4章『灰雲の先』:8
しとどに振る雨の中、重い足取りで歩く飛鳥。
雨粒が傘を打つ音に混じって、水たまりを踏みしめる音が響く。
ただ無心で、曖昧な記憶に従って歩いていた。
酷い雨だ、行き交う人の姿もない。歩きづらかったが、誰にも会わないというのは気楽だった。
飛鳥の胸中にやり遂げたという達成感などは無い。
ただ消えない罪悪感だけが、この雨の中でさえも消えずにくすぶり続けていた。
大学の敷地の端が見えたところで、飛鳥はぴたりと立ち止まった。
駅まで行くか、このまま歩いて地下研究所まで戻るか、その先の交差点を曲がるかどうかで行き先が変わる。
電車に揺られるよりは一人で頭を冷やしていた方がいいかと、飛鳥はもう一度歩き出した。
その時だった。
「――――っ」
何か、言葉では言い表せない気配のようなものを感じて、飛鳥はその場で素早く振り返った。
だが背後には何もいない。気のせいだったかともう一度前に向き直ろうとしたところで、横から声が聞こえた。
「随分勘がいい。だが惜しいな」
「誰だ」
素早く右側、声の方向を振り向く。
ややあって、植え込みの木の向こう側から少女が一人、音を立てずに現れた。
黒いパーカーのファスナーをへその下までおろして、その下には白いショートパンツ。目深に被ったフードの内側から、シルバーのヘッドホンと、眩しいほどの銀色の髪に瑠璃色の瞳が覗く。
こんな冷たい雨の中で傘も差さないまま、寒がる様子もなく立っている。
「ダチュラ…………!」
「覚えていたのか。律儀なことだ」
名前を呼ぶ飛鳥に、ダチュラはそんな軽口を叩く。
警戒して半身になる飛鳥を、ダチュラは片手を上げて制する。
「そう身構えるな。顔を見に来ただけだよ。君をどうこうするつもりはない」
「…………」
言われてから少しダチュラの方を見据えて、動きがないのを見て取ると、飛鳥は肩の力を抜いた。
見た目や言動のインパクトの強さもあって、初めて会った時の記憶は鮮烈だが、とはいえその時にダチュラが飛鳥に何をしたというわけでもない。
ただし、随分と間の悪いことだ。
人と会いたくはないタイミングに、狙いすましたようにやってくる。
「浮かない顔だな。一つことを為した人間のそれじゃあ、ない。あの結果でも、君は不満なのか?」
「見ていたのか」
「もちろん」
何を当たり前のことを、とでも言わんばかりに、ダチュラは隠す様子もなく頷いた。
どこで、とは飛鳥には問う気にもならなかった。どうせ知ったところでどうにもならないだろうからだ。
だが、それ以上に不穏なことがあった。
「……どこで知った」
「鞍馬の実験のことか? 最初から知っていたさ」
「最初だと……? なぜ……!?」
混乱した様子の飛鳥を侮蔑の表情で見据えると、ため息を一つついて、ダチュラは応えた。
「随分察しの悪いことだ。わかるだろう? 実験の始まる前から、私達が関わっていたからだ」
「お前……達が……ッ!!」
ダチュラの言葉に一瞬で沸点に達した飛鳥は、思わず握っていた傘を取り落して、ダチュラに歩み寄りその胸倉をつかみ上げた。
だが飛鳥が声を上げる直前に、ダチュラが彼の口元にそっと指をあてがった。
「怒りを覚えるのは尤もだろうとも。だが、それを私に向けてどうする」
「っ…………」
無感動に放たれたダチュラの鋭い指摘に、飛鳥は押し黙る。
思考や感情が手に負えなくなる瞬間があるのが、飛鳥の悪い癖だった。それだけ問題が大きくなっているということでもあるが、自分が手に入れた力を誤解し、過信し、それに振り回されているのではないかと、飛鳥自身ふとそう思ってしまう。
「くっ…………」
ダチュラのパーカーから手を離し、飛鳥は歯噛みをしながら俯いた。
ダチュラは植え込みの木にもたれかかったまま、目を細めて、飛鳥の表情を伺った。彼が顔を上げる様子がないのも見て取ると、ため息をついてこう告げた。
「私達というと、少し語弊があるな。アヌビス、だ。確かに私もそこに属する者ではあるが、とはいえ部分的にだ。目的の全てが合致しているわけではない。今回はアヌビス、中でも特に急進派の活動の一つだ。もちろん、私も多少はコントロールさせてもらったがな」
「今回の実験は、危険だった……」
「そうだな。それで?」
ダチュラは飄々と頷いて先を促す。
「止めることはできなかったのか」
「なかなか難しいな。無理というほどではないが」
「やってできるならなんでそうしなかった!」
「逆に聞こう。やれば出来る程度で何故そうしなければならない?」
眉一つ動かさずにそう答えるダチュラの態度に、飛鳥の胸にやるせなさが溢れる。
「愛は、あんな無茶苦茶な実験のせいで、必要もない苦しみを負ったんだ。……止められる立場にあったくせに、何も思わないのか」
「愚問だ。思うはずがないだろう。私はお前の仲間ではないし、お前の仲間のお友達でもない。こうしてここに居るのも、私という役割と、あとはせいぜい気紛れに従っただけだ」
「それでも……」
苦しげながらも食い下がろうとする飛鳥を、ダチュラは手で制した。
「決断には犠牲が伴い、行動には責任が伴う。私がコードIの身を案じて計画に干渉し、実験を取りやめたとしよう。なるほど心優しいことだ。私はその素晴らしい行動にひどく自己満足を得ることだろう。……で、それで? そのあとに何が残る? 何もないだろう? 私の身勝手な行いのために、研究の進捗は停止し、アヌビスは得られるはずの技術を取りこぼす。報いは誰が受ける? 当然私か、私に近しい者達だ。金では到底解決などできない損失が発生する。ならば対価に命を取られるか。しかしまぁこれでも私は有能な方だ、命を担保に自由を奪われ壊れ果てるまで使い潰される程度で済むことだろう。それからはどうだ、独房紛いの暗室にでも一人放り込まれるだろうか。たった一度人助けをした温かい気持ちと一緒に干からびて冷たくなるまでな。だが私はそれでいいのかもしれん。なんていったって人助けをしたんだ自己満足のために。満足しているならその後のどんな境遇でも納得して受け入れられることだろう。自分で決めて、自分で行動したんだ。決断の犠牲は自分で、責任は自らに報いとなって降りかかる。だがそれはつまり赤の他人がその痛みを負うことなく全て自分で引き受けたのだからこれ以上ない生き方だ、もしかしたら幸福を感じながら腐って行ける可能性もあるかもしれないな? 断言しよう。ありえない」
「…………ッ!」
人の気持ちを踏みにじるようなことを散々と言ってのけるダチュラに、再び飛鳥の中に怒りの火が灯る。
彼の瞳の奥にぎらつく感情を見てとりながら、ダチュラはなおも侮蔑の表情を崩そうともしなかった。
「それとも何だ、君は違うと? 君の仲間の危険を、我が身を省みずに止めようとしなかった、この赤の他人である私に掴みかかった君は、しかし私と違って他人のために自分を、仲間を犠牲にできるというのか?」
「……っ、黙れ……! くそ………!」
言い返す言葉は無かった。ダチュラの言い分は正論だったからだ。
唇を噛んで視線を逸らす飛鳥を、ダチュラはまっすぐに見据える。
「今のが、この世界から争いが無くならない理由だ」
目を背ける飛鳥に、見られてもいないのに大仰に手を広げてみせた。
「大抵の人類は孤独を望むようにはできていない。だからこそ寄り添い、連れ立ち、支え合う相手を求める。そうして人は家族を、友を、仲間を、国を……、そして戦争を作る。別におかしなことじゃあない。結局、人は遠くのものよりも近しいものを愛するようにできているし、近しい人の不幸を避けるためなら、顔も知らぬ他人の命程度は犠牲にできる。そうでない者は一見良識的に見えるだろうが、そんな奴の仲間になろうという者など居はしない。他人のために仲間を犠牲にできる奴の仲間になることに意味があるか、という単純な話だ。だから君は正しい。その怒りは君が真っ当な人間であることを示している。そして同時に、世界から争いが消えないこともな」
長々と語っても、一向に顔を上げない飛鳥に、しかしダチュラはただ淡々と語り続ける。
「あの場で仲間を助けるという点において、君の手段はおそらく最善だ。仲間の痛みを止めるためなら、自分がそれ以上の痛みを負う。他者を傷つけるのではなく、自分だけが傷つく方法で。まぁ、今回はそれができる状況だったというのもあるが、それでも君に覚悟がなければ、コードIは、それこそもっと悲惨な目にあっていただろう。…………皆が君ほどに力を持てれば、あるいはくだらない世界の不条理など、いくらでも壊してしまえるのかもしれないな」
空を仰ぎながらの最後の呟きは、飛鳥の耳には、どこか自嘲気味にも聞こえた。
まるで自分が飛鳥のようになれないことを、悔いるかのような。
だとすれば、酷く的外れな話だ。飛鳥はそう思い、そして首を横に振った。
「俺に力なんてないよ」
「……まさか」
ぴくり、とダチュラは眉の端を釣り上げる。
「……オーバードライブと言ったか、あの力。遠巻きにだが、見ていて思ったよ、凄まじい力だと。繰り返す人類史とアークの戦いの中で、しかしあれほどの力を示したのは、君とコードAが初めてのことだ。周囲環境を塗り替えてしまうほどの莫大な力……、アークというシステムそれ自体の上限をはるかに上回るあの現象。アークが人の心、あるいは意志を力に変えるとするなら、あれは紛れもなく君という人間の力だ。……だというのに、力がないと?」
飛鳥の為したことを思えば、無力であるなどありえない。ダチュラはそう考え、疑問を素直に口にした。
飛鳥はただ、悲しげな表情のまま、首を横に振るばかりだった。
「俺はただ、自分の失敗を取り戻すのに必死だっただけだ。誰かのために自分がとか、そんな大層なことを考えてたわけじゃない」
愛を助けるのに、飛鳥がなぜあれほどに必死になっていたのか。それは単に、助けを求めていた愛に、最初から応えてやれなかったからだ。
「始まる前に、実験を止められたかもしれないのは俺も同じだ。でもそれはできなかった。助けを求められてたのに、去っていくあいつを引き留められなくて、結局実験を止められなかった」
「…………」
ダチュラからすれば何のことかわからない話だろうが、何かを探るような視線を飛鳥に向けるばかりで、話を遮ろうとはしなかった。
飛鳥の言葉から、その真意を探ろうとしているかのように。
「守ろうとしたのはあいつの心だ。俺はただそれができなかった分を、後から取り返そうとしてただけ。本当に力があるなら、最初からこうはならなかった」
懺悔をするような声音の飛鳥。
言葉全てが何を指しているかまではわからずとも、言わんとしていることはダチュラにも理解できた。
「力の定義か……。君の求める物はわからないでもない。だがその小さなものだけが、価値あるものでは決してない。人ひとりの心だけを救えてそれでどうなる。君の持つ力は、この世界にあまねく存在する70億の命を行く末をも左右しうるものだ。そちらの方がよほど重要……」
「その人ひとりの心すら救えないのが俺だ」
ダチュラの言葉を遮って、飛鳥は自らをそう断じた。
「助けを求めてきた相手すら、傷つく前に助けられない……。これが非力でなくて何なんだ。本当に必要な力って、そういうものじゃないのかよ」
飛鳥の慟哭のような嘆きに、ダチュラは歯噛みをして黙り込んだ。
傍から見れば奇妙な光景だっただろう。
飛鳥のことを懸命に肯定しようとするダチュラの前で、当の飛鳥が、自己否定に必死なのだから。
「俺にはわからない。お前の言う力っていうのが、一体何なのか。目の前の人すら助けられない俺に、一体何の力があるっていうんだ。俺はただ……、伸ばされた手ぐらいは、離さずにいられる力が欲しい。今の俺には、それがない」
軋む心臓を押さえつけるように、飛鳥は胸の前で拳を握る。雨に濡れて肌に張り付いたカッターシャツに、深い皺が刻まれた。
ダチュラは瞑目し、それからこう呟いた。
「それでも私は、君を非力だとは思わない」
飛鳥に向ける言葉というよりは、自分自身の想いを固めようとする言葉に聞こえた。
「君とオーバードライブの力がなければ、コードIはより大きな痛みを負っただろう。君にとって最善ではなかったのかもしれないが、君の示した力には確かに価値がある。何よりも、少なくともあれ以上の苦難からは、コードIを救ったのだから。それは君の言う、目の前の人を助ける力ではないのか? 跳ねのけられ、夥しいほどの痛みを負って、それでも君はコードIが伸ばした手を、離しはしなかったんじゃないのか? あの戦いの中で、君の見せた力は、確かに本物だったはずだ。私はそう感じた。……詳しくは知らん。君の言う通り、始まったときには手遅れだったのかもしれない。その前に食い止めるのが最善だったのかもしれない。それが君にもできたのかもしれない。だがたった一つの誤りすら許されないと思うのなら、君、それは傲慢だよ」
「――――っ」
傲慢、という言葉が、飛鳥の中で反響する。
自分の価値観が根底から覆されるような、それほどの衝撃を伴って、飛鳥の心中を撃ち抜いたのだ。
「この理不尽と不条理に塗れた世界で、君を含めて誰一人として完全ではない。ただ一つの誤りが、全ての行いを否定するわけではないだろう。それはただの思考放棄だ。君の求める力と、君の示した力は別種のもので、だがどちらも確かに存在している。君にコードIの心を救う力は無かったのかもしれないが、君には確かに、かつて誰にも知り得なかった力がある。人はある事柄を為し得るだけの力を持ち、他の事柄を為し得ぬほどに非力だ。皆そうだ。君の言葉は強く言うなら、全人類の否定に他ならない」
「そんな極端な話じゃ……」
歯を食いしばる隙間から、それでもあふれ出したかのように、飛鳥は言葉を漏らす。
ダチュラは俯き、ゆるゆると首を振った。
「……まぁ、そうだな。だが同じことだ。他人の不完全さを許せるのなら、なぜ自身に対してそうあれない? 君は決して、特別な人間ではないというのに」
「くっ…………」
特別ではない。飛鳥にとってはわかり切っていたことなのに、その言葉は彼の内に深く突き刺さった。
自分の中に驕りがあったのだろうかと、湧き上がる疑念を否定できずに、飛鳥は唇を噛む。
しかし続くダチュラの言葉は、飛鳥を否定するものではなかった。
「だがだからこそ、君の覚悟と意志は尊い」
はっと、飛鳥は顔を上げる。
「以前、私は問うたな。君の戦う理由を見つけ、その意味を示せと。覚えていたかはわからんが、私は今日、君とアストラルの見せた輝きに君の答えを垣間見た。私の導く『彼』とは違う、君という人間が持つただ一つの意志を。君自身の中に持つ戦う理由を。君にその自覚があるかはわからないが、だがそれでも、あれは紛れもなく君の意志だったと思っている。それが兵器であるアークに、もう一つの価値を与えた。だから私は、君にこんなところで膝を折って欲しくはないのさ」
「…………」
「ああ、だめだな」
呆然とした様子の飛鳥の前で、ダチュラは額を抑えて被りを振る。
その態度は、飛鳥の知る僅かなダチュラの人となりからは考えられない、苦悩に満ちた振る舞いだった。
「全くどうして、こう感情的になってしまうものかな」
ダチュラ自身、自らの感情の動きを掴めないでいた。
それほどにオーバードライブの輝きは、ダチュラにとって鮮烈だったのだ。彼女の価値観を、まるで空を覆う曇天の如くに、吹き散らしてしまうほどに。
「だが君には……。ああ、これ以上は良くないな。ここから先は、私の言葉になってしまうから。……だけど、だから星野飛鳥。最後に一つだけ、言わせてくれ。始祖の末裔ではなく、この私として」
ダチュラは視線を上げ、飛鳥の目をまっすぐに見つめた。
「……これでも、君には期待してるのさ。これまでとは違う、答えを見せてくれそうでな」
「ダチュラ……」
ダチュラはたったそれだけを言って、パーカーのフードを目深に被ると、嵐に紛れるように、そこから姿を消した。
「…………違う」
飛鳥はただ、一人立ち尽くしていた。
木の葉の隙間を突き抜けた雨粒が、彼の体に突き刺さっても、彼は落とした傘も拾わないまま、その場で俯き続けていた。
「力があるなら、なおさらなんだよ……!」
声は雨音に掻き消えた。
俯いて、首を横に振る。何度も、何度も。
植え込みの木に拳を叩きつけた。何度も。
愛に向けた嘘の重みは、飛鳥の足を楔のように縫い付けている。それでしか彼女の傷を塞ぐことができなかった無力感は、どれほどに痛みを負っても拭い去れなかった。
力があると言われたからって、そんなものは何の慰めにもならなかった。むしろそんな力があるというのに、最初から愛を助けてやれなかった自分の愚かさに、一層嫌気が差すばかりだった。
「アスカ君」
顔を上げ、飛鳥は声の方を振り向く。
赤い傘の下に、銀色の長い髪と瑠璃色の瞳が見える。立ち去って行ったダチュラと、瓜二つの顔つき。
「遥さん、どうして……」
「隼斗から連絡があって。一人で帰ったって。……心配だったから」
言いづらそうに視線を伏せた遥は、飛鳥の足元に転がった傘を見た。
忘れてきたわけではないのに、また彼はしとどに振る雨に打たれている。まるで自らを罰するように、凍えるほどに冷たい雨粒をその身に浴び続ける姿に、遥は酷くいたたまれない気持ちになった。
「俺は、大丈夫ですから。先戻ってください。……頭冷やしたら、俺も戻るんで」
落ちていた傘に手を伸ばしかけた遥は、その手を止めて、俯く飛鳥に目を向けた。
「戻るつもりないんでしょう?」
内心を見透かされ、飛鳥ははっと息を呑んだ。
「……お見通し、っすか」
「ええ。でもいいわ。あとは私達でやっておくから、任せてくれて大丈夫。……だけれど」
そこで一度言葉を切った遥は、肩にかけていたカバンから、小さな包みを取り出した。
「忘れ物よ。ちゃんと持って帰ってあげて」
それは愛から飛鳥が受け取った、『飛鳥の分』のバレンタインチョコだった。
「それは……」
忘れてきたわけではない。持っていくことができなかったのだ。
「受け取って、いいんですかね。こんな形で、俺なんかが……」
もう何度したかわからない、後ろ向きの自問。
遥は呆れたように、あるいは悲しいように、小さくため息をついた。
「不器用ね。あなたは、本当に」
諭すように、遥は続ける。
「今日までの気持ちを伝えるために、あの子はこれを作ったんでしょう? 今日アスカ君がしたことの是非はともかく、これはあの子の気持ち。受け取れないなんて言うほうが、よっぽど可哀想よ」
そう言いながら、遥は手に持った包の飛鳥に向けて差し出した。
「それに何度も言うけれど、実験を未然に防げなかったのは私達みんなの落ち度でもある。もっと言うなら、愛自身が踏みとどまるべきことでもあった。これは全員のミスを、アスカ君と隼斗の頑張りで、何とか取り返せたのよ」
「それでも、愛が助けを求めたのは俺だった。同じ嘘を吐くなら、せめてあの時だったら、あいつはあんなにも苦しい思いはしなくて済んだんだ……」
飛鳥は戦いの中で、一時的に愛の精神、記憶との同調を果たしていた。
愛の受けた苦痛の大きさは筆舌に尽くしがたく、だからこそそれを事前に止められなかったことは、飛鳥にとって重い罪の意識になっていた。
その全てを理解しているわけではなくとも、飛鳥が今何に苦しんでいるか、遥は感じ取っていた。
だが、遥は首を横に振る。
「それでもアスカ君の愛を助けようという覚悟と意志がなければ、愛を無傷で止めることはきっとできなかった。攻撃して、機能停止まで追い込んで……、きっと愛は、今よりもっとひどい苦しみに苛まれていたはずよ。アスカ君は間違いなく、あの子を守ることができているわ」
「でも、俺は…………」
遥の言葉は尤もだった。そしてそれは、ダチュラから飛鳥に向けられたものと、期せずして同じものだった。
きっとそれが真実なのだろう。わかっていてもなお、飛鳥の中からもどかしさが消えることは無い。
助けを求める愛を引き留め、実験を未然に防ぐことができなかったのは事実だ。どんなに覚悟を振り絞っても、そのたったの一つの過ちを取り戻しきることはできなかった。
肩を震わせ唇を噛む飛鳥に、遥はもう一度、チョコレートの入った包を差し出した。
「アスカ君が自分をどう思っているかは、私にはわからない。医務室で愛とアスカ君がどんな話をしたのかも知らない。でも一つだけ、確かなことはある。アスカ君が愛の事を想っているなら、これは絶対に受け取ってあげるべきよ」
「……そう、ですね」
そう言われてまで、差し出された包を跳ねのけることは飛鳥にはできなかった。
握り締めて、飛鳥は遥かに背中を向けた。
植え込みの木に拳を押し当てて、そこに額をぶつける。
「ちくしょう……!」
悔しがることに意味などなく、そんなことでは何も変えられないのだから。
それでもその感情が湧き上がることを止められず、飛鳥はただ、血のにじむ自分の手に、ひたすらに想いをぶつけ続けた。
木の葉の隙間を縫って降り注ぐ雨は、一層に強くなるばかりだ。少し前までは裾に滲んでいただけだったのに、今はもう肩口まで、冷たく濡れている。
ふと、打ち付ける雨が止んだように感じた。
遥が傘を持つ手を伸ばして、飛鳥の上を覆い隠していた。
「帰りましょう、アスカ君」
「遥さん……」
絞り出した飛鳥の声は、涙を堪えるようで、酷く情けないものだった。
必死に声が震えるのを堪えながら、飛鳥は続けた。
「……先、戻っててくださいよ。……今は、人に見せられるような顔してないですから」
遥に背中を向けたまま、飛鳥はそう懇願する。
それを聞き届けて、それでも遥は立ち去ろうとはしなかった。
彼女は落ちていた傘を拾って畳むと、飛鳥の背中合わせになるように向き直った。
「何も見ないから、……だから今は、あなたを一人にはさせないで」
囁きに近い遥の声は、向き合ってすらいないのに、不思議と飛鳥の耳には鮮明に届いていた。
気遣うように、あるは優しく諭すように、そんな声音で遥は飛鳥へと語り掛ける。
「……世の中なんて、いつも理不尽なものよね。どれだけ強く握り締めても、手の中を滑り落ちてしまう物はあるんだから」
それは胸中に渦巻く罪悪感を拭うように、飛鳥の心に手を添える。
「それでも……、世界が理不尽だからって、自分の弱さを棚に上げたくなんて、ありませんよ……!」
それが優しさだと分かっていても、飛鳥は受け入れることができなかった。
ここで足を止めたら、もうずっと、それができない自分のままで終わってしまいそうだったから。
無力感を噛み締める飛鳥の背中に、小さなぬくもりが寄り添った。
遥はしばし沈黙して思案し、そして、一つの覚悟を決めた。
だらりと下げられた手に、遥がそっと傘を握らせる。
それは手を引いて導く甘さではなく、もう一度自分の力で歩き出せと、そう背中を押す厳しさだ。
「それなら、強くなりましょう。世界がどんなに理不尽でも、大切なものを全部守れるぐらいに、強くなりましょう。私たちが、あなたを支えるから」
「…………はい」
飛鳥はただ頷いた。
雨は止まず、なおも冷たく打ち付ける。
それでも飛鳥の体にはもう一度歩き出せるだけの力が、いつしか湧き上がっていた。
それは一つの弱さの結末。
そして新たな決意の始まりだった。




