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夜更け


「シズカ、寝た?」

 広間へ戻ってきたあるじを見るなり、咲耶が訊いた。

「うむ」

「にしちゃあ、時間かかったね」

「シズカが、わらわの袖を握っておっての」

「袖?」

「うむ。手の力が緩むのを待っておったのじゃ」

 あるじは元いた場所へ腰を下ろした。

「起こさないように?」

「無論じゃ。それ以外になかろう」

「へえ」

 咲耶が少しだけ笑った。

「あるじも案外、ちゃんとお母さんしてるんだね」

「そうなのか?」

「そうだよ」

 咲耶は杯を口へ運んだ。

「あるじだって、そうしてもらったからできるんじゃないの?」

「……わらわには、母の記憶がないのじゃがな」

「へえ。それなのに、あんなふうにお母さんできるんだ」

 あるじは少し考えた。

「そうか……わらわは、母をできておるか」

「ちゃんと母親してるよ」

 あるじは何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 それを見て、咲耶も笑った。

「愛は偉大だねえ」

「……愛?」

「うん」

 咲耶は何でもないことのように頷いた。

 それから、あるじの顔を見ながら杯を傾ける。

「……私も、子供欲しくなってきた」

「咲耶」

「ん?」

「それには、まずお相手が必要です」

 咲耶の肩がぴくりと動いた。

 振り返る。

 ヨルがいた。

「……ヨル」

「なんです?」

「ちょっと酔ってる?」

「酔っておりません」

「ほんと?」

「ええ」

 ヨルはいつもと変わらない顔で杯を置いた。

「そのためにも、あなたには普段から正しい姿勢というものを――」

「待って待って。なんで子供の話から姿勢の話になるの?」

「日頃の振る舞いは大切です」

「関係ある?」

「あります」

「ないでしょ」

「あります」

「だいたいさ」

 咲耶が口を尖らせた。

「ヨルだって、相手いないじゃん」

 広間が静かになった。

 ほんの一瞬だった。

 磐余彦が静かに杯を置いた。

 猿田が腰を浮かせた。

 ほかの者たちも、何も言わず少しずつその場を離れていく。

 タヂカラに至っては、もういなかった。

「……あれ?」

 咲耶が辺りを見回す。

「ちょっと、みんなどこ行くの?」

 あるじも魚の皿を手に立ち上がっていた。

「あるじまで!?」

「……すまぬ、咲耶」

「何が!?」

「達者での」

「死ぬの私!?」

「咲耶」

 ヨルが呼んだ。

 静かな声だった。

 シズカが眠っているからだろう。

 だからこそ、妙に怖い。

「少々、お話があります」

「……はい」

 二人は、そっと場所を移した。

*

 しばらくして。

 咲耶が戻ってきた。

 先ほどまでとは違い、背筋が妙に伸びている。

 猿田が横目で見た。

「……何を言われた?」

「聞かないで」

「長かったな」

「……思い出したくない」

「咲耶」

 後ろからヨルの声がした。

「まだお話し足りませんでしたか?」

「十分です」

 咲耶は即答した。

 その姿を見ながら、あるじが魚を一口食べる。

「ヨルは恐ろしいのう」

「あるじ様」

「なんじゃ」

「聞こえております」

「……」

 あるじは黙って魚を食べた。

 磐余彦が笑いを堪えている。

「笑うでない」

「何も言ってませんよ」

「顔が笑っておる」

「気のせいです」

 皆、先ほどより少しだけ声を落としていた。

 隣の部屋では、シズカが眠っている。

 それでも宴が終わったわけではない。

 杯はまだ残っている。

 料理もまだある。

 火も、まだ落とされてはいなかった。

「しかし、ヨルの……」

 不意に、ひとりの男が口を開いた。

 オモイだった。

「なんでしょうか?」

 ヨルが振り向く。

「いや。先ほどの話を聞いていて思ったのだが」

「ええ」

「あるじ様は背も高く、肌も白い。この辺りではまず見ぬ神々しいほど美しい姿をしておられる」

「なんじゃ、急に」

 あるじが眉を寄せた。

「話の途中です」

「わらわの話ではなかったのか?」

「少しだけです」

「ならば続けよ」

「それでだ」

 オモイはヨルを見る。

「ヨルも負けず劣らずの美しい女だと思うぞ」

 一瞬、ヨルが目を丸くした。

「……ありがとうございます」

「あるじ様とはまた違う。背はあるじ様ほどではないが、立ち姿も美しい。振る舞いも整っておる」

「まあ」

「特に髪だな」

「髪?」

「うむ。黒くて艶がある。火の光が流れて見えるほどだ」

 ヨルが少しだけ嬉しそうに髪へ触れた。

「ありがとうございます、オモイ」

「うむ」

 ここまではよかった。

「これほどの女に、いまだ男がおらんというのだから、縁とは分からんものだな」

 再び。

 広間が静かになった。

 磐余彦が杯を置いた。

 猿田が立った。

 ほかの者たちも動いた。

 タヂカラは、もう立っていた。

 咲耶も立ち上がる。

 あるじも魚の皿を持った。

「え?……なぜ皆、離れる?」

 オモイだけが座っていた。

「いや」

 磐余彦が言う。

「続けろ」

「何をだ?」

「今の話だ」

「いや、終わったが」

「そうか」

 磐余彦はさらに一歩離れた。

 オモイは首を傾げた。

「あるじ様」

「なんじゃ」

「鬼道で、ヨルに良い相手を探してやれんのか?」

「無理じゃ」

「そうなのか?」

「鬼道はそのようなものではない」

「ふむ。便利そうに見えて、案外融通が利かぬものだな」

「オモイ?」

 ヨルが微笑んだ。

「次はあなたと、少々お話をする必要がありそうですね」

「え、なぜじゃ!?」

「さあ」

「いやいやいや、わしはお前のためを思ってだな――」

 咲耶がオモイの肩に手を置いた。

「……頑張って」

「お前、さっきまでこっち側だったではないか!」

「だから言ってるんだよ」

「待て。どこが悪かったのか順に説明してくれ」

「では最初から説明いたしましょう」

「いや、それはよい」

 オモイの返事は早かった。

*

 その後も宴は続いた。

 夜が深くなるにつれ、話す内容も少しずつ変わっていった。

「北の集落は、この冬ちと厳しい」

 ひとりの族長が言った。

「雨が少なかったからの」

 別の者が頷く。

「ヨルのところは?」

「私のところは穀は足ります。多少なら回せますよ」

「船を使うか」

「川が使えるところまではな」

 オモイが口を挟む。

「北へ直接送るより、一度ヒコのところへ集めた方がよい」

「なぜだ?」

「船の数が足りん。三つのクニからばらばらに出せば、戻りが遅れる」

 床に指を置き、簡単に道筋を描く。

「ここへ集める。そこから北へ送る。帰りの船に塩を積ませれば空では戻らん」

「人手は?」

「咲耶のところから春に返してもらえばよい」

「え、私?」

「昨日、家を建てる人手が足りないと言っていただろう」

「言ったけど」

「ならば冬は穀を受け取り、春は人を出す。それでよい」

 咲耶が少し考える。

「……いいんじゃない?」

「お前はもう少し考えてから答えろ」

「今考えたよ」

「短い」

「早いって言って」

 猿田が笑った。

「相変わらずだな、お前ら」

「猿田様」

 ヨルの声が飛んだ。

「杯」

「ん?」

「今夜四度目です」

 猿田の手元を見る。

 酒が少しこぼれている。

「……三度じゃなかったか?」

「先ほど増えました」

「見てたのかよ」

「見えました」

 猿田は黙って杯を置いた。

 その横でタヂカラが自分の杯を少し遠ざける。

「また逃げるのか」

「これも処世術だ」

「お前、それ気に入ってるだろ」

「役に立つからな」

 しばらくして、猿田が思い出したように顔を上げた。

「そういや咲耶」

「ん?」

「お前、大陸から何か来たとか言ってなかったか?」

「ああ。あれね」

 咲耶が菓子をかじる。

「金のやつ」

「金?」

「なんか、印みたいなの」

 磐余彦が顔を上げた。

「光武帝か?」

「あ、それそれ」

「昨日教えただろ」

「そうだっけ?」

「俺が教えた」

「じゃあ聞いた」

「忘れてるじゃねえか」

「名前はね」

「一日くらい覚えとけ」

 咲耶は気にせず続けた。

「向こうの偉い人からだって。使いの人たちが持ってきた」

「その使いの者は何か言うておったか?」

「さあ」

「さあってお前」

「ちゃんと聞いたよ。たぶん」

「たぶん?」

「国がどうとか、王がどうとか」

「絶対聞いてないだろ」

「聞いたって」

 咲耶はあるじを見る。

「それで、あるじに会わせてほしいって言ってた」

「わらわに?」

「うん」

「何じゃ藪から棒に」

「どうする?」

「傍迷惑な。構わん、捨ておけ」

「ええ!? 金だよ?」

「知らぬ」

「もったいないから持って帰ろ」

「好きにせよ」

 咲耶は満足そうに頷いた。

「じゃあそうする」

「お前のところへ来た物だろう」

 磐余彦が呆れたように言う。

「最初からそうしろ」

「一応あるじに聞いた方がいいかなって」

「そういうところだけ律儀なの、なんなんだ」

「失礼だなあ」

 少し間が空いた。

 薪が弾ける。

 誰かが酒を注ぐ。

 咲耶が、ふと思い出したようにあるじを見た。

「そういえばさ、あるじ」

「なんじゃ」

「昨日、寝てたよね」

 あるじの手が止まった。

 磐余彦が静かに杯を置く。

「咲耶」

「なに?」

「忘れよ」

「無理だよ。面白かったもん」

「何が面白いのじゃ」

「だってさ。みんなでちゃんとやったのに、なかなか出てこないんだもん」

「出たであろう」

「二回目でね」

「一回目も起きておった」

「ほんと?」

「ほんとじゃ」

 オモイがあるじを見る。

「あー……あれ、やっぱり寝てたのか」

「ね、寝ておらん!」

「いや、わしもそうではないかと思っておった」

「俺もだ」

 猿田が言った。

「ならばなぜ昨日言わぬ!」

「言う必要ないだろ」

「本人が起きてたって言いはるからな」

 別の族長も頷く。

 タヂカラが腕を組んだ。

「俺も、そういうことにしておいた」

「おぬしら……!」

 あるじが磐余彦を見る。

「ヒコ!」

「俺は何も言ってませんよ」

「その言い方が一番腹立つのじゃ!」

 咲耶が笑う。

「で、ほんとは何してたの?」

「……瞑想じゃ」

「瞑想?」

「うむ」

「横になってやる鬼道なんてあったか?」

「最近できたのじゃ」

「最近?」

「最近じゃ」

 ヨルがあるじを見る。

「あるじ様」

「なんじゃ」

「眠かったのでしょう?」

「ね、眠くない」

 咲耶が吹き出した。

「親子だねえ」

「何がじゃ!」

「シズカもさっき同じこと言ってたよ」

「……あれはシズカじゃ」

「あるじも一緒じゃん」

「違うわ!」

 笑い声が広間に広がった。

 ヨルが、すぐには口を挟まなかった。

 ただ、隣の部屋へ目を向ける。

 皆もそれに気づき、自然と笑い声を抑えた。

 しばらく待つ。

 何も聞こえない。

「……起きたか?」

 猿田が小声で訊いた。

「たぶん大丈夫」

 咲耶も小声で答えた。

 あるじは皆を見回した。

「まったく、おぬしらは……」

「あるじも笑ってたじゃん」

「わらわは笑っておらん」

「笑ってたよ」

「笑っておらん」

「笑ってた」

 あるじは咲耶を睨んだ。

 だが、今度はそれ以上何も言わなかった。

 咲耶がにやりと笑う。

 ヨルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。

*

 夜はさらに深くなった。

 酒も少なくなってきた。

 話は途切れたり、また始まったりした。

「そういや、東の方に見慣れん連中が来たらしいぞ」

 誰かが言った。

「海の向こうから来た者だとか」

「また大陸の商人か?」

「いや。どうも様子が違うらしい」

「どう違うのだ?」

「さあな。土地を借りたいと言っているらしい」

「住むのか?」

「しばらくは、とな」

 オモイが杯を傾ける。

「揉め事を起こさんのなら構わんだろう」

「言葉は?」

「通じる者が何人かおるそうだ」

「なら、ヒコのところで一度話を聞けばよい」

「俺のところですか?」

「この辺りへ来るなら、おぬしが一番近かろう」

「まあ、そうですけど」

「頼んだぞ」

「はいはい」

 磐余彦が酒を飲む。

 それで話は終わった。

「それより」

 猿田が皿を覗き込む。

「菓子、もうないのか?」

「お前、さっき食べてただろ」

「咲耶がほとんど食った」

「私じゃないよ」

「お前だ」

「タヂカラも食べてた」

「二つだけだ」

「数えてるの?」

「数えてはいない」

「じゃあなんで二つって分かるの」

「二つだからだ」

「意味分かんない」

「あるじ様」

 ヨルが別の皿を見た。

「魚ばかり食べておられませんか?」

 あるじの動きが止まる。

「……食べておらん」

「召し上がっております」

「野菜も食べたぞ」

「どれを?」

「……あれじゃ」

 あるじが皿の端を指した。

「それは薬味です」

「野菜であろう」

「薬味です」

「草には違いあるまい」

「そういう話ではありません」

 あるじは少し考えてから、魚をもう一切れ取った。

「……聞いておられます?」

「聞いておる」

「では、なぜ魚を取るのです」

「聞くことと従うことは別じゃ」

「あるじ様」

「なんじゃ」

「野菜を」

「嫌じゃ」

 咲耶が小さく吹き出した。

 あるじはそちらを見たが、何も言わなかった。

 ただ魚を口へ運ぶ。

 その様子を見て、ヨルは小さく息を吐いた。

「そういえば、磐余彦がまだ小さかった頃――」

「ヨル」

「なんでしょう?」

「……頼むからやめてくれ」

「なぜです?」

「なぜでもだ」

 咲耶が身を乗り出した。

「なにそれ。聞きたい」

「聞かなくていい」

「私は聞きたいけど」

「俺が聞かせたくないんだよ」

 猿田も杯を持ったまま寄ってくる。

「俺も知らんな」

「だろ? 知らなくていいんだ」

「いや。だから聞きたい」

「なんでそうなるんだよ」

 ヨルが少し考える。

「では、どの話にしましょうか」

「しなくていい!」

「木から落ちた話と――」

「ヨル」

「初めて一人で舟に乗った話と――」

「頼むって!」

「あと、私の後ろをずっとついて歩いていた頃の――」

「それだけは本当にやめてくれ」

「へえ。可愛かったんだ、ヒコ」

「昔の話だ!」

「今も可愛いところあるよ?」

「いらん!」

 猿田が声を殺して笑った。

「それで、どの話がよいです?」

「どれもよくない」

「私は全部聞きたい」

「咲耶、お前は黙ってろ」

「俺も全部だ」

「猿田まで乗るな」

 オモイが杯を置いた。

「順に聞けばよかろう」

「お前まで!?」

 あるじも少し考えてから言った。

「……わらわも聞きたいの」

「あるじ様!?」

 ヨルが静かに笑った。

「では、最初からお話しいたしましょう」

「……頼むからやめてくれ」

 今度は、誰も助けてくれなかった。

 宮の中では、まだ小さな笑い声が続いていた。

 誰も気づかぬうちに、東の空には、うっすらと紫が入り始めていた。

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