名前
柔らかな日の光が、集落に降り注いでいた。
風が吹くたび、干された布がゆっくりと揺れる。
どこかで子供たちの笑い声がして、少し離れたところからは、魚を焼く匂いが漂ってくる。
そんな中を、少女は忙しそうに走り回っていた。
「それ、こっち!」
「こっちってどっちだ」
「こっち!」
「だから、どっちだよ」
「わたしのところ!」
「最初からそう言え」
男が呆れたように笑いながら、籠を地面へ下ろした。
中には魚が何匹か入っている。
朝のうちに獲れたものらしく、まだ目が澄んでいた。
少女は籠の前にしゃがみ込む。
「大きい」
「だろ?」
「昨日のより大きい」
「だろ?」
「でも昨日のほうがおいしそう」
「おい」
少女は真剣だった。
籠の中を覗き込み、一本ずつ魚を見比べていく。
「これと……これ」
「二本でいいのか?」
「うん」
「もっと持ってけ。せっかくあるじ様に差し上げるんだ」
「いっぱい持っていっても食べないもん」
「そうなのか?」
「うん。すぐ残す」
少女は口を尖らせた。
「だから今日は、ちゃんと食べてもらうの」
「二本にしたら余計食わないんじゃないのか?」
「食べるの」
「なんで分かる」
「わたしが言うから」
「……そうか」
男は笑った。
少女は選んだ魚を小さな籠へ移す。
それから立ち上がると、今度は隣に置かれた野菜へ向かった。
「おい、ちび」
後ろから声が飛んでくる。
少女が振り返った。
「ちびじゃないもん」
「これも持っていけ」
別の男が、木の実の入った小さな袋を差し出していた。
少女の顔がぱっと明るくなる。
「これ、甘いやつ?」
「食うなよ」
「食べないよ」
「今、食う顔しただろ」
「してない」
「してた」
「あるじさまのだから食べないもん」
「ほんとか?」
「ほんと!」
袋を受け取る。
ずしりと重かった。
「……重い」
「頑張れ、ちび」
「だから、ちびじゃないってば」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」
「え?」
「ちびが嫌なら、名前で呼んでやるよ」
少女の動きが止まった。
「名前。なんていうんだ?」
「……」
さっきまで膨らんでいた頬が、ゆっくり戻る。
少女は袋を抱えたまま俯いた。
「……」
「なんだ?」
男は首を傾げた。
「名前だよ。名前」
少女の指が、袋の端をぎゅっと掴んだ。
口を開く。
けれど、声は出なかった。
「お前、名前――」
「おい」
低い声がした。
男が振り返る。
その顔が変わった。
「こ、これは……磐余彦様」
「何してる」
「い、いえ。この子に、あるじ様へお持ちいただくものを……」
「そうか」
磐余彦はそれ以上聞かなかった。
少女の横を通り過ぎる。
「行くぞ」
「……」
返事はなかった。
数歩進んだところで、足を止める。
振り返った。
少女はまだ同じ場所に立っていた。
俯いたまま、木の実の袋を抱えている。
磐余彦は戻ってきた。
少女の前で止まる。
ぽん。
大きな手が、少女の頭に乗った。
「行くぞ?」
少女が顔を上げた。
「……うん」
手が離れる。
男は何事もなかったように歩き出した。
少女はしばらくその背中を見ていた。
それから慌てて走り出す。
「待って、ヒコさま!」
「早く来い」
「待ってって言ってるの!」
「どっちだ」
「なにが?」
「待つのか、早く行くのか」
少女は少し考えた。
「……待ちながら早く行って」
「無茶言うな」
少女が笑った。
もう、いつもの顔だった。
少女は抱えていた袋を台の上へ置いた。
「これも持ってく」
「多い」
「多くない」
「魚もあるだろ」
「あるよ」
「野菜も持っていくんだろ」
「うん」
「誰が食うんだ、それ」
「あるじさま」
「食わん」
「食べるの」
「昨日も残しただろ」
「だから今日は食べてもらうの」
「増やしたら余計残すだろ」
「……」
少女がヒコを見上げる。
「なんだ」
「ヒコさまって、あるじさまのことよく見てるね」
「……」
「昨日どれくらい食べたかも知ってるんだ」
「それを置いてこい」
「なんで?」
「多いからだ」
「話変えた」
「変えてない」
「変えたよ」
「いいから半分戻せ」
「やだ」
「持てなくなっても知らんぞ」
「ヒコさまが持って」
「なんで俺が」
「大きいから」
「理由になってない」
「力持ちだから」
「持ち上げるな。持たんぞ」
「じゃあ、これお願い」
「話聞いてたか?」
少女は木の実の袋をヒコへ押しつけた。
ヒコは受け取らない。
少女も離さない。
二人の間で袋が止まった。
「ヒコさま」
「なんだ」
「お願い」
「駄目だ」
「あるじさま、お腹空いてるかも」
「自分で持て」
「重い」
「さっき持ってただろ」
「今、急に重くなった」
「そんなわけあるか」
「なったの」
「なら置いていけ」
「やだ」
しばらく睨み合う。
先に息を吐いたのはヒコだった。
「貸せ」
「うん!」
少女はすぐに袋を渡した。
「最初から持たせるつもりだっただろ」
「そんなことないよ」
「こっち見て言え」
少女は魚の籠を持ち上げた。
「お魚、落とさないようにしなきゃ」
「おい」
「大変だなあ」
「聞け」
近くにいた女が、声を殺して笑っていた。
日が傾くまで、まだ少し時間があった。
少女は何度も空を見上げた。
「まだ?」
「まだだ」
「もう行けるんじゃない?」
「早い」
「ちょっとだけなら」
「駄目だ」
「……けち」
「それを覚えるな」
ヒコは木陰に腰を下ろしていた。
その横には、宮へ持っていく荷がまとめて置かれている。
少女も隣に座った。
足をぶらぶらさせる。
「あるじさま、何してるかな」
「さあな」
「寝てるかな」
「寝てるかもな」
「お腹空いてるかな」
「お前はそればっかりだな」
「だって、食べないんだもん」
「腹が減れば食う」
「食べないよ」
「なんで分かる」
「わたし、あるじさまのお世話してるから」
少女は胸を張った。
「知ってる」
「だから分かるの」
「そうか」
「うん」
少しだけ風が吹いた。
少女はまた空を見上げる。
さっきより、ほんの少しだけ陽が低くなっていた。
やがて空が赤くなった。
二人は荷を持って、長い階段の前に立った。
少女が一段目へ足をかける。
そのまま二段、三段と登って――止まった。
「ヒコさま」
「なんだ」
少女が振り返る。
「手」
「……」
ヒコは少女を見た。
今日は何も言わなかった。
荷を片手に持ち替える。
そして、空いた手を差し出した。
少女が目を丸くする。
「今日は早い」
「いらないなら戻すぞ」
「いる!」
少女は慌ててその手を掴んだ。
ぎゅっと握る。
「……痛い」
「我慢して」
「なんでだ」
「離したら駄目だから」
「離さない」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、行こ」
少女が一段上がった。
ヒコも続く。
長い階段を、二人は登り始めた。
二本の太い柱と、その上に渡された横木のところまで来ると、少女は足を止めた。
ヒコの手を握ったまま、口元に指を立てる。
「ここから静かにする」
「今日はできるのか」
「できるよ」
「昨日もそう言ってたな」
「今日はほんと」
「そうか」
「うん」
少女は小さな声で答えた。
数段登る。
「ねえ、ヒコさま」
「……」
「ヒコさま」
「静かにするんじゃなかったのか」
「今のは小さい声だからいいの」
「なら俺に喋らせるな」
「ヒコさまも喋った」
「……」
「ね?」
「前を向け」
少女は満足そうに笑った。
宮へ着くころには、空はすっかり暗くなっていた。
火の明かりが、入口の奥で揺れている。
少女はヒコの手を離すと、いつものように姿勢を正した。
二度、頭を下げる。
四度、手を打つ。
もう一度、頭を下げる。
そして大きく息を吸った。
「あるじさまー!」
「お前な」
すぐ横からヒコの声が飛ぶ。
奥から、聞き慣れた声が返ってきた。
「今日も元気じゃのう」
「うん!」
少女は魚の籠を抱えて中へ駆け込んだ。
あるじは火のそばに座っていた。
長い髪が背から流れ、揺れる火がその横顔を照らしている。
「あるじさま、ごはん!」
「見れば分かる」
「今日はいっぱい食べてね」
「……多くないかの?」
「多くない」
後ろから入ってきたヒコが、木の実の袋を置いた。
「俺もそう言いました」
「ヒコまでおるのか」
「俺が持たされたんです」
「持ってくれたの」
「同じだろ」
少女はさっそく食事を並べ始めた。
魚。
野菜。
木の実。
あるじは並んでいくものを眺めている。
「やはり多いと思うがの」
「食べられるよ」
「わらわは、それほど腹が減っておらぬ」
少女の手が止まった。
「昨日も言った」
「昨日とは違うぞ」
「どこが?」
「……今日は今日じゃ」
「同じじゃん」
「ヒコ」
「俺に振らないでください」
「お前からも言ってやれ」
「食べてください」
「……お前まで」
「だから言ったでしょう」
あるじは不満そうに二人を見る。
少女は満足そうだった。
しばらくして。
「あるじさま」
「なんじゃ」
「食べて」
「食べておる」
「それ、さっきから全然減ってない」
「ゆっくり食べておるのじゃ」
「遅すぎるよ」
「急いで食べるものでもなかろう」
少女はあるじの前に置かれた魚を見る。
それから、自分の手元に残してあった小さな木の実を見る。
「じゃあ、これも」
「増やすでない」
「甘いよ」
「お前が食べればよい」
「わたしは下で食べたからいいの」
「ならぬ」
少女が首を傾げた。
「なんで?」
「なんでと言われても……」
あるじは少し考えた。
「お前が腹を空かせるのは、わらわが嫌じゃ」
少女が瞬きをした。
「……そうなの?」
「うむ」
「じゃあ半分こ」
「半分?」
「うん」
少女は木の実を二つに割ろうとした。
硬い。
「……割れない」
「貸してみよ」
あるじが受け取る。
指先に力を入れると、木の実は小さく割れた。
少女の目が輝く。
「すごい」
「これくらいで驚くでない」
あるじは片方を少女へ渡した。
「ほれ」
「あるじさまは?」
「もう片方があるじゃろ」
「食べてね」
「分かっておる」
二人は同時に口へ入れた。
少女が笑う。
「おいしいね」
「うむ」
火の向こうで、ヒコが二人を見ていた。
あるじが気づく。
「なんじゃ」
「別に」
「何か言いたそうじゃぞ」
「何も」
「なら見るでない」
「見てませんよ」
「見ておった」
「食べてください」
「話を逸らしたな」
少女が吹き出した。
「ヒコさま、さっきも話変えたよ」
「余計なことを言うな」
「やっぱり変えたんじゃん」
「お前は食ってろ」
「食べてるよ」
「なら静かに食え」
「ヒコさまも食べる?」
「いらん」
「おいしいのに」
「下で食った」
「じゃあ、あるじさまと同じだ」
「どこがだ」
「お腹いっぱい」
「わらわはそのようなことは言っておらぬ」
「でも食べないじゃん」
「……ヒコ」
「俺を巻き込まないでください」
三人の声が、火のそばに重なった。
食事が終わるころには、少女の瞼が何度も落ち始めていた。
「眠いなら寝ろ」
ヒコが言う。
「眠くない」
「目が閉じてるぞ」
「閉じてない」
「今閉じてた」
「考えてたの」
「何を」
「……いろいろ」
「便利だな、それ」
少女は皿を重ねようとして、小さくあくびをした。
あるじがそれを見ている。
「もうよい。置いておけ」
「でも、片づけないと」
「明日でよい」
「明日?」
「明日も来るのであろう?」
少女の手が止まった。
「来るよ?」
「そうか」
「……来ちゃ駄目?」
あるじが眉を寄せた。
「誰がそのようなことを言った」
「だって聞いたから」
「聞いただけじゃ」
「じゃあ来る」
「うむ」
少女は笑った。
「明日もごはん持ってくるね」
「今日ほどはいらぬぞ」
「いっぱい持ってくる」
「話を聞け」
「ちゃんと食べたら減らす」
「なぜお前が決めるのじゃ」
「お世話してるから」
あるじは何か言い返そうとして――やめた。
「……好きにせい」
「うん!」
少女は嬉しそうに返事をした。
帰るころには、少女はもうほとんど眠っていた。
入口まで歩いたところで、ふらりと身体が傾く。
ヒコがその襟を掴んだ。
「寝ながら歩くな」
「寝てない……」
「寝てる」
「歩けるもん」
「階段から落ちるぞ」
「落ちない……」
ヒコはため息をついた。
「ほら」
少女の前に背を向け、腰を落とす。
「……なに?」
「乗れ」
少女の目が少しだけ開いた。
「いいの?」
「早くしろ」
「けちじゃないね」
「置いてくぞ」
「乗る」
少女はヒコの背中にしがみついた。
ほどなくして、小さな寝息が聞こえ始める。
ヒコが立ち上がった。
「では」
「ヒコ」
呼び止められる。
ヒコが振り返る。
あるじは宮の入口に立っていた。
「なんです?」
「……明日も連れてこい」
ヒコは一瞬、あるじを見る。
それから背中の少女を少しだけ背負い直した。
「言われなくても来ますよ、こいつは」
「そうか」
「ええ」
「……そうか」
あるじは、それ以上何も言わなかった。
ヒコも何も聞かなかった。
少女を背負ったまま、長い階段を下りていく。
あるじはしばらく、その背中を見送っていた。
やがて姿が見えなくなっても、もう少しだけそこに立っていた。
夜の風が、長い髪を静かに揺らしていた。




