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アークライセンス  作者: 植伊 蒼
第8部-地上のオーロラ-
258/259

after 二人の背を押す春の風

 嵐の多い冬が過ぎた。

 すると助走の期間もないままに、温かな春がやってくる。

 冷たい時期は唐突に終わりを告げ、空を覆う厚い雲がすっかりとご無沙汰になった後からは、少し運動をするだけですぐに汗ばむほどの陽気が続いていた。

 そして既に夏の気配を感じ始めるような初春の頃、星印学園は終業式を迎えた。

 新設校故に最高学年が2年だった星印学園では、卒業式は行われない。

 年度最後の学園の日さえ、遠く離れる者もなければ、ゆえにそれを悲しむ者もおらず、淡々と過ぎていった。

 生徒たちはしばしの別れを惜しみつつも、夏や冬とは違って憂うものの無い自由な休みを前に、いずれも高揚を隠す様子はなかった。

 そして迎えた春休みもまた、何があるということもなく、やはり淡々と過ぎていく。

 桜の花はずっと前に散り、桜吹雪は誰もいない学園の敷地へと降り積もると、誰に見送られることもなく、やがて風に吹かれて去って行った。

 そうして春らしい淡い色が、すっかりその姿を見せなくなり、あちこちで瑞々しい緑の木々が目立つようになっていた。

 長かった春休みも、終わりはすぐそこだ。


 インターンの暴走事件から、2か月ほどが経っていた。

 今日は星印学園、始業式前の登校日。

 新学年を前に、生徒同士やあるいは教員と顔合わせをして、皆が無事に過ごせたことを確かめる。あとは前の学年の教室で使っていたものを、次の教室の前に移すという作業などがある日だ。

 要するに、新学年をスムーズに迎えるための準備日というわけだ。

 駆り出されるのは全校生徒。

 教室後ろのロッカーに放り込んでいた私物や、机に入れっぱなしの教科書ノートを各々まとめて、荷物運び用にと個別に配られた安っぽい袋に詰め込んでいた。

 しばらくは部活に来る生徒ぐらいしかいなかった学園も、久しぶりの喧騒に包まれていた。単に授業があるのとは違い、あちこちで飛び交う話し声が校舎全体に木霊している。

 だからとはいえ、生徒の誰も彼もがハイテンションなわけではない。

 渋い顔で、えっちらおっちら階段を下る生徒の姿もあった。

 飛鳥だ。

「くっそ重てぇ…………」

 彼は袋を肩に担いで、右に左にとゆらゆら揺れながら、気怠い足取りで下階を目指していた。

 1年の教室は3階。2年の教室は2階で3年のそれは1階である。同じ階に教室が固まっていれば横への移動だけで済むのだが、まぁそう都合よくは行かないものだ。

 終業式辺りで荷物を持ち帰るタイミングはあったのだが、面倒臭いとそれを避けた結果、余計に面倒なことになってしまったという話だ。

 今の担いでいる荷物の中にも、2年になってから使う予定の無いものもある。ロッカーのキャパシティにも限界はある以上、いずれというか早々に持ち帰る必要はある。結局、この階の移動というひと手間が増えてしまっただけのようだ。

 そうして転ばないようにゆっくり階段を下っていると、ちょうど踊り場の位置で、階段を上ってきた男子とすれ違った。

「アスカ?」

「伊達か? なんで上登ってんだよ」

 すれ違ったのは伊達だ。

 彼はふときょとんとした表情を浮かべた後、ひょいと片手を上げた。

「よう。来てたのか、久しぶりだな」

「おう久しぶり、そういやこの休み顔合わせなかったな」

 少し話が長くなりそうだと、飛鳥は担いでいた荷物を足元に下した。

「お前朝居なかったろ。今日サボりかと思ってたぜ」

「久しぶりに遅刻だ。つーか寝坊。今日登校日とか普通忘れるくね? 朝起きたら10時前だったぞ。おかげで飯抜き」

「完全に自業自得じゃねーか。でも、本郷と一緒に来なかったのか?」

「別に、俺あいつと一緒に登校したこと一回もないぞ。そもそも俺が来てること知らないんじゃねーの」

 肩をすくめながら、飛鳥はそう答えた。

 自宅のアパートでは上下階でちょうど同じ位置の部屋ではあるが、隣というわけではない。もののついでで起こしていくなどするには、少々手間だ。

 二人がもう一回り親密な関係だったらそういうこともあり得たのかもしれないが、それに関しては特に飛鳥が一線を引いている。泉美もその点は理解しているのか、せいぜい病気の看病などでもなければ、飛鳥の部屋に押し掛けたこともなかった。

 二人の関係をどう捉えているのか、あくまで淡々と答える飛鳥に伊達は訝し気な視線を向ける。

 それでも飛鳥が表情を崩さないのを見て取ると、ため息をついて、首を横に振った。

「何か言いたそうだな」

「いやぁ何も。……そういえばアスカ、お前クラスのグループチャットって入ってなかったのか? 普通に今日登校日だって話してたぞ?」

「グループチャット? あったっけ?」

「あるよ。去年の頭に作ったからって誘っただろ」

「あー? あぁ! なんかあったような気がする。……たぶん通知切ってたんじゃねーかなぁ」

 首を傾げながらポケットからケータイを引っ張り出した飛鳥は、それを素早く操作して、ケータイにインストールだけはしてあったチャットアプリを立ち上げた。

「あれ?」

 アプリを立ち上げて画面をのぞいた途端、飛鳥は首を逆側に傾けた。

「どうした?」

「いや、うん、違うな…………。悪ぃ、俺これ招待無視してたわ」

「1年丸ごとかよ!? 何やってんだお前」

 今更に明かされる衝撃の事実に、伊達は大げさにのけぞって見せた。

 当の飛鳥は多少慌てた様子ではあるものの、このこと自体には特に何も感じていない様子だった。

「まぁ何もやってないからこうなってんだけど。どうしよ、これ入っといたほうがいいのか?」

「もう流石にどっちでもいいんじゃねーか? 一週間後にはみんなクラス変わるんだし」

「……それもそうか。じゃあもういいや」

 名残惜しさも見せずに、飛鳥はあっさり言ってのけると、興味を失ったようにケータイをポケットに押し込んだ。

 立ち話もここまでといった様子で、飛鳥は足元に置いていた麻袋を手に取った。

「これから教室か?」

「ああ。つってもまぁ、来年のクラスが判るわけでもないし、空き教室だろ? 一旦の置き場って」

「そうだな」

 大げさに振りかぶって袋を肩に担ぐと、飛鳥は再びのんびりとした調子で階段を下り始めた。

 上に上っていたはずの伊達は、何故か飛鳥の隣に並んで歩きながら、やや神妙な面持ちでこう尋ねた。

「今年、クラス分けどうなるだろうな」

「さぁな。ま、みんながみんな同じクラスってわけにもいかないだろ」

 クラス分けなど、結局のところはクジ運だ。極端に学力が固まらないようにと配慮はされるため、その部分では人為的な介入があるが、かといって上から順番にまんべんなく振り分けていくというほど規則正しくは行われない。

 そんなことを言いながらも、実際のところ飛鳥はこのクラス替えというものを、それほど不安にも楽しみにも思っていなかった。

 この学園設立の目的の中には、生徒の中からアークのライセンス適合者を発見するとともに、登録されたライセンス所有者をサポートするというものもある。

 サポートするならひとまとめに扱ったほうが手っ取り早く確実だということもあって、少なくとも同学年の飛鳥、隼斗、そして泉美は同じクラスになるのが決まっている。

 1年次での彼らの担任だった飛騨が、そのまま2年でもクラスの受け持ちをするという噂もあり、関わりの深い友人や担任がそのまま繰り上げという、あまり変わり映えのしないクラス替えになることが確定しているようなものだったのだ。

 飛鳥達の事情を部分的にだが知っている伊達や美倉も、案外同じクラスに放り込まれるかもしれない。そうなってしまったらもう、いよいよ教室の場所以外にさしたる違いも無くなってくる。

 不安がないのは悪くはないが、新鮮味がないとも感じてしまう。

 とはいえ、それもクラスの中に限った話ではあるが。

「クラス板の話でもそうだけどさ。お前、そういうことあんまり気にしねーのな」

「別に気にしないわけではないけど……」

 伊達はある程度事情を知っているとはいえ、本当に限られた情報だけだ。ライセンス所有者に関わる予想を、勝手な判断で聞かせることもできず、飛鳥は言葉を濁した。

 それをどういう意味に捉えたのか、伊達は渋い顔をして、飛鳥の横顔を覗き込んだ。

「クラス替え、誰と一緒が良いとか、そういうのないのか?」

「特には。……どうせなるようになるし、ならないようにはならねーって」

 飛鳥は何と答えようか、さすがに一瞬は迷ったが、嘘を吐く意味もないかと、素直にそう答えた。

 説得するようでも、自分に言い聞かせるようでもある言葉だった。

 伊達は目を伏せると、視線を逸らしながら、呟くような声音でこう言った。

「ドライっつーかなんつーか、寂しいこと言うな、お前」

 茶化すような言葉だが、口調は至って真面目なものだった。

 飛鳥は眉を寄せると、探るように返した。

「……本当は何が言いたいんだ?」

 飛鳥の予想外の察しの良さに驚いて目を見開いた伊達は、それから力なく「ははっ」と笑うと、気恥ずかしそうに頭を掻いて、少し悩んだ様子を見せてから、おもむろに口を開いた。

「変な話だけど、さ。お前達……、つーか特にお前がさ。なんか…………、どんどん遠くなっていくような、気がしててな」

「あぁ…………」

 去年の年末からずっと、アーク研究の事に心を引きずられていた。

 発端はダチュラとの出会いからの、言い知れぬ不安が理由だった。自分のいるこの場所が、まるで自分自身にふさわしくないかのような、あるいはその逆のような、そういう感覚だ。

 知るべきこと、見るべきものはこの場所よりも外側にこそ沢山ありそうで、飛鳥の興味や関心は、次第に学園や友人関係以外のことに向かっていくようになっていった。与えられた力に振り回される形で、飛鳥自身もまた、次第に大きなことを考えるようになっていたのだ。

 結果的に心ここにあらずなことが増えていたと、飛鳥自身も自覚していた。友達付き合いなど、随分おざなりになっていたように思う。

 だがそれも、まだマシな頃だった。

 鞍馬のインターン暴走事故から先は、それよりも余程酷かった。自分がどんな風に振舞っていたか以前に、その時期から今日までに何があったかなど、思い出せることの方が少ないことだった。

 そう考えて、飛鳥は強張っていた表情を崩した。

 それから肩の力を抜いて、「いや」と続けた。

「そうでもないさ。……遠くへなんて行けてもない。俺はずっと、ちっぽけなままだ」

 自分のこれまでの行いと心境を振り返って、飛鳥はゆっくりと首を横に振った。

 大きなことを考えていても、結論は出ないし、出ないことを仕方がないと割り切ってしまえる。

 本当の意味で心を縛るのは、いつだって身近な出来事なのだから。

「そうか」

 自嘲気味ながら、どこかすっきりした表情で語る飛鳥に、伊達も心配は無いと思えたのか軽く笑って見せた。

 階段を降り切って廊下を歩き、空き教室の前に着いたところで、飛鳥は立ち止ると隣の伊達に視線を送った。

「つかお前ここまで来てどうすんだ? 上の階に用事あったんじゃないのか?」

「あ、やべ忘れてた!」

 パンと伊達は手を叩くと、素早く空き教室の戸に背中を向けた。

 だが一歩歩き出したところで再び立ち止まって、飛鳥の方を振り返った。

「そうだ、なぁアスカ。この後空いてるか?」

「あん?」

「みんなで集まって飯食って、それから適当に遊ぶ。細かくは予定決めてないけど、お前も来ないか?」

 何気ない様子で誘ってきているが、視線からは強い期待を感じられた。

 飛鳥は苦笑いを浮かべると、やや申し訳なさそうに、首を横に振った。

「いや、悪い。このあと予定があるんだよ」

「予定?」

 今日の登校日そのものを忘れていたくせに、とでも言いたげに、伊達は殊更に恨めしい視線を飛鳥に向ける。

 飛鳥はやはり苦笑いを浮かべたまま、ポケットからケータイを取り出して、顔の前で軽く振った。

「呼び出されたんだ、後輩からな」



 星印学園の入学式は、この在校生の登校日と同じ日に設定されていた。

 飛鳥などは各部には在籍していないが、星印学園自体は部活動が強く推奨されている。新入生の入学式など、手始めに勧誘をかけるにはベストなタイミングであり、そこを意識して、在校生の登校日となっているのだ。

 入学式でクラブ勧誘など、大学などではよくある光景だが、高校としてはあまり多くは無いだろう。

 あまり過度な勧誘を掛けないよう、各部からは最大5人までと決められている。また場所は講堂から正門へ向かう途中のエントランスでのみと定められ、生徒会や風紀委員の面々がそこに目を光らせていた。

 伊達が上階へと向かっていたのも、勧誘のために必要なものを元の教室に忘れており、それを取りに戻るためだった。

 そんな事情があって、講堂からエントランスに掛けては新入生やクラブの勧誘でごった返し、正門前には生徒の家族が大挙しているという状態で、非常に騒々しいことになっていた。

 だが飛鳥のいる場所からは、その喧噪も遠い。

 校庭の端の方に植えられた一本の木に背中を預けて、飛鳥はその木を見上げていた。

 風が吹くと、ざあと緑の葉達が一斉にざわめき、風が凪ぐと、静寂の中に揺れる木漏れ日を垂らす。

 校舎の側の騒がしさとは別世界のように、その場所の空気は穏やかだった。

 ざり、と土を踏む音が聞こえた。

 飛鳥は上に向けていた首を下すと、そのまま校舎の方を振り返る。

「よう、愛」

 眩しさに目を細めながら、そこにいた小柄な人影に向けて、飛鳥はすっと片手を上げて見せた。

「うん。久しぶりだね」

 木漏れ日の向こうに、愛の姿がはっきりと見えた。

 真新しい制服に身を包んで、薄い鞄を体の前で両手に持っている。

 おかっぱだった黒い髪は、肩にかかるほどの長さになっていて、毛先をゆるく内側にカーブさせていた。

 飛鳥の知る頃よりも幾分か明るくなった表情もあって、初対面の時に感じた虚ろで近寄りがたい雰囲気からは、ずっと柔らかな印象へと変わっていた。

「あの…………」

 飛鳥がじっと見つめていると、愛は居心地悪そうに身をよじった。

 飛鳥はもたれかかっていた植木から背中を離すと、うつむき気味に愛の元に一歩近づいた。

「うちの制服着てるところ見るの、そういや初めてだな」

 気恥ずかしそうに前髪をつまみながら、飛鳥はそう言った。

 するとそれまで居心地悪そうにしていた愛が、くすっと小さく吹き出した。

「変なこと言ってる。この制服、外で着たの今日が初めてだよ」

「はっはは、それもそうか」

 愛の言う通り、変なことを言ったものだ。

 飛鳥は肩をすくめて誤魔化すように笑うと、それからふと目を細めて、遠くの方を見つめた。

 愛はそんな飛鳥を見上げながら、囁き声で尋ねる。

「そういえば中学の時も、制服着てるときは、会ったことなかったね」

「……ああ。確かに、大体私服だったな。俺は制服の時もあったけど」

 そうして考えてみれば、飛鳥はこうして学生らしい格好をしている愛を見るのは初めてだった。

「でもこれからは……、毎日ってわけじゃなくても、いつも見せることになるのかな」

「そうだな。来週からは、同じ学校だ」

 まっすぐに自分に向けられた後輩の目を見つめ返して、飛鳥はそう答えた。

 愛は自分の着た制服の袖や襟元に視線を走らせると、再び飛鳥の方に目を向ける。

「どう?」

 彼女はスカートの端をつまんで、軽く揺らして見せた。

 茶目っ気のある態度は、やはりこれまでの愛とは違っていて、飛鳥は調子を崩されながらも、素直に思った言葉を口にした。

「ああ、……似合ってるよ」

 少し言葉に詰まりながらも、飛鳥は愛の方を見たまま、そう答えた。

「そう? ……えへ、よかった」

 愛は小首をかしげて尋ね返す。飛鳥が首肯したのを見て取ると、はにかんだ様子で笑顔を浮かべた。

 愛らしい花の咲くような笑顔に、飛鳥の心音が一鼓動だけ高鳴った。

「ああ、よかった……」

 聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、飛鳥はそう呟いた。

 あのインターンの暴走事故以来、飛鳥は愛とは一度も会っていない。交わしたメールアドレスに連絡が来たのも、今日になってからだ。

 愛が飛鳥の事をどんな風に捉えていたかはわからなかったが、あれ以来会うこともなかったのは、飛鳥の言葉が嘘であったことを、愛が理解していたからだろうと、飛鳥も何となくわかっていた。

 幻滅されただろうか、嫌われただろうか。そういうことも思ったが、自分のことは、正直飛鳥にはどうでもよかった。ただ愛が、そのことが理由で塞ぎ込んでなどいないだろうかと、ただそれが不安だったのだ。

 こうして彼女と対面し、変わらない笑顔を見て初めて、飛鳥はその不安が杞憂だったことを理解できた。

 けれど、それで終わりにしてはいけない。

 ちゃんと、自分の口から告げる必要がある。

「なぁ、愛」

 いざ言葉にしようと思うと、何と言えばいいのかわからなくなる。

 頭を掻いて、あれこれ悩んで、結局飾りつけた柔らかい言い回しは一つも出てこなかった。

 苦心しているのが態度に現れている飛鳥の前で、愛は居住まいを崩すことはせず、ただ黙って次の言葉を待っていた。

「あの日の事だけど……。その……、悪い。大切だって、俺はそう言ったけど、たぶん、お前が望むような意味じゃなかったと思う」

「うん……」

 カバンの取っ手を強く握って、愛は唇を噛んでいた。

 それでも俯くことがなかったのは、愛がそれだけ、強くなったということだろうか。

「……私、わかってたよ」

「そうか……、ごめん」

 頭を下げる飛鳥に、愛も目を伏せた。

 だが飛鳥は、すぐに顔を上げた。

「でも、言ったこと全部が嘘ってつもりはない」

 はっと、愛は視線を飛鳥に向ける。

「お前のことは友達だと思ってるし、これからは仲間で、後輩だ。大切だっていうのは、嘘じゃない」

 取り繕うような言い回しだったが、それが飛鳥にとっての本心だったからこそ、きっぱりと言い切ることができた。

 愛は飛鳥を見つめたまま、その言葉を噛み締めるように、しばしの間沈黙していた。

「ありがと」

 それからふっと表情を綻ばせて、彼女はゆっくりと頷いた。

 飛鳥は複雑な表情で顔を伏せると、頬を指で掻きながら、後ろの木にもたれかかる。

 愛はそこに近寄ると、木の幹に手を触れた。

「これ、何の木なの?」

「これか?」

 飛鳥は後ろを振り返って、指すような陽光から二人を守っている青い葉を見上げた。

 もうすっかり散ってしまっているが、1月も前なら、薄桃色の花が目一杯に咲き誇っていたことだろう。

「桜だよ。正門から先にも同じのが植えてあるけど、これが一番大きいみたいだな」

「桜、なんだ。もう散っちゃったの?」

 寂しそうな声音の愛を横目に見ながら、飛鳥は応えた。

「今年は全国的に早咲きだったみたいだぞ。これはもともと咲く時期の早い種類みたいだし、散るのも早かったよ」

「そっか、残念」

 晩冬初春と寒暖の差が激しかった今年は、桜の咲く時期はとても早かった。

 そして早く咲いたからといって、長く咲いてはくれないのが桜という花だ。だがそういう無常さがあるからこそ、咲く姿にも、散る姿にも、人は美しさを感じるものなのだろう。

「花見とか、そういうのはしなかったのか?」

「もう5年以上かな、ずっとしてないから……。アスカは?」

「俺も今年はまだだな。まだっていうか、する予定があるわけじゃないけど」

「そっか……。咲いてるところ、見たかった」

 名残惜しさの滲む声に、飛鳥は小さく笑みを浮かべた。

「また、時期が来たら咲くさ。来年でも、再来年でも。また見に来よう」

「ん…………。そうだね」

 ふわっと笑みを浮かべて、愛は飛鳥の方に頷いて見せた。

 飛鳥はすっと振り返って、校舎の方へと向かう。愛はそこに並んで、隣を歩く飛鳥の横顔を見上げていた。

 歩く間は無言だったが、心地の良い沈黙だった。一歩後ろをついてくる少し急ぎ気味の愛の足音と、少しゆっくり気味の自分の足音とが、僅かにずれたリズムを刻んでいる。

 そんな中で、温かい風が一際強く吹いて、二人の背中を押した。

「わっ」

 強く吹く風に乗って、何か小さなものが、愛の顔の横を通り過ぎた。

「おっと」

 ほとんど反射の動きで、飛鳥は伸ばした手でそれを素早く掴み取った。

 握った手を開いて、手のひらに張り付いたそれを、指でそっとつまみ上げた。

「それ……」

「ああ。桜の花弁だな」

 桜の花弁が一枚、どこからか風に乗ってやってきたようだ。

 飛鳥が爪でつまんでいるその花弁をそっと覗き込んで、愛はこう呟いた。

「桜、まだどこかで咲いてるのかな」

「かもな」

 そう言って飛鳥は花弁を高く掲げると、それをぱっと風に送った。

「あっ」

 風に流され二人の元を去っていく花弁を、名残惜しそうに見送る愛。

 そんな愛に飛鳥は笑ってこう言った。

「じゃあ、探しに行くか!」

「……ふぇ?」

 予想外な言葉に、愛は殊更にきょとんとした表情を浮かべていた。

 飛鳥はいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、そんな愛に顔を向けた。

「どっかで咲いてんだろ。ま、葉桜だろうけど、それでもいいじゃないか」

「……どこで咲いてるか、知ってるの?」

「さあ? でもとりあえず、風上のほうだろ」

「不安だなぁ……」

 おどけた調子で適当なことを言う飛鳥に、愛も茶化すようにそう返した。

 それからふっと笑って、飛鳥を見上げた。

「もし見つかったら、ね。皆を呼んで、それからお花見とか、しない?」

「愛……。ああ、そうだな」

 みんなでという言葉が愛の口から出たことに、飛鳥は驚いた表情を浮かべながらも、ゆっくりと頷いた。

 そうしたところで、しかし愛は唐突にくすくすと笑い始める。

「けどその前にまずは、見つけないとね、桜」

「そうだな。ま、心配すんな」

「ホントに大丈夫?」

「大丈夫さ。なぁに、お前よりずっと長くこの辺住んでんだ。すぐに見つかるさ、任せとけって」

 自分の胸を軽く叩いて、飛鳥は快活に笑った。

 愛はカバンを後ろ手に持つと、腰をかがめて飛鳥の顔を見上げるように覗き込む。その顔には、飛鳥と同じような悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

「じゃあ、任せるよ。ね、星野先輩」

 ふん、飛鳥は鼻を鳴らすと、愛の背をポンと押して、再び歩き始めた。

「アスカでいいよ。皆そう呼んでるから」

 もう一度吹いた強い風が、さあ行って来いと、二人の背を押した。


 春風は桜の香りを乗せて、高く、どこまでも澄んだ蒼穹へと舞い上がっていく。

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