静香
「静香さん」
「ん?」
「ちょっとこれ、見てもらっていい?」
「私に?」
「うん」
博繁は机の上に広げていた紙を、静香の方へ向けた。
綾瀬の部屋は、相変わらず物が多かった。
発掘調査報告書。地図。段ボール箱。
その隙間を借りるように、美咲ミヅキのノートが三冊ほど広げられている。
「お前ら、人の部屋を勝手に研究室にするな」
少し離れた机から、綾瀬が言った。
「先生がここで読めって言ったんでしょう」
「机まで占領しろとは言ってない」
「今さらじゃないですか」
「今さらにしたのはお前だ」
博繁は聞かなかったことにして、静香に紙を見せた。
静香は椅子を引き、博繁の隣へ座る。
「……何これ」
「ひどいな」
「だって、線いっぱい」
「俺も途中から分からなくなった」
「じゃあ私に見せても分からないと思うけど」
「だから見てほしいんだよ」
「どういうこと?」
「先入観のない人に見てもらいたい」
静香が博繁を見る。
「私、考古学は専門じゃないよ?」
「知ってる」
「お母さんみたいには分からないよ?」
「それも知ってる」
「じゃあ何を見ればいいの?」
「なんでもいい」
「一番困るやつだ」
静香は笑った。
「博繁さん、学生にもそういう聞き方してるの?」
「しないよ」
「よかった」
「学生にやったら怒られるからな」
「私は怒っていいの?」
「……できれば怒らないでほしい」
「ふふ」
静香はもう一度、紙へ目を落とした。
「じゃあ、見せて」
「ああ」
博繁は一枚の分布図を指した。
「これが出雲」
「うん」
「こっちが九州北部。で、こっちが畿内」
「うん」
「青銅器だけじゃなくて、祭祀に使われたと考えられてるもの、人の移動を示す可能性があるもの、それから墓制。年代に幅があるから、全部を同じ時期として見てるわけじゃない」
「うん」
「で――」
博繁の指が止まった。
「分からん」
「早いね」
「だから困ってるんだよ」
静香が笑った。
「何が分からないの?」
「まとまりすぎてるのに、まとまってない」
「……何それ」
「俺もそう思う」
博繁は椅子の背にもたれた。
「出雲に大きな勢力があった。それ自体は別におかしくない。実際、青銅器の出土を見ても、ここを無視して弥生後期を語るなんて無理だ」
「うん」
「でも、出雲が周りを従えて、一つの大きな国になったと考えると……なんか合わない」
「何が?」
「物が」
博繁は地図の何か所かを指した。
「地域ごとの差が大きい。もちろん、それ自体は珍しくないんだけど」
「うん」
「なのに、繋がってるようにも見える」
「……」
「交流していた、で済ませれば簡単なんだけどな」
「済ませたくないの?」
「ミヅキが済ませてない」
博繁はノートを開いた。
何度も読み返したページだった。
そこには短い文字が残されている。
『祭祀連合?』
その下に線が引かれ、
『それだけでは人の移動を説明できない』
さらに下。
『一度捨てる』
静香が覗き込んだ。
「厳しいね」
「自分に?」
「うん」
「ほんとにな」
博繁は別のページをめくった。
「こっちでは出雲を中心に考えてる。その次では九州から見てる。さらに次では畿内から見てる」
「忙しい人だね」
「三十冊あるからな」
「全部読むの?」
「読むよ」
「ほんとに?」
「読む」
「……そういうところ、似てるかも」
「誰に」
「お母さん」
博繁が顔をしかめた。
「それ、褒めてる?」
「どうだろう」
「静香さん」
「ふふ。ごめんなさい」
博繁はノートへ目を戻した。
「でも、前より分かる気がするんだよな」
「何が?」
「なんでこんなに間違えてるのか」
「……それ、お母さん怒ると思うよ」
「違う違う。悪い意味じゃなくて」
博繁は慌てて手を振った。
「最初から答えを持ってたわけじゃないんだ。思いついたら当てはめる。合わなければ捨てる。また考える。それをずっとやってる」
「うん」
「前なら、論文だけ読んで『この人すげえな』で終わってた」
「今は?」
「この人、めちゃくちゃ諦め悪いなって」
静香が吹き出した。
「それは褒めてる?」
「かなり」
「そう」
静香は笑ったまま、ノートへ視線を落とした。
「諦めが悪かっただけかもね」
「三十冊書く時点で十分おかしいですよ」
「ひどいなあ」
「褒めてます」
「絶対違うでしょ」
二人で笑った。
少し離れたところで、綾瀬が報告書のページをめくった。
「静かにしろ」
「先生の部屋なんだから、先生がどこか行けばいいじゃないですか」
「ここは俺の部屋だ」
「知ってます」
「なら少しは遠慮しろ」
「はいはい」
「一回殴るぞ」
「暴力反対です」
静香が口元を押さえて笑った。
綾瀬は何か言いたそうな顔をしたが、結局、報告書へ目を戻した。
静香も再び地図を見る。
「ねえ、博繁さん」
「ん?」
「これ」
静香が、一つの線を指した。
「なんで線で囲ってるの?」
「勢力圏の仮置き」
「誰の?」
「……」
博繁が黙った。
「出雲?」
「そのつもりだった」
「じゃあ、こっちは?」
「別の地域集団」
「こっちは?」
「それも」
「どうして分けたの?」
「出土するものの傾向が違うから」
「じゃあ、違うんじゃない?」
「何が?」
「同じところじゃないんでしょ?」
「……まあな」
「違うものが出るから、博繁さんが分けたんだよね?」
「ああ」
「でも、繋がってるんだよね?」
「……そう見える」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
博繁は静香を見た。
「何が」
「違うけど、繋がってる」
「……」
「駄目?」
「いや」
博繁は地図へ目を戻した。
「駄目じゃない」
しばらく黙る。
静香も何も言わなかった。
博繁は自分で引いた線を見る。
その線の内側を見て。
隣の線を見る。
さらに、その向こうを見る。
「……俺」
「うん」
「なんで囲ったんだろうな」
「博繁さんが囲ったんでしょ」
「そうなんだけど」
博繁は鉛筆を取った。
線の一部を消そうとして、手を止めた。
「先生」
「なんだ」
「消しゴムあります?」
「そこ」
「これ?」
「それ」
博繁は消しゴムを手に取った。
線を少し消す。
また少し消す。
綾瀬が眼鏡越しに地図を見た。
「ずいぶん消すな」
「俺が勝手に引いた線なんで」
「……そうか」
それだけ言って、綾瀬はまた報告書へ目を戻した。
博繁はさらに線を消した。
「国があると思ったから、境界を引いた」
「うん」
「境界を引いたから、別のものに見えた」
「うん」
「でも実際に、そこに境界があった証拠は……」
手が止まった。
「ないな」
「じゃあ消す?」
「簡単に言うなあ」
「博繁さんが書いた線だよ?」
「そうだけどさ」
静香が笑った。
博繁も小さく笑って、残っていた線を消した。
地図の上に残ったのは、出土地点を示す印と、物の違いと、人が動いたらしい痕跡だけだった。
博繁はそれをしばらく眺めた。
「……余計分からなくなった」
「よかったね」
「なんでだよ」
「研究者っぽいなと思って」
「研究者です」
「知ってる」
静香が笑った。
博繁も笑った。
少し離れたところで、また紙をめくる音がした。
◇
「腹減った」
「急だね」
「もう二時だぞ」
「ほんとだ」
「静香さん、昼は?」
「まだ」
「食べよう」
「何かあるの?」
「ある」
博繁は机の端に置いていたコンビニの袋を持ち上げた。
「買ってある」
「私の分も?」
「この前、勝手にプリン食べただろ」
「勝手じゃないよ。くれたんでしょ?」
「そうだったか?」
「そうです」
「じゃあ今日もある」
袋からプリンを出した。
静香の顔が明るくなる。
「やった」
「先に飯食えよ」
「え?」
「え、じゃない」
「プリンからでしょ」
「普通は最後だ」
「好きなものから食べるの」
「知ってるけど」
静香はもう蓋を開けている。
「いただきます」
「……」
「博繁さんも食べる?」
「いらない」
「おいしいよ?」
「知ってる」
「食べてないのに?」
「甘いものは嫌いじゃないけど、今は飯が先だ」
「そっか」
静香は嬉しそうにプリンを一口食べた。
「おいしい?」
「うん」
「ならよかった」
博繁も自分の弁当を開いた。
「お前ら」
綾瀬の声がした。
「今度は俺の部屋で飯まで食うのか」
「先生も食べます?」
「いらん」
「じゃあいいじゃないですか」
「よくない」
「はるむちゃん呼びます?」
「なぜ話を大きくする」
静香が笑う。
「先生もプリン食べます?」
「いらん」
「おいしいですよ?」
「いらんと言ってるだろ」
「人気ないですね、先生」
「お前が買ってきたんだろうが」
「俺のせいですか」
「うるさい。食うなら黙って食え」
「はいはい」
博繁は弁当に箸をつけた。
静香は隣でプリンを食べている。
机の上には、消しかけの線が残った地図と、美咲ミヅキのノート。
答えはまだ何も出ていない。
むしろ、さっきより分からないことが増えた。
それでも博繁は、少しだけ先へ進んだ気がしていた。




