く。
体調。
学校へ行けるか。
必要なことだけ。
「無理そうなら途中で言え」
「学校休ませる?」
「帰るか力環寄るか、そのとき決める」
「勝手に決めないんですね」
倭が少し眉を寄せる。
「何で勝手に決めんだよ」
「護衛なら、安全のために休めって言うかと思って」
「今すぐ危険なら言う。でも寝不足だけであたしが学校行くなって決める意味ねえだろ」
「そうですか」
「行くかどうかはあんたが決めりゃいい」
少し間を置いて、倭が続ける。
「ただ、無理してんのに平気って言うのはやめろ」
「難しいですね」
「何が」
「どこから無理かわからないので」
「それはまあ……わかる」
意外とすぐ納得された。
「じゃあ、わかんねえときも言え」
「『無理かわかりません』って?」
「それでいい」
「曖昧でも?」
「別に」
その答えが少し楽だった。
無理かどうかを判断してから言わなくてもいい。
わからないままでもいい。
倭は、そこから一緒に考えるつもりなのかもしれない。
車が大きな交差点へ近づく。
赤信号。
ゆっくり止まる。
わたしは膝の上へ両手を置いていた。
何となく指先へ力が入っている。
気づいていなかった。
昨日、振を使ったあとの痺れはもうない。
痛みもない。
それなのに、指先だけが少し固い。
親指を人差し指へ押しつけている。
倭の視線がそこへ落ちた。
「手」
「はい?」
「まだ痺れてんの」
「いえ」
「痛い?」
「ないです」
「じゃあそれ」
「それ?」
自分の手を見る。
確かに、少し力が入っていた。
意識して開く。
「緊張してるんですかね」
「知らねえ」
「そこはわからないんですね」
「本人じゃねえし」
倭はそう言って、前を見る。
信号はまだ赤い。
少し沈黙が落ちる。
それから、倭の左手がハンドルから離れた。
わたしのほうへ伸びる。
でも、触れない。
助手席との間に、手のひらを上へ向けて置いただけだった。
「?」
見る。
倭は前を向いている。
「何ですか」
「……嫌ならいい」
それだけ。
意味はわかった。
手を握るでもない。
こちらの指を取るでもない。
倭が手を差し出している。
選ぶのはわたし。
少しだけ、その手を見る。
大きい。
指が長い。
昨日、相手の腕をつかんで、投げて、線を引いていた手。
同じ手が、今は動かずに待っている。
「握るんですか」
「別に握らなくていい」
「じゃあ?」
「置きたきゃ置けば」
「何を」
「手」
「……そうですか」
「いらねえなら戻す」
倭が手を引こうとした。
その前に、自分の指を重ねた。
手のひら全部ではない。
指先だけ。
倭の人差し指と中指の上へ、わたしの指を軽く置く。
倭の手が止まった。
「これでいいですか」
「……ああ」
声が少し低くなった。
わたしもそのままにする。
握られない。
指を絡められない。
倭の手は、本当にただそこにあるだけだった。
触れたければ触れていい。
離したければ、いつでも離せる。
それがわかる。
「倭さんの手、温かいですね」
「運転してたからじゃね」
「関係あります?」
「知らねえ」
倭の耳が少し赤い。
「照れてます?」
「今それ聞く?」
「赤いので」
「朝からうるせえな」
でも、手は引かなかった。
信号が青になる。
「運転」
「わかってる」
倭は左手を戻そうとする。
わたしも指を離した。
すぐだった。
ほんの少し触れただけ。
倭は両手をハンドルへ戻し、車を発進させる。
「もう大丈夫ですか」
「何が」
「片手離してたので」
「信号中だけだろ」
「ちゃんとしてますね」
「当たり前」
またいつもの声。
膝の上へ手を戻す。
さっきまでより、少し力が抜けていた。
自分でもわかる。
「効果ありました」
「何の」
「手」
倭が一瞬黙る。
「……そ」
「はい」
それ以上は何も言わなかった。
倭も聞かない。
どうして落ち着いたのか。
何が怖かったのか。
昨日の何を思い出したのか。
説明を求めない。
わたしも、まだ全部説明できる気がしなかった。
昨日は怖かった。
たぶん。
尾行されたこと。
相手が振を知っていたこと。
倭の線が切れかけたこと。
倭が殴られそうになったこと。
自分が勝手に振を使ったこと。
どれが一番だったのかはわからない。
全部かもしれない。
でも、今は朝だった。
隣には倭がいる。
いつもの車。
いつもの道。
昨日の男はいない。
「倭さん」
「何」
「昨日の人、どうなるんですか」
「力環が調べてる」
「もう一人は?」
「車は追ってる。まだ詳しく聞いてねえ」
「そうですか」
「気になる?」
「少し」
「今日、学校終わる頃までに情報来てたら教える」
「いいんですか」
「あんたのことなんだから、必要な範囲は知っていいだろ」
倭はそこで少し間を置く。
「ただ、知らなくていいことまで全部聞きたいとは思わねえなら、そこも言え」
「情報も?」
「怖くなるだけの情報もある」
「倭さんが決めるんじゃなくて?」
「一回聞く」
「知りたいか」
「ああ」
やっぱり同じだった。
話すか。
聞くか。
触れるか。
倭は、こちらへ何かをする前に小さな隙間を作る。
嫌なら止まれる場所。
昨日、敵との間へ引いていた線とは少し違う。
あれは越えさせないための境界だった。
今のこれは、わたしが自分で越えるか決めるための境界なのだと思う。
「知りたいです」
答える。
「わかった」
「でも、学校で聞きたくないです」
「じゃあ帰り」
「はい」
それで決まった。
車は学校へ近づいていく。
見慣れた制服姿が増える。
いつもの朝へ戻っていく。
「なぎ」
「はい」
「今日、帰り早めに出られる?」
「たぶん」
「たぶんじゃわかんねえ」
「ホームルーム次第です」
「終わったら連絡」
「いつもしてます」
「そうだった」
倭が少しだけ笑う。
「寝不足だからって特別扱いしないんですね」
「してほしい?」
「わかりません」
「じゃあわかったら言え」
「便利ですね、それ」
「何が」
「わからないままでもいいって」
倭が少しだけ考える。
「別によくね」
「よくない人もいます」
「でもあたしはいい」
簡単に言われた。
学校の近くへ着く。
いつもの場所へ車を停める。
シートベルトを外す。
「今日、体育ある?」
「ないです」
「力環は?」
「ないです」
「じゃあ学校終わったらそのまま帰る」
「はい」
鞄を持つ。
扉へ手をかける。
「なぎ」
「何ですか」
「眠かったら保健室行けよ」
「わかりました」
「あと」
倭が少し迷う。
「途中で昨日のこと思い出して、しんどくなったら」
そこで言葉を切る。
わたしを見る。
「連絡して」
「迎えに来る?」
「必要なら」
「授業中でも?」
「必要ならな」
押しつけではない。
でも、選べるようにはしてくれる。
「わかりました」
「ん」
車を降りる。
扉を閉める前に、少しだけ倭の左手を見る。
さっき触れた手。
「倭さん」
「何」
「さっき、ありがとうございました」
倭は一瞬何のことかわからなかったようだった。
すぐに気づいて、少し視線を逸らす。
「……別に」
「嫌じゃなかったです」
「それ今言う?」
「前にも言ったので」
「覚えてるよ!」
声が少し大きくなった。
朝からまた耳が赤い。
「じゃあ行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
扉を閉める。
校門へ向かう。
昨日より少し身体は重い。
寝不足でもある。
たぶん、まだ少し緊張も残っている。
でも、それを全部今すぐ説明しなくてもいい。
怖かったと決めつけられることもない。
平気だと言い切る必要もない。
言いたくなったら言う。
聞いてほしくなったら、そう言う。
触れたくなったら、自分から触れる。
それでいいのだと思う。
校門をくぐる前に、一度だけ振り返る。
倭の車は、まだそこにいた。
いつものように。
わたしが中へ入るまで、動かずに待っていた。




