第37話「できれば殴りたくなかった」
倭が男の腕を払った瞬間、乾いた音が響いた。
男は一歩下がったものの、すぐに体勢を立て直した。身体の表面には、相変わらず透明な膜が張りついている。先ほどまでのように大きく膨らませるのではなく、今は皮膚のすぐ外側を薄く覆っているらしい。
そのぶん、動きが速かった。
「……面倒くせえな」
倭が小さく呟く。
男が再び踏み込んだ。右腕を前へ突き出し、その周囲だけ膜を厚くする。倭は正面から受け止めず、身体を半歩ずらして腕を外側へ流した。
続けて男が左腕を振る。
倭はそれも避けた。
二人の距離は、腕を伸ばせば触れられるほど近い。さっきまでなら倭の線が男の行く手を塞いでいたのに、今はその内側で直接やり合っている。
壁際から見ているだけでも、動きの速さがわかった。
「なぎ、右奥」
倭が男の攻撃を避けながら言う。
「はい」
「変化あったらすぐ言え」
わたしは振を維持したまま、意識を遠くへ向けた。
倭の線は、この場所だけに張られているわけではない。道路の向こうや、男たちが車を停めたと思われる場所にも伸びている。振を合わせている今なら、そこから返ってくる細かな刺激を、普段よりずっと明瞭に感じ取れる。
目の前では倭が戦っている。
でも、わたしが見なければいけないのは別の場所だった。
線の奥に意識を向けていると、突然、鋭い音がした。
顔を上げる。
男の拳が倭の肩をかすめていた。
「倭さん!」
「前見なくていい!」
叱られた。
倭はわたしのほうを見ていない。男の二撃目を避けると、伸びてきた腕をつかみ、そのまま相手の身体を横へ引いた。
男の姿勢が崩れる。
その足元へ倭が踏み込んだ。
次の瞬間、男の身体が大きく傾いた。
「っ!」
転びかけた男は、地面へ手をつく寸前で膜を膨らませ、身体を押し戻した。倭は深追いせず、男が体勢を立て直すより先に距離を調整する。
さっきまでの攻防とは違う。
倭の動きには、ほとんど無駄がなかった。
相手が腕を伸ばせば、避けると同時にその腕を利用する。踏み込んでくれば重心をずらし、下がれば追わずに進路を塞ぐ。線を使っていたときと考え方は同じなのに、今度は倭自身の身体でそれをやっていた。
「あなた、本当に護衛ですか」
男が息を整えながら聞いた。
「そうだけど」
「動きが護衛のそれではない」
「護衛に決まった動きなんかあんの?」
倭は男の右足を見ていた。
「まあ、あたしも護衛だけやってきたわけじゃねえし」
男が再び構える。
倭は少しだけ肩を回した。
「でも、今は護衛だから」
その声が低くなる。
「そっちに行かせる気はねえよ」
男の足が動いた。
倭も同時に踏み込む。
今度は、先ほどよりずっと速かった。
男が拳を振るより先に、倭がその懐へ入り込む。膜に覆われた腕を外側へ押し出しながら、反対の手で男の身体を制御した。
足をかける。
腰の位置を変える。
男の身体が浮いた。
直後、地面へ倒れる。
倭は倒れた相手を追って膝をつき、腕を取ろうとした。けれど男は、その瞬間に透明な膜を膨らませた。
「っ、危ねえ」
倭が後ろへ跳ぶ。
遅れて空気が弾けるような音がした。
さっきまで倭のいた場所を、膨張した膜が通り過ぎていく。
わたしのいるところまでは届かなかった。
でも、男が身体を覆うだけでなく、膜を急激に膨らませることで周囲の相手を押し退けられることはわかった。
「今の、当たってたら?」
聞いてしまう。
「たぶん痛え」
「たぶん?」
「骨くらい折れるかもな」
「それ大丈夫じゃないでしょう」
「当たってねえから大丈夫」
倭はいつもの調子だった。
それどころか、少し考えているようにも見える。
男が立ち上がる。
「先ほどから、こちらの攻撃が当たらない」
「そりゃ避けてるからな」
「そんな単純な話ではないでしょう」
倭は答えなかった。
右手の指がわずかに動き、男の周囲に張られていた線の位置が変わる。
わたしにも、その変化が伝わってきた。
倭はまだ線を使っている。
肉弾戦になったからといって、遺能を解除したわけではない。近くの線で相手の動きを制限しながら、遠くの線では周囲を感知している。
そして、わたしの振がその情報伝達を補助していた。
「……あ」
右奥。
遠くの線に、小さな刺激が入った。
最初は風かと思った。でも、同じ位置から二度、短い反応が返ってくる。
「倭さん」
「何」
「車のところ。何か動きました」
倭の目が一瞬だけ細くなった。
「どっち」
「右奥。さっきより少し手前です」
「わかった」
倭が指を動かす。
遠くの線が数本、別の位置へ張り直された。
その間も、男から視線を外さない。
「お仲間、動いたみてえだけど」
倭が言う。
男の表情が変わった。
「何のことですか」
「知らねえならいいよ」
倭はあっさり答えた。
「どっちにしろ、こっちまでは来られねえから」
男が小さく舌打ちする。
初めて聞いた音だった。
その反応を見て、倭は何か確信したらしい。
「やっぱり二人以上か」
男が返事をする代わりに、再び踏み込んできた。
今度は、倭の顔を狙っている。
倭は頭をわずかに傾けて避け、そのまま相手の腕をつかもうとした。しかし、男はつかまれる直前に膜を膨らませる。
倭の手が弾かれた。
さらに男が膝を上げる。
倭は反対の腕で受け止め、身体を横へずらして距離を取った。
「……なるほど」
低い声。
男が笑う。
「接触できなければ、投げられないでしょう」
「まあな」
「なら、あなたの格闘技術も意味がない」
「そう?」
倭が首を少し傾けた。
「別に投げるだけじゃねえけど」
次に動いたのは倭だった。
自分から踏み込み、男の右側へ回る。
男が反応する。
そちらへ膜を厚くする。
倭は直前で足を止めた。
男の腕が空を切る。
そこへ倭が低く身体を沈め、逆側から肩を入れた。
鈍い音がした。
男の足が大きく動く。
膜に守られているはずなのに、身体そのものの重心までは守れなかったらしい。
倭は倒れかけた男を追わず、そのまま背後へ回った。
男が振り返る。
その動きを待っていたかのように、倭が足を払う。
男は今度こそ、地面へ片膝をついた。
「くっ……!」
立ち上がろうとした瞬間、背後から一本の線が張る。
男の膝が止まる。
その上から、倭が腕を取った。
でも。
透明な膜が、また急激に膨らんだ。
「っ、またかよ!」
倭が腕を離す。
すぐに距離を取ったものの、今度は完全には避けきれなかった。
膜が左腕へぶつかる。
倭の身体が横へ押し出された。
「倭さん!」
反射的に足が動きかける。
「来んな!」
倭の声で止まった。
壁際。
安全圏。
わたしはそこから出てはいけない。
倭は腕を一度動かし、すぐに男へ向き直った。
「大丈夫ですか!」
「動く」
「何が?」
「腕。平気」
それだけ答えると、倭は右手を開いた。
男の周囲にある線が、一斉に張り直される。
さっきまでとは位置が違う。
男のすぐ近くではなく、少し離れたところへ何本も配置されていた。
逃げ道を塞ぐためだろうか。
そう思ったとき、倭が小さく呟いた。
「……できれば殴りたくなかったんだけどな」
男が顔を上げる。
「何です?」
「こっちの話」
倭が構えを変えた。
今までよりも低い。
上半身の力が抜け、両腕が自然な位置へ下がる。
さっきまで男の攻撃を避けていたときとは、少し違う立ち方だった。
「次、膨らませたら殴る」
男が笑う。
「膜を突破できると?」
「できるとこ探す」
「随分と簡単に言いますね」
「簡単じゃねえよ」
倭は少しだけ眉を寄せた。
「だから嫌なんだって」
男が能力を使う。
再び、全身の周囲へ透明な膜が広がった。
でも倭は、すぐには近づかなかった。
一歩だけ横へ移動する。
男がそちらへ向き直る。
もう一歩。
男も向きを変える。
倭はさらに反対側へ移り、急に踏み込むような動きを見せた。
男の膜が、その方向へ厚くなる。
倭は踏み込まない。
すぐに足を戻し、もう一度別の方向へ動いた。
そこでようやく気づいた。
倭は、男に膜を動かさせている。
どこへ向ければ厚くなるのか。
どこが薄くなるのか。
どの動きに反応するのか。
直接ぶつかる前に、何度も確かめている。
男もそれに気づいたらしい。
「いつまで様子を見ているつもりですか」
「別に、急いでねえし」
倭が答える。
「そっちは?」
男の顔が険しくなった。
わたしへ視線が向く。
その瞬間、倭が動いた。
速かった。
男が膜を厚くするより先に、倭はその側面へ踏み込んでいた。
男の腕が動く。
倭はそれを避け、相手の身体へ短く拳を打ち込んだ。
重い音がした。
透明な膜の一部が歪む。
男の上半身が大きく傾いた。
「ぐっ……!」
倭は追撃しなかった。
一歩退く。
男が反射的に膜を全身へ広げる。
その瞬間、倭の線が動いた。
膨らむ膜へ直接抵抗するのではなく、その外側を大きく囲う。
男が気づいて身体を捻ろうとする。
遅かった。
倭はもう一度踏み込んでいた。
今度は拳ではない。
男の腕を外側へ流し、身体の向きを変えさせる。そのまま脚を使って重心を崩し、膜が薄くなった側へ男を倒した。
男の背中が地面へ落ちる。
すぐに起き上がろうとする。
その前に、倭が動いた。
男の身体を覆う膜がもう一度膨らむ。
けれど、今度は倭が離れなかった。
膜の外側へ張っていた線が、膨張に合わせて一斉に引かれる。
押し広げるほど、別の方向から締めつけられる。
「……っ!」
男の能力が揺らいだ。
倭は、その一瞬を逃さなかった。
相手の身体へ近づき、片腕を制御する。逃げようとした方向へ自分の脚を入れ、残った腕も動かせない位置へ押さえ込んだ。
男が暴れる。
倭の体勢は崩れない。
男のほうが何度も身体を捻っているのに、倭は必要なところしか動かしていなかった。
「もう終わりにしろ」
低い声。
「このまま続けても、あんた怪我増えるだけだよ」
「……まだ!」
男が能力を使おうとした。
倭の指が動く。
線が張る。
男の身体がさらに動かなくなる。
「だから」
倭が少しだけ苛立った声を出した。
「もうやめろって」
次の瞬間、男の周囲を覆っていた透明な膜が大きく揺らいだ。
消えた。
完全にではない。
薄い輪郭だけが残り、すぐにまた形を作ろうとする。
でも、そのたびに倭が身体の向きと腕の位置を変えるので、男はまともに力を入れられない。
膜の出力も、さっきまでとは明らかに違っていた。
「……くそっ」
男が吐き捨てる。
「終わり?」
倭が聞く。
返事はない。
「もう一回やる?」
「……」
「やめとけよ。あたしだって、これ以上やりたくねえ」
男の抵抗が少しずつ弱くなる。
倭はしばらくそのまま押さえていた。
それから、拘束用の線を増やし、相手が急に起き上がれないことを確認してから身体を離した。
「なぎ」
呼ばれる。
「はい」
「振、もう切っていい」
言われた通りに意識を緩める。
遠くまで伸びていた感覚が、急に消えた。
その途端、指先が強く痺れた。
「……っ」
「なぎ?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「ちょっと痺れるだけ」
倭は男を見たまま、眉を寄せた。
「無理すんなって言っただろ」
「無理かどうか、やってる途中だとわかりにくいです」
「それが問題なんだよ」
反論できなかった。
指を握る。
開く。
少し震えている。
倭はもう一度線を張り直すと、今度は遠くへ意識を向けた。
「……車、動いた」
「さっきの?」
「ああ。逃げる気っぽい」
わたしはスマートフォンを見る。
「力環へ連絡します?」
「して」
倭が即答した。
「今の場所と状況。相手一人拘束済み、もう一人以上いる可能性あり。車の特徴はあとであたしが伝える」
「わかりました」
事前に開いておいた緊急連絡先へ発信する。
事情を説明すると、担当者はすぐに場所を確認し、応援を手配すると答えた。
倭はその間も男から目を離さなかった。
わたしが通話を終えると、倭がようやくこちらへ向き直る。
「なぎ、怪我は」
「してません」
「痺れ以外」
「ないです」
「頭痛とか」
「ないです」
「気持ち悪くねえ?」
「大丈夫です」
倭が長く息を吐いた。
「……よかった」
その声は、さっきまで男へ向けていたものとはまったく違っていた。
でも、すぐに表情を引き締める。
「もうちょいそこにいて。力環の人間が来るまで動かねえで」
「はい」
倭は男のそばへ戻る。
線の拘束を確認し、相手の意識がはっきりしていることを確かめてから、少し離れた場所へ立った。
もう殴らない。
逃げるために暴れれば止めるのだろうけれど、それ以上傷つけるつもりはないらしい。
「……あなた」
男が地面に座ったまま口を開く。
倭が見る。
「何」
「これだけ戦えるなら、護衛などしなくてもいいでしょう」
「は?」
「もっと稼げる仕事はいくらでもある」
倭はしばらく男を見ていた。
それから、心底どうでもよさそうに答える。
「今の仕事に何の関係あんの、それ」
「あなたほどの実力があれば――」
「うるせえな」
倭が遮る。
「仕事選ぶのはあたしだろ」
男が黙った。
倭はそれ以上何も言わず、わたしのほうを一度確認する。
目が合った。
「なぎ」
「はい」
「ちゃんとそこにいるな」
「言われたので」
「珍しく素直」
「いつも素直ですよ」
「どこが」
いつもの会話だった。
あれほど激しく動いていたのに、倭はもう普段の顔へ戻り始めている。
でも、左腕には服の上からでもわかる擦れた跡があった。
「倭さん」
「何」
「腕、大丈夫なんですか」
「ああ、これ?」
倭が自分の腕を見る。
「たぶん打ち身」
「力環で診てもらってくださいね」
「なぎもな」
「わたしも?」
「当たり前だろ。振使って指痺れてんじゃん」
「わかりました」
倭は小さく頷いた。
そのあと、もう一度男へ視線を戻す。
わたしは壁にもたれたまま、先ほどの戦いを思い返した。
倭が強いことは、知っていた。
夜也からも聞いていたし、力環での評価も見た。
でも、実際に戦う姿は想像していたものと違っていた。
線を使っているときも、身体だけで戦っているときも、倭はずっと相手の動きを見ていた。どうすれば倒せるかではなく、どうすればこちらへ来させずに済むかを考えているように見えた。
それでも、必要になれば迷わず距離を詰める。
相手の攻撃を避けながら、何度も体勢を崩し、最後には動けなくした。
あれだけできるのに、本人はずっと殴りたくなかったと言っていた。
「……倭さん」
「今度は何」
「一つ聞いてもいいですか」
「後でなら」
「わかりました」
今は、力環の人が来るのを待つほうが先だった。
遠くで車の音がした。
倭がそちらへ視線を向ける。
「……来たな」
男の拘束をもう一度確認する。
その姿を見ながら、わたしはまだ痺れている指をゆっくり握った。
倭が護衛として強いのは、きっと遺能を持っているからだけではない。
今日、初めてそれがわかった。
さっき聞きそびれたことは、帰りの車で聞けばいい。
いつもの助手席で。
倭が運転して、わたしが隣に座る。
今日は、たぶん普段より少しだけ話すことが多くなりそうだった。




