4章『灰雲の先』:3
ガラガラと音を立てる、医務室のドア。
後ろ手にドアを閉じた飛鳥は、俯いたまま、小さくため息を吐いた。
「大丈夫だったの? あの子」
渋い顔で顔を上げた飛鳥は、そこで壁に背中を預け、腕を組んだ泉美の姿を見止めた。
「盗み聞きかよ」
「今来たとこよ」
壁から背を離し、歩み寄りつつ泉美は答える。
飛鳥は肩をすくめてから、ガリガリと後頭部を掻いた。
「……悪い」
詫びの言葉を述べておきながら、飛鳥は泉美の方に視線を向けようとはしない。
真一文字につぐんだ口元と、眉間にしわを寄せる目元から、泉美は強い決意のようなものを見て取った。
「アスカ」
視線を外してそばを抜けようとする飛鳥を呼び止めて、泉美はその前に立った。
「大丈夫だよ、落ち着いたみたいだし」
「なんの話してたの?」
はぐらかそうとする飛鳥の言葉を遮って、泉美は詰め寄った。
飛鳥は歩みを止めると、一層顔をしかめた。
「大した話じゃない、わざわざ今言うことでもないさ」
言いつつ横を通り抜けようと足を踏み出しかけたとき、遮るように、泉美の鋭い声が飛んだ。
「大した話じゃないなら、何でそんな顔してんのよ」
「――――っ」
すれ違いざまの一言に、飛鳥は息を呑み、地に足が縫い付けられたように動かなくなった。
言葉は咎めるようなものではなく、声音も同じだった。それでも、その言葉に込められた複雑な感情の一端が、飛鳥の歩みを止めたのだ。
瞑目し、3度息を吸い、同じ数だけ吐いて、それでも強張った表情は戻らない。仕方なく飛鳥はそのまま泉美の方を振り返った。
呼び止められたことに苛立っているように見えていたのかもしれない。振り返った飛鳥と目の合った泉美は、僅かにたじろいだ様子を見せた。
あるいはそれほどに、飛鳥から鬼気迫るものを感じたのかもしれない。
自分が今どんな顔をしているか、鏡を見たわけではないが、飛鳥にはある程度は想像がついた。よほどひどい顔をしていることだろう。
視線を逸らす泉美の姿に、罪悪感が募る。それでも、謝罪の言葉は出てこなかった。
「あいつの身の上話だよ。俺の口から言えるようなことじゃない」
言葉に嘘はなかったが、質問の答えにはなっていなかった。
目を逸らす飛鳥の態度に、本音が隠されていることを見抜いた泉美は、しかしそれ以上問い詰めることはできなかった。唇を噛む横顔に、泉美もまた、胸が締め付けられるような思いをしていたからだ。
立ち止まった飛鳥の姿に、泉美は強い罪悪感を覚える。
飛鳥の姿を映すかのように泉美は深く俯き、絞り出すような声で呟いた。
「……ごめん、嘘ついた」
「……?」
意図のわからない泉美の言葉に、飛鳥は怪訝な表情を浮かべる。
顔を上げた飛鳥と、眉間にしわを寄せた泉美の視線が交錯する。
「……話、最初から聞いてたの」
言いづらそうに、目を逸らしながらそう付け加えた泉美の姿に、飛鳥は咎めることもできなかった。
「……………………ああ」
言いたいこと、言うべきことがあまりにも多く頭を過り、何も言えずに、すべては一つの深いため息に変わった。
額に手を当てて天を仰ぎ、飛鳥はしばし瞑目する。それから肩を落とした飛鳥は、おもむろに歩き出し、泉美の隣をすれ違った。
「…………っ」
無言のままに泉美は振り返り、飛鳥の背中を強く見つめる。その視線には複雑な感情が幾重にも折り重なっていて、涙を流す間際にも見えた。
その視線を受けながら、数歩歩いたところで飛鳥は足を止め、振り返ることもなく、片手を上げて指をクイと曲げた。
無言の手招きに、泉美は神妙な面持ちで頷いて、飛鳥の背中を重い足取りで追いかけた。
無言のままに歩を刻み、十数メートルを進んだところで、飛鳥はおもむろに立ち止まった。
振り返った飛鳥と、泉美の視線が交わる。飛鳥は静かに目を伏せ、泉美は数歩歩み寄った。
「……あの子、辛い環境だったのね」
泉美は唇を噛んで、沈痛な面持ちでそう呟いた。飛鳥はただ黙って、重々しく頷いた。
「だから、助けなきゃならなかったんだ」
そう言って、飛鳥は瞑目する。
その態度に泉美は困惑した。
「助けなきゃって、……アスカが助けたんじゃない、あの子の事」
暴走するインターンを止めたのは飛鳥の操るアストラルと、隼斗の操るバーニングだ。一人で成し遂げたわけではないが、そんなのはどうだっていいことのはずだ。
まさか自分でなければなどと、飛鳥が考えるはずもない。だというのに、飛鳥は重々しく首を横に振った。
違う、と。聞こえるかどうかというほどに小さな声で、彼は呟いた。
「そっちじゃない。実験の前に、愛は俺の家に来てたんだ。様子がおかしいのは気付いてた。実験があるって話もな」
「え…………」
その言葉に、泉美は思わず目を見開いた。
泉美が今日研究所に来たのは、飛鳥達が出撃した後だ。インターン暴走の要因は聞かされていたが、それ以外の情報は無かった。
混乱する泉美を尻目に、飛鳥は小さな声で、しかし淡々と続ける。
「止められなかったんだ。あいつは俺に助けを求めていて、だけど、俺はそれに応えられなかった。……あいつの望む答えを返してやれなかった」
具体的に言及することを避けた飛鳥の言葉は、酷く抽象的だった。
ただ愛という少女は他の誰かではなく、飛鳥一人に救いを求め、飛鳥はその願いに応えなかった。
「で、でもあんたは…………」
助けられたじゃない、そう言おうとした矢先、飛鳥は首を振ってこう断言した。
「遅かったんだよ。始まる前に、止めなきゃいけなかった。……戦ってる間、俺にはずっとあいつの声が聞こえてたんだ。心の声……かは、はっきりしないけど、そういうのがさ」
アーク波を介し、頭に反響する愛の悲鳴。助けを求める声。それらを想起するように、飛鳥はゆっくりと目を閉じた。
意識すれば、声は鮮明に聞こえてくる。
それは消えることの無い罪悪感と共に、記憶よりも、飛鳥の心に深く刻まれている。
瞑目したまま眉間にしわを寄せる飛鳥を見て、泉美も視線を泳がせつつ、おもむろに尋ねる。
「心の声……。それって、ホライゾンの能力みたいなもの?」
「……さあ、詳しいことは俺にはな。ただ、思考を読めるとかそういうレベルじゃなくて、なんつーか、感情があいまいに伝わってくるっつーか、そういうの。あいつが機体のシステムに呑まれて、恐怖を煽られて暴走をさせられていた間の、あいつの心が声になって……。辛かったのも、苦しかったのも、嫌ってほど伝わってきたんだ」
「だから……、実験よりも前にって?」
探るような問いかけに、飛鳥は頷いて返した。
愛の苦痛を想えばこそ、なぜ痛みを負う前に止めることができなかったのかと、際限のない後悔が首をもたげる。
負った傷はいつかは癒えるかもしれない。だが消えてなくなるわけでもない。
愛と話していた時もそうだった。何度も強がりを見せようとして、その度に作り笑いは、暗い表情と涙にかき消えていた。
最後に掛けた言葉がその慰めにはなっただろうが、それにしたって、あまりにも遅すぎた。
「結局、同じ嘘を吐くなら、本当はあいつが来た時に、言ってやれればよかったのに……」
内心にとどめるつもりだった独白は、思わず口をついて漏れ出ていた。
だが言葉として出てしまったこと以上に、あまりにも浅ましい想像に、飛鳥は吐き気がする思いだった。
そう簡単にその場限りの嘘を吐けるなら、今こんなにも、胸を痛めることなど無いのだから。
「それって……」
口の中で呟いていた飛鳥の独り言を、泉美は期せずして聞き届けていた。
脳裏を過るのは、直前に医務室で飛鳥が愛に掛けた言葉。そして駅で見かけた、全身を冷たい雨に濡らして駆けていく愛の姿だった。
今日の出来事と、飛鳥の語ったことの意味が、泉美の中で一つに繋がる。
飛鳥が愛に向けた「大切だ」という言葉は、愛が飛鳥に助けを求めたときには、恐らく本心でないが故に言うことができなかったのだろう。愛を慰めるため、飛鳥はそんな嘘を吐いたのだと。
いくつもの感情が泉美の中で渦巻いた。
それは飛鳥や愛に対する同情でもあったし、あるいは二人に対する嫌悪でもあった。
ただ何よりも、一番大きな感情は、安堵だった。
そう、飛鳥が愛に向けた慰めの一言が嘘であったということに、泉美は確かに、安堵の感情を覚えていたのだ。
「あ…………」
その事実に気づき、泉美は愕然とする。
もはや言葉もない。何と浅ましいことか。
「……泉美?」
目を見開き、それから唇を噛んだ泉美に、飛鳥は怪訝な視線を向ける。
泉美はそれに目を合わせることもできず、ただ泣きそうな表情で、静かに視線を逸らした。
合わせる顔がなかったのだ。
人智を超えた力でアークの暴走を食い止め、巻き込まれた少女を助け出してなお、その中にある僅かな失敗を悔やみ、自らの言葉を強く自戒する目の前の少年。
そんな姿に対して、深層の意識ではあれど、他人の不幸を利己的に捉えてしまう自分のようなものが、どうして向き合えるものだろうか。
唇を噛んで俯き、それきり泉美は、顔を上げることができなかった。
泉美は結局、目の前の、きっと今誰よりも苦しんでいるだろう少年に、たった一言の励ましの言葉すら掛けることができなかった。
「…………」
彼女の心中を、少しでも察したのだろうか。
飛鳥は瞑目し、首を横に振ると、うつむいたままの泉美に背中を向けた。
「……アスカ」
ささやくような声に足を止め、飛鳥は背中越しに語る。
「まだやることがある。できることは、全部やる。…………行くよ」
強い意志を言葉に込めて、泉美と、そして何より自分自身にぶつけた。
再び歩き出した彼は、今度こそ立ち止まることはなく、歩き去って行く。重くとも、確かな足取りで。
その足音の聞こえなくなるまで、泉美は一度も、顔を上げることができなかった。
かつかつと、リノリウム貼りの廊下に足音が響く。
地下にある研究施設の廊下には、窓の一つもない。その中では外の天候などわかりようもないものだが、眼前に広がる長い廊下は、まるで雨雲に光を遮られたように薄暗い。
あるいは今の飛鳥の精神状態が、そういう風に見せていたのかもしれない。
闇の奥から人の気配を感じ、飛鳥は視線を上げた。
壁に背中を預けていた隼斗が、片手を上げながら歩み寄ってくる。
「話は、終わったかい?」
「あぁ……。何も解決してないけどな」
重々しい口ぶりに、隼斗は飛鳥の心情を汲み取った。前後の事情はあらかじめ聞いている以上、察しの良い隼斗が突っ込んだことを尋ねることはなかった。
沈黙のままに、飛鳥は再び足を踏み出す。
並んで歩く隼斗が、おもむろに口を開いた。
「どこか行くのかい?」
重くとも迷いのない足取りに、強い目的意識を読み取って、隼斗は藪から棒にそう尋ねる。
察しの良さは、良さでも悪さでもある。飛鳥は顔をしかめて、ぶっきらぼうに答えた。
「研究所に行く。……鞍馬だ。あいつの親父さんに会いに行く」
「行ってどうするんだい? ここから先は、しかるべき機関がしかるべき処理をする。僕らの出番じゃない」
「そういう大人ぶった目的じゃねぇよ」
足を止めず、隣の隼斗に鋭い視線を向けた。
「なら何が目的なんだ? 会って、一発殴ってくるのかい?」
瞑目したまま、冗談めかして尋ねる隼斗の言葉を、飛鳥は一笑に付した。
拳を握った手に無意識に力を込めながら、しかし首を横に振った。
「はっ、んなことしねーよ。……そうしたい気持ちは山々だけどな。届け物があるんだよ。それだけだ。だから止めるな」
「止めないよ」
間髪入れずにそう返した隼斗に、飛鳥は驚いた表情を向けた。
目を開いた隼斗はいつも通りの柔和な表情だったが、その瞳の奥にどこか暗く、それでいて焼けつくような激情を滲ませていた。
「僕も同じ気持ちだからさ」
「隼斗……」
隣を伺うと、隼斗は鋭い視線を眼前に向けていた。その感情は、恐らく憤りだろう。
アークの暴走とそれに伴う苦痛の中に、無責任にも自分の娘を放り出した、愛の父親に対する憤り。飛鳥にも、全く同じ感情があった。
「この件、政府も早々に対応に動くはずだ。うちの人間も何人か駆り出されている。話をできる時間は短いかもしれない。車を手配させてあるから、急ごう」
飛鳥を先導するように、隼斗が早足に進んでいく。
どうやら最初から、こうするつもりだったようだ。
「……用意が良くて助かるぜ」
飛鳥の呟きに、隼人は小さく肩をすくめた。




