第20話「また明日、なぎ」
水守家の門をくぐったところで、夜也が明日の予定を聞いてきた。
「明日って何時に学校終わる?」
あまりにも当然のような聞き方だったので、最初は質問の意図がわからなかった。
「明日?」
「うん」
「普通に授業ですけど」
「何時まで?」
「ホームルームが終わるのは4時前くらいです」
「そのあと力環?」
「明日はないです」
「じゃあ真っすぐ帰る?」
そこでようやく、何を確認されているのかわかった。
「何で全部聞くんですか」
「予定知りたいから」
「何のために」
「明日会えるかなと思って」
夜也は隠す気もなく答えた。
今日だけでも、仕事先から40分かけて力環まで来ている。そのあとコンビニへ寄り、200円程度の支払いを巡って長々と揉め、今は水守家まで送っている。
十分会ったと思う。
「今日会ったでしょう」
「会ったね」
「じゃあ明日はいいのでは」
「今日会ったら明日会っちゃだめなの?」
「そういう話ではないですけど」
「ならいいじゃん」
理屈としては間違っていないような気もする。でも、正しいとも言いたくない。
「夜也さん、仕事は?」
「あるよ」
「じゃあしてください」
「するよ。そのあと」
「毎日暇ではないでしょう」
「暇じゃないよ」
「なのに来るんですか」
「行けそうなら」
夜也はそこで一度スマートフォンを取り出した。予定表でも確認しているらしく、画面を何度か触っている。
「明日は午後に会議二つ。5時前には終われるかな」
「学校終わってます」
「じゃあちょうどいいじゃん」
「何が」
「迎え」
もう今日の反省が消えているのかと思った。
「先に聞くって言いましたよね」
「だから今聞いてる」
言われて黙る。
確かに聞いている。
「……迎えに来たいんですか」
「うん」
「どうして」
「またそれ聞く?」
「聞きます」
夜也は少し考えた。今日の「近くにいたから」が通用しなかったせいか、今度は最初から理由を探しているようだった。
「なぎと話したいから」
「メッセージでも話せますけど」
「直接のほうが楽しい」
「電話もあります」
「顔見えるほうがいい」
「ビデオ通話」
「なぎ、それ絶対しないでしょ」
「しません」
「ほら」
うまく返された。
車が玄関前で止まる。運転手が降りようとするより先に、わたしは自分で扉を開けた。
「じゃあ帰ります」
「あ、逃げた」
「逃げてません」
「明日の返事」
「まだ決めてません」
外へ出る。
夜也も反対側から降りてきた。
「水守の迎え、明日ある?」
「毎日あります」
「じゃあ、なぎがいいって言ったら今日みたいに調整する」
「うちへ先に連絡しないでくださいね」
「今日はごめんって」
「覚えてるならいいです」
鞄を持ち直して玄関へ向かう。
数歩進んだところで、後ろからまた声がした。
「なぎ」
振り返る。
夜也は車の横に立ったままだった。
「明日、嫌ならいいよ」
「わかってます」
「ほんとに?」
「夜也さん、最近それ何回も聞きますね」
「なぎが遠慮して嫌って言えなくなるの嫌だから」
少し意外だった。
初めて水守家で話した頃の夜也なら、自分のほうからこんな確認を何度もするとは思わなかった。
「嫌なら言います」
「うん」
「ただ」
「ただ?」
「明日は、本当に何もないですよ」
「いいよ」
「学校から家に帰るだけです」
「それでいい」
「コンビニも寄りません」
「いいよ」
「何するんですか」
「送る」
そこまで言われると、それ以上断る理由も思いつかない。
別に、夜也の車が嫌なわけではない。
今日も奇妙ではあったけれど、嫌ではなかった。
「じゃあ」
少し考える。
「仕事が本当に終わって、無理しなくても来られるなら」
夜也の顔が一気に明るくなった。
「行く」
「まだ条件あります」
「何?」
「学校の前で目立たないでください」
「ぼく普通にしてても目立つんだけど」
「努力してください」
「難題だなあ」
「じゃあ来なくていいです」
「努力する。めちゃくちゃ努力する」
即答だった。
「それと、着く前に連絡してください」
「了解」
「うちの人にも、わたしから言います」
「了解」
「勝手に予定変えない」
「わかった」
夜也が指を折るようにして確認する。
「事前連絡、水守への連絡はなぎから、目立たない、予定を勝手に変えない」
「はい」
「これ守れば迎えに行っていい?」
「明日は」
「やった」
「明日は、です」
「わかってるって」
たぶん半分くらいしかわかっていない。
でも、今日のように先回りされるよりはいい。
「では」
「うん。また明日」
夜也が手を上げる。
その言葉が、少しだけ引っかかった。
また明日。
学校の友人なら何も不思議ではない。
毎日同じ教室へ行くのだから、帰り際に自然と出てくる言葉だ。
でも、夜也とはそうではない。
生活する場所も違う。
仕事も違う。
年齢も違う。
昨日までなら、次にいつ会うのか決まっていなくても普通だった。
それなのに今は、明日の予定を確認されている。
「……また明日」
返してから玄関へ入った。
家へ戻ると、母がすぐに気づいた。
「おかえりなさい。今日は夜也さまに送っていただいたのね」
「はい」
「連絡をいただいたときは驚いたわ」
「すみません」
「なぎが謝ることではないけれど」
母は少し笑いながら、わたしの手にあるコンビニ袋を見る。
「寄り道もしたの?」
「コンビニだけ」
「夜也さまと?」
「はい」
母の笑顔が少しだけ不思議そうなものに変わる。
「……夜也さま、コンビニへ行かれるのね」
「行ってました」
「そう」
「楽しそうでした」
「そうなの」
母はそこまで言ってから、少し考えるようにわたしを見た。
「最近、ずいぶん仲がいいのね」
「そうですか」
「連絡もよく来るでしょう?」
「多いです」
「嫌ではない?」
夜也本人にも聞かれたことを、母にも聞かれる。
「嫌なら返しません」
「それもそうね」
母はそれ以上何も言わなかった。
自室へ戻る。
制服から部屋着へ着替え、鞄から今日の作業一覧と学校の課題を出す。
コンビニで買ったお菓子は机の端へ置いた。
スマートフォンが震える。
夜也だった。
『着いた?』
ついさっき玄関まで送った人から聞かれている。
『着きました』
『知ってる』
『じゃあ聞かないでください』
『部屋まで帰った?って意味』
『部屋です』
『よし』
何が「よし」なのかわからない。
課題を開く。
数学。
数問解いたところで、また通知。
『明日ほんとに迎え行っていい?』
さっき確認したばかりなのに。
『条件守るなら』
『守る』
『仕事が長引いたら来なくていいですからね』
『終わらせる』
『無理に早く終わらせるという意味ではないです』
少し間が空く。
『なぎ、ぼくのこと心配してる?』
『予定を無理に詰めてほしくないだけです』
『それを心配って言うんじゃない?』
返事を考える。
違うと送っても、たぶん夜也は勝手に喜ぶ。
『好きに解釈してください』
『やった』
やっぱり喜んだ。
画面を伏せる。
しばらく課題を進める。
けれど、十分ほどするとまたスマートフォンが震えた。
『明日何時に校門?』
『4時くらいです』
『了解』
今度こそ終わったと思う。
5分後。
『制服?』
『学校なので』
『そっか』
さらに数分後。
『明日何食べたい?』
手が止まった。
『何も食べに行きません』
『え』
『家に帰るんですよね?』
『そうだけど』
『なら夕食があります』
『昨日も同じこと言ってた』
『今日です』
『あ、今日だった』
この人は一日の密度がおかしい。
『じゃあ寄り道なし?』
『なしです』
『わかった』
今度は少し残念そうだった。
でも、それ以上ごねなかった。
課題へ戻る。
静かになる。
そのまま30分ほど経った。
ようやく集中できたところで、スマートフォンがまた震えた。
思わず画面を見る前に息を吐く。
『なぎ』
『何ですか』
『明日楽しみ』
返事に困る。
たかが学校から家まで送るだけだ。
今日と違ってコンビニにも寄らない。
何か特別な予定があるわけでもない。
それでも夜也は楽しみらしい。
『そうですか』
いつもの返しを送る。
すぐに、
『うん』
と来た。
それで今度こそ通知は止まった。
翌日。
学校では特に何も起こらなかった。
授業を受けて、昼食を食べて、放課後になる。
昨日までなら、ホームルームが終わればそのまま水守家の車へ向かうだけだった。
今日は少し違う。
鞄へ教科書をしまいながら、スマートフォンを見る。
夜也から連絡はまだない。
仕事が長引いたのかもしれない。
それならそのまま家の車で帰ればいい。
「水守さん、今日も力環?」
隣の席の子が聞いてきた。
「今日は違います」
「じゃあ帰る?」
「はい」
「また明日」
「また明日」
普通に返す。
教室を出ようとしたところで、スマートフォンが震えた。
『終わった』
夜也。
続けて、
『今向かってる』
さらに。
『15分くらい』
ちゃんと事前連絡をしている。
『わかりました』
送ってから、少し考える。
『急がなくていいです』
『安全運転してもらってる』
本人が運転するわけではないのに。
校門へ向かう。
水守家には朝のうちに連絡してある。今日は夜也が迎えに来るかもしれないので、確定したら連絡すると伝えていた。
迎えが変わる。
それだけ。
でも昨日までなかった予定だ。
校門の近くで待つ。
5分。
10分。
そのあいだに何人もの生徒が帰っていく。
少しして、見覚えのある黒い車が道路の向こうに現れた。
昨日と同じ車だった。
「……目立たないでって言ったのに」
車の時点で無理だった。
せめて本人が外へ出てこなければいい。
そう思っていたのに。
車が停まる。
後部座席の扉が開く。
長い脚が出てくる。
「なぎ」
夜也が降りた。
黒いスーツ。
186cm。
普通に目立つ。
周囲の視線が集まる。
わたしはその場で少し目を閉じた。
「夜也さん」
「なに?」
「目立たないでって」
「普通に降りただけだよ?」
「降りないでください」
「そこまで指定されてない」
確かに。
昨日、そこまで細かく決めなかった。
夜也が楽しそうに笑う。
「次から追加しとく?」
「追加します」
「了解」
でも、今日のところはもう遅い。
夜也はわたしの前まで来ると、鞄を見た。
「持つ?」
「持ちません」
「じゃなくて、ぼくが」
「自分で持てます」
「知ってる」
「なら大丈夫です」
「はーい」
昨日と同じやり取り。
けれど、少しだけ違う。
昨日は、外へ出たらたまたま夜也がいた。
今日は、来ると知っていた。
わたしが許可して。
時間を伝えて。
夜也が仕事を終えたと連絡して。
それから会った。
「今日どうだった?」
車へ向かいながら聞かれる。
「普通です」
「何した?」
「学校です」
「それは知ってるよ」
「国語、数学、英語」
「昼は?」
「お弁当」
「友達と?」
「はい」
「何話した?」
「何でそこまで聞くんですか」
「知りたいから」
昨日と同じ答えだった。
「夜也さんは?」
「ぼく?」
「今日何してたんですか」
聞くと、夜也が少し驚いた。
「珍しい。なぎから聞いてくれるんだ」
「いつもわたしばかり聞かれるので」
「会議して、書類見て、人と話して、また会議」
「大変そうですね」
「退屈だった」
「仕事でしょう」
「でも終わったから、今は楽しい」
そう言って車の扉を開ける。
今度は特に止めずに乗った。
車が動き出す。
今日は寄り道しない。
まっすぐ水守家へ帰る。
それでも夜也はずっと喋っていた。
会議で出た話。
昼に食べたもの。
晶烏の一羽が高い建物の屋上でしばらく動かなかったこと。
部下に新しい香水を褒められたこと。
途中から、何の話をしているのかよくわからなくなる。
「夜也さん」
「うん?」
「そんなに話すことあるんですか」
「あるよ」
「毎日?」
「なぎが聞くなら」
「聞いてなくても話してません?」
「話してる」
本人もわかっている。
「うるさい?」
「少し」
「少しかあ」
落ち込むかと思ったら、夜也は笑った。
「でも黙ってとは言わないんだ」
「ずっとは困ります」
「じゃあ加減する」
本当に少し静かになった。
窓の外を見る。
車の走る音はほとんど聞こえない。
数分だけ、二人とも黙る。
夜也はスマートフォンを見ている。
わたしも外を見ている。
不思議と、その沈黙も嫌ではなかった。
「なぎ」
しばらくして、夜也が小さく呼んだ。
「はい」
「明日は力環?」
まただ。
「明日は行きます」
「何時まで?」
「7時前には終わると思います」
「迎え――」
「明日は水守家の車です」
「まだ最後まで言ってない」
「言おうとしましたよね」
「言おうとした」
「明日は遅いので」
「そっか」
夜也は少しだけ残念そうにした。
でも、すぐに引いた。
「じゃあ明後日は?」
「どうしてもう明後日の予定まで」
「会える日探してる」
あまりにも普通の調子で言われる。
「夜也さん」
「なに?」
「最近、わたしに会いすぎでは」
「そう?」
「そうだと思います」
夜也は少し考えた。
昨日。
今日。
その前にも力環で会っている。
メッセージはほぼ毎日。
電話も時々。
「確かに増えたね」
「でしょう」
「嫌?」
またその質問。
わたしも少し考える。
本当に嫌なら。
昨日の迎えを断っていた。
今日だって、来てもいいとは言わなかったはずだ。
「嫌ではないです」
「じゃあいいじゃん」
「夜也さん、そこだけ聞いて全部進めますよね」
「大事なところだから」
「嫌じゃないのと、毎日会いたいのは違います」
「それもそうだ」
意外とすぐ納得した。
「じゃあ、毎日はやめとく」
「極端ですね」
「どれくらいならいい?」
「頻度を決めるものでもないでしょう」
「難しいなあ」
夜也は本気で悩んでいるようだった。
「予定が合って、夜也さんが来たいと思って、わたしも嫌じゃなければでいいのでは」
「それ、今日と同じじゃん」
「そうですね」
「じゃあそれでいい」
簡単にまとまった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
こうやって決まっていくのだと思う。
連絡していい。
電話していい。
会いに来るなら先に聞く。
迎えに来るなら勝手に家の予定を変えない。
嫌なら断る。
断られたら引く。
最初から決まっていた関係ではない。
夜也が一つ近づいてきて。
わたしが、そこまでならいいと決める。
また一つ近づいてきて。
今度は少し離れてほしいと言う。
その繰り返しだった。
車が水守家へ着く。
今日は昨日より早く感じた。
「着いたよ」
「見ればわかります」
「冷たいなあ」
車を降りる。
夜也も降りた。
「今日はコンビニなしだったね」
「最初から言ったでしょう」
「うん。でも結構楽しかった」
「何もしてませんよ」
「話したじゃん」
「ずっと夜也さんが」
「なぎも聞いてくれた」
確かに、今日はわたしからも夜也の一日を聞いた。
意識していなかった。
「じゃあ」
玄関へ向かおうとする。
「なぎ」
また呼ばれる。
振り返る。
夜也は車の横に立っている。
昨日と同じ場所。
でも今日は、次の予定を無理に聞かなかった。
「明日、力環頑張ってね」
「検査は少しだけです」
「記録のほうも」
「はい」
「終わったら連絡して」
「何で?」
「今日どうだったか聞きたい」
「覚えてたら」
「覚えといてよ」
「努力します」
夜也は笑った。
「じゃあ、またね」
「はい」
一度背を向ける。
玄関まで数歩。
後ろで車の扉が開く音がした。
その直前。
「また明日、なぎ」
足が止まった。
明日は会う予定ではない。
夜也もそれを知っている。
力環の帰りは水守家の車で、迎えに来る約束もしていない。
振り返ると、夜也はもう車へ半分乗り込んでいた。
「明日は会わないでしょう」
「メッセージする」
「それも会うに入るんですか」
「ぼくの中ではちょっと入る」
「変なの」
「じゃあ、また明日」
もう一度言われる。
今度は訂正しなかった。
「……また明日」
返す。
夜也が満足そうに笑い、車へ乗り込んだ。
黒い車が門の向こうへ消えていく。
玄関へ入る。
靴を脱いで、自室へ戻る。
制服を着替える前に、スマートフォンが震えた。
『今日はありがとう』
夜也。
まだ車で数分しか離れていない。
『何がですか』
『迎え行かせてくれた』
少し考える。
そんなことで礼を言われるとは思わなかった。
『どういたしまして』
送る。
すぐ既読になる。
『また行きたい』
『そのとき聞いてください』
『了解』
そこで一度終わる。
わたしは制服のポケットからスマートフォンを出して、机へ置いた。
最近、夜也からの連絡が来ること自体にはもう驚かなくなった。
朝に一通。
学校が終わる頃にも。
夜にも。
何もない日でも、何か送られてくる。
写真。
どうでもいい話。
今日食べたもの。
晶烏が見つけたもの。
わたしの予定。
最初は、どうしてこんなに連絡してくるのだろうと思っていた。
今も理由を完全に理解したわけではない。
ただ、通知欄に夜也の名前があることが、少しずつ珍しくなくなっていた。
明日は力環。
夜也とは会わない。
それでも、たぶん何か連絡が来る。
来なかったら。
どうするのだろう。
そこまで考えてから、手が止まる。
来なかったら。
わたしは気づくのだろうか。
たぶん気づく。
最近は、毎日何かしら来るから。
それだけだ。
習慣が一日途切れれば、誰だってわかる。
そういうことにしておいた。
机へ向かい、明日の授業の準備をする。
スマートフォンは静かなままだった。
10分。
20分。
別に気にしていない。
30分ほどして、課題を一つ終えた頃に通知音が鳴った。
反射的に画面を見る。
『おやすみ言うの忘れてた』
夜也だった。
少しだけ力が抜ける。
『まだ寝ません』
『じゃあ寝るときまた言う』
『いりません』
『ぼくが言いたい』
返事をせずに画面を伏せた。
口元が少し緩んでいることに気づいて、元へ戻す。
夜也は近い。
でも、近すぎれば言えばいい。
そうすれば離れる。
だからたぶん、今はこのくらいでいい。
学校。
水守家。
白水の審律。
力環。
そこに最近、夜也が何度も現れる。
決まった場所ではない。
予定表に書かれているわけでもない。
それでも、わたしの日々のいろいろなところへ少しずつ混ざってきている。
いつからそうなったのかは、よくわからない。
ただ明日も。
たぶん、画面のどこかに夜也の名前がある。
それを想像しても、もう不思議には思わなかった。




