幕間『闇に煌く』
何かが見えていたわけではなかった。
何かが聞こえていたわけではなかった。
ただ、漠然とした焦燥、恐怖から逃れようと、私はひたすらに手足を振り回していた。
駄々をこねる子供のように、あてもなく闇雲に。
鎖に繋がれた手足を、それでも必死に。
アークがとらえた映像を、私はそのまま見ていたはずだった。なのに『それ』が何かわからない。
思考に靄のかかったように、見えているものの正体を掴めない。
ただ『それ』が武器を持ち、私に向かってきていることだけは、どうしてかはっきりとわかっていた。
向かってくる『それ』は純粋に恐怖であって、私の抵抗は、思考や理性よりも、本能に近かった。
迫るたびに遠ざけようと、私は叫ぶ。
声はアークを介して光となって、声を媒介する何かから、絶えず放たれ続ける。
叫ぶたびに『それ』は遠ざかり、しかし遠ざけてなお、『それ』は幾度となく私に迫る。
払いのける度により深く踏み込んでくる『それ』の姿に、恐怖は肥大し、しかし同時に、違和感が顔をのぞかせる。
何か、違う気がする。思考ではなく感覚が、私にそう告げる。
けれどそこに気付きかけるたびに、頭に響く声が大きくなる。
頭の中を無数に反響し、私の思考を妨げるその声が、私自身の意志を無理矢理に矯正してしまう。
『それ』は『敵』だ、と。排除しなければならない、と。
違和感を覚えるたびに、『それ』が何かを理解しかかるたびに、覆いつぶすほどの恐怖が私を飲み込んでいく。
閉ざされたノイズと闇の中で、向けられる武器の存在ばかりが、酷く眩しかった。
青く、鋭く、軌跡を刻む。
頭を抱え、暗い部屋の隅で震える自分に、振り向けられるナイフのよう。
排除しろ、排除しろ、木霊する声に突き動かされ、際限なく湧き上がる恐怖に追い立てられ、私は何もわからないままに叫び続けた。
助けて、と。
けれど、手が差し伸べられることはない。それでも悲鳴を上げるたびに、反響する声が生む恐怖が和らぎ、向けられる刃が遠ざかる。
私は自分を守るために、そうせざるを得なかった。
反響する自分の声、敵だと、排除しろと。それ自体が私自身の、言い表せない恐怖になって、考える余裕を覆いつぶしていく。
そこに、私は抗わなかった。ほんのわずかな、恐怖から逃れられる時間のために、私は恐怖に立ち向かうことをせず、ただ流されるままに、喚き続けていた。
けれど『それ』は違った。
私とインターンが放つ拒絶の光の只中で、それよりもずっと眩しく煌く光が、私の闇を一閃に引き裂く。
これまでは恐怖を増すはずだった光景の後、どうしてか、頭に反響する声がその数を減らした。
恐怖を掻き立てる声が薄まれば、頭の中にかかる靄が少しだけ晴れる。
けれどそれに対するように、今度は一つ一つの声が大きくなる。
沸き立つ恐怖は脈動するように不安定で、でもその大きさは小さくなることはなかった。
声が壁となり私を覆い、闇を作る。
その中で、光が何度も、青く瞬く。
幾度となく声が響き、私を闇に押し込める。
その度に『それ』は煌き、刃のように、光を私に突きつける。
反響する声が一つ潰える。思考を潰す恐怖が強まる。
私の心の叫びは、自分自身の目を焼くほどに眩しく、闇に瞬く『それ』を穿つ。
近づかないで。
叫びが、次は私自身からあふれた。
空で貫かれ、地に叩きつけられてもなお、『それ』は私に向かってくる。
怖いよ。
こんなにも必死に、声を枯らして訴えても『それ』は聞く耳など持とうともせずに。
そしてまた、私を覆う声が消える。
頭を突き刺すような痛みが走った。敵の驚異の大きさを、いっそう強く訴えてくる。
叫びは破壊を伴う光となって、『それ』をまた飲み込む。
なのに、『それ』は止まらない。
向かってこないで。
インターン、そしてヤタガラスの放つ攻撃を搔い潜って、それは私の元へ、深く何度も踏み込んでくる。
そして振るう刃で、私を閉じ込める闇から、引きずり出そうとする。
なのに私は、根拠もないまま湧き上がり続ける恐怖に、叫びを止めることができない。
だから、近づいてこない欲しかった。
あなたを傷つけてしまうから。
いつの間にか、『それ』は恐怖ではなくなっていた。
光は刃ではなく、闇の中の私を照らす標のよう。
『それ』が何なのか、私の頭に過る。
私を覆う声の隙間を縫って、その姿が、ほんの一瞬だけ私にも見えたのだ。
『それ』の姿を知っている。名前は……。
気づきかけた瞬間、声が爆ぜた。
敵だ。敵だ。敵だ。
違う、嫌だ、敵じゃない。
歯を食いしばって、私は踏みとどまった。
叫びを堪えて、『それ』を遠ざけてしまわぬように。
インターンから放たれる光が消えて、それでも遠く浮かぶヤタガラスは、私の中の恐怖をくみ取って、絶えず攻撃を続けていた。
自分の体を掻き抱いて、私は必死に声を堪え続けた。
『それ』がずっと、私に呼びかけていてくれたから。
闇の向こうに、瞬く一つの星のように。
けれどふと唐突に、その青い光が消えてしまう。
世界は再び闇に閉ざされ、堪えられない恐怖に満ちる。
光がインターンから溢れ、怒涛の勢いで『それ』を撃ち抜く。
ああ、どうして。
消してしまった。
後悔が胸を貫く最中。
闇を、私を覆う暗い壁を、光が一息に焼き払った。
爆発のような輝きの中、青い閃光が私の元へ来て。
声が聞こえた。
私を呼ぶ、私を愛と、そう呼ぶ声が。
お願い、届いて。私はここに居る。
ねぇ――
『アスカ』
差し伸べられた手が、届いたと思ったとき、何かが再び、私を閉ざす。
それは一瞬の出来事。
瞬きの後には、私を再び闇が覆っていた。
心が爆ぜる。
せき止めていたすべての感情が、決壊して私の中に溢れかえる。
頭を突き刺す濁流のような痛み、衝撃、言い表せない何か。
飲み込まれ、もう何も、考えることはできなかった。
助けてと、叫ぶことしか。
ただそれだけしか、私にはできなかった。
手を伸ばす。それがあなたを傷つけてしまうと知りながら。
それでもあなたは、また立ち上がる。
私の声を聞き届けて。
光をたたえ、太陽よりも眩しく。
朽ちることなく、闇に煌く。
空が見えた。
私の声は、その向こうに。
彼の心へと届いた。
――初めから、わかっていた。
私は、私なのだと。
家族の中の一人ではなく、アークのパイロットではなく、如月愛という、一人の人間。
そういう風に認められて、そういう形として、私は誰かに愛して欲しかったのだと。
私、を。
そのたった一つが、いつの間にか欠け落ちて、私は本当に望むものを心の中からも失ってしまった。
どんな形であれ、愛されるのなら、求められるのならそれでいいと。
私のただ一つの願いは、そうして歪み、歪んだまま、けれど消えずにここにあった。
たどり着くべき場所は見えないまま、それでも求めてきたはずだったのだ。
だというのに、今の私は、なんだろう。
自分を失い、闇雲に悲鳴を上げるだけのこの空虚な私は、誰かに愛してもらえるような人間だろうか。
自分が傷つかないために、誰かを傷つけてしまえるこの私は。
だけど、それでも。
そんな私を、認めて、受け入れてくれるなら。
それでも大切だと、必要だと、一言言ってもらえるなら。
それが嘘でも、どれだけ救われることだろう。
ねぇ、聞こえる?
ここにいるよ。
だから、アスカ。
お願い。
助けて――




