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第36話「近づかせない」

 男が「振」という名前を知っていたことで、倭の警戒は明らかに一段上がった。


 さっきまでは、相手が帰る余地を残していた。進めば止める。退けば追わない。そういう形だった。


 今は違う。


 倭はわたしと男の間に立ったまま、空間へ張る線の位置を少しずつ変えている。目にはほとんど見えないけれど、前よりも広い。


 男の周囲だけではない。


 道路。


 倉庫の壁際。


 空き地との境目。


 さらに遠い位置まで、倭の線が伸びている。


「なぎ」


「はい」


「さっきと同じ感じ、もう一回できる?」


「やってみます」


「無理ならすぐ切れ」


「はい」


 指先にはまだ少し痺れが残っている。


 でも、痛くはない。


 線へ意識を向ける。


 一度合わせたせいか、今度はさっきより見つけやすかった。


 倭の線には独特の細い揺れがある。


 一本ずつ違う場所へ伸びているのに、根元は同じ人につながっている。


 それを探す。


 自分の振を押しつけるのではなく、その揺れと同じところへ重ねていく。


 指先が少し熱くなる。


「……いけました」


 言うと、倭がすぐ反応した。


「ああ」


「わかる?」


「わかる」


 短い返事。


 その直後、倭が左を向いた。


 男はまだ動いていない。


 少なくとも、わたしにはそう見えた。


「何かありました?」


「足」


「足?」


「体重ずらした」


 男の表情が少し変わる。


 倭はそれを見ていない。


 視線は正面のまま。


「左行くつもりだったろ」


 男が答えない。


「違う?」


「……よくわかりますね」


「わかるようになった」


 倭の指がわずかに動く。


 男の左側で、線が一本張り直される。


 進む前から、道が消える。


 男は今度、右足を少し後ろへ引いた。


 倭がまた言う。


「後ろも無理」


「まだ動いていませんよ」


「動く前からわかる」


 その言葉を聞いて、わたしも少し理解した。


 感知範囲が広がった、というだけではない。


 倭は今、線に触れられたあとで反応しているのではない。


 相手が足を滑らせる。


 体重を移す。


 能力の膜が先に空気を押す。


 服や靴が線の近くを通る。


 そういう小さな変化まで拾っている。


 だから、男が本格的に動き出す前に次の道を塞げる。


「……便利ですね」


 小さく言う。


「喋る余裕あんなら痺れ見とけ」


「あります」


「痛い?」


「まだ大丈夫」


「ならそのまま」


 倭の声は落ち着いていた。


 男が突然、前へ踏み込む。


 速い。


 でも、倭のほうが先だった。


 男の身体が動き出すより一瞬早く、正面の線が斜めに交差する。


 透明な膜がぶつかる。


 男がすぐ右へ切り返す。


 そちらにも線。


 左へ。


 また線。


 後ろへ跳び、位置を変えてから前へ。


 そこにも。


「……っ」


 男の足が止まる。


 倭はまだ、ほとんど動いていない。


 相手を追いかける必要がないからだ。


 動く場所そのものを先に消している。


「何だ、それ」


 男が低く言う。


「何が」


「先ほどより明らかに反応が早い」


「そう?」


「こちらが動く前に線が来る」


「じゃあ動かなきゃいい」


 倭は淡々としていた。


「帰るならそっちだけ開ける」


「まだ帰ると思っているんですか」


「思ってねえよ」


 今度は倭が少し眉を寄せた。


「でも選べるようにはしてる」


「親切ですね」


「怪我させたくねえだけ」


 その言葉に、男が一瞬だけ笑った。


「戦闘職なのに?」


「あたし護衛」


 倭はすぐ返した。


「守れりゃそれでいい」


 そこは、たぶん倭にとって大事な違いなのだと思う。


 相手を倒すことが目的ではない。


 わたしへ近づかせない。


 それで仕事は成立する。


 男が両腕を広げる。


 身体の周囲を覆う透明な膜が、また少し厚くなる。


 倭の線へ直接ぶつけるつもりらしい。


「来る」


 倭が言う。


「わかります?」


「出力上がった」


 わたしにも少し遅れて感じた。


 空気が重くなる。


 男が前へ進む。


 今度は左右へ避けない。


 正面から膜ごと押し込んでくる。


 倭の線が何本も同時に張る。


 一つ目。


 二つ目。


 三つ目。


 透明な膜が押す。


 線がたわむ。


 でも、さっきのように一本へ負荷が集中しない。


 わたしの振が重なっているせいか、一つの線が受けた圧力が細かな振動になって周囲へ広がっていく。


 別の線が張る。


 さらに別の線。


 男の進行方向そのものが、少しずつ横へずらされる。


「っ……」


 前へ進んでいるはずなのに、わたしのいる方向へまっすぐ来られない。


 倭が右手を引く。


 男の足元の線が張る。


 重心が崩れる。


 踏み直した先に、また一本。


 男が苛立ったように膜を膨らませる。


 倭はすぐに別の線へ力を逃がす。


「なぎ」


「はい」


「今、右奥わかる?」


 右奥。


 意識を向ける。


 倭の線が遠くまで伸びている。


 その中に、一つだけ細かな刺激がある。


「……何か動いてます」


「車」


「さっきの?」


「たぶん」


 男のほうを見る。


「一人じゃなかった?」


「車に残ってるやついるかも」


「近づいてきてます?」


「いや。まだ動いてない」


 倭はそれも同時に拾っている。


 目の前の男だけではない。


 遠くに停められた車。


 道路の端。


 倉庫の裏手。


 広がった感知範囲の中で、何かが動けば倭に返る。


「これなら」


 倭が小さく呟く。


「何ですか」


「後ろ気にしながら前だけ見てられる」


 それは、護衛にとってかなり大きいことなのだと思う。


 今までの倭は、わたしを守りながら周囲全部を自分で見ていた。


 前の相手。


 後ろ。


 逃げ道。


 車。


 それを何度も視線と線で確認していた。


 今は、線が遠くの小さな変化まで拾う。


 倭は正面から目を離さなくていい。


「相性いいですね」


 つい言う。


「今それ言う?」


「能力の」


「わかってる!」


 声が少し大きくなった。


 それでも視線は男から外れない。


「集中してください」


「誰のせいだよ」


 こんな状況なのに、ほんの一瞬だけいつもの倭だった。


 それで少し肩の力が抜けた。


 男がまた動く。


 今度はフェイントだった。


 右へ体重を乗せる。


 倭の線が右へ張る。


 その瞬間に左へ切り返す。


 でも。


「遅い」


 倭が言う。


 左側にも、もう線があった。


 男の足首へ絡む。


 透明な膜が弾こうとする。


 さらに上から別の線。


 肩。


 腰。


 膝。


 男が動くたび、次の線が先に待っている。


 フェイントすら意味がない。


 身体の動きそのものではなく、その前段階まで拾われているからだ。


「そんなに細かくわかるんですか」


「今はな」


「普段は?」


「ここまでは無理」


 倭が答える。


「一人なら、触れられてからわかるのも多い」


「今は?」


「触る前にわかる」


 やっぱり。


 わたしの振が、線へ入る情報を増やしている。


 倭自身の感覚が鋭くなったというより、本来は途中で消えていた小さな刺激まで届くようになっている。


「足の向きも?」


「ああ」


「呼吸も?」


「そこまではわかんねえ」


「服が触れたのは?」


「わかる」


「すごいですね」


「後で聞け」


「はい」


 男がいよいよ苛立ったらしい。


 透明な膜を大きく広げ、複数の線へ同時にぶつける。


 倭は避けない。


 一本を緩める。


 別の一本を張る。


 相手が押した方向へ、少しだけ道を作る。


 男がそこへ進む。


 その先で、今度は三本が閉じる。


「……誘導してる」


 思わず言う。


「気づいた?」


 倭の声が少しだけ変わった。


 最初からそうだった。


 男が自分で進んでいるように見えて、実際には倭が進める方向を選ばせている。


 右を塞ぐ。


 左を少し開ける。


 左へ動いたら、その先を閉じる。


 後ろへ逃げられる道だけは完全には消さない。


 攻撃するためではなく。


 わたしから遠ざけるため。


 男が気づいたときには、最初よりずっとこちらから離れた位置にいた。


「……あなた」


 男が倭を見る。


「最初から、こちらを押し返していたんですか」


「今さら?」


 倭が答える。


「近づかせないって言っただろ」


「拘束が目的ではない」


「違う」


「倒すことも」


「どうでもいい」


 倭ははっきり言った。


「なぎに近づかなきゃ、それで終わり」


 わたしの名前が出る。


 男がこちらを見る。


 その瞬間、倭の線が一気に狭まった。


「見るな」


「見ることまで禁止ですか」


「嫌なんだよ」


 倭が低く言う。


「尾けてきたやつに、こいつのこと見られんの」


 一瞬だけ、何か引っかかった。


 仕事だから、ではなかった。


 でも、今は聞く場面ではない。


 男が息を吐く。


「なるほど」


 その声から、さっきまでの余裕が少し消えていた。


「では、線を避けて進むのは無理そうですね」


「帰れば」


「それもできません」


 男が両手を下ろす。


 透明な膜が一度だけ薄くなった。


 倭が警戒する。


 わたしにもわかる。


 諦めたようには見えない。


 むしろ。


「倭さん」


「ああ」


「何か変です」


「わかってる」


 男が姿勢を変えた。


 さっきまで能力を前面へ出していた構えではない。


 重心が低い。


 両足の位置が変わる。


「線を突破できないなら」


 男が言う。


「あなた自身を退かせればいい」


 倭の表情がわずかに険しくなる。


 男が一気に踏み込んだ。


 今までで一番速い。


 線へぶつかることを承知の上で。


 一本が腕へ絡む。


 もう一本が脚を取る。


 それでも、男は止まらない。


 透明な膜を身体の表面ぎりぎりまで縮め、線に触れる面積を減らしている。


「倭さん!」


「動くな!」


 倭が初めて大きく前へ出た。


 わたしから離れる方向へ。


 相手を迎えに行く。


 線だけで止めるのではなく、自分自身で。


 男の手が倭へ伸びる。


 倭がその腕を払う。


 鈍い音がした。


 二人の距離が、一気に近くなる。


 今まで線が作っていた間合いが消えた。


 それでも男は、わたしへは一歩も近づいていない。


 倭が自分からその間へ入ったからだ。


「なぎ」


「はい」


「振、切るな」


「わかりました」


「そのまま遠く見てて」


 遠く。


 車。


 裏手。


 ほかの気配。


 倭が目の前の男だけに集中できるように。


「何か来たら言え」


「はい」


 倭は男から目を離さない。


 線で完全に進路を塞いでも、それでも相手が来るなら。


 今度は倭自身が止める。


 男がもう一度構える。


 倭も両手を上げた。


 その姿を見て、初めて気づく。


 今まで、倭はほとんど戦っていなかった。


 線を張って。


 避けて。


 転ばせて。


 絡めて。


 近づかせないだけだった。


 たぶんここからが、倭の言う「できればやりたくなかった」ほうなのだと思う。


 倭は小さく息を吐いた。


「……殴るの、好きじゃねえんだけどな」


 男が踏み込む。


 今度は、倭も退かなかった。

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