長い階段
長い階段を、少女が登っていた。
「ヒコさまー!」
返事はない。
少女はもう一段、重たい足を持ち上げた。
「ヒコさまー! まだー!」
「うるさい。登れ」
ようやく、上から声が落ちてきた。
「もう疲れた!」
「知らん」
「足いたい!」
「知らん」
「背負って!」
「嫌だ」
「けち!」
「聞こえてるぞ」
少女は頬を膨らませた。
見上げても、男の姿は見えない。
階段の先には、暗い空があるだけだった。
少女は足を止め、振り返った。
ずいぶん登ってきた。
入口にあった松明は、もう小さな赤い点にしか見えない。
その向こうに、黒い山の形が見えた。
さらに遠くには、山とは違う黒が、どこまでも平らに広がっている。
風が吹いた。
髪が頬に張りつく。
潮の匂いがした。
海なのだろう。
「……高い」
「だから言っただろう」
「わっ」
いつの間にか、少し上の段に男が立っていた。
「ヒコさま」
「なんだ」
「おんぶ」
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「顔を見れば分かる」
「足が痛い」
「歩け」
「あるじさまに言う」
「好きにしろ」
「ヒコさまが意地悪するって言う」
「それも好きにしろ」
「あるじさま、怒るよ」
「怒らん」
「怒るもん」
「むしろ、お前を甘やかすなと言われるのは俺の方だ」
少女は首を傾げた。
「どうして?」
「……いいから登れ」
男は少女に背を向けた。
「待ってよ!」
「さっきから待ってる」
「もっと待って!」
「嫌だ」
「やっぱりけち!」
二人の声が、階段の上へ消えていった。
しばらく登ると、少しだけ開けた場所に出た。
二本の太い柱が立っている。
その上に、一本の木が渡されていた。
少女はそこで足を止めた。
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「ここから静かにするんでしょ」
「分かってるならいい」
少女は少しだけ背筋を伸ばした。
柱の間をくぐる。
それから、声を落とした。
「ヒコさま」
「なんだ」
「あとどれくらい?」
「もう少しだ」
「さっきもそう言った」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
「言ったもん」
「……静かにするんじゃなかったのか」
「あ」
少女は両手で口を塞いだ。
男は何も言わず、また歩き出した。
そこから先は、火の数も少なかった。
ところどころに置かれた小さな灯りが、階段の端をぼんやりと照らしている。
風が吹く。
木々がざわめいた。
どこかで虫が鳴いている。
少女は何度も足を止めそうになりながら、それでも男の後を追った。
やがて――。
「ついた……」
階段が終わった。
少女はその場にしゃがみ込んだ。
「立て」
「無理」
「ここで寝るな」
「寝てない」
「なら立て」
「足がなくなった」
「ある」
「ない」
「見えてる」
少女は自分の足を見た。
「……あった」
「あるだろう」
男が呆れたように言った。
少女はしばらく膝を抱えていたが、やがて立ち上がった。
目の前に宮がある。
木と柱と布で造られた、大きな宮だった。
風が吹くたび、入口を覆う天幕がわずかに揺れている。
その向こうから、小さな火の明かりが漏れていた。
少女は服についた埃をぱんぱんと払った。
宮へ向き直る。
二度、頭を下げた。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
四度、手を打つ。
もう一度、深く頭を下げた。
隣で男が黙って見ている。
少女は顔を上げた。
「よし」
そのまま天幕をつかんだ。
「あるじさまー!」
ばさり。
「おい!」
後ろから襟をつかまれた。
「ぐえっ」
「今の礼は何だった」
「ちゃんとしたでしょ!」
「その後だ!」
「入らないと会えないでしょ」
「先に声をかけろと言っている!」
「いま声かけたよ?」
「開ける前だ!」
「ヒコさま細かい!」
「お前が雑なんだ!」
「騒々しいのう」
奥から声がした。
二人とも止まった。
少女の顔が、ぱっと明るくなる。
「あるじさま!」
「聞こえておる」
「会いたかった!」
「それも聞こえておる」
「ヒコさまが意地悪した!」
「してない」
「背負ってくれなかった!」
女は少女から男へ目を移した。
「……ヒコ」
「なんです」
「それはケチじゃな」
「あるじまで何を言ってるんですか」
「こんな小さな子が、あの階段を登ってきたのじゃぞ」
「毎日のように登ってます」
「なら、手くらい繋いで登ってやればよいではないか」
「一人で登れます」
「足なくなったもん!」
「あるだろう!」
少女は女のそばへ駆け寄った。
「あるじさまは分かってくれる」
「うむ。ヒコが悪い」
「ほら!」
「あるじ」
「なんじゃ」
「甘やかさないでください」
「甘やかしてなどおらぬ」
「甘やかしてます」
「では次から、わらわが迎えに行こう」
「それは駄目です」
「なぜじゃ」
「あるじが迎えに行くくらいなら、俺が連れてきます」
「ならば手を繋いでやれ」
「……」
「ヒコさま」
少女がにやにやしながら男を見る。
「次は手、繋いでね」
「調子に乗るな」
「あるじさまー」
「ヒコ」
「……分かりましたよ」
「やった!」
「だから走るな!」
女が笑った。
少女も笑った。
宮の中は静かだった。
中央で、小さな火が燃えている。
ぱちり、と薪が弾けた。
その向こうに、女が座っていた。
艶やかな長い髪が、背から床へ流れている。
揺れる火に照らされた肌は、透き通るように白かった。
美しい人だった。
身につけているものに、目立った飾りはほとんどない。
「あるじさま」
「なんじゃ」
「今日はね、下で魚もらったの」
「そうか」
「大きいやつ」
「そうか」
「あとね、転んだ」
「それは見れば分かる」
「え?」
少女は自分の膝を見た。
擦りむいたところに、乾いた土がついている。
「あ」
「こちらへ来い」
少女は素直に近づいた。
女がその膝を見る。
「痛むか?」
「ちょっと」
「洗ったのか?」
「……」
「洗っておらぬな」
「忘れた」
「ヒコ」
「俺ですか?」
「水を」
「あるじ。こいつの側仕えは俺じゃありません」
「よいではないか」
「よくありません」
そう言いながらも、男は水を取りに行った。
少女はその背中を見て笑う。
「ヒコさま、優しいね」
「本人に言ってやれ」
「やだ」
「なぜじゃ」
「怒るから」
「聞こえてるぞ」
少し離れたところから声が飛んできた。
少女は慌てて女の後ろへ隠れる。
「あるじさま」
「なんじゃ」
「守って」
「何からじゃ」
「ヒコさま」
「お前な……」
女が笑った。
少女も笑った。
膝の土を落とされ、少女は宮の隅に座った。
「痛い!」
「動くでない」
「あるじさま、もっと優しく」
「なら転ぶでない」
「転びたくて転んだんじゃないもん」
「では、次から地面によく言って聞かせよ」
「地面、聞いてくれるかな」
「知らぬ」
「たぶん聞かないぞ」
男が言った。
「ヒコさまには聞いてない」
「なら俺の持ってきた水を使うな」
「もう使ったもん」
「……お前な」
少女は得意そうに笑った。
女も、口元を少し緩めた。
やがて少女は、もらった魚の話を始めた。
「それでね、その魚、こんなに大きかったの」
両腕をいっぱいに広げる。
「ほう」
「嘘です」
男が言った。
「ほんとだもん!」
「そんな魚をお前一人で持てるか」
「持ってないもん」
「誰が持った」
「おじさん」
「では、お前がもらった魚ではないだろう」
「わたしも見たから、わたしの」
「どういう理屈だ」
女が笑った。
少女は満足そうだった。
「それでね……」
「うむ」
「そのおじさんがね……」
「うむ」
しばらくして、少女の声が小さくなった。
「それから……」
「うむ」
「それで……」
返事がなくなった。
女が目を落とす。
少女はいつの間にか、女の膝へ頭を預けて眠っていた。
「……寝たか」
男が近づいてきた。
「寝たの」
「さっきまであれだけ騒いでいたのにな」
「子というのは、不思議じゃな」
女は少女の髪に触れた。
頬にかかった髪を、指先でそっとよける。
「ヒコ」
「なんです」
「下まで運んでやれ」
「……俺が?」
「わらわに運ばせるつもりか?」
男は眠っている少女を見た。
「あるじは、こいつに甘すぎます」
「そうかの?」
「そうです」
「では、ここへ置いていくか?」
男は黙った。
少女は何も知らず、女の膝の上で眠っている。
しばらくして、男が小さく息を吐いた。
「……背負えばいいんでしょう」
「うむ」
「起きたら歩かせますからね」
「好きにせい」
男は少女の前にしゃがんだ。
起こさないように、その小さな体を背へ乗せる。
少女がわずかに身じろぎした。
「……ヒコさま」
「起きてるのか?」
返事はない。
眠ったままだった。
「まったく」
男はそう言って立ち上がった。
「あるじ」
「なんじゃ」
「行ってきます」
「うむ」
男が天幕へ向かう。
「なんじゃ。背負ってやるのではないか」
男が足を止めた。
「……寝てるからです」
「ケチではなかったの」
「あるじ」
「なんじゃ?」
「楽しんでますよね」
「何のことじゃ?」
女は涼しい顔をしていた。
男は何か言いかけて、やめた。
その背中で、少女は安心したように眠っている。
やがて二人の姿が天幕の向こうへ消えた。
宮の中に、静けさが戻った。
薪がひとつ、ぱちりと弾ける。
遠くで、波の音がしていた。




