またね
東の空が、少しずつ白み始めていた。
長かった夜が終わろうとしている。
宮の外では朝を迎えようとしていたが、あるじの寝所に、その気配はほとんどなかった。
戸は閉じられ、灯りも必要なものだけに落とされている。
外が明るくなり始めているというのに、ここだけはまだ夜の中にあるようだった。
あるじはすでに髪をほどき、寝台に腰掛けていた。
手にした杯から、お神酒を一口あおる。
もう寝る気満々だった。
「あるじ、本当にもう寝るの?」
咲耶が呆れたように言った。
「見れば分かるじゃろ」
「外、もう朝だよ?」
「だから寝るのじゃ」
「そういうもの?」
「そういうものじゃ」
あるじはもう一口、お神酒を口にした。
「あるじ様」
今度はヨルだった。
「なんじゃ」
「私たちが帰った後も、きちんと食事をなさってくださいね」
「分かっておる」
「一日三度」
「……分かっておる」
「魚ばかりではいけません」
「食べておらぬ」
「昨夜も召し上がっていたではありませんか」
「野菜も食べた」
「あれは薬味です」
「草には違いあるまい」
「そういう話ではありません」
あるじは露骨に面倒そうな顔をした。
「おぬしは帰る間際まで口煩いの」
「あるじ様が、私が言わなければ何もしないからです」
「するわ」
「では、野菜を」
「嫌じゃ」
「あるじ様」
「帰れ」
咲耶が吹き出した。
「最後までこれなんだ」
「咲耶。あなたもです」
「なんで私まで?」
「普段の食事と生活をもう少し――」
「帰ろっかな」
「まだ話は終わっておりません」
「帰るんでしょ?」
「そうですが」
「じゃあ帰ろ」
「咲耶」
そんな声に混じって、布の擦れる音がした。
寝台の奥で、小さな頭が持ち上がる。
「……ん……」
シズカだった。
髪はあちこちに跳ねている。
目も半分しか開いていない。
「起きたか」
「……あるじさま」
「うむ」
シズカはしばらくぼんやりとあるじを見ていた。
それから、部屋にいる面々を見回す。
「……みんな、どこいくの?」
「帰るんだよ」
咲耶が答えた。
「どこに?」
「自分のクニ」
「明日は?」
「明日も帰ってるよ」
「……明後日は?」
「もっと帰ってる」
シズカは難しい顔をした。
どうやらまだ頭が起きていないらしい。
「そっかぁ……」
「また来るよ」
「ほんと?」
「うん」
そこでシズカがヨルを見た。
「ヨルさまも、もう帰るの?」
「ええ」
ヨルは微笑んだ。
「シズカも準備しなさいな」
「うん……」
あるじとシズカが、同時に首を傾げた。
「……なんの準備じゃ?」
「帰る準備です」
「誰が?」
「シズカが」
ヨルは当然のようにシズカの手を取った。
「さ、帰るわよ。シズカ」
「……うん」
「ちょっと待て」
あるじが止めた。
ヨルが振り返る。
「なんでしょう?」
「どこへ連れていくつもりじゃ」
「私のクニですが?何か?」
「何かじゃないわ!なぜそなたとシズカが買えるのじゃ」
「なぜって、今日から私がシズカのお母さんですから」
「…………」
部屋が静かになった。
咲耶がぽつりと言った。
「……ヨルが壊れた」
ヨルには聞こえていないらしい。
「シズカ。向こうには綺麗な布もたくさんありますよ。髪のお手入れも私が毎朝してあげます」
「ほんと?」
「ええ」
「待て待て待て!」
あるじが立ち上がった。
「シズカは、わらわの娘じゃ!」
「存じております」
「ならなぜ連れていく!」
「あるじ様の娘なら、私の娘と言っても過言ではないかと」
「いや、明らかに過言じゃろ!」
咲耶がヨルを見つめた。
「……思ってたより壊れてる」
「では、私がこちらへ残りましょう」
ヨルは少し考えてから、磐余彦を見た。
「ヒコ」
「嫌な予感しかしないんだが」
「あなた、私とクニを交換しなさいな」
「なんでだよ!」
「そうすれば、私はここに残れます」
「ダメに決まってるだろ!」
「では、私のクニは他の者へ任せるとしましょう」
「おい」
「そうすれば私は、いつでもシズカと共にいられます」
「族長がクニを捨てるな!」
「捨てるわけではありません。適任者へ――」
「同じだ!」
横でオモイが腕を組んだ。
「ヨルのところなら、任せられそうな者が何人か――」
「真面目に考えるな!」
磐余彦が叫んだ。
ヨルがオモイを見る。
「オモイ」
「なんだ」
「あなたには、この子の可愛らしさが分からないのですか?」
オモイはシズカを見た。
少し考える。
「顔か?」
「…………」
ヨルの目が細くなった。
「あなたには、もう一晩必要なようですね」
「何がだ」
「シズカの可愛らしさについて、一から説明いたします」
「い、いやいや必要ない」
「まず、この髪です」
「始めるな!」
磐余彦が頭を抱えた。
あるじはヨルを指さした。
「早うヨルを連れていけ!」
「はいはい」
咲耶がヨルの腕を取る。
「咲耶、離してください」
「さ、帰るよ」
「まだ話が――」
反対側を猿田が掴んだ。
「帰るぞ」
「猿田まで何をするのです」
「磐余彦」
タヂカラが振り返る。
「荷はどうする」
「ヨルごと運べ」
「分かった」
「分からなくていい!」
「ヒコ」
ヨルが磐余彦を見た。
「なんだ」
「シズカは?」
「明日、ちゃんと船着き場まで連れていくから」
「本当ですか?」
「ああ」
ヨルがぴたりと止まった。
「……そうですか」
急に大人しくなった。
咲耶が目を細める。
「最初からそれ言えばよかったんじゃない?」
「え?俺が悪いのか?」
「半分くらい?」
「なんでだよ」
ヨルたちが部屋を出ていく。
静かになったところで、シズカがあるじを見上げた。
「あるじさま」
「なんじゃ」
「ヨルさまもシズカのお母さんなの?」
「アレはヨルの妄言じゃ。気にするでない」
「じゃあ、あるじさま?」
「うむ。」
「あるじさまがお母さん?」
あるじは少しだけ黙った。
「……そうじゃ」
シズカが笑った。
あるじも、ほんの少し笑った。
*
七人の族長たちは、長い階段を下りていった。
磐余彦とシズカは、途中まで見送りについてきている。
その中で。
ヨルだけが何度も振り返っていた。
「……何回目?」
咲耶が訊いた。
「何がです?」
「いや。なんでもない」
しばらく下りる。
またヨルが振り返る。
シズカが手を振る。
ヨルも手を振る。
さらに下りる。
また振り返る。
「ヨル」
「なんです?」
「前見て歩きなよ」
「見ております」
「後ろしか見てないじゃん」
「見ております」
やがて、神域の境へ着いた。
太い二本の柱と、その上を渡す一本の横木。
そこを越えれば、まだ長い階段が続いている。
「ヨルさまー!」
シズカの声が飛んだ。
ヨルが振り返る。
「またねー!」
ヨルは少しだけ目を見開いた。
それから、いつもの穏やかな顔で手を振った。
「ええ!」
「またね、シズカ!」
ヨルは前を向いた。
歩き出す。
その指が、ほんの一瞬だけ目元を拭った。
気づいたのは、磐余彦だけだった。
*
宮へ戻ると、急に静かになったように感じた。
「……あいつ、泣いてましたよ」
磐余彦が言った。
「誰がじゃ?」
「ヨルです」
「……ヨルが?」
「ええ」
あるじは少し驚いた顔をした。
「ヨルも泣くことがあったのじゃな」
「ありますよ。そりゃ」
「そうか」
あるじは広間を見回した。
昨夜まで、あれほど騒がしかった場所だ。
今はもう、杯も片づけられ、人の姿も少ない。
「……静かになったの」
「あるじ様が、うるさいと言ってたんでしょう」
「うるさいものは、うるさい」
「でも、楽しかったよ?」
シズカが言った。
あるじはシズカを見る。
「……そうじゃな」
少しだけ笑った。
「楽しかったの」
「うん!」
「では、わらわは寝る」
「やっぱり寝るんですか」
「寝ると言っておるじゃろ」
「はいはい」
「返事が軽いぞ、ヒコ」
「おやすみなさい、あるじ様」
「うむ」
あるじは寝所へ戻っていった。
磐余彦とシズカも、宮を出る。
*
翌日。
寄月のために集まっていた人々の多くは、すでに帰り支度を始めていた。
あれほど並んでいた仮の小屋も、少しずつ姿を消している。
荷をまとめる者。
船へ運ぶ者。
最後の商いをする者。
来たときよりも、道が広く見えた。
磐余彦とシズカは、その中を並んで歩いていた。
「シズカ!」
声がした。
猿田だった。
「猿田さま!」
「今度、俺のクニにも来い」
「行っていいの?」
「ああもちろんだ。うまい魚を食わせてやるからな」
「ほんと!?」
「ここで食ったやつより、もっといいのがある」
「あるじさまにも持って帰っていい?」
「好きなだけ持ってけ」
磐余彦が眉を寄せた。
「……あるじ様には言うなよ」
「なんで?」
「猿田に魚を全部持って来いって言い出す」
「あるじさま、お魚好きだもんね」
「だからだ」
猿田が大きな声で笑った。
少し先では、ウズが荷物の横で身体を揺らしている。
「ウズさま!」
「シズカー!」
ウズが駆け寄ってきた。
「昨日、ずっと踊ってたね」
「あはは。見てた?」
「うん!」
磐余彦が言う。
「あいつは酒が入るとすぐ踊りだすんだ」
「お酒飲んでなくても踊ってたよ?」
「……そうだったか?」
「うん」
磐余彦はウズを見た。
ウズがにこにこしている。
「じゃあ、ただ踊るのが好きなんだろ」
「正解!」
ウズが笑った。
「シズカにも次は踊り教えてあげるからね」
「ほんと?」
「うん。来年は三人で踊ろうね」
「三人?」
ウズが磐余彦を指さす。
「私とシズカと、ヒコ」
「俺を入れるな」
「えー」
「絶対に嫌だ」
「恥ずかしがり屋だなあ」
「違う」
シズカが笑った。
その先には、タヂカラがいた。
「タヂカラさま!」
大きな身体が振り返る。
「シズカ」
「帰るの?」
「ああ」
「次に会うとき、シズカも大きくなってる?」
「なっているだろう」
「タヂカラさまくらい?」
タヂカラが少し考えた。
「それは難しいな」
「なんで?」
「……俺も分からん」
「そこは分かれよ」
磐余彦が言った。
「次に来たら、また持ち上げてね」
「ああ」
「約束!」
「約束だ」
シズカは満足そうに頷いた。
オモイも近くにいた。
「オモイさま!」
「シズカ」
「シズカ、大きくなるって」
「そうか」
「タヂカラさまくらい!」
「タヂカラほど大きくなる必要はない」
「それ、言う必要あるか?」
磐余彦が訊く。
「ある」
「どこに」
オモイは無視した。
「シズカ」
「なに?」
「次に会うまでに、分からぬことがあれば覚えておけ」
「分からないこと?」
「ああ」
「次に来たとき、俺が答える」
少し間を置く。
「答えられることならな」
「いっぱい考える!」
「余計なことまで教えるなよ」
「知ることに余計などない」
「お前の場合はあるんだよ」
オモイは首を傾げた。
シズカはもう次の人を探している。
「あ!」
ヨルを見つけた。
「ヨルさま!」
走り出そうとする。
「おい、走るな!」
磐余彦の声など聞いていない。
ヨルの前まで駆けていく。
「ヨルさま!」
「シズカ」
今度のヨルは、朝のように壊れてはいなかった。
いつもの穏やかな顔でしゃがみ込む。
そして、シズカを抱きしめた。
「……身体には、気をつけるのですよ」
「うん」
「きちんと食事をして」
「うん」
「髪も毎朝、梳かすのですよ」
「うん」
「あまり走り回って、転ばないように」
「うん!」
「本当に分かっています?」
「分かってる!」
「今も走ってきましたよね?」
「……ちょっとだけ」
ヨルはため息をついた。
それでも、なかなか腕を離さなかった。
少し離れたところで、磐余彦がそれを見ている。
「……あいつ」
隣にいた咲耶が振り向いた。
「何?」
「あんなに母性本能が強かったんだな」
「何? あんたでも知らなかったの?」
磐余彦はヨルを見たまま、小さく笑った。
「ふっ……姉のあんな姿は初めてだよ」
「ふーん」
咲耶が、少しだけ面白そうに磐余彦を見た。
ヨルがようやくシズカを離す。
「次に来るときは、お土産を持ってきますからね」
「おみやげ?」
「ええ」
「なに?」
「それは秘密です」
「えー!」
「楽しみにしていてください」
「うん!」
シズカが笑う。
「またね、ヨルさま」
ヨルも微笑んだ。
「……ええ。またね、シズカ」
最後に残ったのは咲耶だった。
「シズカ」
「咲耶さま!」
「今度はさ、シズカが私のクニにおいでよ」
「咲耶さまのクニ?」
「うん」
咲耶は遠くを指さした。
「ここから、ずっと南」
「遠い?」
「ちょっとね」
「歩いていくの?」
「まさか」
咲耶は船着き場に並ぶ船を指した。
「あれに乗るの」
シズカの目が輝いた。
「シズカも乗れる?」
「もちろん」
「乗りたい!」
「じゃあ、いつか連れてってあげる」
「やった!」
「あるじさまも?」
「それは、あるじに聞いてみないとね」
「聞いてみる!」
「うん」
咲耶が笑った。
それから磐余彦を見る。
「ヒコ」
「なんだ」
「来年は踊りなよ」
「嫌だ」
「じゃあ再来年」
「嫌だ」
「頑固」
「放っておけ」
咲耶は肩をすくめた。
「じゃ、またね」
「ああ。またな」
やがて船が岸を離れ始めた。
一本。
また一本。
岸から遠ざかっていく。
シズカは両手を大きく振った。
「みんなー!」
船の上から、いくつもの手が上がる。
「またねー!」
咲耶が振る。
ウズが両手を振る。
タヂカラの大きな腕が上がる。
猿田も笑っている。
オモイも小さく手を上げた。
そしてヨルは、船の端からいつまでもシズカを見ていた。
船は少しずつ小さくなっていく。
「ヒコさま」
「なんだ?」
「寄月、たくさんの人がいっぱいで楽しかったね」
「ああ」
磐余彦も遠ざかる船を見る。
「そうだな」
「来年も来る?」
「来るさ」
「みんな?」
「ああ」
「ヨルさまも?」
磐余彦は遠ざかる船を見ながら、笑った。
「……アイツは、また来月辺りにでも乗り込んできそうだな」
シズカが声を上げて笑った。
磐余彦も笑った。
しばらく二人で、遠ざかっていく船を見ていた。
やがて磐余彦がシズカを見る。
「さぁ、シズカ。帰るか」
そう言って、手を差し出した。
「うん!」
シズカはその手を取った。
二人は手を繋ぎ、歩き出す。




