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16/20

起きろ

長い階段を上りきる頃には、日はすっかり山の向こうへ沈んでいた。

宮へ続く道の両脇には火が焚かれ、夜の風に炎が静かに揺れている。

その先に、太い柱が二本立っていた。

二本の柱の上には、一本の太い木が渡されている。

磐余彦が、その前で足を止めた。

隣を歩いていた咲耶も止まる。

猿田も。

後ろに続いていた者たちも、同じ場所で足を止めた。

誰かが声をかけたわけではない。

誰かが合図を送ったわけでもない。

それでも、皆の動きはぴたりと揃っていた。

一歩、前へ出る。

静かに腰を折った。

一度。

身体を起こし、もう一度。

衣の擦れる小さな音まで、ひとつになったようだった。

やがて全員が身体を起こす。

両の手が、胸の前へ上がった。

ぱん。

ぱん。

ぱん。

ぱん。

四つの音が、夜の宮に響く。

何人もの手が打ったはずなのに、聞こえたのは四つだけだった。

重なった音は宮の奥へと届き、そのまま暗い空へ吸い込まれていく。

最後にもう一度。

全員が、深く頭を下げた。

そして身体を起こす。

誰も動かない。

風が抜けた。

炎が揺れる。

宮の奥からは、何も聞こえなかった。

しばらく待つ。

それでも、何もない。

咲耶が少しだけ磐余彦へ身体を寄せた。

「ちょっとヒコ……寝てるんじゃない?」

「……」

磐余彦は答えなかった。

ただ、宮の奥を見ている。

「まさか」

後ろから声がした。

咲耶が振り返る。

「でも返事ないし、絶対寝てるって」

「……」

磐余彦はまだ何も言わない。

否定もしなかった。

猿田が宮の奥を見た。

「じゃあ、もう一回やるか」

「……そうだな」

先ほどまでの緩んだ空気が消えた。

全員が再び姿勢を正す。

一度。

二度。

深く頭を下げる。

身体を起こす。

両の手が上がる。

ぱん。

ぱん。

ぱ――

がたがたっ。

宮の奥で、何かが倒れる音がした。

手が止まった。

「……」

「……」

誰も口を開かない。

咲耶が、ゆっくり磐余彦を見る。

磐余彦は宮の奥を見たままだった。

そして。

「お、起きておるわ!」

宮の奥から声が飛んできた。

しばしの沈黙。

咲耶が小さく頷いた。

「絶対寝てたよ」

「……言うな」

◇


「まったく。そう何度も叩かずとも聞こえておる」

宮の奥から姿を見せたあるじは、いつもと変わらぬ顔をしていた。

少なくとも、本人はそのつもりらしい。

咲耶がじっと見る。

「あるじ」

「な、なんじゃ」

「寝てた?」

「ね、寝ておらんぞ」

「ほんと?」

「くどいぞ、咲耶」

「ふうん」

まだ何か言いたそうな咲耶の肩を、磐余彦が軽く押した。

「ほら。あるじも出てきたんだ。もういいだろ」

「ヒコはあるじに甘いよね」

「…そんな事はない」

その時だった。

宮の奥から、小さな足音が聞こえた。

ぱたぱたと、こちらへ近づいてくる。

「あ!」

小さな影が飛び出してきた。

「あ! こらシズカ、走るでない! 危なかろう!」

あるじの声など、まるで聞こえていない。

「咲耶さまー!」

「え?」

咲耶が目を丸くする。

次の瞬間、少女はその胸へ勢いよく飛び込んだ。

「わっ!」

咲耶が一歩よろめる。

それでもすぐに小さな身体を受け止めた。

「咲耶さま!」

「……ちび?」

「うん!」

「ちびじゃん!」

咲耶の顔がぱっと明るくなる。

「ほんとにいた!」

「いたよ!」

「ちびー!」

今度は咲耶の方から抱きしめた。

「咲耶さま、くるしい!」

「あはは、ごめんごめん!」

言いながら、あまり緩めていない。

「元気だった?」

「元気!」

「ちゃんとお手伝いしてる?」

「してるよ!」

「ほんとに?」

「ほんと!」

「怪しいなあ」

「ほんとだもん!」

先ほどまで静まり返っていた宮の前に、二人の声が響く。

あるじが小さく息を吐いた。

「まったく……」

その横で、磐余彦が笑った。

「嬉しかったんでしょう」

「それは分かっておる。じゃが、走るなと言うておるのじゃ」

「聞こえてませんでしたね」

「聞こえておったわ」

「なら、聞いてませんでしたね」

あるじが磐余彦を見る。

「……今日のおぬしは、いちいち腹が立つの」

「俺、何かしました?」

「した」

その時、咲耶に抱きついていた少女が、ふと顔を上げた。

少し離れたところに、大きな男が立っている。

「……」

男も少女を見る。

「……」

少女の目が、少しずつ大きくなった。

咲耶がその視線に気づく。

「あ」

少女が咲耶を見上げた。

「咲耶さま」

「なに?」

「あの人?」

「……うん」

「猿田さま?」

「そう」

少女はもう一度、猿田を見た。

じっと見る。

猿田も黙って見返す。

そして。

「ほんとに怖い顔」

「…………」

猿田の眉間の皺が、ほんの少し深くなった。

咲耶がぷっと吹き出す。

「ちょっと、ちび」

笑いながら言っているので、まるで注意になっていない。

猿田が咲耶を見る。

「咲耶」

「なに?」

「お前、何を吹き込んだ」

「別に?」

「ではなぜ、初めて会った娘がワシの顔を知っておる」

「有名なんじゃない?」

「何がだ」

「顔が」

「咲耶」

「あははは!」

少女が二人を交互に見る。

「咲耶さまが言ってた」

咲耶の笑いが止まった。

「ちび」

「なあに?」

「それは言わなくていいやつ」

「猿田さまは怖い顔だけど、ほんとは優しいって」

「……」

猿田が黙った。

やがて、少しだけ声を柔らかくする。

「……そうか」

咲耶が得意そうに胸を張った。

「ほら。ちゃんと優しいって言ったでしょ?」

「怖い顔とも言ったんだろうが」

「そこは嘘つけないし」

「お前はあとで覚えておけ」

「あはは」

猿田はもう一度、少女を見た。

少女も見返す。

「……」

「……」

やがて猿田が、にこりと笑った。

本人としては、そうしたつもりだったのだろう。

「怖がらんでもよいぞ」

少女が一歩下がった。

「……」

もう一歩。

そのまま咲耶の後ろに隠れた。

猿田の笑顔が固まる。

「……なぜ隠れる」

咲耶の肩が震えている。

磐余彦は顔を逸らした。

あるじがしばらく猿田の顔を眺めた。

「猿田」

「なんだ」

「無理に笑わんでもよいぞ」

「……あるじ」

「いつもの顔の方が、まだ怖くない」

「…………」

とうとう咲耶が耐えきれなくなった。

「あはははは!」

「咲耶!」

笑い声が夜の宮に響いた。

◇


一夜目の神迎え。

宮の広間には、各地から持ち寄られた酒と料理が並んでいた。

焼いた魚。

木の実。

肉。

見慣れない形に切られた根菜。

大きな器には、湯気の立つ汁物もある。

シズカはあるじの隣に座り、さっきから目の前の料理を眺めていた。

手が、少しだけ伸びる。

「シズカ」

ぴたりと止まった。

「はい」

「まだじゃ」

「……はい」

手が戻る。

向かいに座っていた咲耶が笑った。

「お腹すいた?」

「すいた」

「私も」

「咲耶」

「なに?」

「おぬしもまだじゃ」

「分かってるよ」

「今、手を伸ばしたであろう」

「伸ばしただけ」

「同じじゃ」

あちこちから笑いが漏れた。

あるじは呆れたように息を吐く。

それから、皆を見渡した。

「さて」

声が変わった。

それだけで、広間が静かになる。

「先に、皆に申すことがある」

シズカがあるじを見上げた。

「シズカ。こちらへ」

「はい」

シズカが立ち上がる。

あるじは傍へ来た小さな身体を抱き寄せた。

「これの名は、シズカじゃ」

皆の視線が集まる。

シズカは少しだけ緊張した顔で、ぺこりと頭を下げた。

あるじは、ほんの少し間を置いた。

「わらわの娘じゃ」

静かになった。

シズカはあるじの腕の中から、皆の顔を見ている。

最初に口を開いたのは咲耶だった。

「……ほんと?」

「うむ」

「そっか」

咲耶の顔がほころぶ。

「よかったじゃん、シズカ」

「うん!」

猿田も大きく頷いた。

「そうか! それはめでたい!」

シズカの肩がびくっと跳ねる。

猿田が止まった。

「あ……すまん」

「大丈夫」

「そうか」

シズカは猿田の顔を見て付け加えた。

「でも、やっぱり声も怖い」

「…………」

咲耶が吹き出した。

広間に笑いが広がる。

あるじも笑った。

「では、始めるかの」

待っていたように、杯が上がった。

◇


宴が始まってしまえば、先ほどまでの静けさなどどこかへ消えた。

あちらでは酒の出来を自慢している。

こちらでは今年獲れた魚の大きさで言い争っている。

誰かが笑えば、別の場所からもっと大きな笑い声が返ってくる。

シズカは忙しかった。

「シズカ」

「なあに?」

振り返ると、猿田がどかっと隣に座った。

近い。

シズカはその顔を見上げる。

「……やっぱり怖い」

「顔の話はもうよい!」

「だって近いもん」

「近ければ怖くなるのか?」

「大きくなる」

「顔は大きくならん!」

向こうで咲耶が笑っている。

猿田は咲耶を睨んでから、シズカへ向き直った。

「それよりシズカ。ワシのクニにも遊びに来い」

「行っていいの?」

「もちろんだ」

「何があるの?」

「……」

猿田が詰まった。

「いろいろある」

「いろいろ?」

「いろいろだ」

「何?」

「だから、いろいろだ!」

向かいから声が飛んできた。

「猿田のところより、うちへ来い」

「なんだと?」

「甘いものがあるぞ」

シズカの顔が変わった。

「甘いの?」

「ある」

「行く!」

「おい!」

男が得意そうに笑った。

「ほら見ろ」

「食い物で釣るな!」

「お前も何か言えばいいだろう」

「言ったわ!」

「いろいろ、とな」

「うるさい!」

また笑いが起こる。

今度は別の声。

「魚なら、うちの方がうまいぞ」

「魚?」

「大きいのを焼いてやる」

「食べる!」

「おい、シズカ。何でも行くと言うな」

磐余彦が横から口を挟む。

「だって行きたいもん」

「全部回るのにどれだけかかると思ってる」

「ヒコさまも一緒に行こう」

「俺もか?」

「うん!」

「……仕事があるんだが」

「じゃあ、あるじさまも」

あるじが杯を持ったまま目を上げた。

「わらわもか?」

「うん!」

「……考えておこう」

「ほんと?」

「考えるだけじゃからな」

「行こうね!」

「聞いておるか?」

また笑い声が上がった。

少し離れたところから、咲耶が杯を片手にその様子を見ていた。

「シズカ、人気者じゃん」

「そうじゃの」

あるじが答える。

「あるじ」

「なんじゃ」

「嬉しい?」

「何がじゃ」

「別に?」

咲耶は笑って酒を飲んだ。

あるじも何も言わず、杯を口へ運んだ。

◇


夜も深くなると、さすがに声は少なくなっていた。

それでも宮の遥か下には、まだいくつもの火が見える。

寄月に集まった人々の火だ。

遠くから、かすかな笑い声が届いた。

あるじは、宮から張り出した板敷きに座っていた。

その腕の中で、シズカが眠っている。

あれだけ走り回り、あれだけ喋り、あれだけ食べたのだ。

眠らない方がおかしい。

あるじはずり落ちかけた布を、シズカの肩まで戻した。

隣に磐余彦が腰を下ろす。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

下には、たくさんの灯がある。

「……ようもまぁ集まるものじゃな」

あるじが呟いた。

「毎年のことでしょう」

「それはそうじゃが」

あるじは下を見た。

「わらわに会えるわけでもない者が、ほとんどであろう」

「そうですね」

「では、何をしに来る」

磐余彦は少し考えた。

「みんな、あるじにあやかりたいのでしょう」

「わらわに?」

「ええ」

「何をじゃ」

「豊作だったり、商いだったり。子が無事に生まれることだったり」

磐余彦も下の灯を見る。

「人それぞれですよ」

「……わらわに頼んでどうする」

「さあ」

「さあ、とはなんじゃ」

「俺だって、あるじに頼めば米が増えるとは思ってませんよ」

「なら言うでない」

「でも」

磐余彦は笑った。

「みんな、何か一つくらい良いものを持って帰りたいんでしょう」

「……変なものじゃな、人というのは」

「そうですね」

腕の中で、シズカが小さく動いた。

あるじはすぐに視線を落とす。

起きてはいない。

頬にかかっていた髪を指で避けると、シズカはまた静かな寝息を立てた。

遠くで笑い声がした。

あるじが顔を上げる。

下の方で、ひときわ大きな火が揺れていた。

「……あれは何じゃ」

磐余彦が目を凝らす。

「ああ」

「なんじゃ」

「たぶん、咲耶のところですよ」

「……まだ飲んでおるのか?」

「たぶん」

あるじはしばらく、その火を眺めた。

「……元気じゃのう」

「あるじよりは」

「ヒコ」

「なんです?」

「おぬし、今日は本当に腹が立つの」

磐余彦が笑った。

あるじも、小さく笑った。

その腕の中で、シズカは眠ったままだった。

下ではまだ、いくつもの火が揺れていた。


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