第35話「線が揺れる」
男の身体を覆う透明な膜が、さっきまでとは比べものにならないほど厚くなっていた。
目で見えるのは輪郭の歪みくらいなのに、周囲の空気まで押し退けられているのがわかる。足元の砂埃が外側へ流れ、近くに落ちていた小さな石が転がった。
その中心で、男が一歩踏み出す。
倭の線が張った。
空気の中で、細い音がいくつも重なる。
「止まれ」
倭の声は変わらない。
男も止まらない。
正面に張られていた線へ、透明な膜がぶつかった。
前のように少し押して終わりではなかった。
線が大きくたわむ。
一本だけではない。その後ろに張られていた二本目、三本目まで同時に引かれ、倭の右手がわずかに動いた。
「……出力上げたな」
「あなたが帰してくれないので」
「帰る道は残してた」
「こちらには目的があります」
「だから知らねえって」
倭の指先が閉じる。
男の左右にあった線が一斉に狭まり、透明な膜の外側へ絡みついた。
足。
腕。
胴。
直接身体を締めるのではなく、能力で作られた外殻ごと動きを封じるように張られている。
男の足が止まった。
「これ以上やるなら、本当に拘束する」
「もうしているでしょう」
「まだ逃げられる」
倭の言葉を聞いて、男が一瞬だけ後ろを見る。
確かに、一方向だけ線が薄い。
そこを戻れば、倭は追わないつもりなのだろう。
でも男は戻らなかった。
全身を覆う膜が、さらに膨らむ。
空気が低く震えた。
倭の線が軋む。
今度は、わたしにもはっきりわかった。
力環の実験で感じた「線」とは違う。
あのときは、細い糸の中を情報が行き来していた。倭から遠くへ伸び、何かが触れるとその変化が戻ってくる。振を合わせれば、その往復が整って遠くまで届いた。
今の線は、無理に引き伸ばされている。
整ったものが崩れようとしていた。
「倭さん」
「そのまま」
すぐ返ってくる。
「でも」
「大丈夫」
倭の声にはまだ余裕があった。
右手を動かす。
男の背後へ新しい線が二本走り、押し広げられた拘束を外側から補強する。
それでも、透明な膜の膨張は止まらない。
一本の線が強く震えた。
わたしの指先にも、同じような細かな感覚が伝わる。
振を使っているわけではない。
でも、一度共振した相手だからか、倭の線が乱れていることだけはわかった。
嫌な揺れだった。
学校で暴走した膜へ触れたときに少し似ている。
まとまりがなくなる。
あちこちから別の方向へ引かれて、どこを基準にすればいいのかわからなくなっていく。
「これ、切れそうです」
「わかってる」
倭は短く答えた。
「使わなくていい」
こちらが何を考えたかまでわかったらしい。
「まだ言ってません」
「顔」
「見てないでしょう」
「声でわかる」
男の膜がもう一度膨らむ。
一本が大きく弾かれた。
倭の肩がわずかに動く。
「っ」
「倭さん?」
「平気」
すぐ返ってくる。
でも、今のは平気なときの声ではなかった。
線を通して、倭の側にも負荷が返っている。
男はそれに気づいたのか、初めて少し笑った。
「やはり、限界はありますね」
「そりゃあるよ」
倭は淡々としている。
「能力なんだから」
「なら、退いていただけませんか」
「それは無理」
「彼女に危害を加えるつもりはありません」
「信用してない」
「あなたが抵抗をやめれば、安全に話せます」
「尾行してきたやつの安全を信じろって?」
倭の声には苛立ちより呆れが混じっていた。
「なぎが話したくないって言った時点で終わってんだよ」
男の表情が消える。
次の瞬間、透明な膜の一部が前方へ集中した。
身体全体を守っていたものが、正面だけへ厚く重なる。
倭の顔が変わった。
「なぎ、下がるな」
「はい」
「壁から離れんな」
「はい」
男が踏み込む。
正面突破。
倭が右手を強く引いた。
何本もの線が一斉に男の進路へ集まる。
最初の一本が膜へ食い込む。
二本目。
三本目。
男の速度が落ちる。
それでも止まらない。
膜が線を押し広げる。
少しずつ。
一本ずつ。
倭が後ろへ下がる。
初めてだった。
今まで倭は、男に合わせて位置を変えることはあっても、押されて下がったことはなかった。
一歩。
男が進む。
倭も一歩下がる。
わたしとの距離が縮まる。
安全圏の一番外側に張られている線が、すぐ目の前まで近づいてきた。
「倭さん」
「見るだけでいい」
「でも」
「まだ」
まだ。
その言葉を聞いて、手を止める。
振を使えば、線へ共振できる。
実験では感知範囲を広げた。
でも、今みたいに強い負荷がかかっている状態で何が起きるかは試していない。
下手に合わせれば、逆に崩すかもしれない。
学校の膜のように。
だから倭は使わせたくない。
わかる。
わかるけれど。
男がさらに前へ出る。
線が張りつめる。
高い音がした。
一瞬、一本だけがはっきり見えた。
細い。
あまりにも細い。
透明な膜へ押され、限界まで引き伸ばされている。
その線が揺れるたび、わたしの指先まで同じ感覚が走る。
ばらばらではない。
まだ、倭の線は整っている。
ただ、外から強すぎる力をかけられている。
崩れているのではない。
耐えられなくなっている。
それなら。
「倭さん」
「何」
「線は、今もちゃんとしてます」
「……は?」
「乱れてない。押されてるだけ」
倭が一瞬だけこちらを見る。
その隙に、男が身体を捻った。
膜が横へ広がる。
線の一本が大きく歪む。
次の瞬間。
乾いた音がした。
一本。
切れた。
空気の中にあった感覚が、突然なくなる。
男の右側に、小さな隙間ができた。
倭がすぐ別の線を引こうとする。
でも相手のほうが早い。
男がその隙間へ身体を向けた。
そこを抜ければ。
わたしのいる場所まで、今までよりずっと少ない線しか残っていない。
「なぎ、動くな!」
倭が叫ぶ。
動かない。
足は。
その代わり、手を伸ばした。
目の前を通っている線へ。
「使うな!」
聞こえた。
でも。
「ごめんなさい」
指先を近づける。
直接触れる直前。
線の感覚が、一気に濃くなった。
倭の「線」。
細く。
長く。
張られている。
こちらから向こうへ何かを伝え、向こうから倭へ返す。
前の実験と同じ。
違うのは、今は線全体へ大きな力がかかっていることだけ。
合わせる。
自分から何かを押しつけるのではなく、線が元々持っている揺れを探す。
倭のリズム。
前に力環で感じたもの。
一定ではない。
細かく変わる。
相手の動きに合わせて、倭自身が一本ずつ制御している。
それでも、その全部の奥に同じものがある。
これだと思った。
指先が痺れる。
胸の奥が少し引かれる。
そして。
線が、揺れた。
男の膜に押されていた一本だけではない。
空間へ張り巡らされているすべての線が、同時に細かく震える。
音にならないくらい小さな振動。
でも、わたしにはわかった。
ばらばらに張られていた線が、一つの大きな網のようにつながる。
「……なぎ?」
倭の声。
驚いている。
「前と同じです」
「何が」
「合わせました」
男が隙間へ踏み込む。
その足が止まった。
「っ?」
何もない場所で、身体が横へ引かれる。
切れたはずの線の隣。
別の一本。
そのさらに奥。
今まで男が触れていなかった遠い線まで、一斉に反応している。
倭が目を見開く。
「これ……」
わたしにもわかった。
前の実験では、遠くの刺激が倭へ届きやすくなった。
今は逆だった。
倭が一つの線へ与えた制御が、ほかの線へまで伝わっている。
一か所だけを補強しているのではない。
空間全体へ張られた線が、互いの揺れを拾っている。
一本が押されれば、ほかの線までそれを知る。
倭が引けば、その動きが広がる。
「倭さん」
「喋んな。集中して」
さっきまで「使うな」と言っていた人の声ではなかった。
もう止めないらしい。
倭の両手が動く。
それまで右手だけで細かく操作していた線が、一斉に張り直される。
わたしの振がその動きを追う。
全部を理解しているわけではない。
ただ、倭が作ろうとしている形へ揃える。
男が前へ出る。
線が先に動く。
左へ逃げる。
その先の線が震える。
後ろへ退く。
背後の線まで、倭が直接見ていないのに即座に張る。
「なんだ、これ……」
男が初めて明確に動揺した。
倭も同じくらい驚いているはずなのに、今はそちらを考える余裕がないらしい。
「なぎ、痺れは」
「あります」
「痛い?」
「まだ」
「無理になったらすぐ切れ」
「はい」
今度は、「使うな」ではない。
使うなら限界を言え。
それに変わった。
透明な膜が再び膨らむ。
男が正面を押す。
さっきなら線が一本ずつ押されていた。
今は違う。
一つがたわむと、離れた線まで細かく揺れ、その張力が別の場所へ分散されていく。
倭が低く息を吐く。
「……そういうことか」
「何ですか」
「一人で張ってる感じじゃねえ」
その言葉の意味を考える余裕はなかった。
男の出力がさらに上がる。
腕が少し痺れる。
それでも、今度は線が切れない。
細く震えながら。
何本もつながって。
押されても、元の位置へ戻る。
「なぎ」
「はい」
「そのまま」
倭の声が近い。
「もうちょいだけ」
「わかりました」
男が一歩進もうとする。
線が止める。
別の方向へ抜けようとする。
そちらにも線がある。
さっきまで、倭は相手の動きを見てから張り直していた。
今は、動き始めた時点でもう次の線が反応している。
振が、倭の感覚を線全体へ広げている。
男が初めて後ろへ下がった。
逃げるためではない。
距離を取り直すため。
倭も追わない。
わたしの前から離れない。
「一回止める」
倭が言う。
「振?」
「ああ。切って」
言われた通り、線から意識を離す。
途端に、指先へ強い痺れが戻ってきた。
「っ」
「なぎ」
倭がすぐ振り返る。
「大丈夫です」
「手」
「痺れてるだけ」
「こっち来るな。そのまま」
安全圏から出ようとしていないのに止められた。
倭は一瞬こちらへ来ようとして、男の存在を思い出したように踏みとどまる。
視線が迷う。
わたし。
男。
わたし。
「倭さん、前見てください」
「わかってる」
「わたしは動きません」
その言葉で、倭はようやく男へ向き直った。
「……絶対動くなよ」
「はい」
男は距離を取ったまま、こちらを見ている。
さっきまでと表情が違う。
倭ではなく。
わたしを見ていた。
「今のが、『振』ですか」
名前を知っている。
やっぱり。
倭の空気が変わった。
「おまえ」
低い声。
「どこでそれ知った」
男は答えない。
でも、その沈黙だけで十分だった。
偶然水守家の娘を尾行したわけではない。
最初から、振を知っていた。
倭の周囲で線が再び張る。
今度は、さっきまでより少し低い位置まで広がっていく。
男が一歩退いた。
倭は追わない。
「なぎ」
「はい」
「今の感じ、覚えてる?」
「たぶん」
「忘れんな」
「どうして?」
倭は前を見たまま答える。
「次、こいつが動いたら使う」
さっきまでとは逆だった。
使うな、と言われていた振が。
今度は倭の側から、使うことを前提にされている。
わたしは痺れる指を一度握って、開いた。
「わかりました」
男の能力が再び揺れる。
それに合わせて、倭の線も細かく震えた。
今度はまだ、わたしは触れていない。
それでも一度共振したあとの線が、さっきまでより近く感じる。
倭も同じなのかもしれない。
右手を開きながら、少しだけ口元を歪めた。
「次は抜かせねえ」
その声に、最初ほどの切迫感はなかった。
線は一度、切れかけた。
わたしの振は、それを強くしたわけではない。
倭の線を倭のまま、もっと遠くまで、もっと広くつなげただけだった。
その結果が何を意味するのか。
次に男が動けば、たぶんわかる。




