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もう一回


「ヒコ。これはどうじゃ?」

「駄目です」

「まだ何も言うておらんぞ」

「見れば分かります」

 ヒコは、あるじの手元を見た。

 そこには、小さな器が二つ並んでいる。

 一つは魚。

 もう一つは、甘く煮た木の実だった。

「そっちは俺が持ってきたものじゃありません」

「咲耶さまにもらったの!」

 少女が得意そうに胸を張った。

「今日のお駄賃!」

「……なるほど」

 ヒコはため息をついた。

「何がなるほどなのじゃ」

「こいつを一日預けた結果、余計なものまで覚えて帰ってきた理由です」

「余計じゃないもん!」

「あるじに甘いものを与えるな」

「なんで?」

「際限なく食べるからだ」

「食べぬわ」

「この前もそう言いました」

「今日は違う」

「何がです」

「今日は、これだけじゃ」

 あるじが木の実を一つつまんだ。

「ほら。一つじゃ」

 そのまま口に入れる。

 少女がじっと見ている。

「おいしい?」

「うむ」

「ほんと?」

「食べるか?」

「うん!」

「あるじ」

「なんじゃ」

「今、自分で食べるのは一つと言いましたよね」

「これは、この子にやるのじゃ」

「そういう話じゃない」

「ヒコさまも食べる?」

「いらん」

「おいしいよ?」

「いらん」

「食べてないのに?」

「甘いものは好きじゃない」

「なんで?」

「なんでと言われてもな」

「あるじさまは好きだよ?」

「あるじを基準にするな」

「なぜじゃ」

「あなたも入ってこないでください」

 少女が笑った。

 あるじも笑った。

 ヒコはもう一度ため息をつき、持ってきた酒の蓋を開けた。

 夜の宮には、いつものように火が灯っていた。

 外から虫の声が聞こえる。

 咲耶たちは、もう自分たちの寝所へ戻っている。

 今夜、ここにいるのは三人だけだった。

◇

「そういえば」

 ヒコが酒を杯へ注ぎながら言った。

「今日は咲耶のところで何をしていた」

「お手伝い!」

「それは聞いた」

「いっぱい働いたよ!」

「何をした」

「籠持った!」

「ほう」

「あと、手振った!」

「……」

「いっぱい!」

「それは働いたと言うのか?」

「咲耶さまは笑ってた」

「だろうな」

「船のことも聞いたよ」

「船?」

「明後日は風が強いかもしれないんだって」

 ヒコの手が止まった。

「誰が言っていた」

「船の人」

「咲耶は?」

「待つって」

「そうか」

 それだけ言うと、ヒコは酒を一口飲んだ。

「あとね、猿田さまの話も聞いた」

 ヒコが少しだけ眉を上げた。

「……咲耶が何を言った」

「怖い顔なんだって」

「やっぱりか」

「ヒコさま知ってるの?」

「知ってる」

「ほんとに怖い?」

「顔はな」

「咲耶さまと同じこと言った!」

「そうか」

「でも、いい人なんだって」

「ああ」

「会ってみたい」

「そのうち会う」

「もうひと月したら来るって!」

「そうだな」

「いっぱい来る?」

「来る」

「どれくらい?」

「いっぱいだ」

「わたしよりいっぱい?」

「比べるものじゃない」

「咲耶さまも来る?」

「来る」

「猿田さまも?」

「来る」

「他にも?」

「来る」

「みんな?」

「来る」

「すごい!」

 少女の目が輝いた。

「ねえ、あるじさま。楽しみだね!」

「そうかの」

「楽しみじゃないの?」

「毎年来るからの」

「毎年!?」

「うむ」

「すごい!」

 少女は、また目を輝かせた。

 あるじはそんな少女を見て、少し笑った。

「お前が喜ぶなら、今年は少し楽しみかもしれぬな」

「ほんと?」

「うむ」

「じゃあ一緒に見ようね!」

「何をじゃ」

「いっぱい来るところ!」

「よかろう」

「約束!」

「分かった、分かった」

「あるじ」

 ヒコが杯を置いた。

「なんじゃ」

「そうやって何でも言うことを聞くから、こいつが調子に乗るんです」

「乗ってないもん」

「乗ってる」

「乗ってない!」

「今日だって咲耶のところへ行って、夕方まで帰ってこなかっただろ」

「お手伝いしてたの!」

「途中で帰るよう言われただろ」

「……言われた」

「ほら」

「でも咲耶さまが、いていいって」

「だからといって――」

「よいではないか」

 あるじが言った。

 ヒコがそちらを見る。

「よくありません」

「なぜじゃ」

「甘やかしすぎです」

「そうかの?」

「そうです」

「別によいであろう」

「よくない」

「よい」

「よくありません」

「よい」

「あるじ」

「なんじゃ」

 あるじは、木の実をもう一つ口へ入れた。

「この子はもう、わらわの娘も同然じゃ。少しくらい甘やかして何が悪い」

「だから、そういう――」

 ヒコの言葉が止まった。

 少女も黙っていた。

 あるじだけが木の実を噛んでいる。

「……なんじゃ?」

 誰も喋らないので、あるじが二人を見た。

 少女が、あるじを見つめていた。

「どうした」

「……娘?」

「うむ」

「わたしが?」

「他に誰がおる」

 少女は瞬きをした。

 それから、自分を指さした。

「わたし……あるじさまの娘なの?」

「同然、と言うたのじゃ」

「どうぜん?」

「まあ……似たようなものじゃ」

「……」

「なんじゃ、その顔は」

 少女の顔が、少しずつくしゃくしゃになった。

「お、おい」

「……」

「どうした」

 少女の目から、大きな涙がこぼれた。

「なぜ泣く!」

 あるじが慌てた。

「わ、わたしなんかが……」

「うむ?」

「あるじさまの娘なんて……恐れ多いです」

「……」

 あるじが眉を寄せた。

「なんじゃ。わらわが母では不服かの?」

「ちがう!」

 少女が叫んだ。

「違うの! 嬉しいの!」

「嬉しい?」

「うん!」

「なら、なぜ泣く」

「分かんない!」

「なぜじゃ!」

「分かんないもん!」

 あるじは困った顔でヒコを見た。

「ヒコ」

「なんです」

「泣いたぞ」

「見れば分かります」

「なぜじゃ」

「……嬉しいんでしょう」

「嬉しいのに泣くのか?」

「そういうこともあります」

「では、どうすればよい」

「……」

「ヒコ?」

「俺に聞かないでください」

「お前も知らぬのか」

「泣いてる女の子の扱いなんて知りませんよ」

「役に立たぬの」

「無茶を言わないでください」

 少女が泣きながら、あるじに抱きついた。

「おっ」

 勢いを受けて、あるじの身体が少し傾く。

「あるじさま……!」

「う、うむ」

「あるじさま!」

「聞こえておる」

「あるじさまぁ……!」

「だから聞こえておるというに」

 あるじは困ったように少女を見下ろした。

 しばらく迷ってから、その頭に手を置く。

 ゆっくりと撫でた。

 少女はますます泣いた。

「ヒコ」

「……なんです」

「もっと泣いた」

「たぶん、それでいいんですよ」

「ほんとか?」

「たぶん」

「頼りないの」

「じゃあ自分で考えてください」

 あるじは少しだけ眉を寄せた。

 けれど、手は止めなかった。

 少女の髪を、何度もゆっくり撫でていた。

 やがて少女の泣き声が少し小さくなった。

 あるじの衣を掴んだまま、鼻をすすっている。

「もうよいか?」

「……うん」

「そうか」

「でも、もうちょっと」

「何がじゃ」

「こうしてる」

「好きにせよ」

 少女はまた、あるじに頬をつけた。

 あるじはその頭を撫でながら、ふと思い出したように言った。

「そういえば」

「……なに?」

「お前、名がなかったの」

 少女の身体が少し動いた。

 ヒコがあるじを見る。

「そうですね」

「不便ではないか」

「今さらですか」

「今までは困らなんだから仕方あるまい」

「ちび、で通じてましたからね」

「ちびじゃないもん……」

 泣き声の残った声で、少女が言った。

「ほら。本人も嫌がっておる」

「じゃあ、どうするんです」

「そうじゃな」

 あるじは少女の髪を一度撫でた。

 それから、ごく当たり前のことを決めるように言った。

「今日から、お前の名はシズカじゃ」

「……」

 少女が顔を上げた。

「しずか?」

「うむ」

「わたしの?」

「そうじゃ」

「……シズカ」

「気に入らぬか?」

 少女は首を横に振った。

「ううん」

 そして、また涙がこぼれた。

 あるじは今度は慌てなかった。

 ただ、少女の頭を撫でていた。

「シズカ……」

 少女は、自分で確かめるように口にした。

「わたし、シズカ?」

「そうじゃ」

「ほんとに?」

「うむ」

「名前、あるの?」

「あるぞ」

「わたしの名前?」

「お前の名じゃ」

「誰かが呼んでくれる?」

「もちろんじゃ」

 少女――シズカは、あるじを見上げた。

「あるじさま」

「なんじゃ」

「呼んで」

「名前をか?」

「うん」

 あるじはシズカの頭を撫でた。

「シズカ」

「はい」

「……もう一回」

「シズカ」

「はい」

「もう一回」

「シズカ」

「はい」

 何度呼んでも、シズカは嬉しそうに返事をした。

 あるじも、何度でも呼んだ。

 そのたびに髪を撫でた。

「シズカ」

「はい」

「シズカ」

「はい」

「……シズカ」

「はい」

 いつの間にか、シズカはまた泣いていた。

 けれど今度は、あるじも何も言わなかった。

 ただ頭を撫でながら、もう一度その名を呼んだ。

「シズカ」

「……はい」

 少し離れたところで、ヒコが杯を口へ運んだ。

 その口元が、わずかに笑っていた。

 シズカがそれを見つけた。

「ヒコさま」

「なんだ」

「呼んで」

「……」

「シズカって」

「今、散々呼んでもらってただろ」

「ヒコさまにも」

「……シズカ」

「はい!」

 満面の笑みだった。

 ヒコは一瞬だけ目を細めた。

「これでいいか」

「もう一回」

「嫌だ」

「なんで!」

「一回って言っただろ」

「あるじさまはいっぱい呼んでくれたよ!」

「あるじと俺を一緒にするな」

「もう一回!」

「嫌だ」

「ヒコさまぁ!」

 あるじが笑った。

「呼んでやればよかろう」

「あなたが甘やかすからこうなるんです」

「一度くらい減るものでもあるまい」

「さっき一度呼びました」

「では、もう一度じゃ」

「勝手に増やさないでください」

「ヒコさま」

「……なんだ」

「もう一回」

 ヒコはシズカを見た。

 シズカは期待いっぱいの顔で待っている。

 ヒコはため息をついた。

「……シズカ」

「はい!」

「これで終わりだ」

「うん!」

「本当だな?」

「うん!」

 シズカは嬉しそうに、あるじの隣へ戻った。

 ヒコは杯を取る。

「ヒコ」

「なんです」

「飲め」

「飲んでます」

「もっとじゃ」

「明日も仕事があるんですが」

「今日くらいよかろう」

「何が今日くらいなんです」

「めでたい日であろう?」

「何がです」

「わらわに娘ができた」

 あるじはそう言って、シズカの頭を撫でた。

「それに、シズカに名ができた」

「……」

「めでたかろう?」

 ヒコは、あるじを見た。

 それからシズカを見る。

 シズカは嬉しそうに、自分の名前を小さな声で繰り返していた。

「シズカ」

 言って、笑う。

「シズカ」

 もう一度言って、また笑う。

 ヒコは少しだけ息を吐いた。

「……そうですね」

 杯を差し出した。

「今日くらいは」

「うむ」

 あるじが嬉しそうに酒を注いだ。

「わたしも!」

「お前は駄目じゃ」

「なんで!」

「子供だからだ」

「あるじさまの娘なのに?」

「娘だからじゃ」

「ヒコさまは?」

「大人じゃ」

「あるじさまは?」

「わらわも大人じゃ」

「ほんと?」

「なぜ疑う!」

 ヒコが吹き出した。

「ヒコ!」

「なんです」

「今、笑ったな」

「笑ってません」

「笑った!」

「ヒコさま、笑った!」

「うるさい」

 そう言いながらも、まだ少し笑っている。

「ヒコさま」

「なんだ」

「もう一回!」

「今度は何だ」

「名前!」

「嫌だ」

「なんで!」

「終わりだと言っただろ」

「もう一回!」

「嫌だ」

「ヒコさまー!」

 シズカが騒ぐ。

 あるじが笑う。

 ヒコも、今度は隠さず笑った。

 杯の酒は、いつもより少し早く減っていった。

 あるじは二人を見ながら、自分の杯を口へ運んだ。

 シズカが笑っている。

 ヒコも笑っている。

 なぜだか、今夜は酒がうまかった。

「あるじさま」

「なんじゃ」

「もう一回」

 あるじは優しくシズカの髪を撫でた。

「シズカ」

「はい」

「もう一回」

「シズカ」

「はい!」

 あるじは笑った。

 何度でも、その名を呼んだ。

 夜の宮に、三人の笑い声が響いていた。

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