静香さんはどう思う?
「眠そう」
声をかけられて、博繁は顔を上げた。
「……そう見えます?」
「見える」
「即答ですね」
「目の下、ちょっと黒いよ」
静香が自分の目元を指差した。
博繁は反射的に自分の目の下を触る。
「昨日、あんまり寝てないんですよ」
「夜更かし?」
「まあ、そんなところです」
「若いねえ」
「静香さんに言われたくないな」
「なんで?」
「いや……」
博繁は静香を見る。
相変わらず若く見える。
はるむより二つ上だと聞いた今でも、下手をすれば大学生で通りそうだった。
「なんとなく」
「失礼ね」
「何も言ってないでしょう」
「顔が失礼だった」
「顔にまで責任持てませんよ」
静香が笑った。
九月の暑さはまだ残っていた。
ただ、数日前までに比べれば、風はいくらかましになっている。
発掘現場では今日も作業員たちが土を掘り、記録を取り、時折誰かが水分補給のために手を止めていた。
三百五十九本目。
そう呼ばれ始めた銅剣についても、今のところ新しい話はない。
保存処理と観察が続いている。
あの線が人工的なものなのか。
ただの傷なのか。
それさえ、まだ確定していなかった。
「で?」
静香が聞いた。
「何がです?」
「何して夜更かししたの?」
「ああ」
博繁は手にしていたファイルを脇へ置いた。
「論文読んでたんです」
「論文?」
「美咲ミヅキの」
静香が一度だけ瞬いた。
「ああ、お母さんの」
「綾瀬先生に読めって言われまして」
「へえ」
「六本読んだら十一時過ぎてました」
「六本も?」
「途中から止まらなくなったんですよ」
「物好きだね」
「娘が言います?」
「だって、私は読まないもの」
「読まないんだ」
「難しいし」
あまりにもあっさり言われて、博繁は笑った。
「有名な研究者のお母さんを持つ娘として、それでいいんですか」
「いいんじゃない?」
「適当だなあ」
「博兄に言われたくない」
「それ、まだ使うんですか?」
「気に入ってるの」
どうやら、やめる気はないらしい。
博繁は諦めた。
*
昼休み。
博繁は現場脇の簡易テントで、コンビニのおにぎりを食べていた。
静香は向かいに座っている。
なぜかプリンを食べていた。
「昼飯、それだけ?」
「あとこれ」
袋から小さなパンが出てきた。
「順番逆じゃないですか」
「好きなものから食べるの」
「小学生みたいだな」
「博兄、おにぎり一個じゃん」
「俺はいいんです」
「よくないでしょ」
「朝も食べましたから」
「何を?」
「コーヒー」
「それ食べ物じゃないよ」
正論だった。
博繁は黙っておにぎりを食べる。
静香は満足そうにプリンの続きを食べた。
「そういえば」
博繁が言った。
「お母さん、字汚かったんですね」
静香のスプーンが止まった。
「見たの?」
「研究ノート」
「ああ」
静香は納得したように頷いた。
「汚いでしょ」
「娘が言います?」
「事実だもん」
昨日と同じようなことを言われた気がした。
「三十冊くらい残ってるらしいですよ」
「そんなに?」
「知らなかったんですか」
「研究してたのは知ってたけど、ノートが何冊あるかまでは知らないよ」
「まあ、普通そうか」
自分の親が仕事で使ったノートの冊数など、普通は知らない。
博繁も父親が仕事で何冊ノートを使ったかなど知らなかった。
「でも、すごいですよ」
「何が?」
「三十冊」
「冊数?」
「中身です」
博繁は食べ終えたおにぎりの包みを丸めた。
「ほとんど失敗なんですよ」
静香が少し首を傾げる。
「失敗?」
「仮説を立てて、調べて、違うってなって。また別の仮説を立てて」
「ああ」
「何年も前に捨てた考えを、また拾って検証したりもしてる」
「しつこいね」
「俺もそう思いました」
静香が笑った。
「お母さん、諦め悪かったから」
「そうなんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そういう人だったんじゃない?」
「娘でしょう」
「娘でも分からないことくらいあるよ」
「まあ、そうですけど」
静香はパンの袋を開けた。
博繁は少しだけ考える。
「でも、あれはすごいな」
「そんなに?」
「論文読んだ時より、ノート読んだ時の方が驚きました」
「変なの」
「そうですか?」
「普通、ちゃんと書いた方を褒めない?」
「論文は綺麗すぎるんですよ」
「綺麗?」
「完成してるから」
博繁は言った。
「ノート見ると、その前にどれだけ間違えたのか分かるんです」
静香はパンを一口食べた。
「間違えちゃ駄目なの?」
「逆です」
博繁はすぐに答えた。
「間違えていいんだなって思った」
「へえ」
「いや、研究者なんだから当たり前なんですけどね」
自分で言って、少し笑う。
「でも俺、いつの間にか自分の説を正しくすることばっかり考えてたのかもしれない」
静香は黙って聞いていた。
「卑弥呼と天照大神が繋がるんじゃないかって考えて、それを支える資料を探して」
「うん」
「もちろん違う資料も見てたつもりです。でも、本当に自分の説を壊そうとしてたかって言われると……」
博繁は頭を掻いた。
「ちょっと自信ないですね」
「ふうん」
「何です、その反応」
「別に」
静香は笑った。
「博兄、ちゃんと研究者なんだなって」
「今まで何だと思ってたんですか」
「発掘現場にいる人」
「範囲が広すぎる」
「あと、はるむちゃんのお兄ちゃん」
「兄じゃない」
「お尻つねられてたけど」
「忘れてください」
静香が声を立てて笑った。
*
午後。
静香はまだ現場にいた。
作業の邪魔をするわけでもなく、時折離れたところから発掘を眺めている。
いつからか、それが普通になっていた。
博繁も、もう見学者扱いしていない。
「静香さん」
「ん?」
「ちょっといいです?」
博繁は休憩用の机に一冊のコピーを広げた。
研究ノートそのものを現場へ持ち出すわけにはいかないので、気になったページだけ複写してきたものだ。
「これ」
静香が覗き込む。
「字、汚いね」
「そこじゃない」
「だって読みにくい」
「娘でしょう」
「娘でも汚い字は読みにくいよ」
もっともだった。
博繁は紙の一箇所を指差す。
『政治的統合ではなく祭祀連合?』
その下には、いくつかの地名と矢印。
そして最後に、
『これだけでは人の移動を説明できない』
とある。
「お母さん、この辺の話ってしてました?」
「この辺?」
「出雲です」
「出雲の話はよくしてたよ」
「どんな?」
「昔はもっと大きな場所だったとか。今考えられてるより、人がいっぱい集まってたんじゃないかとか」
博繁は顔を上げた。
「それ、結構面白い話ですよ」
「そう?」
「考古学的にも出雲を小さく見る理由はないですからね」
「へえ」
「ただ、どこまで大きく見るかは別ですけど」
静香はコピーへ目を落とした。
「お母さんは、どう考えてたんでしょうね」
「さあ」
「聞いてない?」
「そこまでは」
「そうか」
博繁は紙を見た。
出雲。
九州。
畿内。
矢印。
消された線。
ミヅキが何を考えていたのか。
知りたい。
だが。
ふと顔を上げる。
静香はまだ隣にいた。
「じゃあ」
「ん?」
「静香さんは、どう思います?」
「私?」
「はい」
静香は少し驚いた顔をした。
「私、研究者じゃないよ」
「知ってます」
「論文も読まないし」
「それも今日知りました」
「だったら聞いてもしょうがなくない?」
「別に、研究者じゃなくても考えるくらいできるでしょう」
「そうだけど」
静香はコピーを覗き込んだ。
しばらく眺める。
「……難しいね」
「それだけ?」
「だって難しいものは難しいでしょ」
「ミヅキ先生の娘とは思えない回答だな」
「失礼ね」
博繁が笑う。
静香も笑った。
「でも」
「はい?」
静香は紙の上を指でなぞった。
「どうして、どこか一つが全部の中心だったって考えるの?」
博繁は静香を見る。
「どういう意味です?」
「分かんない」
「分かんないのに言ったんですか」
「今思っただけ」
静香は肩をすくめた。
「いろんなところに人がいたんでしょ?」
「いましたね」
「だったら、みんなそれぞれ大事だったんじゃないの?」
「……ずいぶん大雑把ですね」
「だから研究者じゃないって言ったじゃない」
「確かに」
博繁は笑った。
ただ。
コピーへ目を戻す。
九州。
畿内。
出雲。
それぞれを結ぶ線。
静香の言葉を研究上の何かとして受け取るほどのものではない。
ただの感想だ。
それでも。
「みんなそれぞれ、か」
「変?」
「いや」
博繁は首を振った。
「そういう見方もあるなと思って」
「じゃあ役に立った?」
「どうでしょう」
「そこは役に立ったって言うところでしょ」
「研究者は簡単に結論出しちゃ駄目なんですよ」
「面倒くさい人たちだね」
「昨日から俺もそう思い始めました」
二人で笑った。
*
夕方。
作業を終え、博繁はテントの中を片付けていた。
静香もそろそろ帰るらしい。
「じゃあ、またね」
「はい」
静香が道路の方へ歩き出す。
「あ、静香さん」
「ん?」
振り返る。
博繁は少し迷ってから言った。
「お母さんの論文、もう少し読んでみます」
「うん」
「ノートも」
「うん」
「なんか、悔しいんですよね」
「何が?」
「俺が考えてること、だいたい先に考えてるから」
静香が笑った。
「負けず嫌い?」
「研究者ですから」
「関係ある?」
「たぶん」
静香は少し考えるように首を傾けた。
「気が合ったかもね」
「誰と?」
「お母さん」
「ああ」
博繁は想像してみた。
三十冊近いノート。
容赦なく自説を消していく研究者。
綾瀬が一週間考えたことを五分でひっくり返す女。
「……いや」
「ん?」
「たぶん喧嘩しますよ、俺」
「どうして?」
「向こうも頑固そうだし、俺も結構頑固なんで」
静香が吹き出した。
「そうかも」
「なんでそんな嬉しそうなんですか」
「別に」
「絶対なんか想像したでしょう」
「してないよ」
「嘘だ」
「研究者なら証拠を出してください」
「……それ言います?」
静香は笑いながら手を振った。
「じゃあね、博兄」
「だから、それやめません?」
返事の代わりに、もう一度手が振られた。
博繁はその背中を見送った。
そしてテントへ戻る。
机の上には、美咲ミヅキの研究ノートのコピーがある。
少し前まで。
博繁が知りたかったのは、美咲ミヅキが何を考えていたのかだった。
今も、それは変わらない。
ただ。
今日はもう一つ。
別の人間の考えも聞いてみたいと思った。
美咲ミヅキの娘ではなく。
美咲静香が、どう考えるのか。
それだけだった。




