4章『灰雲の先』:2
ゆっくりと伸ばされた手が、シーツの上の小さな掌に重なると、その指先が僅かに動いた。
呻くこともなく、医務室のベッドに横たわった少女は、静かにその瞼を開いた。
「気が付いたか?」
薄く目を開けた愛の顔を覗き込んで、飛鳥はそう問いかけた。
気を失っていた状態から目覚めてすぐとしては、意外なほどにしっかりした動きで、愛は頷く。
飛鳥は天井を仰いで、静かに、しかし深く安堵の息を吐いた。
強張っていた肩から力が抜けていくのが判る。医務室に入ってから十数分だが、彼にはもっと長くに感じられた。それほどの緊張が、ずいぶんと和らいでいた。
「私……、眠ってた?」
「ああ。まぁ、10分ぐらいだよ」
そっか、と呟いて、愛は体を起こそうとする。
「愛、無理はするな」
肩に手を当てて静止する飛鳥に、愛は短く首を振って見せる。
心配そうな表情を浮かべた飛鳥は、僅かな逡巡の後、静かに頷き、彼女の背中に手をまわした。
飛鳥の腕に少しだけ体重を預けつつ、愛はゆっくりとした動きで上半身を起こした。
まだわずかにふらついている様子に、飛鳥は心配した表情を浮かべるが、視線をうつむけたままの愛は、それに気づいた様子はない。
愛の表情は虚ろだ。
肉体的な疲労もあるだろうが、それ以上に、精神的なダメージが回復しきっていないように見えた。
無理もない。
飛鳥は心というか記憶を垣間見ただけだが、それでも壮絶だった。暗闇に閉じ込められ、湧き上がる恐怖が自分自身の声となって、それが際限なく増幅され続ける。
全てが終わった後とはいえ、愛が正気を保っているのが、正直奇跡に思えてならない。
そんな状態だから、休ませてあげたいところではあったが、目が覚めてしまったのなら無理に寝かせるのもよくはないかもしれない。
アーク波に乗って飛鳥に届いた愛の感情は、重く深い孤独だった。そうすぐに恐怖は消えないだろう。目を閉じて眠るというのも、難しいはずだ。
喋っていた方が少しでも楽になるかと、飛鳥は口を開きかけるが、掛ける言葉に当ては無く、結局は口を閉ざしてしまった。
せわしなく指を組み替えて、言うべき言葉を探していた飛鳥。
自分の吐息に交じって聞こえた布ずれの音に、ふと顔を上げた。
足に掛かるベッドのシーツを、ぎゅっと強く握りしめた愛が、顔を俯けたまま呟いた。
「怪我、してない?」
「……え?」
自分に向けられた言葉だとは思わず、飛鳥は呆けた様子で聞き返した。
沈痛な面持ちで、いっそう深く下を向く愛の表情に、飛鳥は慌てて手を振った。
「い、いや、大丈夫だ! 見ての通りだ、傷一つねーよ」
下手に取り繕おうとしたばかりに、言葉には詰まり、頬も引きつる。
酷く無様な作り笑いだっただろうが、それを見た愛は、無表情をわずかに崩した。
「……ごめんなさい」
傷は無いが、痛みは負っていた。
撃ち抜かれ、地に伏し、苦痛に呻き、それでも立ち上がる。
飛鳥はそうして戦い続けて、愛を無明の檻から救い出した。
その戦いがどれほど苦しいものだったかは、聞かずともわかる。
飛鳥が負った痛みの大きさを思えば、今の愛には謝罪の言葉しかなかったのだ。
「大丈夫だ、本当に。……大丈夫だよ」
仮に飛鳥が謝るなと言ったとしても、愛は受け入れなかっただろう。
だから飛鳥はただそれだけを言って、唇を噛む愛の頭をゆっくりと撫でた。
傷は無い。それは嘘ではなかったが、大丈夫というのは、少しばかりの強がりだった。
疑似痛覚だったとはいえ、強度設定最大のそれは実際に傷を負うのと痛みの程度は変わらない。
特に根元から自爆した右腕と、爆散した左膝から下は、動かそうとしても少しぎこちなく、時折フラッシュバックのように鋭い痛みが走る。
予兆なく訪れる痛みに常に呼吸を乱しながらも、表情には出さない。愛がそこからどれだけを読み取ってしまうかわからないからこそ、強がりをやめるわけにはいかなかった。
愛自身の意思ではなくとも、愛は今回のことに責任を感じている。飛鳥が苦しむ素振りを見せれば、それだけ愛が苦しむことにもなる。
彼女を助けるための戦いは、今この瞬間も続いていたのだ。
しびれの残る右手を膝の上に置いたまま、飛鳥の左手は愛の頭を行き来する。
飛鳥自身のそれよりもずっと柔らかな髪に触れていると、少しだけ、体を走る痛みも落ち着いていくように感じられた。
ずいぶん長い間、二人はそうしていた。
愛が医務室に寝かされてからよりも、二人で無言のまま体を触れ合わせていた時間の方が、いくらか長かっただろう。
飛鳥の体の調子が戻るのに合わせて、愛もいくらか調子を取り戻したようだった。
愛の視線が自分に向くのを見て取って、飛鳥は頭を撫でていた手を止めた。
愛は離れていく手のぬくもりに少し寂しそうな様子を見せたが、結局何も言わなかった。飛鳥もそこに気付いてはいたが、何の拍子に身体の不調を気づかれるかわからない状況で、あまり接触を続けていたくはなかった。
「落ち着いたか?」
「うん、ごめん…………ううん、ありがと」
飛鳥の言外の主張にも、気づいていたのだろう。謝罪の言葉を飲み込んで、愛は短く答えた。
膝の上に置かれた飛鳥の手を、愛はじっと見つめる。
アークに乗っていた間からずっと感じていた寒気も、今は嘘のようだ。飛鳥の手が触れていた場所から、全身を流れるように温かさが広がっている。
愛の頭に反響し続けていた、恐怖を掻き立てる声。新しく聞こえはしなくなったが、まだ頭の片隅に、響き続けているように感じられた。
それでも、ずっと身体を包んでいた微かな震えは、今はもうない。
独りではないということは、それほどに心強いことだった。
あるいはそれは、そばに居るのが飛鳥だからなのかもしれない。
傍らに寄り添う飛鳥を見つめて、大丈夫、と愛は心の中で呟く。
これから自分が全てを語るための勇気を、その一言で奮い立たせた。
「私の記憶……、見てた、よね?」
「っ…………」
唐突に語られた愛の言葉に、飛鳥は言葉を詰まらせた。
気まずそうに視線を逸らした後、やがて飛鳥は観念したように首を縦に振った。
アストラルのオーバードライブ発動の直前、アーク波を介して愛の心というか意志が飛鳥の元へと流れ込んだが、それは決して一方通行などではなかった。飛鳥が愛の心を感じていることは、愛にも伝わっていたのだ。
心の繋がった感覚とでも言うのか、お互いがその認識を共有し、共有しているということも、感覚的に理解できていた。
「ああ。見えたし、聞こえた。……ごめんな、勝手に」
目を伏せたまま謝罪の言葉を口にする飛鳥に、愛は苦笑気味の表情で首を横に振った。
「ううん、いいの。こうなった以上、いつか、伝えなきゃいけなかったことだから」
ずっと翳りを見せていた瞳に、強い覚悟が種火のように光を灯すのを、飛鳥は見て取った。
強い子だ。そのことに飛鳥は驚くとともに、安堵もしていた。苦痛の果てに折れてしまうのではなく、受け入れ乗り越えようとする意志を抱いていたのだから。
「……実験が失敗する可能性があるのは、最初からわかってた」
ぽつりと呟くように、愛は語り始める。
「確率がどのくらいって見られていたのかまでは、わからないけど……。でも、たぶん、そんなに小さく見られては無かったと思う。失敗したときのリスクも、たぶん。だから緊急時の対応の中には、外部からの攻撃による強制停止も織り込まれていた。開示されてない情報だったけど、お父さんのアカウントでなら、アクセスできる情報だったから、私も知ってた」
語られた事実は、想像できる中でもおよそ最悪のもので、飛鳥は思わず眉間にしわを寄せて、唇を噛んで俯いた。
湧き上がる感情は、憤りと悲哀と、そして無力感だ。それらが胸の奥で渦巻くのを噛み締めて、飛鳥は無言のままに受け止めた。
そうして何とか取り戻した平静さで、飛鳥はこう尋ねた。
「……愛は、止めなかったのか?」
「止めなかった。……止まれ、なかった」
はっきりと後悔の感情を滲ませて、愛はともすれば泣きそうな声でそう答えた。
止めるという言葉と、止まるという言葉の意味は違う。飛鳥は思わず顔を上げて、俯いている愛を見つめる。顔を上げた愛の横顔に、過去を懐かしむような、それでいて仄暗い感情が覗いた。
「私の家、…………お母さん、再婚なの」
唐突な踏み込んだ話はまるで話題を変えようとしている風にも聞こえるが、彼女の意図を語るのに、その家庭の事情は避けては通れない話だった。
アークによる意思伝達で、愛の抱える過去の、飛鳥はその一端を知っていた。
「…………ああ」
頷いて、先を促す。
「お姉ちゃんがお母さんの連れ子で、……私はお母さんとお父さんの間に生まれた」
――そのことが、結局のところの原因だったのかもしれない。
短い言葉を重ねながら、ぽつりぽつりと、愛は自分の身の上を語っていく。
それは姉である風香がいかに良き姉であったか。
それは母である由香がいかに良き母であったか。
それは父である誠がいかに良き父で在ろうとしていたか。
それは父と母の娘であり、姉にとっての妹である自分が、いかにそうあろうとし続けたか。
そしてそんな家族が、壊れていってしまうまでの、救いようのない話だった。
話の内容など、よくある暖かな家族の話だというのに。語る愛の口ぶりに力はなく、そこから綴られる言葉にもまた、熱というか、命というか、そういうものが欠け落ちているように感じられた。
朽ちた額縁の中、ひび割れたガラス越しに見る褪せた写真のような、そんな光景が目に浮かんだ。
社交辞令の形で打っていた相槌も、いつしか音を失い、やがて頷きすらも飛鳥の態度からは消えた。
「元々お母さんには、借金があったの。前の旦那さん……、お姉ちゃんの元のお父さん、って言えばいいのかな。その人が借金を残して、消えて……。お父さんと、お母さんが再会したのは、そのあとすぐだった」
「再会?」
出会った、とは違う言葉に飛鳥は首を傾げる。
「大学時代の知り合いだったんだって。お父さんは、そのころからお母さんのこと……。再会したときには、そんなことになってて。……、だから、その……、それを助けるために――」
「いいよ、愛。……大体わかるから」
渋い顔で言葉を詰まらせる愛を、飛鳥は片手で制した。
胸糞の悪い話の予感に、飛鳥は思わず顔をしかめる。
幸いにと話題を閉じた愛だったが、過剰に嫌な表情を浮かべる飛鳥を見て、「それだけじゃないけどね」と苦笑気味に付け加えた。
「お母さんがどういうつもりだったかはわからないけど、わからないのが、お父さんの不安だったのかもしれない。お父さんはずっと、家族の形に拘ってた。……ううん、お父さん、だけじゃなくて、私たち家族みんな、かな。お父さんは、私たちのお父さんらしく振舞おうとしてたし、お母さんも。お姉ちゃんは私のお姉ちゃんとして、私は二人の娘で、お姉ちゃんの妹で……、そういう風に」
「みんな、同じものを求めてたのか」
愛は一つ頷くと、恥ずかしそうな表情で続けた。
「私も、同じ。私はね、ある意味では普通だったけど、私だけがそうだったから、そういう意味では、私だけがおかしかったのかも。……ずっと、外から見てるような感覚があったから」
その言葉の最後に、愛は表情を曇らせる。
愛の立場に立って考えることは、飛鳥にはできない。
幼心に孤独は刺さる。
それぐらいは飛鳥にもわかるが、いったいどれほどに深く刻まれた傷なのかまでは推し量れない。横顔に差す陰は、その目で見るより、ずっと暗く感じられた。
「お金が必要だったから、お父さんは必死に働いてた。何日も帰ってこないことが多くて、それをみんなで我慢して……。そんな中でも、お父さんは、無理にでも時間を作って、帰ってくれることがあって……。でもそれは決まって、私のためで……。お姉ちゃんには、そうじゃなかった。……お姉さんなんだから我慢しなさいって、お母さんとお父さん、言うことはいつも同じだった。…………お姉ちゃんが、辛かったのは気付いてて、でも、私には何も…………私は、何もしなかった」
愛はできないとは言わず、しない、とそう言った。
膝の上で握った拳が、込められた力に震えていた。
飛鳥は視線を落として、その目を細める。
愛の言葉に宿るのは、後悔だ。今更どうにもならない、そうと分かっていながらも、自らを戒め続ける終わりのない自責の念だ。今、飛鳥の心にくすぶるものの正体と、それは同じだった。
「お姉ちゃんが家出をして、助けるために、お母さんが別居を切り出して、私はお父さんに、お姉ちゃんはお母さんが……。みんな離れ離れになって、それでもお父さんは諦めなかった。家族を取り戻そうって、二人で約束した。私もお父さんを支えるって決めて、だからアークのパイロットにもなった。……その結果が、これ」
愛はおどけたように、肩をすくめて見せる。空元気だとはっきりわかった。
「…………愛」
痛々しい姿に、唇を噛む。いっそ涙を流すならば、拭ってやることもできたのに、強がりの笑顔を前に飛鳥は何も言えないでいた。
「こうなるって、わかってた。ずっと、ずっと、もう戻れない道を進んでるって。それでもその先に、きっと二人の約束を守ることができるって……。そのためなら、どんなに辛くても耐えられるって、思ってた。……覚悟は、してた、……つもりだったの」
淡々と語っていた口調が途中から震えだし、詰まりながら、愛は語り続けた。
「……今だけだって、思ってた。苦しいのは。乗り越えたら、また、家族を取り戻せるって……。そう信じて、ずっと……」
そこで愛は言葉を切って、深く俯いた。
そうして目を閉じ、長い沈黙と共に記憶をたどり、そして愛はずっと目を背けてきた不安を、おもむろに吐露した。
「家族って、何なんだろう……? お父さんは家族は大事だって言ってた。だけど、私は……、私は……」
握り締めた拳が震える。
それは記憶の中の闇に向き合うための、拭い去れない恐怖だ。愛は自らの根幹を否定しかねない可能性に、今まさに対峙している。
「……家族は大切だって、父さん言ってた。……でも、私と二人になってからは、一度もなかった。ずっと取り戻すために頑張ってきたのに、それでも…………」
愛は想う。
愛の父、誠の言う家族とは。
去って行った二人をもう一度迎えるため、一緒に、そして必死に戦っている愛に見向きもせず、彼の目指す家族とは何なのか。
妻と、そして娘が去って以来、誠はとりつかれたように研究に没頭した。
それでいて、彼は研究の結果には、それほどの興味を見せなかった。ただ淡々と、クライアントの求める結果を出すために、わずか数日でも早く結果を出すために、時には危険な実験にさえも手を出していた。例えばそれは、今日のように。
愛はそのただ一つのモルモット。使い潰される、一山いくらの道具のように、冷たく接されてきた。
唯一残された家族の傍にありながら、消えることの無い孤独感。それは愛にとっては酷く耐えがたいものだった。
なぜ――?
その疑問が、何度頭を過ったことだろう。その疑問を、何度振り払ってきただろう。
何も考えるな。
ただ言われるままに動き続けろ。
それは人間というよりは実験動物であり、それ以上に、まるでロボットのようだった。
心を殺してまで、父の意志に従い続けてなお、父から情愛が向けられることはなかった。
傍らにいる愛から目を逸らしてまで、父である誠は、彼が家族と呼ぶものの在りし日の姿を追い続けていた。
「私じゃ、無かった…………」
それはあまりにも残酷な可能性。
誠が大切だと、愛していると言い続けてきたのは、自分ではない。
彼女はそのことを、ずっと考えないようにしてきた。考えてしまえば、そこで心が折れてしまうかもしれないから。
けれどもう、彼女の戦いは終わったのだ。
危険な実験に手を出し、それが失敗して兵器の暴走などという結果を招いておいて、これまで通りが続く道理もない。悪い予想でもなんでもなく、研究はこれで打ち止めになるだろう。
何も残らないのなら、ここで立ち止まったとしても、変わりはしない。
だから――――
「お父さんが大切だって言ってたのは、愛してるって言ってたのは、私じゃなくて……」
その事実を、彼女は認めてしまった。
「お父さんと、お母さんの娘で……、お姉ちゃんの妹で…………。あの場所に居たなら、きっと誰でもよかった…………!」
つっ――、と。
透明な滴が俯く彼女の頬を伝い、手の甲で静かに弾ける。
それはほんの一滴の、けれど偽らざる彼女の本心だった。
「愛…………」
彼女の背中に手を添えて、傍に居ると、飛鳥は言葉ではなく触れ合う熱でそれを伝える。
愛は口元に手を当てて、嗚咽を堪えて背中を震わせていた。
背中をさする手からそれが伝わってきて、飛鳥はやるせない気持ちになる。
ろくな励ましの言葉一つ出てこない自分に、彼はいよいよ嫌気がさしていた。
無責任なことを言いたくないと思うのは、確かに愛のためを思ってのことだが、しかしそのつもりをしているだけで、本心ではただ自分を守ろうとしているだけではないのかと。
自分の内心すら、もはやわからなくなりつつあった。
迷いも葛藤も表には出さず、しかし励ます立場であるはずの飛鳥もまた、愛と同じく暗い表情で視線を落としていた。
「辛いって、言えばよかったのかな…………」
いつの間にか泣き止んでいた愛が、ぽつりとそう呟いた。
手を止めて、飛鳥は顔を上げた。
愛の顔に、強がりの作り笑いはもう無かった。それすら剥がれ落ちてしまった後の、どうしようもなく透明な横顔は、その時はどうしてか、少し美しく見えた。
「辛いって伝えれば、寂しいって言えたら……、お父さん、助けてくれたのかな……」
独白と問いかけの中間の言葉に、飛鳥は首を縦には振れなかった。それができるほど、彼は彼女の深い場所を知らなかったのだ。
彼の沈黙をどう解釈したのか、愛は自分で苦笑を浮かべる。
それができないから、こうなっているのに。わかりきった事実を振り払うように首を振った愛は、そこで視界の端に、あるものを見つけた。
「あ……、これ……」
言葉の途中で気付いた様子で、顔を上げた愛が、ベッドの枕元に置かれていた二つの小包に視線を向けた。
明るい色のラッピングは、しかし雨に濡れたようで、あちこちが皺で波立っている。
二つ並んだ小包の一方を手に取って、愛は飛鳥に尋ねる。
「……これ、どうしてここに?」
ああ、と飛鳥は頷いて、愛が手に持つ箱を見つめる。
「コックピットの中にあったから、愛をここに運ぶときに、一緒に持ってきたらしい。中身は見てないよ」
「……そう」
手に持っていた小包を胸に抱くようにして、愛は俯く。
「大事なことばっかり、言えないままだった。私も、たぶんお父さんも……。ううん、私たち家族みんな、そうだったと思う。…………これも、渡せないままだった」
背中を丸めて小さくなる愛。
その横顔を飛鳥は直視できず、視線を逸らして尋ねた。
「それ、何なのか、聞いていいか?」
「…………」
その質問に沈黙を返すと、愛は胸に抱きしめていた小包を両手に持って、丸めていた背中を伸ばした。
寂寥とも、悲哀ともとれる複雑な表情でそれを見つめて、愛はポツリと呟いた。
「チョコレート」
「……え?」
思いがけない言葉に、飛鳥はきょとんとした表情を浮かべる。
そんな飛鳥の態度が面白かったのか、愛はくすっと笑った。
「今日、バレンタイン、だから」
「あ…………」
2日前に、友人と交わした他愛ない会話が想起される。
ごく最近の話だというのに、飛鳥の頭からはすっぽりと抜け落ちていた。
「それ、自分で作ったのか?」
飛鳥がそう尋ねると、愛はこくりと頷いた。
「渡そうとしたけど、だめだった。渡せなくちゃ、何の意味も、無いのに」
自虐的な笑みと言葉は、酷く痛々しい。
「っ――――」
その言葉を聞き届けた飛鳥の中で、一つの決意が浮かんだ。
お節介だろう。罪滅ぼしだろう。きっと手遅れだろう。
それでも、彼にできる全てをしようと、今そう決意した。
「ならそれ……、それ、貰っていいか?」
愛が持つチョコレートの包に手を伸ばして、飛鳥は唐突にそう尋ねた。
いきなりの問いかけに、今度は愛が面食らった。
「……そこ。……飛鳥の分も、作ったよ?」
枕元に残ったもう一つの包を指さして、愛はそういう。
話を飲み込めていないのか、目をぱちくりさせながら、彼女は彼女でずれた答えを返している。
飛鳥はそれには言及せず、愛の指さす方を一瞥して、短く告げた。
「じゃあ……それも、貰う」
ぶっきらぼうな飛鳥の言葉に、愛はもう一度戸惑った様子を見せた後、小首を傾げた。
「……2つとも?」
「2つとも。……あれだ、腹減ってんだよ」
取ってつけたような言い訳に、愛はいよいよおかしくなったのか、もう一つの包も手に持って、しばらく顔を伏せて、笑いを堪えるように肩を震わせていた。
恥ずかしそうに視線を逸らす飛鳥の眼前でひとしきり笑うと、愛はやにわに顔を上げた。笑みの表情を残したまま、愛は両手に持ったチョコレートの包をずいと飛鳥に差し出した。
「はい。……ふふっ、アスカ、嘘下手だよ」
「…………んなことねーよ」
飛鳥は少しだけ顔を赤くしたままぶっきらぼうにそう言って、口調とは裏腹に、探るような手つきで差し出されたチョコレートを受け取った。
手に持った二つの包に視線を落とす飛鳥に、愛はいくらか砕けた口調で言った。
「優しいんだね」
「そうでもないさ」
「それも嘘」
はっきり言いきった愛の言葉に、飛鳥は思わず閉口する。
苦い表情を浮かべて視線を落とした飛鳥の両頬が、急に温かい感触に包まれた。
視線を上げれば、目の前に愛の顔があった。
「愛…………」
その表情を、なんと例えればいいのだろう。
人形のように透明で、少女らしくあどけなく、大人びた影が覗く、そんな表情。
これほどまでに複雑な表情を飛鳥はかつて見たことがなく、そして彼女の表情と、目の端に浮かぶ透明な滴に目を奪われ、息をのんだ。
「……ごめんなさい。……でも、一度だけ」
だから、と、見上げる潤んだ視線が飛鳥を射抜く。
何も言わず、彼は黙って頷いた。
頬に触れる震えた少女の手に、飛鳥は自分の掌を重ねた。
逃げたりしないと、ここに居ると、もう一度伝えるために。
どちらからともなく、目を閉じる。
闇の中、重ねた手同士が温かく。
ふっ、と。唇の触れ合う感触。
それは一瞬の出来事で、まるで風がなぞるかのような淡い感触で、現実感に欠ける、不思議な感覚だった。
目を開けたとき愛はとうに顔を伏せていて、飛鳥の胸元へとしがみつくようにしていたものだから、気のせいだったかとすら思えてしまう。
けれど微かに触れ合った唇はひどく熱く、疑いようもなく、その行為は果たされていた。
「ごめんなさい、我儘で……。ごめんなさい……」
飛鳥にしがみついて、愛は震えながら、謝罪の言葉を述べている。
交わした口づけはきっと、こらえきれなかった衝動なのだろう。
理性が叫ぶ。罪悪感か、後悔か。いずれにせよ何か暗い感情が、今彼女の心を焼いていた。
飛鳥は静かに、震える少女を抱きしめた。
決意は揺るがない。たとえクソ野郎になってでも、今目の前の壊れかけの少女を、なんとしても助けたかった。
「大丈夫だ。何だって、言っていい。俺はここに居るから」
愛の頭と肩を自分の側に強く引き寄せて、飛鳥はそう告げる。
彼の行いは、果たして優しさと呼べるだろうか。それは客観的にはわからないことだ。
だが愛にとっては、それは優しさに他ならなかった。何よりも、今救われているのだから。
「もう一つだけ、……いい?」
「いいよ」
甘えることを、ずっとしないで生きてきた少女。
雨に打たれ、一人震え、彼女はそれでも困難に立ち向かっていった。
大切なものを、取り戻すために。
立ち向かう覚悟を、逃げられない弱さと糾弾するのは簡単だ。だが、そうはしたくなかった。
だから今はただ、その寄る辺になりたかった。
痛みを負う前に助けることのできなかった贖罪であり、同時に、彼女の在り方に心を打たれたが故に。
「どうすればいい、愛」
彼女を救うための方法を、飛鳥は求めた。
強く抱きしめられ、しかし拭えぬ不安に震えたまま、愛は絞り出すように告げる。
自らの、たった一つの願いを。
「アスカ…………」
「……ああ」
頷く。
「私は、何かになりたい…………。立場じゃなくて、私が、私自身が…………。誰かのじゃなくて、アスカの……。叶うなら大切な、何かに……」
「……ああ」
頷く。
もう一度強く、愛を抱き寄せ、飛鳥は彼女の耳元に口を寄せる。
躊躇ったのは、ほんの一瞬。
そうして彼は、人生で最悪の嘘を吐いた。




