第22話「あんたが依頼主?」
翌朝、家を出る5分前にスマートフォンが震えた。
『着いた』
天喰倭からだった。
時計を見る。7時5分。
昨日言っていた通り、本当に5分前に来ている。
『今出ます』
返してから鞄を持ち、玄関へ向かった。
「なぎ、本当に気をつけてね」
見送りに出てきた母が、昨日より少し心配そうに言う。
「学校に行くだけですよ」
「わかってるけれど、今日から違う人の車でしょう?」
「嫌だったら言えって言われました」
「そうなの?」
「はい」
それを聞いて、母は少し安心したようだった。
玄関を出る。
昨日と同じ車が、屋敷の前に停まっていた。
運転席には倭がいる。
わたしが近づくと扉が開き、赤い髪が現れた。昨日より簡素な格好で、黒い上着の下に動きやすそうな服を着ている。学校へ送るだけとはいえ、護衛として来ていることはわかる。
「おはようございます」
「おはよ」
低い声。
それだけだった。
夜也なら、ここから少なくとも三つくらい話題が続く。
よく寝たか。
朝は食べたか。
制服がどうとか。
今日の予定がどうとか。
倭は何も言わない。
車の後部座席を開けようとしたら、倭が眉を寄せた。
「前」
「前?」
「助手席」
「後ろじゃないんですか」
「あたし一人で運転すんのに、後ろ乗られると位置取りづらい」
言われて助手席を見る。
「護衛って後ろに乗せるものかと思ってました」
「誰に聞いた」
「別に。なんとなく」
「運転手が別ならな」
倭は助手席の扉を開けた。
「嫌なら後ろでもいいけど」
「前でいいです」
「じゃ乗って」
乗り込む。
昨日外から見たときにも思ったけれど、車内にはほとんど余計なものがなかった。
飾りもない。
香りも強くない。
ダッシュボードには必要そうな機器だけがあり、飲み物のボトルが一本置いてある。
倭が運転席へ戻る。
「ベルト」
「してます」
「ん」
エンジンがかかる。
発進する前に、倭は周囲を一度確認した。
門。
道路。
バックミラー。
サイドミラー。
それからようやく車を動かす。
水守家の車に乗っているときとは少し違った。
運転そのものは滑らかだけれど、倭はずっと周りを見ている。
前の車だけではない。
横道。
歩道。
後ろ。
信号待ちのときにも、視線が細かく動く。
「毎回そんなに見るんですか」
「何が」
「周り」
「仕事だから」
「疲れそうですね」
「慣れてる」
また会話が終わった。
車内が静かになる。
別に気まずくはない。
むしろ、朝からずっと話しかけられるより楽だった。
しばらくして大きな通りへ出ると、倭が前を見たまま聞いた。
「学校、普段どこから入る」
「正門です」
「裏門は」
「使ったことないです」
「迎えも正門?」
「はい」
「人多いな」
「放課後は多いです」
「力環の日はそのまま行く?」
「学校から直接」
「荷物増える?」
「たぶん普段と同じです」
「終わる時間は毎回同じ?」
「検査によりますけど、予定は先にわかります」
「なら前日に送れ」
「予定を?」
「時間と場所」
「わかりました」
必要なことだけはよく聞く。
昨日からそうだった。
好きなものも、趣味も、学校が楽しいかも聞かない。
聞くのは、どこにいて、何時に終わって、どう動くか。
護衛として必要なことだけ。
「倭さん」
「ん」
「わたしのこと、何か聞いてます?」
「何かって」
「性格とか」
「聞いてねえ」
「家からも?」
「能力と通学先と生活動線。あと身体情報ちょっと」
「昨日聞かれたやつ」
「確認しただけ」
「じゃあ、本当に知らないんですね」
倭が一度だけこちらを見る。
「昨日言っただろ。まだ知らねえって」
「はい」
「知らねえ相手に知ってるふりするほうが変だろ」
その言い方はぶっきらぼうだった。
でも、嫌ではなかった。
夜也は初対面の頃から、わたしを面白いと言った。
九十九は、元のなぎと今のわたしの違いを見ていた。
倭は違う。
本当に何も知らない。
だから今のところ、わたしを特別扱いもしない。
「水守の娘だから嫌なのかと思ってました」
言うと、倭の手がハンドルの上で少し止まった。
「そこ昨日も聞いたな」
「気になったので」
「家は嫌い」
「わたしも含めて?」
「だから、それ決めんのはこれから」
倭は少し苛立ったように息を吐く。
「つーか」
「はい」
「そこ、最初に確認しときたかった」
「何を?」
信号が赤になる。
車が止まった。
倭がこちらを向く。
「あんたが依頼主?」
意味がよくわからなかった。
「水守家が雇ったんですよね」
「金出すのは水守家」
「なら、依頼主も水守家では」
「契約書上はな」
倭はハンドルに片腕を置いたまま、少し眉を寄せる。
「あたしが聞いてんのは、誰の意思を優先すんのかって話」
少しだけ空気が変わった。
「父から何か言われたんですか」
「危険があると判断したら、予定変更してでも連れ帰れ。必要なら本人の希望より安全優先」
「……そうなんですね」
「知らなかった?」
「そこまでは」
護衛をつけるとは聞いた。
通学と力環への移動を守るとも。
でも、わたしが行きたいと言っても、倭の判断で予定を変えられることまでは聞いていなかった。
「それで、倭さんは嫌なんですか」
「嫌っつーか」
信号が青になる。
倭は前へ向き直り、車を走らせた。
「あたしは、守る相手が嫌がってんのに家の命令だけ聞いて引きずって帰る仕事はしたくねえ」
声は低いままだった。
強く言ったわけでもない。
それでも、その言葉には妙に重さがあった。
「じゃあ危ないときは?」
「危なかったら逃がす」
「わたしが残りたいって言っても?」
「状況による」
「それだと結局、倭さんが決めるのでは」
「決めるときもある」
そこは否定しなかった。
「目の前から攻撃飛んできてんのに相談してる暇ないだろ。そのときはあたしが決める。でも、あとから家に怒られそうだからとか、面倒だからとか、そういう理由であんたの予定変える気はねえ」
なるほど。
全部わたしに決めさせるわけではない。
護衛として判断するところは判断する。
ただ、水守家の都合をそのまま安全という言葉へ置き換えるつもりもないらしい。
「だから聞いてる」
「わたしが依頼主か」
「そう」
「違うって言ったら?」
「契約終わったら断るかもな」
「そんなに」
「そこ大事だから」
倭の言葉は短い。
でも、そこだけはかなりはっきりしていた。
少し考える。
父が契約した。
報酬も家が払う。
わたし自身は、護衛をつけてほしいと頼んだわけではない。
それでも、実際に毎日一緒に動くのはわたしだ。
「じゃあ、わたしでいいです」
「何が」
「依頼主」
「家に言われたからじゃなく?」
「倭さんが必要だと思ったら、危ないときは止めてください。でも、わたしが何かしたいって言ったら、最初から駄目とは言わないでほしいです」
倭が黙る。
「例えば?」
「力環に行きたいのに、家が今日はやめろって言ったとか」
「理由は聞く」
「わたしにも?」
「両方に」
「それで?」
「危険が具体的なら行かせねえ。家がなんとなく心配ってだけなら、あんたが行きたいなら連れてく」
「怒られますよ」
「雇われた時点で多少は覚悟してる」
「水守家から仕事もらったのに」
「だからって何でも言うこと聞く契約じゃねえよ」
その辺りは、かなり頑固らしい。
「わかりました」
「じゃあ、あんたが依頼主でいいんだな」
「はい」
「なら一個」
「何ですか」
「嫌なことあったら、家通さずあたしに言え」
倭は前を見たまま続けた。
「運転嫌。距離近い。話しかけんな。逆に黙ってんの嫌。車変えろ。迎え来んな。何でもいい」
「そんなに言っていいんですか」
「言われねえほうが困る」
「どうして?」
「嫌がってることわかんねえまま毎日やることになるから」
少し夜也を思い出した。
嫌なら言って。
最近、何度もそう言われる。
でも夜也と倭では、ずいぶん意味が違って聞こえた。
夜也は近づきたいから、その限界を知りたがる。
倭は、必要以上に近づかないために聞いているようだった。
「じゃあ一個あります」
「何」
「まだないです」
「……は?」
「嫌なことができたら言います」
倭が一瞬こちらを見る。
「紛らわしいな」
「すみません」
「別に」
少しだけ、口元が動いた気がした。
笑ったわけではなさそうだった。
学校が近づく。
見慣れた建物が窓の向こうに見える。
「どこで降ろす」
「いつもの場所で」
「正門前?」
「はい」
「目立つぞ」
「この車なら、水守家の車よりは目立たないと思います」
「車じゃなくて」
「何ですか」
「あたし」
倭が自分を指す。
確かに。
赤い髪。
179cm。
鍛えた身体。
顔つきも柔らかくはない。
学校前に立っていれば、かなり目立つと思う。
「降りなければいいのでは」
「あんたが校内入るまでは見る」
「車から?」
「今日は」
「今日は?」
「帰りの人の流れ見たいから、たぶん降りる」
嫌な予感がする。
「学校の前で待つんですか」
「それが仕事」
「目立ちますよ」
「知らねえ」
「気にしないんですね」
「気にして護衛できるか」
夜也とは違う理由で、目立つことを気にしない人だった。
車が正門近くで停まる。
まだ登校時間には少し余裕があるけれど、生徒はそれなりにいる。
倭はすぐにはドアロックを解除しなかった。
「何ですか」
「帰り」
「はい」
「3時40分」
「くらいです」
「終わったら連絡」
「昨日聞きました」
「確認」
「わかりました」
「勝手に別の出口から帰んな」
「しません」
「友達と寄り道するときも連絡」
「はい」
「あと知らねえやつの車乗るな」
「子どもみたいなこと言いますね」
「15だろ」
「高校生です」
「15は15」
3歳しか違わないのに。
「倭さんも18でしょう」
「だから何」
「そんなに大人ではないですよね」
倭が黙った。
「……あんた、けっこう言うな」
「そうですか」
「もっとお嬢様みてえなの想像してた」
「どんな」
「知らねえけど。家の言うこと何でも聞いて、荷物持てとかドア開けろとか言うやつ」
「偏見ですね」
「水守への?」
「たぶん」
「そうだよ」
あっさり認めた。
そこまで正直だと、かえって腹も立たない。
「じゃあ、少し違いました?」
「まだ一日目」
「昨日も会ってます」
「送迎一日目」
「細かいですね」
「仕事だからな」
ようやくロックが外れる。
扉へ手をかける。
「じゃあ行ってきます」
「ん」
降りようとして、後ろから呼ばれた。
「なぎ」
初めて名前だけで呼ばれた。
振り返る。
倭本人も一瞬気づいたような顔をしたが、言い直さなかった。
「何ですか」
「なんかあったら先に連絡しろ。家よりあたしに」
「学校の中でも?」
「校内で済むことなら先生。外出るならあたし」
「わかりました」
「じゃ、行け」
「はい」
車を降りる。
門へ向かいながら振り返ると、倭はまだ車を出していなかった。
こちらを見ている。
わたしが校門を通ると、そこでようやく車が動いた。
教室へ着く。
席へ鞄を置くと、近くの子が寄ってきた。
「水守さん、今日の車いつもと違わなかった?」
「違います」
「誰か乗ってた?」
「護衛の人」
「護衛?」
予想通り、声が大きくなった。
「何それ」
「そのままです」
「ボディガードってこと?」
「そうみたいです」
「すご。どんな人?」
少し考える。
「赤いです」
「色?」
「髪が」
「それだけ?」
「大きいです」
「またそこ?」
昨日、夜也にも似た反応をされた気がする。
「怖い?」
「顔は」
「顔は怖いんだ」
「愛想もないです」
「じゃあ怖いじゃん」
「でも、話は通じます」
言ってから、自分でも少し変な評価だと思った。
倭は優しくない。
笑わない。
わたしが水守だからといって、好意的に接するつもりもない。
それどころか、水守家に対しては最初からかなり警戒している。
でも、わたしが何を嫌がるのかは聞く。
誰が金を払っているかより、誰を守るのかを気にする。
愛想がないことと、こちらを見ていないことは別らしい。
机の中へ教科書を入れたところで、スマートフォンが震えた。
倭かと思った。
夜也だった。
『着いた?』
また聞かれている。
『学校です』
『護衛どう?』
『普通です』
『また普通』
少しして、
『なんて呼ばれた?』
質問の意味がわからない。
『何がですか』
『倭になんて呼ばれた?』
朝のことを思い出す。
最初は、あんた。
最後に一度だけ。
『なぎ』
送る。
しばらく既読だけついて、返事が来なかった。
珍しい。
少しして、
『へえ』
それだけ。
『何ですか』
『別に』
明らかに別にではない気がする。
そのあと、倭からも通知が来た。
『15:40 正門』
確認だけ。
『はい』
既読。
終了。
画面には、二人の名前が並んでいる。
片方は朝から何通も送ってくる。
もう片方は必要なことしか送ってこない。
まったく違う。
今日からしばらく、放課後になるたびに赤い髪の女が校門の前にいることになる。
たぶん、話すことも増える。
でも今はまだ、倭はわたしを知らない。
わたしも倭を知らない。
依頼主と護衛。
それだけだった。
ただ一つわかったのは、倭が水守家を警戒していることと、その警戒の中に、わたしまで最初からまとめて入れるつもりはないらしいということだった。




