4章『灰雲の先』:5
「…………?」
静かになった医務室に、ドアを開く音が響き、愛はベッドに横たえていた身体を起こした。
飛鳥はもう去った後だし、他に来るような人には心当たりもない。
わずかに警戒心を抱きつつ、横目にドアの方を伺っていると、カーテンの向こうから来客が静かに姿を見せた。
「起きてたのね」
ひょこっと顔を覗かせたのは泉美だった。
飛鳥と一緒にいるところで出くわしはしたが、愛にとっては面識があるというほどのものでもない。
「……本郷、さん?」
愛はあやふやだった名前を思い出しながら訪ねたが、そのせいで、どこか訝し気な口調になってしまっていた。
警戒されやしないかと不安に思った愛だったが、泉美は軽い調子でこう答えた。
「覚えててくれたのね。でも、泉美でいいわ。ついでに呼び捨てでも。アスカの事もそうなんでしょ?」
ベッド脇の安物の椅子を引っ張って、泉美はそこに腰掛けた。
意識してのものではなかったが、泉美は僅かに目を細めて、愛の表情を伺う。
疲労の跡は見えたが、そう酷くは見受けられない。
実験途中のインターンからの声を聴く限りでは、もっと尋常ではない様子だったが、随分持ち直したようだ。
飛鳥の戦い方によるものか。結局、最後の最後まで彼は、隼人を守るために放った牽制の一発を除いて、インターン本体に対しては一度も攻撃を行わなかった。
それ故にひどく苦しい戦いになってはいたが、飛鳥達が苦しんだ分、愛はギリギリの一線で踏みとどまれたのだろう。
「……?」
「ああ、ごめんなさい」
泉美がじっと観察していると、愛は居心地悪そうに身じろぎをした。
無意識のうちにまじまじと見つめるような形になっていたようで、泉美はすいと視線を外した。
泉美は初対面の時から何となく察していたことだが、愛は人見知りをするタイプだ。目を合わせていないときでも、何か言いたげな視線を泉美に送っては、開きかけた口を難しい表情で閉じていた。
視線は外しつつも、そんな様子を視界の端で見届けて、泉美は口元を綻ばせた。
こうして見れば、ただの小さな女の子だ。年は一つしか違わないが、随分幼い印象がある。とてもではないが、一人で戦っていけるようには見えなかった。
「……謝っておかないとね」
泉美の独り言が聞こえたのか、愛は首を傾げる。
告げるべきか少し迷って、けれど隠すべきではないという思いが勝った。
「ごめんね。……あなたがさっきアスカとしてた話、あたし、外に居て聞いてたの」
視線を愛の方に戻して、泉美はそう告げた。
愛ははっと目を開いて、それからぽつりとつぶやいた。
「最初から?」
「ええ。ごめんなさい」
「そう……」
申し訳なさそうに告げる泉美に、愛は一言そう言うだけで、文句も追及もなかった。
愛の無表情から内心は読み取れず、泉美にはもうそれ以上、自分から話を続けることはできなかった。
だからせめてと、言葉だけでも、愛を労わった。
「大変だったね、愛」
ありきたりな言葉だったが、他人事のようには感じられない口調に、愛は呆けたような表情を浮かべてから、そっと肩の力を抜いた。
「うん。……でも、アスカ達の方が、大変だったと思う」
自分のことを省みもせず、愛はすぐにそう答えた。
驚いた様子で口をつぐんだ泉美に、愛は静かに続ける。
「私は、ただ流されてただけ。二人が助けようと頑張ってくれてたのに、私は縋るだけで。……何もできなかったから」
うつむき気味に首を振る愛。自嘲気味なその姿は、泉美の目には飛鳥の姿に重なって見え、やるせなさが湧き上がる。
「しょうがないよ。愛はそれでも、最後で踏みとどまったんだもの、十分頑張ってたよ」
「…………。それでも、私はアスカ達を傷つけた。それは、変わらないから」
「かもね……。けどまぁ、二人なら大丈夫だよ。ケガしたわけでもないし。久坂は平気な顔してたよ。それにアスカも……」
飛鳥も大丈夫だ。そう言おうとして、泉美は口をつぐんだ。
直前まで愛は一緒にいたのだから、飛鳥がどういう精神状態だったか、わかっているだろうことは予想がついた。自分が今言おうとしている嘘に意味がないことを悟って、言葉を変えた。
「アスカも、大丈夫だよ。……あたしたちがついてるから」
言うだけ言って、気恥ずかしさに泉美は顔をしかめてそっぽを向いた。
セリフは本心からだったが、それにしたって、人に向けて言う言葉ではない。しかし愛の自責の念を少しでも軽くするには、偽りのない言葉で、大丈夫だと示す必要もあった。
かろうじて悶絶するのを堪えていた泉美を見て、愛はくすりと小さく笑った。
「アスカと、仲いいんだね」
泉美が視線を戻す時にはそれまでの無表情に戻っていたが、無表情なりにいくらか表情が柔らかくなっているように見えた。
「あいつは……、……まぁ、幼馴染だから」
僅かに迷った様子を見せた後、そう答えた泉美。その視線に悲しい色が浮かぶのを、愛は見止めていた。
本意ではない、あるいはそれだけではないのだろう、と。
「それだけ?」
思わず口をついて出た言葉だったが、それは口にしたことに、愛には不思議と後悔はなかった。
「…………」
口を閉じたまま、何かを思案するような表情を見せる泉美。
泉美が何を思っているのか、愛には何となくわかるような気がした。それはある種のシンパシーであり、だから続く愛の言葉は、泉美の想いの核心を突くものだった。
「アスカのこと……、好きなの?」
愛に対して、そうと見えるような振る舞いをしたつもりは泉美にはなかった。しかし内心を看破されたことに対して、それほどの驚きもなかった。
愛が泉美の心の内を見抜いたのと同じように、泉美にもまた、感じるところはあったのだ。
だから泉美は、直接の答えを返さなかった。
「あなたも?」
泉美はまるでそれが自明な問いかけかのように、軽い調子で尋ねる。
愛は「うん」と、首を縦に振った。
「ずっとそうだったのかも。……でも、気づいたのは、ついさっき」
愛の心の内は、彼女自身ですら理解しきれないほどに複雑だった。
いや、紐解いてみれば簡単だったのかもしれない。
ただ誰かに必要とされたかった。誰かの大切な存在になりたかった。そして叶うなら、それは飛鳥の。
たった一つの想いがあちこちへと行き来しては、重なり合い、巻き込みあって、絡まるケーブルのように複雑に見せていただけ。
本当に、簡単なことだったのだ。
憑き物が落ちたかのような、愛の表情。目を細めてそれを見つめて、泉美はふっと、口元を綻ばせた。
「愛、あんた、変わってるね」
年上らしい、優しく包容力のあった泉美の口調が、どこか砕けた、例えるなら仲の良い友達に向けるようなそれに変わる。
「そう?」
愛は小さく首を傾げる。
その様子に、泉美は笑う。
「こんなにすぐに気付かれるとは思わなかった」
「何となく、思ったの。私と同じだ、って」
根拠などなく、それでも正面から問うてしまえるほどの確信。女の勘と言うと少し安っぽく、しかしそれ以外に言い表す言葉もない、ある種の共感だった。
事前に話を聞いていなくても、もしかしたら、泉美であればどこかで気付いていたかもしれない。
なるほど二人は同じなのだ。同じ相手を思う、届かぬ恋心の火を、胸の内に灯している。
「今なら少しだけ、お父さんの気持ちも、わかる気がする」
人づてに話を聞いていた泉美の感覚では、愛の父は、酷い父親に思えた。
けれど愛の言葉に、表情に、憎悪や怒りの感情は無い。結局、外側からではわからない何かが二人の間にはあるのだろう。
「そっか」
泉美の返事は、それだけだった。
深く踏み込むことはしなかった。愛に迷いがあるようには見えなかったからだ。
しばらくの沈黙のあと、愛は口を開いた。
「……ねぇ」
泉美の視線が自分に向くと、愛は探るような口調でこう尋ねた。
「アスカから、前に聞いた。転校した小学校の同級生って、あなたの事? 泉美って、言ってた」
「え?」
急な話に混乱しかけるが、愛の言っている人のことは、泉美に間違いないだろう。泉美の記憶にある限り、他にイズミという名で転校した子はいない。
「そう、だね。どういう話かは分からないけど、たぶん、あたしのことだと思うよ」
「……そうなんだ」
抑揚のない声だったが、羨ましそうに言っているようにも聞こえた。
「転校するの、止めようとしたって。……アスカは簡単に言ってたけど、すごく頑張ってたのは、話を聞いてて、感じた」
そういうことか、と泉美は得心する。
単に一方的に過去を知っているのではないと、愛なりに気を遣っていたのだ。不器用で言葉足らずだが、心根の優しさは泉美にも伝わっていた。
「まぁ、そうだね。あちこち走り回って、家にまで乗り込んできて、家族の説得もしてくれた。おかげで少しだけ、長く友達と一緒に居られたの。1か月ぐらいだったけど、いい思い出が作れたわ」
愛の事は、それなりに詳しく聞いてしまった。
今回の事故にまつわる話だけでなく、愛の家族の内情に至るまで。
自分も包み隠さず話すのが義理だろう。そう思い、泉美は続ける。
「引っ越し先は中国でね。あたしはそこで、ホライゾンへの適性を認められて、軍に入った。訓練も作戦も苦しかったけど、その時の思い出が、そしてあたしを助けようとしてくれたアスカの姿が、あたしの芯を支えてくれてた。……あいつには、感謝してもしきれない」
「その頃から?」
「ん、……そうだね。その時から、ずっとあいつのことが好きだった。再会してからも、それは変わらなかったから」
昔を懐かしむように、泉美は目を閉じた。
一度は告白し、フラれてはしまったが、想いは変わることなく泉美の内でずっと熱を持っている。
泉美から視線を外して、愛は枕元を見つめた。
さっきまで愛の作ったチョコレートが置かれていたその場所には、今は何もない。飛鳥にそれを渡すことはできたが、本当なら、この気持ちと共に手渡すべきだった。
「私も、同じ。アスカには、助けてもらった。何度も、何度も、それに今日も」
暴走するアークに閉じ込められ、愛はそこで初めて、目を背け続けていた自分の心と向き合った。
それは分厚い雲に覆われた空のよう。
奥底に隠した自らの本心。叶えるべきただ一つの願いのために、捨て去られたもう一つの想い。
空を覆う厚い雲を、その向こう側から払ったのが飛鳥だった。
最後の最後まで、どれだけ痛みを負っても手を差し伸べ続けた飛鳥の姿に、いったいどれほど救われただろう。
飛鳥の手を取り、引き寄せられて、抱きしめられて。曖昧だった感情はただ一つの名前を持った。
恋、と。
「同じなのに、私、ずるいことした」
愛の表情が陰る。
交わした口づけを思い出す。飛鳥に求めた言葉を思い出す。
彼の優しさに付け込んで、一方的に押し付けた、身勝手な願い。
「断られないこと、わかってて……。私、我儘を押し付けた」
唇に残るのは愛情ではなく同情で、耳に残る「大切だ」という言葉は愛の心を守るためのものでしかない。
「アスカ、きっとあんな嘘、嫌いなのに……。私は……」
「愛……」
自らを罰するように告げた愛の言葉に、泉美は驚きと共に、憤りを感じた。
愛に対してではない。そうせざるを得ないような状況を生んだ、世界の理不尽に向けてだ。
「……アスカの言葉、嘘だってわかってたの?」
恐る恐る尋ねる泉美に、愛は静かに頷いて返した。
「私は、アスカに助けてもらった。だけど、私からは何も。それなのに私が、アスカの大切な人になんて、なれない。それぐらい、わかる」
愛が求めたのは、形だけの言葉だ。
そこに本当の心が籠らないことを知っていて、それでも、その一言が欲しかった。
「……悲しくはないの? 嘘だって、わかってるのに」
「悲しくは、ない。……ううん、嘘。悲しい。でも、それを私が望んだから」
折れかけた心の中心を支えるためのたった一つの言葉。
嘘でもいいのは、それが真実でなくても、それを支えに立ち上がれるからだ。
「愛、やっぱり変わってるよ。強くて、弱い」
愛の目元に、滲む涙を指先で拭って、泉美はもう一度そう呟いた。
「そう、かな?……うん、そうかも」
されるがままに目を閉じていた愛は、そう言っておどけたように笑った。
花の咲くような、とてもかわいらしい笑顔だった。
「アイツほんと、不器用なんだから」
「……うん。でも、優しいよ」
「だね」
明るい笑顔に、泉美もつられて笑顔になる。
目には見えない、不思議な魅力のある少女だった。
愛はそっと唇をなぞり、すっと目を閉じた。
「アスカ、優しいから。だからあんな嘘、吐いてくれる。そんなアスカを、私は、好きになったの」
泉美は頷く。
すべて同じではなくとも、きっと想いの強さと、向ける先は同じだった。
「助けてもらったから、今度は私が、アスカを助けたい。そして本当に、アスカの大切な、何かになりたい」
それが今の愛の、本当の願いだった。
言葉だけの支えではなく、立ち上がった愛自身が、目指し、向かってゆく目標だ。
「だから今は、嘘でもいいの」
そう告げる愛の声には、これまでとはまるで違う、強い意志が宿っていた。
すっと目を開き、愛はまっすぐ前を見つめた。
「いつか必ず、本気にさせてみせるから」
それは今日、恋を知った少女の、揺らぐことのない誓いだった。




