第17話「迎えに来た晶守さま」
力環の自動扉を抜けたところで、いつもの車を探した。
研究協力員として過ごした最初の日は、思っていたより疲れていなかった。長い検査を受けたわけではないし、後半はほとんどパソコンへ記録を入力していただけだ。学校の授業を終えてから2時間近く別の場所にいたことを考えれば、むしろ楽だったほうだと思う。
だから、迎えの車に乗ったら今日渡された作業一覧をもう一度見て、家に着いたら先に学校の課題を終わらせようと考えていた。
玄関前の車寄せには、何台か車が停まっている。
水守家の車は見当たらない。
代わりに、ひどく目立つ黒い車が一台あった。
車種には詳しくないけれど、わたしでも高そうだということくらいはわかる。磨かれた車体には周囲の建物が歪みなく映り込み、運転席には見知らぬ男性が座っている。
その後部座席にもたれるようにして立っている人を見て、足が止まった。
背が高い。
遠目でもすぐわかる。
青黒い髪に、黒いスーツ。長い脚を少し持て余すように立ちながら、片手でスマートフォンを見ている。
慈夜也だった。
こちらに気づくと、すぐに顔を上げる。
「なぎ」
笑った。
どうしているのだろう。
それが最初に浮かんだ。
夜也はスマートフォンをポケットへ入れると、当然のようにこちらへ歩いてきた。
「お疲れ。初日どうだった?」
「……何してるんですか」
「迎え」
「誰の」
「なぎの」
そこまで一切迷いがないと、こちらのほうが何か勘違いしているような気がしてくる。
「うちの車が来るはずです」
「今日は来ないよ」
「どうして知ってるんですか」
「連絡したから」
「誰に?」
「水守のほう」
あまりにも自然に言う。
「何て?」
「ぼくが送るから大丈夫って」
「勝手に?」
「一応、許可はもらったよ」
家同士の付き合いを考えれば、晶守家当主本人がそう申し出て断られることはほとんどないだろう。
問題はそこではない。
「わたしには?」
「今言った」
「迎えに来る前に言ってください」
「あ」
夜也が少しだけ目を見開く。
本当に今気づいた顔だった。
「それはそうだね。ごめん」
素直に謝られると、その先まで怒りづらい。
「次から先に聞く」
「次も来るつもりなんですか」
「予定が合えば」
「何で」
「近くにいたから」
即答だった。
わたしは夜也を見る。
夜也もこちらを見る。
数秒待った。
「何?」
「嘘ですよね」
「なんで?」
「今日、どこで仕事だったんですか」
夜也の目が一度だけ横へ動いた。
「……晶守のほう」
「ここから近いんですか」
「車ならまあ」
「何分?」
「細かいなあ」
「何分ですか」
夜也が笑い始めた。
笑っている時点で、答えはほぼ出ている。
「40分くらい?」
「近くないでしょう」
「東京基準なら近いよ」
「その理屈なら大体どこでも近くなりません?」
「なるかも」
「じゃあ、近くにいたからではないですね」
夜也はしばらく笑っていた。
否定する気はないらしい。
「じゃあ訂正。なぎが今日ここにいるって知ってたから、仕事終わらせて来た」
「最初からそう言えばいいのに」
「近くにいたって言ったほうが軽いかなと思って」
「何が?」
「迎えに来た理由が」
少し意味がわからなかった。
「重いんですか」
「わざわざ来たって言うよりは、ついでっぽいでしょ」
「実際はついでじゃないのに?」
「うん」
「余計変です」
「そっか」
夜也は少し考えたあと、楽しそうに頷いた。
「じゃあ次から普通に、なぎ迎えに来たって言う」
「次がある前提なんですね」
「嫌?」
そこで、声の調子が少しだけ変わった。
今までの勢いのまま押し切らず、夜也は一度立ち止まる。
「水守の車、呼び直せるよ」
「今から?」
「うん。ぼくが勝手に断ったから、なぎがぼくの車嫌なら戻してもらう」
言葉だけなら簡単だけれど、その顔を見る限り、本当にそうするつもりなのだと思う。
最近、夜也はこういうところだけ妙に律儀になった。
距離が近いと言えば離れる。
嫌なら断っていいと言う。
そのくせ、断られない範囲ではどこまでも入ってくる。
面倒な人だと思う。
「別に、嫌ではないです」
「じゃあ乗る?」
「送ってくれるなら」
「もちろん」
途端に嬉しそうになる。
さっきまで一応こちらの返事を待っていた人と同じとは思えない。
「やった」
「そんなに喜ぶことですか」
「喜ぶよ。なぎと帰れるし」
さらっと言われる。
たぶん深い意味はない。
夜也は自分がしたいと思ったことを、そのまま口にする人だ。
「今日どうだった?」
車へ向かいながらまた聞かれる。
「さっきも聞きましたね」
「まだ答えてない」
「普通でした」
「普通?」
「記録入力して、センサー確認して、少し検査して終わりです」
「え、働いたの?」
「研究協力員になったので」
「聞いてない」
今度は夜也が止まった。
「今日決まったので」
「何それ。見たい」
「何を」
「なぎが力環で働いてるとこ」
「見ても面白くないですよ。数字入力してただけです」
「面白いよ」
「何で」
「なぎがいるから」
やっぱり、この人の「面白い」の基準はよくわからない。
車の近くまで来る。
運転席にいた男性が外へ出て、夜也へ頭を下げた。後部座席の扉へ手をかけようとしたところで、夜也が自分で先に開ける。
「どうぞ」
「自分で乗れます」
「知ってる」
「じゃあ何で開けるんですか」
「やりたかったから」
またそれだ。
夜也にとっては、できるかできないかより、自分がやりたいかどうかなのだろう。
乗り込もうとして、中を見た。
広い。
学校への送迎で使っている水守家の車も十分大きいけれど、それよりさらに余裕がある。座席も、何かよくわからないけれど明らかに高そうだった。
「これ、夜也さんの車?」
「うん。何台かあるうちの一台」
「何台か」
「用途で変えるから」
「そうですか」
自分とは金銭感覚が違う人だということを、改めて思い出す。
夜也も反対側から乗り込んだ。
扉が閉まると、外の音がほとんど聞こえなくなる。
「水守邸まで」
夜也が運転手へ伝える。
「承知しました」
車が静かに動き始めた。
しばらく窓の外を見る。
研究棟が遠ざかる。
少し前まで、力環へ来るたびに検査を受けていた。
今日は違った。
研究協力員。
その言葉もまだ自分には馴染まない。
「なぎ」
「はい」
「疲れた?」
「そこまで」
「ほんと?」
「今日は検査も少しだけだったので」
「じゃあお腹空いてる?」
今度は急に話が変わった。
「少しは」
「何か食べる?」
「家で夕食あるので」
「じゃあちょっとだけ」
「何で食べさせようとするんですか」
「放課後から力環いたんでしょ」
「お茶はもらいました」
「お茶は食事じゃないよ」
九十九の次は夜也まで食べ物の話をするのかと思う。
「何か欲しいものある?」
「特にないです」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮じゃなくて、本当に」
そこまで言ったところで、窓の外に見慣れた看板が流れた。
コンビニだった。
そういえば家で使っていたものが切れかけていたことを思い出す。それに、明日の学校へ持っていく飲み物も欲しい。
「……あ」
「なに?」
「コンビニ寄れます?」
夜也が一瞬黙った。
「コンビニ?」
「はい」
「今の?」
「別に次のでも」
なぜか夜也の顔が少し明るくなる。
「寄ろう」
「そんな楽しそうに言うことですか」
「だってなぎが寄りたいって言った」
「それだけです」
「いいじゃん、それで」
夜也がすぐ運転手へ声をかける。
「次、入れるところあったらコンビニ寄って」
「かしこまりました」
あっさり予定が変わった。
「何買うの?」
「飲み物と、ちょっとお菓子」
「お菓子好きなの?」
「普通です」
「何が好き?」
「行ってから決めます」
「ぼくも選ぼ」
「夜也さんも買うんですか」
「うん。コンビニ久しぶり」
「行かないんですか」
「一人ではあんまり」
「どうして?」
「行く理由がないから」
そう言われて、少しだけ納得する。
この人は普段、欲しいものを自分で買いに行く必要があまりないのかもしれない。
車はしばらく走り、別のコンビニへ向かって車線を変えた。
そこで、ふと思い出す。
「夜也さん」
「なに?」
「本当に、今日はわたしを迎えに来るために40分移動したんですか」
夜也は窓の外を見ながら、あっさり答えた。
「うん」
「仕事終わってから?」
「正確には終わらせてから」
「急いで?」
「ちょっと」
「何でそこまで」
聞くと、夜也はこっちを向いた。
理由を考えているようには見えなかった。
「なぎが今日から力環通うって聞いたから、初日くらい迎えに行こうかなって思っただけ」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りない?」
「いえ」
足りないわけではない。
むしろ、それ以上の理由が出てきても困る。
夜也は少し笑う。
「なぎって、理由ほしがるよね」
「わからないと気になるので」
「ぼくは、したいからすること多いよ」
「知ってます」
「でも嫌なら言ってね」
「それも知ってます」
「じゃあ大丈夫」
何が大丈夫なのかはわからない。
でも、以前ほど警戒しなくなっている自分には気づいていた。
夜也は勝手だ。
勝手に予定を知って、勝手に仕事を早く終わらせて、勝手に水守家へ連絡して迎えに来る。
それでも最後のところでは、わたしに選ばせる。
乗りたくないなら乗らなくていい。
来てほしくないなら、次は来ない。
その線だけは、今のところ越えてこない。
「次からは」
わたしは言う。
「はい」
「迎えに来るなら、先に連絡してください」
「いいの?」
「来てもいいとは言ってません」
「あれ?」
「来るかどうか聞いてください」
「ああ、そっちね」
「勝手にうちの車断らないでください」
「わかった。なぎに聞いて、いいって言われたら水守に連絡する」
「それなら」
そこで言葉を止める。
「それなら?」
夜也が待っている。
「別に、いいです」
夜也の口元が上がった。
「了解」
「嬉しそうですね」
「嬉しいよ」
「どうして」
「次があるかもしれないから」
そう言って笑う。
まだ、恋愛とか。
そういうものではない。
夜也にとって今のわたしは、きっと変わっていて、気になって、見ていたい相手なのだと思う。
それでも、その関心が少しずつ日常の中へ入ってきていることはわかった。
メッセージだけだったものが、電話になった。
水守家へ来るようになった。
学校の前にも現れた。
そして今日は、力環の帰り道にいる。
こちらが頼んだわけでもないのに。
「見えてきた」
夜也が窓の外を指す。
コンビニの明るい看板が近づいていた。
「なぎ何買う?」
「まだ決めてません」
「じゃあ一緒に見よ」
「好きにしてください」
「する」
車が駐車場へ入る。
高そうな黒い車が、普通のコンビニの前へゆっくり停まった。
隣では、晶守家当主が妙に楽しそうにシートベルトを外している。
わたしは少しだけ思った。
迎えに来るために40分。
近くにいたから。
よくあんな嘘を迷いなく言えたものだ。
でも次からは、たぶん。
もう「近くにいたから」とは言わないのだろう。
来たいから来た。
この人なら、本当にそう言いそうだった。




