第19話「200円の攻防」
コンビニを出てから10分ほど経った頃、隣に座る夜也が妙にこちらを見ていることに気づいた。
正確には、わたしではない。
膝の上に置いたコンビニの袋を見ている。
「何ですか」
「別に」
「さっきから見てますけど」
「見てるだけ」
そう言いながら、夜也の視線が今度は袋から少しはみ出しているレシートへ移った。
何となく嫌な予感がする。
レシートを袋の中へ押し込もうとすると、夜也が「あ」と声を上げた。
「ちょっと待って」
「嫌です」
「まだ何も言ってないじゃん」
「言いそうなので」
「なにを?」
「払うとか」
夜也が黙った。
図星らしい。
「やっぱり」
「いや、だって」
「さっき終わったでしょう」
「終わってないよ」
「会計しました」
「なぎが勝手に先に払っただけじゃん」
「自分の商品を自分で払ったんです」
「だから、それをぼくが払いたかったの」
また始まった。
車内は静かだった。前の席では運転手が何も聞こえていないような顔で運転しているけれど、絶対に聞こえていると思う。
「何でそんなに払いたいんですか」
「なぎ迎えに来て、一緒に寄ったんだから」
「迎えに来てもらった側が払ってもらうんですか」
「普通そうじゃない?」
「知りません」
「高校生に払わせるほうが変じゃない?」
「自分のお菓子です」
「200円くらいでしょ」
その言葉で、少し引っかかった。
「200円くらい」
「うん」
「じゃあ別にいいじゃないですか」
「だからぼくが払うって」
「逆です。200円くらいなら、わたしが払ってもいいでしょう」
夜也が少し考え込んだ。
どうやら今までの人生で、この理屈を向けられることがあまりなかったらしい。
「でも、ぼくにとって200円って本当に気にする額じゃないよ」
「わたしにとっても、払えない額じゃないです」
「そこじゃなくて」
「じゃあどこですか」
夜也は腕を組んだ。
「ぼくが払いたいかどうか」
「わたしも自分で払いたいです」
「平行線だね」
「そうですね」
そこで諦めればいいのに、夜也は諦めなかった。
「レシート見せて」
「何で」
「いくらだったか確認する」
「必要ないです」
「気になる」
「夜也さんが買ったものじゃないので」
「一個も見せてくれないの?」
「嫌です」
「そこまで?」
「今見せたら絶対何かするでしょう」
夜也が笑う。
「なぎ、ぼくのことわかってきたね」
「嬉しそうにしないでください」
レシートを鞄へ入れる。
これでもう見られない。
そう思ったのに、夜也はまだこちらを見ていた。
「じゃあ、いくらだった?」
「言いません」
「400円くらいってさっき言ってたよね」
「それくらいです」
「飲み物が百何十円で、お菓子が200円くらい?」
「計算しないでください」
「じゃあ、お菓子だけぼくが払う」
「何で折衷案みたいになってるんですか」
「全部駄目って言うから」
「半分ならいいとは言ってません」
夜也はまた黙った。
数秒後、前の席へ顔を向ける。
「ねえ」
「はい」
運転手が返事をした。
「200円持ってる?」
思わず夜也を見る。
「ちょっと」
「ございますが」
「貸して」
「夜也さん」
運転手が一瞬だけバックミラー越しにこちらを見る。
困っている。
当然だと思う。
「貸さなくていいです」
「なぎに聞いてないよ」
「わたしの200円の話でしょう」
「ぼくが返す200円の話」
「返してもらうものがありません」
前の席で、運転手がどうするべきか迷っている気配がした。
国家規模の案件にも関わる晶守家当主から「200円貸して」と言われ、高校生から「貸さなくていい」と止められている。
かなり嫌な立場だと思う。
「すみません、気にしないでください」
運転手へ言う。
「いえ」
「なぎ、勝手に終わらせないで」
「運転中の人を巻き込まないでください」
「じゃあ後で返す」
「何を」
「200円」
「いりません」
「受け取ってよ」
「嫌です」
夜也が長い脚を組み直し、少し考える。
「じゃあ送金する」
「ブロックしますよ」
「200円で?」
「200円を送ってきたら」
「厳しくない?」
「頼んでないので」
「プレゼントなら?」
「200円の?」
「うん」
「いりません」
「じゃあ、お菓子代じゃなくて今日付き合ってくれたお礼」
「わたしがコンビニに寄りたいって言ったんです」
「じゃあ、コンビニ教えてくれたお礼」
「夜也さん、コンビニの存在は知ってたでしょう」
「おすすめのお菓子教えてくれたお礼」
「苺のチョコなら夜也さんが買いました」
「グミも」
「それも夜也さんのです」
理由が一つずつ消えていく。
夜也は少しだけ頬を膨らませるような顔をした。
その表情が、186cmの晶守家当主にはあまり似合わない。
「なぎ、手強いね」
「何と戦ってるんですか」
「200円」
「戦わなくていいでしょう」
「ぼく、こんな金額でこんなに揉めたの初めてかも」
「普通は揉めないです」
「みんな払わせてくれるから」
さらりと言われて、少しだけ腑に落ちた。
夜也にとっては、人に何かを買うことも、代金を出すことも、それほど特別な行為ではないのだろう。
数百円でも数万円でも、自分が払いたいと思えば払う。相手も、それを断らない。
少なくとも、今までは。
「夜也さん」
「なに?」
「わたし、払ってもらうのが嫌なわけじゃないです」
「じゃあ払わせて」
「最後まで聞いてください」
「はい」
「理由があればいいです」
「理由?」
「誕生日とか。何かのお祝いとか。夜也さんが誘った食事とか。そのときなら、別に絶対自分で払うとは言いません」
夜也が少し真面目な顔になる。
「でも今日は?」
「わたしがコンビニに寄りたいって言って、自分が欲しいお菓子を選びました。だから自分で買いました。それだけです」
「ぼくが一緒でも?」
「はい」
「ぼく、お金あるよ」
「知ってます」
「かなり」
「それも何となく知ってます」
「なぎよりいっぱいある」
「それは間違いないでしょうね」
「なら使えばいいのに」
「夜也さんのお金でしょう」
言うと、夜也が少し目を瞬いた。
「わたしが欲しいものを自分で買えるなら、そのほうが気楽です」
「気楽」
「はい。払ってもらったら、その分だけ夜也さんから何かしてもらったことになるでしょう」
「別に返してほしいと思わないよ」
「夜也さんが思わなくても、わたしが気にします」
説明しながら、自分でも少しわかってきた。
お金そのものが嫌なのではない。
200円を惜しんでいるわけでもない。
誰かから与えられることが当たり前になるのが、あまり好きではない。
水守家で暮らしていれば、生活に必要なものはほとんど家が用意してくれる。服だって、以前はそうだった。
だからこそ、自分で選んだ小さなものくらい、自分で払いたいのかもしれない。
「自分で選んで、自分で買ったっていうほうが好きです」
そう言うと、夜也はしばらく黙っていた。
「そっか」
今度は軽くなかった。
「はい」
「じゃあ、200円いらない?」
「最初からそう言ってます」
「念のため」
「いりません」
「わかった」
ようやく諦めたらしい。
思ったより長かった。
「でも」
「まだあるんですか」
「今度、ぼくがなぎに何か買いたくて、なぎも欲しいって思ったときは?」
「そのとき考えます」
「絶対断るわけじゃない?」
「絶対ではないです」
夜也の表情が一気に明るくなる。
「よし」
「何がよしなんですか」
「攻略法わかった」
「攻略しないでください」
「あはは」
結局そうなる。
でも、先ほどよりは悪い気はしなかった。
夜也は、自分のやり方を押しつけたいというより、自分がしたいこととなぎが嫌がらない場所の境目を探しているらしい。
その探し方がかなり強引なだけで。
「じゃあ、次はちゃんと理由作る」
「何の」
「なぎに何か買う理由」
「作るものじゃないでしょう」
「誕生日いつ?」
「急に聞かないでください」
「誕生日ならいいんでしょ?」
「それは例です」
「じゃあ合格祝い」
「何に合格するんですか」
「テスト」
「毎回?」
「点数よかったら」
「いりません」
「難しいなあ」
夜也は楽しそうだった。
たぶん、本当に楽しんでいる。
今までならお金を出せば終わっていたことに、わざわざルールがある。その面倒さそのものを面白がっているのかもしれない。
しばらくして、夜也がコンビニの袋からグミを取り出した。
「食べる?」
「それ硬いやつですよね」
「なぎが好きって言ってたから買った」
「夜也さんが食べるんじゃないんですか」
「食べるよ。一緒に」
袋を開け、一つ自分で食べてから、こちらへ差し出す。
「これならお金取らないよ」
「当たり前です」
「200円の代わり」
「代わりにしないでください」
でも、一つ取る。
噛む。
確かに硬い。
「どう?」
「普通においしいです」
「また普通」
「好きです」
「よし」
「何で夜也さんが満足するんですか」
「ぼくが買ったやつ、なぎが好きだったから」
それだけで嬉しいらしい。
お金を出すこと自体が大事なのではなく、相手に何かを与えて、喜ばれることが好きなのかもしれない。
だとしたら、少しだけ理解できる。
夜也は自分が好きだ。
強い自分も、綺麗な自分も、できる自分も好きだと言っていた。
だからきっと、自分にできることを誰かへするのも好きなのだろう。
ただ、わたしは全部受け取るわけではない。
それでいい。
嫌なら断ればいいと、最初に言ったのは夜也自身だ。
「なぎ」
「はい」
「一個聞いていい?」
「内容によります」
「今日の200円さ」
「まだ続くんですか」
「違う違う」
笑いながら手を振る。
「自分で払ったほうが嬉しかった?」
少し考える。
「嬉しいというほどではないです」
「じゃあ何?」
「普通です」
「また普通」
「でも、その普通がいいです」
夜也は少しだけ黙った。
「なるほどね」
「わかりました?」
「たぶん」
窓の外を見ながら、夜也が続ける。
「なぎに何でも買えば喜ぶわけじゃないってことはわかった」
「やっと」
「でも、一緒に選ぶのは楽しかったでしょ?」
「まあ」
「それはいい?」
「嫌ではないです」
「じゃあ次も一緒に選ぼ」
「次があるんですね」
「あるよ」
当然のように言われる。
「なぎがコンビニ行かなくても、別のとこでもいいし」
「夜也さん、買い物したいだけでは?」
「なぎとね」
また、そういう言い方をする。
まだその理由を深く考える必要はない。
夜也は今、わたしと何かをすること自体を面白がっている。
そのくらいでいい。
車は水守家へ近づいていた。
外の景色にも見覚えが増えてくる。
夜也が袋を閉じる。
「じゃあ今日のルール、覚えた」
「何ですか」
「なぎが自分で買いたいものは、勝手に払わない」
「はい」
「ぼくが買いたいときは、先に聞く」
「はい」
「なぎがいいって言ったら買う」
「そうですね」
「で、断られたら」
そこで少し間を置く。
「200円でも諦める」
「最初からそうしてください」
夜也が笑った。
わたしも、少しだけ口元が緩んだ。
200円。
夜也にとっては、たぶん財布から消えたことにも気づかない程度の金額だ。
それでも、今日の200円には思ったより長い時間がかかった。
お金の問題ではなかったからだと思う。
夜也は、したい。
わたしは、されたくないときがある。
その間をどうするか。
今日はたまたま、それが200円だった。
たぶんこれからも、似たようなことはあるのだと思う。
そのたびに言えばいい。
嫌なら嫌。
いいならいい。
夜也は面倒なくらい近づいてくるけれど、言葉にすれば止まることを、もう知っている。
車が水守家の門を通った。
夜也は窓の外を見てから、何か思い出したようにこちらを向いた。
「そうだ、なぎ」
「今度は何ですか」
「明日って何時に学校終わる?」
どうして聞くのか尋ねる前から、夜也の顔は妙に楽しそうだった。




