4章『灰雲の先』:4
立ち去る飛鳥を見送ってしばらく、泉美はその場から動けないでいた。
やがて静寂の中に身を浸していた泉美は、よろめくような足取りで後ろに下がると、俯けていた顔を上げた。
「はぁ…………」
泉美は廊下の壁に背中を預け、天を仰いで深くため息を吐いた。
「なんで、あたしはこう……」
両手で顔を覆って、その中で何度も目を開けてきつく閉じることを繰り返す。
気を抜いたらすぐにでも涙が溢れてきそうだった。誰も見ていないのだから、いっそそうしてしまえば楽だっただろう。
けれど自分にはその資格がない。そんな風に思えてしまって、泉美はただ静かに内側から鼻を刺す痛みを堪えるばかりだった。
深呼吸を8度ほども繰り返す。落ち着くまでにそれだけかかった。
しびれの残る鼻を鳴らして、手の甲を押し付けるように拭うと、一つ瞬きをして上に向けていた視線を落とした。
その時、自分の鼻をすする音に混じって、リノリウムを叩く足音が聞こえた。
飛鳥が戻ってきたのかと、一瞬の期待が頭を過る。
そんなはずはないとわかっていながら、泉美は音の方に目を向けていた。
「……先生?」
曲がり角から姿を見せたのは、担任教師である飛騨だった。
「お、本郷か」
軽い調子で名を呼びつつやってくる飛騨。それまでの深刻な空気とのギャップに、泉美は笑ってしまいそうになったが、さすがにそれは堪えた。
さっきまで泣くのを堪えていたところだ、目鼻が赤くなっているかもしれない。
泉美は愛のいる医務室に視線を送るふりをして、さりげなく顔を逸らすと廊下の壁に背中を預けた。
視線だけを飛騨に向ける。
「どうして先生がここに?」
「立場上だが一応、俺もここの研究員だからな」
飛騨は泉美の元へ歩み寄りながら、わざとらすく的はずれな答えを返す。彼は泉美の隣までやってくると、同じように壁に背を預けた。
近くではあるが、正面に立って話しかけられないのは、泉美としてはありがたかった。
飛騨はきょろきょろとあたりを見回すと、困ったような表情で首を傾げた。
「本当は星野と話をするつもりだったんだけどな。ここに居ないってことは、入れ違ったか」
はぁ、とため息をついて、飛騨はそれとなく肩を落としていた。
泉美は顔は向けずに、視線だけで飛騨を見つめる。端正な顔立ちの横顔には、アンニュイな表情が浮かんでいた。
「アスカと?」
泉美の問いに、飛騨は小さく肩をすくめた。
「あいつ、今日は学校経由で研究所に来ていてな。たまたまだが、古技研の部屋の前で会ったんだ。何かあったのは気付いたが、随分急いでるようだったから、詳しく聞いている余裕もなくてな。なんとか今日の仕事が片付いたから、様子を見に来ようと思ったんだよ。遅かったみたいだが」
泉美は出撃する前の飛鳥とは会っていないが、飛騨の話を聞く限り、様子がおかしかったのは間違いないのだろう。
今日に限っては、飛鳥はずっと愛のために奔走していたようだ。
そう思うとすぐに、ぴりと、嫉妬が胸を引っ掻いた。
「っ……」
――ああ、まただ。
泉美は薄く、自嘲気味な笑みを浮かべると、ゆるゆるとかぶりを振った。そして意識して抑揚を排した声で、飛騨に告げる。
「たぶん間に合ってても、アスカは何も詳しいことは言わなかったと思います。あたしが訊いても、全然でしたから」
極力感情が出ないようにと話していると、口調が普段以上に余所余所しくなった。
泉美は思わず顔をしかめるも、飛騨は気付いていない様子で、そうか、と呟いた。
「本郷でダメなら俺が訊いてもダメだったろうな」
あっけらかんと、飛騨はそう言ってのけた。
わざわざ仕事を早く片付けてまで来たと言う割には、ずいぶんあっさりとしたものだ。裏でもあるのかと勘ぐって、泉美は訝し気な視線を横に向けた。
飛騨は泉美の視線に気づいた様子で、小さく口の端を釣り上げてこう言った。
「いや、まぁ、あれこれ悩んだ様子だったら、話を聞こうかと思っていたんだ。何かしら結論を出して行動しているなら、俺からは口の出しようがないってだけだ」
「はぁ、そうですか……」
積極的なのか消極的なのか判断のつかない飛騨の口ぶりに、泉美も曖昧な返事を返すにとどまった。
今度こそ隠す気配もなく露骨に顔を逸らした泉美に、飛騨は居心地悪そうに片眼を閉じた。
僅かな沈黙の後、彼はおもむろに口を開いた。
「俺のこの研究所での仕事だがな」
「…………?」
急な話題の転換に、泉美は眉を寄せて、ちらと隣を伺う。
飛騨はまるで独り言のように、淡々と続ける。
「お前たちアークライセンスの所有者の、精神面でのサポートが主な仕事なんだ」
「メンタルケアってことですか?」
「まぁそうだな。普通の学生とは置かれている環境が違うし、特有のストレスもあるだろう。学校教員の立場もあるのは、学生という立場と研究の協力者という立場、その両面から支えるためだ」
そういうことだろうと、おおむね想像通りだった泉美は先を促すようにうなずいた。
「お前たち3人を見ている限りじゃ、やっぱり一番不安定なのは星野だ。あいつは本郷や久坂に比べれば、精神的にずっと幼い。……いや、年の頃を思えば、あいつぐらいで普通なのかもしれないけどな。でもまぁ、お前たちみたいに難しい立場にあれば、精神的にも成長する。割り切り方も覚えるだろう。あいつはどうも、そういう部分が成熟していないように見える」
飛鳥が飛騨の事を苦手にしていることもあって、学校にしろ研究所にしろ、二人が直接話をしている機会は多くない。飛騨に関しては仕事柄か研究所に来る機会も少なく、泉美もこちらで会うのはかなり久しぶりだったと記憶している。
その上で、飛騨による飛鳥の分析には、泉美も共感するところが多かった。
「でも正直……。こういう状況で、仕方ないだなんて思ってしまえるあたしなんかより、あいつの方がずっと、まともな人間だと思います」
暴走してしまったのは事実だが、そうなった先の結果としては、今回の決着は決して悪いものではなかったはずだ。
次善の結果ではあるが、飛鳥が愛に掛けた言葉は、愛の心を救うというその一転においては、あのように答える他なかったのだから。
ただそれでも、最善ではない。
実験が開始され、インターンが暴走したという状況においては最善だっただろうが、飛鳥が言っていたのはそもそも実験の開始自体を食い止めることだった。
そうすれば、愛は今ほどまでに心の痛むことはなかっただろうし、飛鳥が嘘を吐く必要もなかったのだから。
それを仕方ないで済ませてしまえるのは、どこかで自分自身が、飛鳥や愛の置かれた状況を他人事だと考えているからではないだろうか。
自己嫌悪から思わず顔を伏せた泉美をちらりと横目に伺って、飛騨は聞こえないよう小さくため息を吐いた。
「まともとは、少し違うな。星野は極端だ。出来るかどうかを二の次にして、結果がベストでないと、それだけで自分の責任だと考える。今回の件は、確かに星野にも実験を未然に防ぐことはできただろうが、そうする義務があったのは、鞍馬研究所の大人たちだ。あるいは情報さえ入手出来ていれば、ここの研究員もか……」
飛騨の口調に、自嘲気味な雰囲気が混じる。彼に何かできたわけではないだろうが、悔いる気持ちはあるのだろう。
誰もが持つ感覚だ。自分は外側に居たのだから悪くはないとはっきり割り切れるように見えても、そうと思い込んでいるだけ。ただの自己暗示だ。泉美もそうであるように。
「責任感を持つのは良い。そこが大人と子供の境目だ。でもだからといって、こういう時に自分を責めるのは違う。そうやって必要以上に苦しんでいるあいつ自身を見れば、あいつだけでなくその周りが悲しい思いをする。今の本郷や、たぶんその部屋の如月や、そして久坂や月見のようにな。……同じことなんだ。星野のことを助けきれなくて、それを苦しく思うのは、あいつの周りの人間もな」
「…………」
本当に飛騨はよく見ている。
そして仕事に忠実なのも見て取れた。飛鳥のことを語りながら、泉美の心を軽くしている。
「星野もそこに気付けたら一皮剥けるだろうが、まだまだ時間がかかりそうだ。……あいつは強がっているだけで、まだまだ子供だから。それは星野自身が一番よく判っているだろうが、同時に、そこに甘んじていたら成長できないことも知っているんだろう。だが、人に頼らないことだけが、子供じゃなくなる方法じゃない。だからこそ、本郷達のようにあいつをよく知ってる仲間や友達が、星野を支えてやる必要がある。一方的に依存するのではなく、支え合う。そういう関係だと思えれば、あいつも頼ってくれるだろう。……そういうのは、俺の立場じゃむしろ難しくてな」
「支え合う、か……」
「月並みな言葉だが、それだけに正しい。……人は時に、自分自身をすら手に余らせる。そういうとき、どうすればいいと思う?」
「……、支えてもらう?」
急な問いかけに戸惑いながらも、泉美は迷いながらそう答えた。
「そうだな。ただし、半分だ。自分の重い部分の半分を持って、残りを相手に預ける。そしてその時に、相手の重い部分の半分を、今度は自分が預かるんだ。自分の重みの片方と、相手の重みの片方を両手に持つ。人の手が二つあるのは、そのためだと俺は想う」
そう言って、飛騨は壁から一歩離れた。ポケットに手を突っ込んだまま、泉美の方を見つめる。
「本郷」
「……はい」
自分にまっすぐ目を向ける飛騨に、泉美も同じように正対した。
目の腫れはまだ治まってはいないはずだが、隠す必要は無いと、今はそう思えた。
「自分のことが大事なのは、決して悪いことじゃない。お前の大切にする自分自身は、他の誰かにとっても大切な人なんだからな。だから、心の底から綺麗である必要はないんだ。大事なのは、自分の汚い部分、利己的な部分を受け入れて、その上で人に優しくすることだ。それが自分自身にも優しくなるってことだから。お前になら、きっとそれができるだろう」
泉美は無言で、静かに頷く。
飛騨は泉美の肩をポンと叩いて、それからにこやかな表情を浮かべた。
「悪いが、あいつのことは任せる。お前たちが一番だろう」
そう言って、飛騨はちらりと泉美の後ろに視線を向けた。
泉美は何となく、その真意を汲み取れた気がした。
「はい」
今度は力強く、泉美は頷いた。
「ありがとうございました、先生」
飛騨はそれには返事をせず、背中を向けて歩き去った。
頭を下げたまま泉美は去ってゆく飛騨を見送って、それからよし、と顔を上げた。
「あたしの役目、できるこは……」
後ろを振り返り、愛のいる医務室を見つめる。
愛に対して、思うところがないわけではない。それでも、その上ですべきことがある。
泉美は一人頷くと、迷いのない足取りで、愛のいる医務室の部屋の戸に手をかけた。




