第25話「半分こ」
倭の車に乗るようになってから、放課後にコンビニへ寄ることが何度かあった。
毎日ではない。
お腹が空いた日や、翌日の飲み物を買いたい日だけだ。
最初は「寄りたい」とその都度言っていたけれど、最近では学校から家へ向かう途中、いつもの交差点を曲がる前に倭のほうから聞くこともある。
「今日、寄る?」
「今日は大丈夫です」
「ん」
それで終わる。
寄る日は寄る。
寄らない日はそのまま帰る。
それだけのことだった。
今日は力環の予定がなく、授業もいつも通りに終わった。
校門を出ると、少し離れた場所に倭が立っている。
学校ではもう珍しくなくなってきたのか、最初の頃ほど露骨に見られなくなった。ただ、赤い髪と身長のせいで目立つこと自体は変わらない。
「お疲れさまです」
「ん。今日遅かったな」
「先生に呼ばれてました」
「何かあった?」
「提出物の確認です」
「怒られた?」
「違います」
「ならいい」
倭はそれ以上聞かなかった。
助手席へ乗る。
鞄を足元へ置いて、シートベルトを締める。
「今日は?」
「何がですか」
「コンビニ」
少し考える。
「寄ります」
「了解」
車が動き出す。
いつものコンビニへ入ると、倭も当然のようについてきた。
以前は護衛だから店内まで来ているのだと思っていたけれど、最近は倭自身も飲み物くらいは買うようになった。
「今日何買うんですか」
「水」
「毎回水ですね」
「悪いかよ」
「別に」
「なぎは?」
「まだ決めてません」
「また棚の前で5分くらい悩む?」
「そんなに悩んでません」
「昨日3分半」
「測ってるんですか」
「暇だったから」
「怖いです」
「何がだよ」
倭はそう言いながら、少しだけ口元を緩めた。
最近、このくらいのやり取りは増えた。
最初の頃は、必要なこと以外ほとんど話さなかった。今でもよく喋る人ではないけれど、どうでもいいことへ一言返してくるくらいにはなっている。
お菓子の棚を見る。
今日は甘いものより、少し塩気があるものがよかった。
小さな焼き菓子の袋を一つ取る。中に二枚入っている。
「それ?」
横から倭が見る。
「はい」
「夕飯前」
「二枚だけです」
「全部食うの」
「たぶん」
「そ」
またそれだけ。
倭は水を一本取る。
わたしはお茶も買って、別々に会計を済ませた。
車へ戻る。
家まではまだ少しかかる。
倭が駐車場から出てしばらくしたところで、信号が赤になった。
お腹が空いた。
さっき買った袋を開ける。
「今食うの?」
「一枚だけ」
「昨日も似たようなこと言ってたな」
「昨日はおにぎりです」
「夕飯前って意味」
「大丈夫です」
袋の中には、丸い焼き菓子が二枚入っている。
一枚取る。
もう一枚残る。
何となく横を見る。
倭は前を見ている。
「倭さん」
「何」
「食べます?」
「何を」
「これ」
残っている一枚を見せる。
倭が一瞬だけこちらを見る。
「いらねえ」
「そうですか」
そのまま自分で食べようとする。
「いや」
すぐ呼び止められた。
「はい?」
「……待て」
手を止める。
倭は少しだけ眉を寄せたまま、こちらの持っている袋を見る。
「それ、二枚しか入ってねえだろ」
「そうですね」
「一枚あたしにやったら半分じゃん」
「半分ですね」
「いいの」
「何がですか」
「自分で食いたくて買ったんだろ」
「一枚食べれば十分かもしれないので」
「かもしれないって」
「足りなかったら家で夕食食べます」
「そういう話じゃねえ」
よくわからない。
「じゃあ、いらないですか」
もう一度聞く。
倭は黙った。
信号が青になる。
「今運転中だから置いといて」
「食べるんですか」
「……あとで」
「わかりました」
袋を閉じて、カップホルダーの横へ置いた。
倭の返事が少し変だった。
欲しいなら最初からもらえばいいし、いらないなら断ればいい。
そこまで迷うものではないと思う。
わたしは自分の一枚を食べる。
甘すぎなくて、少し塩気がある。
おいしい。
「これ、おいしいです」
「そ」
「倭さんも好きかも」
「なんで」
「甘すぎないので」
「甘いの苦手って言ったっけ」
「前に、甘いのそんなに食べないって」
倭がこちらを見る。
「覚えてたの」
「話したので」
「……そう」
また前を見る。
何となく、さっきより返事が短い。
機嫌が悪くなったのかと思ったけれど、横顔を見る限りそうでもなさそうだった。
むしろ少し困っているように見える。
「どうしました」
「何も」
「何かありますよね」
「ねえよ」
「あります」
「運転中」
「わかってます」
「じゃあ前見させろ」
「わたしは見てません」
「見てるだろ」
「横顔を」
「それを見てるっつーんだよ」
少し声が強くなった。
でも耳が赤い。
赤い髪のせいでわかりにくいけれど、近くで見るとわかる。
「暑いですか」
「違う」
「耳赤いですよ」
「見るな」
何なのだろう。
わからないので、もう聞かないことにした。
10分ほど走る。
途中、倭がいつもより少し遠回りの道を選んだ。
「こっち通るんですか」
「前混んでる」
「そうなんですね」
「この時間あそこ詰まるから」
信号を二つ抜け、少し静かな道へ入る。
そこで倭が車を路肩の駐車スペースへ停めた。
「何かありました?」
「ない」
エンジンは切らない。
倭がシートベルトを外すわけでもない。
ただ手を伸ばして、さっき置いた菓子の袋を取った。
「食べるんですね」
「悪い?」
「いえ」
袋を開ける。
中から一枚取り出す。
倭の手だと、菓子が少し小さく見えた。
「これ、そのまま食っていいの」
「どうぞ」
「……いただきます」
思ったより律儀に言う。
一口かじる。
少し噛む。
「どうですか」
「うまい」
「よかったです」
「甘くねえな」
「だから言ったでしょう」
「ん」
倭は残りも食べる。
それだけ。
でも、少しだけ表情が柔らかくなった気がした。
「そんなに好きでした?」
「何が」
「それ」
「普通」
わたしがよく使う言葉を、そのまま返された。
「真似しました?」
「してねえ」
「今の絶対わざとでしょう」
「知らね」
車を再び出す。
そこから倭は、少し機嫌がよかった。
わかりやすく笑うわけではない。
歌い始めるわけでもない。
ただ、普段より会話が切れない。
「明日、力環だっけ」
「はい」
「何時終わり」
「6時半くらいです」
「じゃあ迎え6時20分に行く」
「早くないですか」
「どうせ待つから」
「いつも早いですよね」
「遅れるよりいい」
「待つの嫌じゃないんですか」
「別に」
「1時間とかでも?」
「連絡ありゃ」
「何して待つんですか」
「スマホ見るか、寝るか」
「車で?」
「そう」
「暇そう」
「仕事中に忙しいほうが困る」
確かにそうだった。
「なぎ」
「はい」
「明日、検査何やんの」
「まだ詳しく聞いてません。低出力の比較だと思います」
「痛いやつじゃない?」
「たぶん」
「たぶんじゃわかんねえな」
「始める前に説明ありますよ」
「終わったら腕痺れてないか言え」
「言います」
「水も買っとく」
「自分で買えますよ」
「別に一本増やすだけ」
前なら、そこに「自分で払います」と返していたかもしれない。
でも、倭が買う水は、夜也が200円を返そうとしたときとは少し違う。
必要だと思って用意している。
それに、嫌なら次から買わないと最初に言われている。
「じゃあお願いします」
「ん」
倭の返事が、少しだけ満足そうだった。
またしばらく走る。
「倭さん」
「何」
「今日、機嫌いいですね」
車が少しだけ減速した。
「は?」
「さっきから」
「普通だけど」
「いつもより喋ってます」
「たまたま」
「お菓子おいしかったから?」
「子どもじゃねえんだから」
「18ですよね」
「3つしか変わんねえけど、あんたよりは上」
「でも、お菓子一枚で機嫌よくなるんですね」
「なってねえ」
否定が速い。
「なってます」
「なってねえって」
「じゃあ、さっきからどうして機嫌いいんですか」
倭は答えなかった。
信号で停まる。
ハンドルの上で指が一度開いて、また閉じる。
何度か見た癖だった。
「……ああいうの」
ぽつりと言う。
「何ですか」
「人が自分で買ったやつ、普通に分けてくんの」
少し間があった。
「慣れてねえだけ」
「そうなんですか」
「別に、欲しかったわけじゃねえよ」
「お菓子が?」
「そう」
「じゃあ何に戸惑ったんですか」
「細けえな、あんた」
「気になるので」
倭は前を向いたまま、しばらく黙っていた。
「自分の分減るのに、普通に渡すから」
「二枚ありましたし」
「半分だろ」
「はい」
「だから」
倭の言いたいことが、まだよくわからない。
「半分くらいなら普通では?」
「……そういうもん?」
「相手によると思いますけど」
「じゃあ何であたしにやった」
聞かれて、今度はわたしが考えた。
どうして。
隣にいたから。
二枚あったから。
倭は甘すぎるものが好きではないと言っていたし、これはたぶん食べられると思った。
それ以上の理由はない。
「倭さんなら食べるかなと思ったので」
「それだけ?」
「はい」
倭が黙る。
「何か変ですか」
「……いや」
信号が青になる。
車が進む。
「変じゃねえ」
さっきまでより低い声だった。
でも、不機嫌ではなかった。
むしろ逆に聞こえた。
水守家へ着く頃には、外は少し暗くなっていた。
門を通り、玄関前へ車が停まる。
シートベルトを外す。
「ありがとうございました」
「ん。明日7時5分」
「はい」
鞄を持って扉を開けようとする。
「なぎ」
呼ばれて振り返る。
「何ですか」
倭は少しだけ迷ったあと、前を向いたまま言った。
「さっきの、ありがと」
「お菓子?」
「それ以外ねえだろ」
「どういたしまして」
それだけでいいと思った。
車を降りる。
玄関へ向かって数歩進んだところで、後ろから窓が開く音がした。
「なぎ」
もう一度呼ばれる。
「はい?」
「明日、なんか食いたいもんあったら寄るから」
「コンビニ?」
「どこでも」
「どうして?」
「別に」
今度の「別に」は、本当に説明するつもりがないらしい。
「わかりました」
「じゃあな」
「また明日」
倭が一瞬止まった。
「……おう。また明日」
車がゆっくり動き出す。
赤い髪が窓の向こうへ遠ざかる。
家へ入りながら、少し考える。
わたしにとっては、二枚あったうちの一枚を渡しただけだった。
倭がどうしてあんなに戸惑ったのかは、まだよくわからない。
でも、嫌ではなかったらしい。
むしろ、そのあとの倭は少しだけ話が多かった。
それなら次に二枚あったときも、たぶん同じように聞くと思う。
食べますか、と。
それくらいのことだった。
翌朝。
7時5分ちょうどに通知が来た。
『着いた』
いつもと同じ。
その下に、もう一通だけ続いていた。
『昨日の菓子 どこのやつ』
少しだけ笑う。
商品名を送ってから、鞄を持った。




