第26話「頭、下げろ」
倭に送迎してもらう生活が始まってから、二週間ほど経った。
朝になれば七時五分に連絡が来て、放課後には校門の近くへ赤い髪を探す。それがもう特別な予定ではなく、一日の流れに入っている。
倭も、最初の頃ほど毎回こちらの予定を確認しなくなった。力環へ行く曜日も、学校が終わる時間もだいたい覚えたらしい。
今日は力環の日だった。
ホームルームを終えて校門へ向かうと、倭はいつもの場所にいた。壁際に立ち、スマートフォンを見ながら待っている。わたしに気づくと画面を消し、腕時計へ一度目を落とした。
「今日は普通」
「何がですか」
「時間」
「毎回採点しないでください」
「別に採点してねえ」
そう言いながら、倭は先に歩き出す。
学校ではすっかり有名になった赤い髪を目で追っている生徒が何人かいたが、本人はもう気にもしていなかった。
「今日、検査?」
車へ向かう途中で聞かれる。
「少しだけ。あとは記録作業です」
「何時まで」
「6時半予定」
「腕痺れるやつ?」
「今日は低出力なので、たぶん大丈夫です」
「たぶん多いな、あんた」
「検査なので絶対は言えないでしょう」
「終わったら聞くから」
「はい」
駐車場までは少し歩く。
学校の正門前は車の出入りが多いので、最近は少し離れた場所へ停めるようになっていた。倭が決めたことで、本人によれば「こっちのほうが周り見やすい」らしい。
大通りから一本入った道を歩く。
夕方前で、人通りはそれなりにある。
道路の向かいでは、小さな店舗の改装作業をしていた。
資材を運んでいる人たちの中に遺能者がいるらしく、重そうな板材や箱が、人の手から少し離れた位置を浮いたまま移動している。
珍しい光景ではない。
遺能が日常の中にある以上、仕事で使われているところもよく見る。
「便利ですね」
何となく言う。
倭が視線だけを向けた。
「何が」
「あれ」
浮いている資材を指す。
「ああ」
「倭さんの線も、ああいう仕事に使えるんですか」
「使おうと思えば」
「荷物運べる?」
「小せえのなら。でもあたしのは運搬向きじゃねえ」
「じゃあ何向き?」
「引っかける。縛る。止める。探る」
「護衛向き」
「そう言われて雇われてる」
ちょうどそのとき、向かい側から大きな音がした。
金属同士がぶつかるような、耳に刺さる音。
反射的にそちらを見る。
浮いていた板材の一枚が傾いていた。
作業員が何か叫ぶ。
次の瞬間、空中にあった資材が一斉に揺れた。
「――っ」
誰かの遺能が乱れたのだと理解するより早かった。
一枚の薄い金属板が、こちらへ飛んだ。
回転しながら。
速い。
避けなければ、と思った。
でも身体はまだ動いていなかった。
「頭、下げろ!」
倭の声が飛ぶ。
同時に、強く腕を引かれた。
視界が急に低くなる。
肩へ何かが回り、頭ごと押さえ込まれた。身体が倭のほうへ引き寄せられ、次の瞬間には目の前が黒い上着で塞がれていた。
何が起きたのかわからないまま、背中へ大きな手が回る。
倭がわたしを抱え込んでいる。
自分の身体を外側にして。
金属が飛んできた方向へ背を向けて。
耳元で、何かが鋭く張る音がした。
直後。
ガン、と大きな音が響く。
倭の身体がわずかに揺れた。
「倭さん」
「動くな」
低い声。
普段よりさらに短い。
顔を上げようとすると、後頭部へ置かれた手に軽く押さえられた。
「まだ」
言われたので、そのままにする。
倭の胸元へ顔が近い。
服越しでも、呼吸が少し速くなっているのがわかった。
もう一度、遠くで何かが落ちる音がする。
「すみません!」
道路の向こうから声が飛んでくる。
「制御切れました! もう止めました!」
倭はすぐにはわたしを離さなかった。
周囲を見るように顔を動かし、数秒待つ。
それからようやく、背中へ回っていた腕が緩んだ。
「……もういい」
離れる。
急に視界が広くなる。
倭の後ろを見る。
さっき飛んできた金属板は、歩道脇の柵へ引っかかっていた。
よく見ると、その周りに細いものが張っている。
糸。
ではない。
光の加減で辛うじて見えるほど細い線が、金属板を何重にも絡め取っていた。
「線?」
「最後に止めた」
「じゃあ、当たってない?」
「当たってねえ」
倭はそう答えると、すぐこちらへ向き直った。
「怪我」
「ないと思います」
「思いますじゃなくて見せろ」
「どこを?」
「頭。顔。腕」
倭の手が伸びかける。
でも途中で止まった。
一瞬だけ。
それから手を引く。
「……自分で確認して」
「はい」
少し変だった。
とりあえず頭へ手をやる。
痛いところはない。
顔も。
腕も。
さっき急に引かれた肩だけ少し違和感があるけれど、怪我というほどではなさそうだった。
「大丈夫です」
「肩」
「何でわかったんですか」
「引いたとき変な向きなった」
動かしてみる。
「少し痛いかも」
倭の眉間の皺が深くなった。
「見せろ」
今度は反射的に言ってから、また手が止まる。
わたしを見る。
「……触っていい?」
事故の直後なのに、そこだけ確認する。
「はい」
答えると、倭はようやく肩へ手を置いた。
上から軽く押す。
「ここ」
「大丈夫」
「こっち」
「少しだけ」
「腕上がる?」
言われた通りに動かす。
普通に上がった。
「たぶん、引かれたときにびっくりしただけです」
「一応あとで見てもらえ」
「力環で?」
「医務あるだろ」
「あります」
「行け」
「わかりました」
短く答えると、倭はようやく少し息を吐いた。
道路の向こうから、作業員が何人か走ってくる。
「本当に申し訳ありません、大丈夫ですか?」
「怪我は?」
倭がわたしへ聞くのと同じくらい低い声で聞く。
「こちらはありません。能力者本人も問題ありません」
「安全装置は」
「作動が遅れました。すぐ責任者に報告します」
「飛んだ方向見た?」
「はい。本当にすみません」
倭は怒鳴らなかった。
相手へ詰め寄ることもしない。
ただ、必要なことだけを順番に確認する。
誰が能力を使っていたのか。
何が原因だったのか。
ほかに飛来物がないか。
再発する状態ではないか。
警察や力環への報告が必要か。
さっきまでわたしを抱え込んでいた人とは思えないくらい、声は落ち着いていた。
でも、右手の指だけが何度か開いて、閉じていた。
知っている癖。
倭が緊張しているときに出る。
「倭さん」
「今話してる」
「はい」
怒られた。
少し待つ。
作業員との確認が終わり、事故についてはこちらでも記録を残すことになった。
倭は地面へ落ちた金属板を一度見てから、わたしを車のある方向へ促した。
「行くぞ」
「はい」
歩き出す。
さっきまでと違って、倭はわたしの少し前を歩いていた。
道路側。
いつもより距離が近い。
でも、身体には触れない。
「倭さん」
「何」
「さっき、ありがとうございます」
「仕事」
「でも」
「仕事だから」
言い方が少し強い。
それ以上言わないほうがいい気がして、黙る。
車へ着く。
倭が助手席の周囲を確認してから扉を開けた。
「乗って」
「はい」
座る。
シートベルトを締める。
倭は運転席へ回ったが、すぐにはエンジンをかけなかった。
両手をハンドルへ置き、そのまま数秒じっとしている。
「倭さん?」
「……怖かった?」
前を向いたまま聞かれた。
「少し」
「そ」
「倭さんは?」
返事がない。
「怖くなかったんですか」
「仕事中にそんなこと考えてる暇ねえよ」
「今は?」
倭がこちらを見る。
少し嫌そうな顔。
「細けえな」
「気になるので」
「……当たんなくてよかったとは思ってる」
それだけ言ってエンジンをかけた。
車が動く。
しばらく、お互いに話さなかった。
さっきまでのことを思い返す。
飛んできた金属板。
倭の声。
頭、下げろ。
その直後、何も考える暇もなく引き寄せられた。
倭は線を使えた。
実際、最後には金属板を止めている。
でも最初にしたのは、それではなかった。
自分の身体でわたしを覆うことだった。
「倭さん」
「何」
「先に線使わなかったんですか」
「間に合わなかった」
「だから抱えた?」
「そう」
「自分に当たるかもしれなかったのに」
「だから何」
「危なくないですか」
倭が眉を寄せる。
「護衛が避けて依頼主に当ててどうすんだよ」
「でも倭さんも怪我したら」
「あたしのほうが丈夫」
「そういう問題?」
「そういう問題」
かなり強引な理屈だと思う。
「それに、あんた軽いから動かすほうが早かった」
「また体重の話」
「事実」
いつもの調子に少し戻っている。
それで安心した。
「でも」
「まだあんの?」
「倭さん、けっこう強く抱えましたよね」
車が一瞬だけ不自然に静かになった。
倭の指がハンドルの上で止まる。
「……事故だったから」
「わかってます」
「避けるため」
「はい」
「必要だった」
「だからわかってます」
「ならいいだろ」
何だろう。
急に説明が多い。
「怒ってませんけど」
「別に、怒ってると思ってねえ」
「じゃあ何ですか」
「何でもねえ」
耳が少し赤い。
でも、前にお菓子を半分渡したときとは違うように見える。
機嫌がいいわけではない。
むしろ困っている。
力環へ着くまで、倭は必要なことしか話さなかった。
駐車場へ車を停める。
わたしが降りようとすると、倭もすぐ外へ出た。
「今日は受付までじゃなくて医務まで行く」
「大丈夫ですよ」
「肩見る」
「倭さんが?」
「医者に」
「わかってます」
二人で建物へ入る。
受付で事情を説明すると、すぐ医務室へ案内された。
診てもらった結果、肩は軽く捻っただけだった。
「冷やせば大丈夫でしょう。痛みが増したらまた来てください」
「はい」
倭が横から聞く。
「運動は」
「今日は避けたほうがいいですね」
「明日は?」
「痛みがなければ日常生活は問題ないと思います」
「わかりました」
「倭さんが答えるんですね」
「聞いとく必要あるだろ」
検査の予定は念のため延期になった。
代わりに記録作業だけして、今日は早めに帰ることになった。
「迎え、いつも通り来る」
「はい」
研究棟へ向かう前に答える。
倭は少しだけこちらを見る。
何か言いたそうだった。
「何ですか」
「……いや」
「またそれ」
「あとでいい」
「何が?」
「あとで話す」
珍しい。
倭が自分から話を後へ回した。
「わかりました」
「じゃあ行ってこい」
「はい」
研究棟へ向かう。
数歩進んでから振り返る。
倭はまだそこにいた。
いつもなら、わたしが受付を通ればすぐ車へ戻るのに。
今日は、研究棟の入口へ入るまでこちらを見ていた。
赤い髪が遠くなる。
頭を下げろ。
さっきの声を思い出す。
怖かったのは、飛んできた金属板だけではなかった。
急に身体を引かれて、何が起きたのかわからなかったことも怖かった。
でも。
倭に抱え込まれたこと自体を嫌だったかと聞かれたら。
少し考える。
答えは、たぶん違う。
それを倭がどうして気にしているのかは、まだわからなかった。




