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美咲ミヅキ

「今日読め、か」


博繁は椅子に腰を下ろしながら呟いた。


時計を見る。


午後九時十二分。


東都大学の考古学研究室には、もうほとんど人が残っていなかった。


発掘現場から戻り、写真と記録を整理して、明日の予定を確認する。


本当なら、とっくに帰っている時間だ。


だが、昼間の綾瀬の言葉が頭に残っていた。


――読め。


――今日読め。


「もう今日、ほとんど残ってないんだけどな」


誰もいない研究室で文句を言っても仕方がない。


博繁はパソコンを立ち上げた。


検索欄に名前を入力する。


美咲ミヅキ。


何本か出てくればいいと思っていた。


「……多いな」


思わず声が出た。


一本や二本ではない。


青銅器祭祀。


弥生後期の地域間交流。


出雲地域における祭祀遺物。


記紀神話と古代祭祀。


女性祭祀者をめぐる伝承。


論文だけではなかった。


研究会での報告や紀要、共同研究の記録まである。


発表された年代にも、かなりの幅があった。


「ずいぶん長くやってたんだな」


博繁は一覧を眺めた。


美咲静香のお母さん。


綾瀬が若い頃に知っていた研究者。


そして。


――お前より、ずっと先を歩いてた。


「……言ってくれるよな」


博繁は一本目を開いた。


*


最初の一本を読み終えた頃には、九時四十分を過ぎていた。


「……まあ」


悪くない。


いや、かなりしっかりしている。


出土状況、類例、年代観。


自説に都合のいい資料だけを拾っているわけでもない。


ただ、綾瀬があそこまで言うほどかと言われれば、まだ分からなかった。


「普通にいい論文だな」


二本目を開く。


出雲地域における青銅器祭祀。


読み始めて十分ほどで、博繁の手が止まった。


「……へえ」


面白い。


青銅器が大量に出土したという事実だけを見ていない。


その分布。


製作技法。


周辺地域との共通点。


九州、瀬戸内、畿内。


出雲だけを切り離さず、広い範囲の動きの中で見ている。


それでも結論は慎重だった。


出雲の特殊性を認めながら、それをただちに政治的中心性へ結びつけてはいない。


「慎重だな」


博繁は呟いた。


嫌いではない。


むしろ、好きな書き方だった。


三本目を開く。


今度は記紀神話と古代祭祀の関係だった。


数ページ読んだところで、


「……ん?」


博繁は画面を戻した。


もう一度読む。


さらに進む。


また戻る。


「いや、待て」


椅子を机へ寄せた。


天照大神。


女性祭祀者。


太陽祭祀。


各地に残る女王伝承。


どれか一つを単純に結びつけているわけではない。


むしろ何度も注意している。


後世に成立した神話から、古代の実像を直接復元することはできない。


その上で。


後世の天照大神像には、複数の古い女性祭祀者や統治者の記憶が重ねられた可能性がある。


「……俺と近い」


博繁は呟いた。


いや。


読み進めて、すぐに思い直す。


「近い、じゃないな」


自分も考えていた。


卑弥呼と天照大神。


歴史上の女性祭祀者と、後世の神話。


そこに何らかの関係があるのではないか。


大胆な仮説であることは分かっていた。


それでも、自分なりに調べてきたつもりだった。


だが。


画面の端に表示された発表年を見る。


二十年以上前だった。


「……」


ページを戻す。


読む。


さらに戻る。


「これ、俺が考えてたことじゃないか」


少し悔しかった。


だが、その程度では終わらなかった。


ミヅキはそこから先へ進んでいる。


神話だけではない。


考古資料。


地域間交流。


祭祀形態。


出雲。


九州。


畿内。


それぞれを比較しながら、自分の仮説そのものを何度も疑っている。


「……違うな」


博繁は背もたれから身体を起こした。


「俺より先まで行ってる」


認めざるを得なかった。


四本目を開いた。


*


気づけば、十一時を過ぎていた。


机の上には空になったコーヒーのカップが二つ。


夕食はまだ食べていない。


「腹減ったな……」


そう言いながら、五本目を開いている。


自分でも少しおかしいと思う。


だが、止められなかった。


一本だけなら、変わった説を唱えた研究者で終わる。


何本も読むと違って見えてくる。


美咲ミヅキは、ずっと同じところを回っていたわけではない。


ある論文で疑問を残す。


数年後、別の資料からその疑問へ戻ってくる。


以前の自説を、後の論文で自分から否定しているものまであった。


大胆なことを考える。


だが、証明できなければ止まる。


止まった場所を忘れない。


別の道を探す。


そしてまた戻ってくる。


「……しつこい人だな」


口ではそう言いながら、博繁は笑っていた。


嫌いではない。


むしろ。


「面白いな、この人」


六本目を開いた。


そこで、博繁は妙なことに気づいた。


「……あれ?」


一本前の論文を開く。


さらに古い論文も開く。


三つの画面を並べた。


天照大神。


出雲。


青銅器。


地域間交流。


女性祭祀者。


扱っている題材は違う。


なのに。


「この人……」


何か一つのものを、ずっと違う方向から見ている。


そんな気がした。


天照大神そのものを探しているのではない。


青銅器そのものでもない。


出雲の地域史だけでもない。


もっと、その向こう。


博繁はメモ用紙を引き寄せた。


ペンを持つ。


だが、何を書けばいいのか分からなかった。


「……何を探してたんだ?」


画面の中の論文は、何も答えなかった。


*


翌朝。


「先生」


「なんだ」


「読みました」


綾瀬は書類から顔を上げた。


「何を」


「昨日、自分で読めって言ったでしょう」


「何本」


「六本」


「少ないな」


「昨日の九時からですよ?」


「三十三歳はまだ夜更かしできる」


「便利に使いすぎです、その年齢」


綾瀬が笑った。


「どうだった」


博繁は少し考えた。


「……腹立ちました」


「だろうな」


即答だった。


「なんで嬉しそうなんですか」


「昔、俺もそうだったからだ」


「先生も?」


「ああ。こっちが一週間考えたことを、あいつは横から来て五分でひっくり返す」


「それは腹立ちますね」


「だろ?」


妙なところで意見が合った。


「ただ」


博繁は椅子を引いた。


「悔しいですけど、俺よりずっと先にいます」


「そうか」


「俺なりに調べてきたつもりだったんですけどね」


「つもりだったんだな」


「……そこは少しくらい慰めません?」


「研究に慰めが必要か?」


「……ほんと容赦ないですね」


綾瀬が笑った。


博繁も小さく笑う。


だが、すぐ真顔になった。


「それでも変なんですよ」


「何が」


「論文ごとのテーマは違うのに、ずっと同じものを追ってるように見える」


綾瀬は黙った。


「天照大神だけなら、あそこまで青銅器を見る必要はない。出雲だけなら、九州や畿内まで広げる必要もない」


「うん」


「何か別のものを探してたんじゃないですか?」


綾瀬はしばらく博繁を見た。


やがて立ち上がる。


「来い」


「どこへ?」


「いいから」


研究室の奥へ向かう。


壁際の棚の前で、綾瀬がしゃがんだ。


下段のファイルをいくつか動かし、その奥から箱を引っ張り出す。


「何ですか、それ」


「ミヅキのだ」


「美咲ミヅキ?」


「ああ」


箱を机へ置く。


蓋を開ける。


中には、古びた大学ノートが何冊も入っていた。


「研究ノートだ」


「……こんなのあったんですか?」


「ある」


「なんで昨日言わなかったんです?」


「まず論文を読め」


「性格悪いですね」


「よく言われる」


博繁は一冊手に取った。


「これ、全部ですか?」


「いや」


「え?」


綾瀬が棚の別の場所を指した。


「そっちにもある」


博繁が見る。


似た箱が二つ。


「……何冊あるんです?」


「三十冊くらいだったかな」


「三十?」


思わず聞き返した。


綾瀬は平然としている。


「正確には数えてない」


「三十冊……」


博繁は手元のノートを見た。


昨夜読んだ論文が、急に違って見えた。


*


一冊目を開く。


「……字、汚いな」


「本人も気にしてた」


「論文との落差がすごいですね」


「人に見せるものじゃないからな」


文献名。


数字。


地名。


矢印。


消した跡。


ページの余白にまで文字が走っている。


『出雲―北九州間の祭祀ネットワーク?』


その下に別の筆圧で、


『成立年代が合わない。保留』


数ページ先。


別の仮説。


資料の比較。


そして、


『説明できない地域が多すぎる。×』


次のノートを開く。


『神話伝承から逆算する方法そのものに問題?』


矢印。


『一度捨てる。考古資料だけで組み直す』


「……」


博繁は黙ってページをめくった。


次。


『政治的統合ではなく祭祀連合?』


何ページにもわたる検討。


最後に、


『これだけでは人の移動を説明できない』


また別の仮説。


検証。


棄却。


別の切り口。


数年前に捨てた考えを、別のノートで拾い直しているものもある。


『再検討』


そしてまた、


『違う』


博繁は三冊目を閉じた。


「……これ、ほとんど失敗じゃないですか」


「そうだな」


綾瀬は普通に答えた。


「論文だけ読んでたら分からなかった」


「論文は結果だからな」


博繁は箱を見る。


まだ何十冊もある。


「これだけやって……」


一冊取る。


開く。


また仮説。


また検証。


また線が引かれている。


「それでも結論には辿り着かなかったんですね」


「だから続けたんだろう」


博繁は黙った。


自分の研究を思い出していた。


仮説を立てる。


それを支える史料を探す。


根拠になる遺物を探す。


もちろん、反証を無視してきたつもりはない。


そんな研究をしているつもりもなかった。


だが。


目の前にある三十冊と比べると。


「……俺、何やってたんだろ」


綾瀬は何も言わなかった。


「卑弥呼と天照大神が繋がるかもしれないって思って。それを説明できるものばっかり見てたのかもしれない」


「かもしれんな」


「先生」


「なんだ」


「こういう時くらい否定してくださいよ」


「事実かもしれないものを、なぜ否定する」


「……腹立つな、このおっさん」


綾瀬は笑った。


それから、一冊のノートを指で軽く叩いた。


「ミヅキはな」


「はい」


「自分の説が正しい証拠だけじゃなく、自分の説を壊すものを探してた」


博繁は顔を上げた。


「壊すもの?」


「仮説なんて、最初から答えじゃない」


綾瀬はそれだけ言った。


博繁は、またノートを見る。


『違う』


『保留』


『再検討』


『説明できない』


そんな言葉ばかりだった。


昨夜読んだ完成された論文より、今はその言葉の方が重く見えた。


「……俺、まだ入口にも立ってなかったのかもな」


今度は綾瀬も何も言わなかった。


それでよかった。


*


昼近くまで、博繁はノートを読んでいた。


何冊目だったか分からない。


ページの端に小さく、


『八?』


と書かれている。


「八?」


綾瀬が横から覗いた。


「さあな」


「先生も分からないんですか」


「分からん」


「役に立たないなあ」


「返せ」


「すみません」


次のページ。


『なぜ出雲に集まる?』


博繁の指が止まった。


その下には、


『九州と畿内。二択なのか?』


さらに少し離れたところに、


『中心が別にあるとしたら?』


博繁は何も言わず、そのページを眺めた。


昨夜の論文。


今日見た何十冊ものノート。


これだけ考えた人間がいる。


何度も間違えた。


何度も自分の仮説を壊した。


それでも分からなかった。


博繁は椅子の背にもたれた。


「……まさに空白の百五十年だな」


綾瀬がこちらを見る。


「これだけやったミヅキでも、辿り着けなかった」


「そうだな」


「俺なんかが簡単に分かるわけないか」


綾瀬は少しだけ眉を上げた。


「諦めるのか?」


「まさか」


博繁はノートを閉じた。


そして、一冊目をもう一度手に取る。


「最初から読みます」


「論文を?」


「いや」


表紙を開いた。


「この人が、どこで間違えたのか」


最初のページをめくる。


「それを知りたい」


自分の仮説を証明するためではない。


美咲ミヅキの答えを探すためでもない。


まずは、目の前にあるものを見る。


博繁はまだ知らなかった。


それが、自分の研究を最初からやり直すことになるなんて。


今はただ。


三十冊近いノートを前にして、一つだけ思った。


「……やっぱり、とんでもない人だな」


綾瀬が笑った。


「だから言っただろ」


博繁は返事をせず、次のページをめくった。


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