第27話「嫌じゃなかったです」
その日の力環では、予定していた検査が中止になった。
肩を軽く捻っていたので、念のため能力を使う作業は避け、前回までの記録整理だけをすることになった。痛みはほとんどなく、腕も普通に動く。医務室で冷やしてもらったせいか、帰る頃には違和感もかなり薄くなっていた。
いつもの時間より30分ほど早く研究棟を出る。
倭には事前に連絡していた。
『終わりました』
送ると、すぐ返事が来た。
『駐車場』
短い。
いつも通りだった。
建物を出て駐車場へ向かうと、倭の車はすぐ見つかった。運転席ではなく、今日は車の外に立っている。
わたしを見つけると、まず肩へ視線が向いた。
「どうだった」
「大丈夫です。軽く捻っただけ」
「痛み」
「今はほとんどないです」
「腕上がる?」
「上がります」
実際に少し動かして見せる。
倭はそれを見て、ようやく小さく息を吐いた。
「ならいい」
助手席へ乗る。
倭も運転席へ戻った。
エンジンをかける。
けれど、すぐには車を出さなかった。
「倭さん」
「何」
「帰らないんですか」
「帰る」
そう言いながら動かない。
ハンドルの上に置かれた指が、一度開いて閉じる。
何か言いたいときの癖だということは、もうわかってきた。
「さっき、あとで話すって言いましたよね」
「……覚えてたの」
「言われたので」
「忘れていいのに」
「じゃあ言わなければよかったのでは」
「うるせえな」
少しだけ機嫌が悪そうな声だった。
でも、本当に怒っているわけではない。
倭は前を見たまましばらく黙り、それからやっと口を開いた。
「さっきのこと」
「事故?」
「そう」
「何ですか」
「……悪かった」
何を謝られているのかわからなかった。
「何がですか」
「触った」
「はい」
「急だったし」
「事故なので」
「それでも」
倭が少し眉を寄せる。
「勝手に抱えた」
そこだった。
「避けるためですよね」
「そうだけど」
「なら仕方ないのでは」
「仕方ないで終わらせる話じゃねえだろ」
わたしには、そこまで大きな話には思えなかった。
金属板が飛んできた。
倭が危険だと判断した。
身体を引かれて、抱え込まれた。
それで終わった。
「仕事で必要だったんですよね」
「必要だった」
「じゃあ、別に」
「別にじゃねえ」
倭の声が少し強くなる。
「必要でも、嫌なもんは嫌だろ」
そこで少し考える。
なるほど。
必要だったかどうかと、嫌だったかどうかは別だと言いたいらしい。
それは確かにそうだった。
「じゃあ、嫌じゃなかったです」
倭が止まった。
本当に、完全に。
「……は?」
「嫌じゃなかったです」
「聞こえた」
「じゃあ何ですか」
「いや」
倭が前を向く。
耳が赤い。
「何で二回言うんだよ」
「聞き返したから」
「聞き返してねえ」
「『は?』って」
「そういう意味じゃねえ」
よくわからない。
「でも、嫌じゃなかったので」
「もういい」
「謝らなくて大丈夫です」
「わかったから」
明らかに動揺している。
事故のときよりわかりやすい。
「倭さん」
「何」
「どうしてそんなに困ってるんですか」
「困ってねえ」
「耳赤いです」
「見るなって前も言っただろ」
「見えるので」
「前向け」
「助手席なので横も見えます」
「屁理屈」
やっと車が動き出した。
駐車場を出る。
倭はいつもより少しだけ背筋が硬い。
運転は普通だった。
速度も。
周囲の確認も。
ただ、妙にこちらを見ない。
「事故のときは仕方なかったと思います」
少ししてから、もう一度言う。
「もうその話終わり」
「倭さんが気にしてたから」
「気にしてねえ」
「謝ったでしょう」
「謝ったら終わりだろ」
「わたしも嫌じゃなかったって言ったので、終わりですね」
「……そうだよ」
返事まで少し遅かった。
窓の外を見る。
夕方の道は混んでいる。
車はゆっくり進む。
しばらく何も話さなかった。
沈黙自体はいつものことなので、気まずくはない。
ただ、今日の倭は少し違う。
普段なら信号待ちのときにこちらを見ることもあるのに、今日は前ばかり見ている。
「倭さん」
「今度は何」
「もしかして、触ること自体が苦手なんですか」
「は?」
「だからそんなに気にしてるのかと」
「……別に苦手じゃねえ」
「じゃあ、わたしが嫌だったかもしれないのが気になった?」
今度は返事がない。
たぶん合っている。
「最初に言いましたよね」
「何を」
「嫌なことがあったら言えって」
「言った」
「なら、嫌だったら言います」
「事故の最中に言えるわけねえだろ」
「終わってからでも」
「……」
「今も言ってないので、大丈夫です」
倭は少し黙ってから、低く答えた。
「わかった」
さっきよりは落ち着いた声だった。
「じゃあ次から気にしなくていいですよ」
「それは違う」
「違うんですか」
「次も確認はする」
「毎回?」
「触る必要あるなら」
「事故の最中でも?」
「余裕なきゃしねえ。でも余裕あるなら聞く」
かなり律儀だと思う。
「倭さん、そういうところ細かいですね」
「細かくねえよ」
「細かいです」
「嫌がられんのが面倒なだけ」
「面倒?」
「嫌だったのに黙られて、あとからずっと我慢されんのが一番困る」
そこまで言って、倭は少し顔をしかめた。
言いすぎたと思ったのかもしれない。
「だから、嫌なら言え」
「はい」
「我慢すんな」
「してません」
「今の話じゃなくて今後」
「わかってます」
「……ならいい」
会話が切れる。
でも、少ししてから気になった。
「倭さんは?」
「何」
「嫌なこと、言います?」
今度は倭がこちらを見る。
「何の話」
「わたしには嫌なら言えって言うけど、倭さんは言うのかなって」
「言うだろ」
「本当に?」
「なんで疑うんだよ」
「我慢しそうなので」
倭の眉が動いた。
「どこ見てそう思った」
「仕事だからって、だいたい何でも受け入れるでしょう」
「仕事と嫌なことは別」
「それ、今わたしに言ってたのと同じですね」
「……そうだけど」
「じゃあ倭さんも言ってください」
「何を」
「嫌なこと」
倭がまた黙った。
信号で止まる。
指がハンドルの上で動く。
「例えば?」
「わかりません」
「適当だな」
「でも、わたしだけ言うのは変なので」
少し考えてから続ける。
「わたしが何かして、倭さんが嫌だったら言ってください」
倭はしばらく答えなかった。
「……ああ」
やっとそれだけ言う。
「約束?」
「そこまで大げさじゃねえだろ」
「じゃあ覚えておいてください」
「覚えとく」
信号が青になる。
車が進む。
それで本当に話は終わったと思った。
しばらくして、倭が突然言う。
「なぎ」
「はい」
「さっきの」
「何ですか」
「嫌じゃなかったってやつ」
「はい」
「……どういう意味」
今度はこちらが少し考える。
「そのままです」
「そのままって」
「倭さんに抱えられたことが嫌じゃなかった」
「言い方」
「何が?」
「もういい」
また耳が赤くなった。
「何で聞いたんですか」
「聞いたあたしが悪かった」
「そうですか」
「忘れろ」
「無理だと思います」
「頼むから忘れろ」
珍しく頼まれた。
少し面白い。
「努力します」
「絶対しねえ言い方じゃん」
「夜也さんにもよく言います」
「またあいつかよ」
今度はわかりやすく嫌そうな顔になった。
「何で毎回出てくんだよ」
「よく話すので」
「聞いてねえ」
「倭さんが聞いたでしょう」
「今は聞いてねえ」
少しだけ、いつもの調子に戻った。
水守家まであと10分ほど。
倭は前を向きながら運転している。
わたしは窓の外を見る。
今日の事故を思い返す。
怖かった。
金属板が飛んできた瞬間も。
急に腕を引かれたことも。
何が起きているかわからなかったことも。
でも、倭の腕の中に入ったあと、別の怖さはなかった。
あの人が外側にいる。
自分より先に危険のほうを向いている。
それはわかっていた。
だから、嫌ではなかった。
それ以上でも、それ以下でもない。
今のところは。
車が水守家の門を通る。
玄関前へ停まる。
シートベルトを外す。
「今日はありがとうございました」
「何回言うんだよ」
「送迎も含めて」
「ああ」
扉を開ける。
「なぎ」
また呼ばれる。
振り返る。
「明日、肩痛かったら学校休め」
「そこまでではないです」
「朝また聞く」
「はい」
倭は一度こちらを見て、それから少し視線を逸らした。
「あと」
「まだあります?」
「……今日は、その」
珍しく言葉に詰まる。
「何ですか」
「いや。やっぱいい」
「気になります」
「いいって」
「さっきもそう言って、あとで話したでしょう」
「今日はもういい」
「じゃあ明日聞きます」
「聞くな」
少しだけ笑う。
倭がこちらを見る。
「何笑ってんの」
「倭さん、今日は変なので」
「誰のせいだよ」
「わたし?」
聞くと、倭は黙った。
数秒後。
「……帰れ」
「はい」
車を降りる。
扉を閉める前に、もう一度言う。
「本当に嫌じゃなかったですよ」
「もう言うな!」
今度ははっきり声が大きくなった。
珍しい。
「わかりました」
扉を閉める。
玄関へ向かう。
少し歩いてから振り返ると、倭はまだ車を出していなかった。
運転席で、片手で顔を覆っている。
何をそんなに気にしているのかは、やっぱりよくわからない。
ただ。
明日の朝にはたぶん、またいつもの顔に戻っている。
7時5分になれば、『着いた』とだけ送ってくる。
そしてわたしも、いつも通り助手席へ乗る。
今日みたいなことが起きなければ、身体へ触れることもない。
それでいい。
倭が気にするなら、わたしは嫌かどうかをちゃんと言えばいい。
嫌ではなかった。
今日は、それだけだった。




