手を繋いで
「ヒコさま」
「なんだ」
「手」
「……」
「手」
「分かってる」
「あるじさまが言ったからね」
「分かってると言ってるだろう」
差し出された大きな手を、少女は両手でつかんだ。
「両手で持つな。歩きにくい」
「だって大きいんだもん」
「片方でいい」
「落ちるかもしれない」
「階段からか?」
「うん」
「落ちない」
「分かんないよ」
「昨日、一人で登っただろう」
「昨日は昨日」
「……好きにしろ」
「うん」
少女は満足そうに笑った。
それから、大きな手を両手で握ったまま、一段登った。
「歩きにくい」
「わたしは歩きやすいよ」
「俺が歩きにくいんだ」
「我慢して」
「なんで俺が」
「あるじさまが言ったから」
「……」
「ヒコさま?」
「登るぞ」
「はーい」
長い階段を、二人で登っていく。
少女は昨日よりずっと元気だった。
途中の柱を越えると、少女は口を閉じた。
今日は覚えている。
一段。
二段。
三段。
「ヒコさま」
「……」
「ヒコさま」
「……」
「ねえ」
「静かにするんじゃなかったのか」
「小さい声ならいいかなって」
「駄目だ」
「じゃあ、ヒコさまも喋っちゃ駄目だよ」
「俺はお前に答えただけだ」
「喋った」
「……」
「喋ったよね」
「……」
「ヒコさま」
「……」
「ねえ」
男は黙ったまま少女の手を引いた。
「ずるい」
それにも答えなかった。
宮へ着くと、少女は昨日と同じように礼をした。
二度頭を下げ、四度手を打つ。
もう一度、頭を下げる。
そして――。
「あるじさまー!」
「おい!」
男が襟をつかもうとした。
少女はするりと逃げた。
「今日は先に声かけたもん!」
「声がでかい!」
「あるじさまー! 来たよー!」
「聞こえておる」
奥から返事があった。
少女は勝ち誇った顔で男を見る。
「ほら」
「何が、ほら、だ」
天幕の向こうから、くすくすと笑う声がした。
少女には、宮へ来るとやることがあった。
まず、火を見る。
小さくなっていれば薪を足す。
水の入った器を確かめる。
敷物の端がめくれていれば直す。
あるじが使った器があれば下げる。
難しいことは何もない。
少女にできることだけだった。
「あるじさま」
「なんじゃ」
「これ、昨日のまま」
少女が空になりきっていない器を持ち上げる。
「そうじゃな」
「ちゃんと食べないと駄目だよ」
「食べたぞ」
「残ってる」
「少しじゃ」
「駄目」
「……お前はヒコか」
「え?」
「いや、なんでもない」
少女は首を傾げながら器を持っていった。
入口の近くに置いておけば、下から来る者が持っていく。
少女はそのまま、別の器を抱えて戻ってきた。
「今日は木の実あるよ」
「そうか」
「食べる?」
「あとでな」
「今食べようよ」
「あとでじゃ」
「忘れるでしょ」
「忘れぬ」
「昨日も忘れた」
「……」
「一昨日も」
「……」
「その前も」
「いつまで覚えておるのじゃ」
「あるじさまのことだから覚えてる」
少女はそう言うと、木の実をひとつ取った。
「はい」
「自分で食べられる」
「はい」
「……」
「はい」
女はしばらく少女を見ていた。
やがて諦めたように口を開ける。
少女が木の実を放り込んだ。
「おいしい?」
「うむ」
「じゃあ、もう一個」
「もうよい」
「もう一個」
「いらぬ」
「もう一個」
「……お前、本当にヒコに似てきたの」
「えっ」
少女は嫌そうな顔をした。
「やだ」
「聞こえてるぞ」
入口から声がした。
「ヒコさま、まだいたの?」
「いたら悪いか」
「帰ったと思ってた」
「あるじに話がある」
「じゃあ待ってて」
「なぜだ」
「いま、あるじさま木の実食べてるから」
「見れば分かる」
男は少女の手元を見た。
「お前が食わせてるのか」
「食べないんだもん」
「あるじ」
「なんじゃ」
「食べてください」
「食べておるではないか」
「こいつに言われてからでしょう」
「ヒコさまも言って」
「今言った」
「もっと」
「あるじ。ちゃんと食べてください」
「……二人して、うるさいのう」
女はそう言いながら、少女の手からもうひとつ木の実を取った。
少女が笑った。
男も、それ以上は何も言わなかった。
「それで、話とはなんじゃ」
少女が器を片づけ始めてから、女が聞いた。
男は腰を下ろした。
「明日のことです」
「明日?」
「咲耶が来ます」
女の手が止まった。
「……あやつか」
「嫌そうですね」
「嫌ではない」
「今、明らかに嫌そうな顔をしましたよ」
「しておらぬ」
「しました」
「ヒコ」
「なんです」
「お前は最近、細かいの」
「誰のせいだと思ってるんですか」
少女が器を抱えたまま戻ってきた。
「誰が来るの?」
「咲耶だ」
男が答える。
「サクヤさま?」
「知っておるのか?」
女が尋ねると、少女は大きく頷いた。
「うん!」
「どこで会った」
「下で!」
「いつじゃ」
「前!」
「前とはいつじゃ」
「前は前」
女は男を見る。
「知っていたか?」
「知りません」
「ヒコさまも一緒じゃなかったよ」
「なら、いつだ」
「だから前」
「……」
「……」
二人が同時に黙った。
少女は不思議そうに二人を見る。
「なに?」
「いや」
男が首を振った。
「お前に聞いた俺が悪かった」
「なんで?」
「気にするな」
女は少し考えてから聞いた。
「咲耶と何をしたのじゃ」
「お菓子もらった」
「……」
女の眉がわずかに動いた。
「ヒコ」
「なんです」
「あやつ、わらわには何も持ってこなかったぞ」
「知りませんよ」
「少女には菓子をやったのか」
「みたいですね」
「あるじさま、食べたかったの?」
「別に」
「明日もらってあげる」
「いらぬ」
「もらってくるね」
「いらぬと言っておる」
「あるじ」
男が小さく笑った。
「なんじゃ」
「食べたいなら、そう言えばいいでしょう」
「食べたくなどない」
「じゃあ、わたしが食べる」
「……少し残しておけ」
「食べたいんじゃん」
少女が笑った。
「うるさい」
女はそっぽを向いた。
男も笑った。
翌日。
「あるじー!」
宮の外から、女の声が響いた。
少女が顔を上げる。
「来た!」
「走るでない」
「はーい!」
返事をした時には、もう走っていた。
「聞いておらぬではないか」
天幕が勢いよく開いた。
「あるじ、久しぶり!」
「サクヤさま!」
「あ、いたいた」
入ってきた女は少女を見つけると、にっと笑った。
その手には、大きな包みを抱えている。
「ちび、元気だった?」
「ちびじゃないよ!」
「じゃあ、大きくなった?」
「なった!」
「ほんとに?」
咲耶は少女の頭に手を置いた。
しばらく眺める。
「……分かんない」
「なったもん!」
「あはは、ごめんごめん。大きくなった、大きくなった」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんって言った!」
少女が頬を膨らませる。
その目が、咲耶の抱えている包みに止まった。
「それなに?」
「これ?」
「うん」
「お土産」
「お菓子?」
「よく分かったね」
「やった!」
少女が包みに手を伸ばす。
「あ、待って待って。これはあるじに持ってきたの」
少女の手が止まった。
ゆっくり、あるじを見る。
「あるじさま」
「なんじゃ」
「お菓子だって」
「そうじゃな」
「よかったね」
「別に待ってなどおらぬ」
咲耶があるじを見る。
「え、待ってたの?」
「待っておらぬ」
「ふーん?」
「なんじゃ、その顔は」
「別に?」
「腹が立つの」
「あるじさま、昨日――」
「言わんでよい」
あるじが少女の口を塞いだ。
「むぐっ」
咲耶が吹き出した。
「あはは! なにそれ。絶対なんかあったでしょ」
「何もない」
「じゃあ聞いてもいいじゃん」
「駄目じゃ」
「ほら、あるんじゃん」
「うるさい」
咲耶は笑いながら、あるじの隣へ腰を下ろした。
少女も当然のように、その間へ入り込む。
「狭い」
「いいでしょ」
「狭いと言っておる」
「じゃあ、あるじさま、もうちょっとそっち」
「なぜ、わらわが動くのじゃ」
「だって狭いもん」
「お前が入ってきたからであろう」
「やだ。ここがいい」
「まったく……」
あるじは小さく息を吐いた。
それから少女の脇に手を入れると、ひょいと抱き上げた。
「わっ」
そのまま、自分の膝の上へ座らせる。
「これでよかろう」
「うん!」
少女は満足そうに、あるじにもたれた。
咲耶が二人を見る。
「……ずいぶん懐いたね」
「そうかの?」
「懐いたっていうか……まあ、いいか」
「なんじゃ」
「なんでもない」
咲耶は笑った。
「前に来た時より、ずっと近くにいるじゃん」
咲耶が少女を見る。
「毎日ここに来てるの?」
「うん」
「何してるの?」
「あるじさまのお世話」
「へえ」
咲耶があるじを見る。
「お世話されてるんだ?」
「勝手にやっておるだけじゃ」
「ちゃんと食べないから」
「あー」
「納得するでない」
「だって、あるじだし」
「どういう意味じゃ」
「そのままの意味」
少女はあるじの膝の上で、包みから菓子をひとつ取った。
「これ、おいしい」
「そうか」
「あるじさまも食べる?」
「あとでよい」
「またあとでって言った」
「食べる。食べるから、お前が先に食べよ」
「うん」
少女は嬉しそうに菓子を頬張った。
咲耶もひとつ取る。
「これ、結構おいしいでしょ」
「うん!」
「まだあるから、いっぱい食べていいよ」
「ほんと?」
「咲耶」
「なに?」
「いっぱいは駄目じゃ」
「いいじゃん。たまには」
「腹を壊す」
「そんなに食べないって」
「こやつなら食べる」
「食べないもん」
そう言いながら、少女はもう次のひとつへ手を伸ばしている。
「ほれ見ろ」
「あはは。ほんとだ」
「サクヤさま!」
「ごめんごめん」
少女が口を尖らせた。
その口の端に、菓子の欠片がついていた。
あるじがそれに気づく。
「じっとしておれ」
「ん?」
指先で、少女の口元をそっと拭う。
「ついておったぞ」
「どこ?」
「もう取った」
「ありがと」
「うむ」
少女は何事もなかったように、また菓子を食べ始めた。
咲耶だけが、しばらく二人を見ていた。
「……なに?」
あるじが気づいた。
「別に」
「さっきからそればかりじゃな」
「そう?」
「言いたいことがあるなら言え」
「ないよ」
咲耶は菓子をひとつ口に放り込んだ。
それから、少し笑った。
「いいんじゃない? こういうのも」
「何がじゃ」
「なんでもないって」
「変なやつじゃの」
「あるじに言われたくないなあ」
少女は二人のやり取りなど気にせず、もうひとつ菓子を取った。
「一個だけじゃぞ」
「これで二個目」
「なら、それで終わりじゃ」
「もう一個」
「駄目じゃ」
「サクヤさま」
「なに?」
「もう一個いい?」
「いいよ」
「咲耶!」
「あはは! いいじゃん、三個くらい」
「さっき二個と言っておったではないか!」
「増えた」
「勝手に増やすでない!」
「あるじだって食べればいいじゃん」
「そういう話ではない!」
少女が笑った。
咲耶も笑った。
あるじは二人を睨んでいたが、やがて諦めたように菓子をひとつ取った。
「あるじさまも食べるの?」
「食べる」
「おいしい?」
「……うむ」
「よかった」
少女は嬉しそうに笑った。
火のそばに、三人の笑い声が重なった。
いつもより、少しだけ賑やかな夜だった。




