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名家の令嬢に成り代わったら、強すぎる高身長美女たちに溺愛されました  作者: 鏡鞠るる
第3章 赤い髪のボディガード
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第27話「嫌じゃなかったです」

 その日の力環では、予定していた検査が中止になった。


 肩を軽く捻っていたので、念のため能力を使う作業は避け、前回までの記録整理だけをすることになった。痛みはほとんどなく、腕も普通に動く。医務室で冷やしてもらったせいか、帰る頃には違和感もかなり薄くなっていた。


 いつもの時間より30分ほど早く研究棟を出る。


 倭には事前に連絡していた。


『終わりました』


 送ると、すぐ返事が来た。


『駐車場』


 短い。


 いつも通りだった。


 建物を出て駐車場へ向かうと、倭の車はすぐ見つかった。運転席ではなく、今日は車の外に立っている。


 わたしを見つけると、まず肩へ視線が向いた。


「どうだった」


「大丈夫です。軽く捻っただけ」


「痛み」


「今はほとんどないです」


「腕上がる?」


「上がります」


 実際に少し動かして見せる。


 倭はそれを見て、ようやく小さく息を吐いた。


「ならいい」


 助手席へ乗る。


 倭も運転席へ戻った。


 エンジンをかける。


 けれど、すぐには車を出さなかった。


「倭さん」


「何」


「帰らないんですか」


「帰る」


 そう言いながら動かない。


 ハンドルの上に置かれた指が、一度開いて閉じる。


 何か言いたいときの癖だということは、もうわかってきた。


「さっき、あとで話すって言いましたよね」


「……覚えてたの」


「言われたので」


「忘れていいのに」


「じゃあ言わなければよかったのでは」


「うるせえな」


 少しだけ機嫌が悪そうな声だった。


 でも、本当に怒っているわけではない。


 倭は前を見たまましばらく黙り、それからやっと口を開いた。


「さっきのこと」


「事故?」


「そう」


「何ですか」


「……悪かった」


 何を謝られているのかわからなかった。


「何がですか」


「触った」


「はい」


「急だったし」


「事故なので」


「それでも」


 倭が少し眉を寄せる。


「勝手に抱えた」


 そこだった。


「避けるためですよね」


「そうだけど」


「なら仕方ないのでは」


「仕方ないで終わらせる話じゃねえだろ」


 わたしには、そこまで大きな話には思えなかった。


 金属板が飛んできた。


 倭が危険だと判断した。


 身体を引かれて、抱え込まれた。


 それで終わった。


「仕事で必要だったんですよね」


「必要だった」


「じゃあ、別に」


「別にじゃねえ」


 倭の声が少し強くなる。


「必要でも、嫌なもんは嫌だろ」


 そこで少し考える。


 なるほど。


 必要だったかどうかと、嫌だったかどうかは別だと言いたいらしい。


 それは確かにそうだった。


「じゃあ、嫌じゃなかったです」


 倭が止まった。


 本当に、完全に。


「……は?」


「嫌じゃなかったです」


「聞こえた」


「じゃあ何ですか」


「いや」


 倭が前を向く。


 耳が赤い。


「何で二回言うんだよ」


「聞き返したから」


「聞き返してねえ」


「『は?』って」


「そういう意味じゃねえ」


 よくわからない。


「でも、嫌じゃなかったので」


「もういい」


「謝らなくて大丈夫です」


「わかったから」


 明らかに動揺している。


 事故のときよりわかりやすい。


「倭さん」


「何」


「どうしてそんなに困ってるんですか」


「困ってねえ」


「耳赤いです」


「見るなって前も言っただろ」


「見えるので」


「前向け」


「助手席なので横も見えます」


「屁理屈」


 やっと車が動き出した。


 駐車場を出る。


 倭はいつもより少しだけ背筋が硬い。


 運転は普通だった。


 速度も。


 周囲の確認も。


 ただ、妙にこちらを見ない。


「事故のときは仕方なかったと思います」


 少ししてから、もう一度言う。


「もうその話終わり」


「倭さんが気にしてたから」


「気にしてねえ」


「謝ったでしょう」


「謝ったら終わりだろ」


「わたしも嫌じゃなかったって言ったので、終わりですね」


「……そうだよ」


 返事まで少し遅かった。


 窓の外を見る。


 夕方の道は混んでいる。


 車はゆっくり進む。


 しばらく何も話さなかった。


 沈黙自体はいつものことなので、気まずくはない。


 ただ、今日の倭は少し違う。


 普段なら信号待ちのときにこちらを見ることもあるのに、今日は前ばかり見ている。


「倭さん」


「今度は何」


「もしかして、触ること自体が苦手なんですか」


「は?」


「だからそんなに気にしてるのかと」


「……別に苦手じゃねえ」


「じゃあ、わたしが嫌だったかもしれないのが気になった?」


 今度は返事がない。


 たぶん合っている。


「最初に言いましたよね」


「何を」


「嫌なことがあったら言えって」


「言った」


「なら、嫌だったら言います」


「事故の最中に言えるわけねえだろ」


「終わってからでも」


「……」


「今も言ってないので、大丈夫です」


 倭は少し黙ってから、低く答えた。


「わかった」


 さっきよりは落ち着いた声だった。


「じゃあ次から気にしなくていいですよ」


「それは違う」


「違うんですか」


「次も確認はする」


「毎回?」


「触る必要あるなら」


「事故の最中でも?」


「余裕なきゃしねえ。でも余裕あるなら聞く」


 かなり律儀だと思う。


「倭さん、そういうところ細かいですね」


「細かくねえよ」


「細かいです」


「嫌がられんのが面倒なだけ」


「面倒?」


「嫌だったのに黙られて、あとからずっと我慢されんのが一番困る」


 そこまで言って、倭は少し顔をしかめた。


 言いすぎたと思ったのかもしれない。


「だから、嫌なら言え」


「はい」


「我慢すんな」


「してません」


「今の話じゃなくて今後」


「わかってます」


「……ならいい」


 会話が切れる。


 でも、少ししてから気になった。


「倭さんは?」


「何」


「嫌なこと、言います?」


 今度は倭がこちらを見る。


「何の話」


「わたしには嫌なら言えって言うけど、倭さんは言うのかなって」


「言うだろ」


「本当に?」


「なんで疑うんだよ」


「我慢しそうなので」


 倭の眉が動いた。


「どこ見てそう思った」


「仕事だからって、だいたい何でも受け入れるでしょう」


「仕事と嫌なことは別」


「それ、今わたしに言ってたのと同じですね」


「……そうだけど」


「じゃあ倭さんも言ってください」


「何を」


「嫌なこと」


 倭がまた黙った。


 信号で止まる。


 指がハンドルの上で動く。


「例えば?」


「わかりません」


「適当だな」


「でも、わたしだけ言うのは変なので」


 少し考えてから続ける。


「わたしが何かして、倭さんが嫌だったら言ってください」


 倭はしばらく答えなかった。


「……ああ」


 やっとそれだけ言う。


「約束?」


「そこまで大げさじゃねえだろ」


「じゃあ覚えておいてください」


「覚えとく」


 信号が青になる。


 車が進む。


 それで本当に話は終わったと思った。


 しばらくして、倭が突然言う。


「なぎ」


「はい」


「さっきの」


「何ですか」


「嫌じゃなかったってやつ」


「はい」


「……どういう意味」


 今度はこちらが少し考える。


「そのままです」


「そのままって」


「倭さんに抱えられたことが嫌じゃなかった」


「言い方」


「何が?」


「もういい」


 また耳が赤くなった。


「何で聞いたんですか」


「聞いたあたしが悪かった」


「そうですか」


「忘れろ」


「無理だと思います」


「頼むから忘れろ」


 珍しく頼まれた。


 少し面白い。


「努力します」


「絶対しねえ言い方じゃん」


「夜也さんにもよく言います」


「またあいつかよ」


 今度はわかりやすく嫌そうな顔になった。


「何で毎回出てくんだよ」


「よく話すので」


「聞いてねえ」


「倭さんが聞いたでしょう」


「今は聞いてねえ」


 少しだけ、いつもの調子に戻った。


 水守家まであと10分ほど。


 倭は前を向きながら運転している。


 わたしは窓の外を見る。


 今日の事故を思い返す。


 怖かった。


 金属板が飛んできた瞬間も。


 急に腕を引かれたことも。


 何が起きているかわからなかったことも。


 でも、倭の腕の中に入ったあと、別の怖さはなかった。


 あの人が外側にいる。


 自分より先に危険のほうを向いている。


 それはわかっていた。


 だから、嫌ではなかった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 今のところは。


 車が水守家の門を通る。


 玄関前へ停まる。


 シートベルトを外す。


「今日はありがとうございました」


「何回言うんだよ」


「送迎も含めて」


「ああ」


 扉を開ける。


「なぎ」


 また呼ばれる。


 振り返る。


「明日、肩痛かったら学校休め」


「そこまでではないです」


「朝また聞く」


「はい」


 倭は一度こちらを見て、それから少し視線を逸らした。


「あと」


「まだあります?」


「……今日は、その」


 珍しく言葉に詰まる。


「何ですか」


「いや。やっぱいい」


「気になります」


「いいって」


「さっきもそう言って、あとで話したでしょう」


「今日はもういい」


「じゃあ明日聞きます」


「聞くな」


 少しだけ笑う。


 倭がこちらを見る。


「何笑ってんの」


「倭さん、今日は変なので」


「誰のせいだよ」


「わたし?」


 聞くと、倭は黙った。


 数秒後。


「……帰れ」


「はい」


 車を降りる。


 扉を閉める前に、もう一度言う。


「本当に嫌じゃなかったですよ」


「もう言うな!」


 今度ははっきり声が大きくなった。


 珍しい。


「わかりました」


 扉を閉める。


 玄関へ向かう。


 少し歩いてから振り返ると、倭はまだ車を出していなかった。


 運転席で、片手で顔を覆っている。


 何をそんなに気にしているのかは、やっぱりよくわからない。


 ただ。


 明日の朝にはたぶん、またいつもの顔に戻っている。


 7時5分になれば、『着いた』とだけ送ってくる。


 そしてわたしも、いつも通り助手席へ乗る。


 今日みたいなことが起きなければ、身体へ触れることもない。


 それでいい。


 倭が気にするなら、わたしは嫌かどうかをちゃんと言えばいい。


 嫌ではなかった。


 今日は、それだけだった。

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