宴
夜になると、宮は急に賑やかになった。
昼の静けさが嘘のようだった。
広間にはいくつもの火が灯され、中央には料理が並んでいる。
魚、肉、木の実、果物。
昨日シズカが抱えて帰ってきたものも、その中にいくつか混じっていた。
「これ!」
シズカが魚を指さした。
「これ、きのうの!」
「そうじゃな」
あるじは、その魚をひと口食べた。
シズカがじっと見ている。
「……なんじゃ」
「おいしい?」
「うむ」
「ほんと?」
「なぜ疑う」
「だって、きのうずっと見てたから」
あるじの手が止まった。
少し離れたところで、ヒコが杯を口に運んだ。
「見てたんですね」
「……何の話じゃ」
「魚です」
「知らぬ」
「シズカが言ってますけど」
「知らぬと言うておろう」
「あるじさま、お魚ほしかったんでしょ?」
「…………」
あるじは黙って、もうひと口食べた。
「ほら!」
「シズカは手厳しいのう」
シズカが笑った。
その声につられるように、広間のあちこちから笑い声が上がった。
今夜は、いつもの宮とは違う。
寄月のために集まった各地の族長たちが、あるじの前に集っていた。
とはいえ、堅苦しい空気は最初だけだった。
杯がひとつ空く頃には、もう誰がどこに座っているのかも怪しい。
「シズカ、こっちおいで」
咲耶が手招きした。
「なに?」
「これ食べてみなよ。うちから持ってきたやつ」
「甘い?」
「甘いよ」
シズカが駆けていく。
「こ、こら、走るでない!」
あるじの声が飛んだ。
「はーい!」
返事だけは良い。
「……まったく」
「もう諦めたらどうです?」
ヒコが言った。
「何をじゃ」
「走るなって言うの」
「転んだらどうする」
「転んだら次から気をつけますよ」
「怪我をするではないか」
「それも覚えるうちです」
「おぬしは少々厳しすぎじゃ」
「あるじ様が心配しすぎなんです」
「わらわは普通じゃ」
「そうですかね」
「なんじゃ、その顔は」
ヒコは答えず、酒を飲んだ。
「ヒコ」
「はい」
「今、わらわを面倒だと思ったじゃろ」
「思ってませんよ」
「顔に書いてある」
「あるじ様ほど人の顔が読めるなら、俺は何も言わない方が良さそうですね」
「ほれ見よ」
「何がです?」
「やはり思っておったではないか」
「言ってないでしょう」
「同じじゃ」
二人が言い合っている向こうで、シズカが咲耶から何かを受け取っていた。
ひと口。
目が丸くなる。
「おいしい!」
「でしょ?」
「あるじさまにもあげる!」
「えー。私があげたのに」
「あるじさまにも!」
「はいはい」
シズカは両手にそれを持って、また走り出した。
「あっ、シズカ!」
「走ってない!」
走っていた。
その途中で、大きな足にぶつかりそうになる。
「おっと」
太い腕が伸びて、シズカの身体を軽々と受け止めた。
タヂカラだった。
「だから走るなって言われてただろ」
「走ってないよ」
「走ってたぞ」
「ちょっとだけ」
「それを走ってたって言うんだ」
タヂカラはシズカを床へ戻した。
「それ、何だ?」
「甘いやつ!」
「そうか」
「食べる?」
「いや。あるじ様に持ってくんだろ」
「うん!」
「じゃあ持っていってやれ」
「はーい」
今度は歩いた。
三歩ほど。
それからまた小走りになった。
タヂカラは何も言わず、それを見送った。
「言っても無駄だぞ」
猿田が笑った。
「分かってる」
「俺なんか昨日から何度言ったか分からん」
「お前も言ったのか?」
「言った」
「聞いたか?」
「聞くわけないだろ。子供とはそういうもんだ」
二人が笑う。
シズカはようやくあるじのところまで戻ると、手にしていたものを差し出した。
「あるじさま、これ!」
「咲耶のところのか?」
「うん! おいしいよ!」
あるじは受け取った。
口へ運ぶ。
「ふむ……甘いの」
「でしょー!」
なぜかシズカが得意そうだった。
「あるじ、それ私が持ってきたんだけど」
咲耶が向こうから言った。
「ちゃんと分かっておる」
「シズカの手柄みたいになってるじゃん」
「わらわは分かっておるのじゃから構わんじゃろ」
「まあ、いいけど」
咲耶が笑った。
そのときだった。
「咲耶」
静かな声がした。
「ん?」
「食べながら話すものではありません」
「…………」
咲耶がゆっくり振り向いた。
いつの間にか背後に一人の女が座っていた。
背筋をまっすぐに伸ばし、長い髪をきちんと整えている。
その座り方だけでも、咲耶とはずいぶん違った。
「よ、ヨル。そこにいたんだ」
「ええ。ずっとおりましたとも」
「ぜ、全然気づかなかった」
「あなたが騒がしいからでしょう」
「いきなりひどくない?」
ヨルは咲耶には答えず、あるじへ向き直った。
「あるじ様。此度も我らをお招きいただき、ありがとうございます」
「うむ」
「今年も無事、皆でこの日を迎えられましたこと、嬉しく存じます」
「ヨルは相変わらず堅いのう」
「あるじ様が少々自由すぎるのです」
「……始まって早々それか」
咲耶が吹き出した。
「あはは! あるじ、怒られて――」
「咲耶」
「ん?」
「あなたもです」
「げっ、飛び火した!」
「飛び火ではありません。最初から気になっておりました」
「もっと悪いじゃん!」
猿田が大声で笑った。
「相変わらずだな、ヨル!」
「猿田」
「ん?」
「先ほどから酒をこぼしすぎです」
猿田が自分の前を見た。
「……そんなにか?」
「三度目です」
「か、数えてたのか」
「嫌でも目に入ります」
「がはは!」
猿田はまた笑った。
その横で、タヂカラが黙って自分の杯を少し奥へ移した。
ヨルがそちらを見る。
タヂカラは姿勢を正した。
「……まだ何も言っておりませんが」
「これも処世術だ」
今度はヒコが笑った。
「ヨルは変わらないな」
「磐余彦」
「ん?」
「あなたも笑っている場合ではありません」
「え、俺も?」
「先ほどから座り方が崩れています」
ヒコが自分の足元を見た。
「宴ですよ」
「宴でもです。あなたには昔から、何度姿勢を正しなさいと言ってきたことか……」
「ぐっ……相変わらず細かいな」
「あなたは昔から大雑把なのです」
「む、昔の話はやめてくれ」
ヨルは小さく息を吐いた。
「磐余彦も、もう少し落ち着けば立派なのですが」
「もう十分立派でしょう」
「自分で言うものではありません」
「ほら、こういうところじゃ」
あるじが嬉しそうに言った。
「あるじ様はどちらの味方なんです?」
「ヨルじゃ」
「最悪だ……俺を売ったな」
そのやり取りを、シズカがじっと見ていた。
そしてヨルの前へ行く。
「ヨルさま?」
「はい」
ヨルの声が、少しだけ柔らかくなった。
「なあに?」
シズカはヨルの顔を見上げた。
それから髪を見る。
「きれい」
「……私が?」
「うん。それと髪!」
「ああ」
「触ってみていい?」
ヨルが一瞬だけ困った顔をする。
咲耶がにやにやしている。
「ヨル、困ってる?」
「困ってなどおりません」
「顔が困ってるよ。さすがのヨルも子供には弱いか」
「咲耶は黙っていてください」
ヨルは少し迷ってから、シズカの前へ膝をついた。
「少しだけですよ」
「うん!」
シズカがそっと髪に触れる。
「つるつる!」
「引っ張ってはいけませんよ」
「引っ張らないよ」
「そう」
「ヨルさま、自分でやるの?」
「何をです?」
「髪」
「ええ。できることは自分でします」
「すごい!」
なぜそれが褒められたのか分からなかったのだろう。
ヨルは少し困った顔をした。
あるじが笑った。
「ヨル」
「なんでしょう」
「子供には弱いの」
「そ、そのようなことはありません」
「そうか?」
「ありません」
シズカがまだ髪を触っている。
「……シズカ」
「なに?」
「もう少し優しくお願いします」
「はーい」
咲耶がまた笑った。
「弱いじゃん」
「咲耶」
「はいはい」
「シズカ、あなたも年頃になったら髪のお手入れを教えてあげますからね」
「うん!」
しばらくして、シズカはヨルの髪からようやく離れた。
今度は猿田のところへ行き、何かを食べさせてもらっている。
「何でも食わせるでないぞ!」
あるじが声を上げる。
「大丈夫だ!」
「何が大丈夫なのじゃ!」
「食えるものしか渡してない!」
「当たり前じゃ!」
また笑いが起こった。
宮の外からも、遠く人々の声が上ってきていた。
あるじは杯を持ったまま、そちらへ目を向けた。
遥か下。
長い階段のさらに向こうには、今夜も無数の火が灯っている。
ヒコのクニの集落だけではない。
各地から来た者たちの仮の住まい。
さらにその外には、まだあるじの庇護の下にない者たちまで場所を求めて集まっていた。
あるじはしばらく眺めてから、ぽつりと言った。
「しかしのう」
「はい?」
ヒコが応じる。
「なぜ毎年、この時期になるとクニ中の者どもが集まるのじゃ?」
ヨルの手が止まった。
「……あるじ様」
「なんじゃ」
「本気で申しておられますか?」
「何がじゃ」
ヨルは静かに息を吸った。
「よろしいですか。この時期にこの宮が創建され、あるじ様をお迎えしたからにございましょう」
「……そうじゃったか?」
「そうです」
「毎年?」
「毎年です」
「それで、あれほど集まるのか?」
「その話を、私は昨年もいたしました」
「…………」
「一昨年もです」
咲耶が口元を押さえた。
「笑うな、咲耶」
「まだ笑ってないよ」
「顔が笑っておる」
「だって」
「まったく、あるじ様は私がいないと何にも――」
「分かった分かった」
あるじが手を振った。
「ヨルは細かいのう」
「細かいのではありません!」
「しかし、それならぬしらだけでよかろうに」
あるじは遥か下を見た。
「直接まみえるわけでもなかろうに。あれほど大勢で集まって、何が楽しいのじゃ」
「そう言ってあげないでください」
ヒコが苦笑した。
「我ら族長だけではありません。クニの者たちも、それに、まだあるじ様の庇護の下に入っていない者たちもいます」
「うむ」
「お目通りは叶わなくても、少しでもお側であなた様を祀りたいのでしょう」
「…………」
「たった数日のことです。我慢してあげてください」
あるじは、いかにも不満そうに杯を口へ運んだ。
「……仕方ないのう」
ヨルがヒコを見た。
少しだけ目を細める。
「磐余彦も、ちょっとは大人になりましたね」
「ヨル」
「なんでしょう」
「いつまでも弟扱いするのはやめてもらいたい」
「まあ」
ヨルは口元へ手を添えた。
「では、いつから大人として扱えばよろしいのでしょう?」
「今です」
「そうでしたか」
「その顔、絶対そう思ってないだろ」
「そんなことはございませんよ」
「思ってる」
シズカが二人を交互に見た。
「ヒコさま、ヨルさまの弟なの?」
「違う」
ヒコが即答した。
「違うの?」
「違う」
「昔は、それはもう可愛らしかったのですよ」
「ヨル!」
「ほんと!?」
「ええ」
「ヨル」
「小さい頃など――」
「やめろ!」
シズカの目が輝いた。
「聞きたい!」
「聞かなくていい」
「聞きたい!」
「必要ない」
「咲耶さま知ってる?」
「知ってるよ」
「咲耶!」
「ヒコ、昔さ――」
「お前までやめろ!」
広間に笑い声が響いた。
あるじまで肩を揺らしている。
「あるじ様も笑わないでください!」
「いや、すまぬ。大人になったの、ヒコ」
「あなたまで……」
「ヒコさま、顔赤い!」
「酒だ」
「ほんと?」
「酒だ」
「さっき一杯しか飲んでないじゃん」
咲耶が言った。
「うるさい!」
また笑い声が上がった。
シズカも笑っていた。
何がそんなに面白いのか、途中から自分でも分かっていないようだった。
ただ、みんなが笑っている。
だからシズカも笑う。
宴はまだ続いた。
誰かが今年の実りの話を始めれば、別の誰かが魚の話をする。
「そっち、今年は少なかったのか?」
「雨がな」
「なら冬までに少し回すか」
「助かる」
「代わりに来年、船を貸せ」
「また壊す気か?」
「去年のは俺じゃない!」
「お前のところの者だろう」
「だったら俺じゃないだろ!」
猿田の声が響く。
「同じじゃ」
タヂカラがぼそりと言った。
「お前はどっちの味方だ」
「壊された方」
「ひどいな!」
また笑う。
ヨルのクニでは今年、穀物の出来が良かったらしい。
咲耶のところでは子供が増えたという。
「今年だけで三十人以上だよ」
「それは多いの」
「でしょ? だから大変。家も足りないし」
「なら木を回しましょうか」
ヨルが言った。
「ほんと?」
「余っているわけではありません。ですが、冬までに必要なのでしょう?」
「助かる!」
「その代わり、春になったら人手を貸してください」
「もちろん」
「忘れないでくださいね」
「忘れないって」
ヨルがじっと咲耶を見る。
「……たぶん」
「咲耶」
「覚えとく!」
シズカは、その話を聞いていた。
いや。
聞いていたはずだった。
いつの間にか、あるじの隣に戻っている。
「シズカ」
「ん?」
「先ほどまで咲耶のところにおったではないか」
「いたよ」
「もうよいのか?」
「うん」
「猿田のところにも行っておったな」
「うん」
「タヂカラにも遊んでもろうたか?」
「うん」
「ヨルの髪も触った」
「うん」
返事が短い。
あるじがシズカを見る。
「……眠いのではないか?」
「ねむくない」
「そうか」
「うん」
「ならば、その目は何じゃ」
「……め?」
「半分しか開いておらぬぞ」
シズカは一生懸命、目を開いた。
「開いてる」
「今、開けたではないか」
「ずっと開いてた」
「そうか」
「うん」
シズカはあるじの腕にもたれた。
しばらくして、ずるずると下がっていく。
あるじが支える。
「シズカ」
「……ん」
「寝るなら寝床へ行くか?」
「ねない」
「そうか」
「まだ、みんな……いるから」
「うむ」
「まだ……いる」
「おるよ」
あるじはそれ以上、何も言わなかった。
シズカの頭を自分の膝へ乗せる。
大人たちの話は続いている。
笑い声。
杯の触れる音。
誰かが魚を取れと言い、誰かが酒を寄越せと言う。
ヨルがまた誰かを注意している。
咲耶が笑う。
猿田の大きな声が響く。
ヒコが何か言い返す。
シズカは、あるじの膝の上からそれを聞いていた。
やがて。
「シズカ?」
返事はなかった。
あるじが顔を覗き込む。
小さな寝息が聞こえた。
「……まったく」
そう言いながら、あるじは笑った。
ヒコが気づく。
「寝ました?」
「うむ」
「やっぱり」
「何がじゃ」
「いや。今日は遅くまで頑張ってるなと思っていたんで」
あるじはシズカの頬にかかった髪を指で払った。
それから、そっと抱き上げる。
シズカの腕が力なくあるじの胸元へ落ちた。
「あるじ、どこ行くの?」
咲耶が聞いた。
「シズカを寝床へ連れてゆく」
「宴は?」
「そなたらは続けるがよい」
あるじは眠ったシズカの頭を、自分の肩へ預け直した。
「わらわも、これを寝かしつけたら戻るでな」
「はーい」
「咲耶」
ヨルが言った。
「なんであなたが返事をするのです」
「いいじゃん、別に」
「よくありません」
「ほら、また始まった」
あるじは小さく笑った。
そのまま広間を出ていく。
腕の中で、シズカは一度だけ身じろぎした。
「……あるじさま」
「なんじゃ」
返事はない。
寝言だったらしい。
あるじは歩きながら、眠った顔を見た。
「……傍におるよ」
小さくそう言って。
また、歩き出した。
背後では、まだ皆の笑い声が続いていた。




