2章『涙と、雨と』:7
雨降る中を、結局傘を差さずに握りしめたまま、飛鳥は学園まで走りぬけた。
頭のてっぺんからつま先まで、雨に触れていないところはないと言えるほどにずぶ濡れの状態だったが、古技研の同好会室前にたどり着くまで、幸い教師や部活の学生とは出会わずに済んだ。
それらを避けて行動できるほど、多くのことに意識を割いている余裕は飛鳥にはなかったのだから、誰にも見られなかったのは一重に幸運だった。
ただ同好会室のドアに手をかけたところで、その背に声が掛けられた。
「星野」
ピクリと肩を震わせてから、飛鳥は警戒心をむき出しにして振り返る。
目が合ったのは、またしても幸運なことに、担任の飛騨だった。
「先生か」
なんだ、という言葉は飲み込んだが、態度と口調には露骨に表れていた。
こいつは、というあきれ混じりな言葉を飲み込んで、飛騨はまじめな表情で問う。
「何かあったのか、星野?」
何かが何を指しているのかは聞き返すまでもなかったが、詳しく説明していては時間がいくらあっても足りない。
「いろいろと。すんません、急いでるんすよ」
「だろうな」
一つ頷いて、飛騨はゆっくり首を横に振る。
その態度を、これ以上追及するつもりはないという意思表示と受け取って、飛鳥は視線を戻してドアに手をかける。
スライドドアを引っ張ったところで、ガコッという音とともに、強い引っかかりの感触が指先に返ってきた。
「ちっ」
人のいない部屋である以上、当然ながら鍵がかかっている。
特にこの部屋はそのまま研究所に直行するために使われることが多いため、中に入ったきり無人になることも多々ある。その時は中から鍵をかける都合上、アーク研究の関係者は全員合鍵を渡されているわけだが、飛鳥は今それを家に置いてきてしまっている。
一応は職員室に予備が置かれているので、それを取ってくるしかない。
余裕のないときに余計な手間が、と歯ぎしりして振り返り、一歩踏み出したところを飛騨に呼び止められた。
「待て星野、目立つぞその恰好」
びしょ濡れの飛鳥を一瞥して、飛騨はわかりやすく首を横に振って見せた。
飛鳥はまだ雨水を滴らせる後ろ髪をガジガジとかきむしって、隠す様子もなく舌打ちをした。
「だから急いでるって」
「これ使え」
言葉を遮って押し付けるように手渡されたのは、飛騨が持つ同好会室の合鍵だった。手渡してから、飛騨は続けて尋ねる。
「カードキーは?」
「……そっちなら」
部屋の中に隠されてある、研究所まで直行するためのエレベーターを利用するには、専用のカードキーが必要になる。図書室のカードに偽装されているそのカードキーは、上着の内ポケットに入れたままになっている。こちらも幸運だった。
飛鳥は上着の内ポケットからカードキーを引き出して、その端をちらりと見せる。
飛騨は一つ頷いて、後ろに下がった。
「ならそれ使ってさっさと行け。仕事が片付いたら、俺も伺うよ」
「恩に着ます」
会釈だけをして、頭を上げながら振り返る。
飛鳥が背中を向けるタイミングで、飛騨はもう小走りで職員室へと向かっていた。
普段はあれこれと詮索してくるのに、本当に切羽詰まっているときは事情も聴かずにサポートしてくれる。
この察しの良さと切り替えの早さが、飛鳥が飛騨を嫌いになりきれない理由だった。
「よし」
後押しされた上でグダついているわけにもいかない。
飛鳥は手早く鍵を開けて中に入ると、内から鍵を閉めてから、背後の本棚に向き直る。
本棚の中から本を一冊横にどけると、その奥にカードキーを突きこんだ。壁に埋め込まれる形で隠されているカードリーダーがピッという短い音を発し、はじき出すようにカードキーを返してくる。
飛鳥がそれを手早く取り出した直後、本棚が全く音を立てずにスライドした。
その奥に、飾り気のない灰色のエレベーターが待ち構えていた。
音もなく開いたドアの奥に身体を滑り込ませて、飛鳥はすぐに階下へ向かうボタンを押す。
「…………、ふぅ」
直下へ向かうエレベーターの中で、飛鳥にできることは何もなかった。
流石にイラつきに任せて壁を蹴りつけるほど、飛鳥もガキではないが、かといって苛立たないわけではない。腕を組んで、ひとまず深呼吸をした。
冷静になって考えてみれば、そもそもどれほど状況が切迫しているかもわからない。愛の態度はかなり危うい印象を抱かせるものだったが、それが直接に時間的猶予の無さを示すということはない。
考えるほど、飛鳥はまともな情報を持っていないことに気付けた。
「ともかく、一旦は知ってる人に聞くしかないか。俺じゃ調べる手段もないし」
ひとまず飛鳥の把握している状況と必要な情報を、遥ないしは一葉あたりに伝える必要がある。そのためにも、伝えるべき情報を頭のなかで整理しておく必要があった。
開いたエレベーターのドアから踏み出し、飛鳥は考え事を続けながら早足に歩き始めた。
飛鳥の向かった先は、いつもの学生メンバーが特に理由なく集まっている休憩室だ。今となっては完全にライセンス所有者の待機場所となっているが、だからこそとりあえずそこへ向かったのだ。
彼が足を止めたのは、そこへ向かう途中だった。
「来てたのか、アスカ」
早足で歩いていたところを、飛鳥は聞き慣れた声に呼び止められる。
見ずともわかる、隼斗だった。
どうやらバーニングの整備区画を通りがかっていたようで、隼斗は機体のコックピットに直接アクセスするためのアーチにつながる階段から降りてきたところだった。
飛鳥が足を止めてそちらに視線を向けている間に、隼斗は飛鳥の状態に気付いた様子だった。
「って、どうしたんだい、そんなずぶ濡れで」
「ああ、傘忘れてな」
このタイミングで1から話すと話が長くなりすぎるだろうと、飛鳥はひとまずは適当にごまかした。
ただ今日に関していえば、そもそも飛鳥が研究所に来る予定自体がない。
すべて整理したうえで、隼斗は怪訝な表情で尋ねた。
「何かあったんだね?」
「おう、ちょっと急ぎで調べてもらいたいことがあってな。行きながら話すよ」
行先の方角を大雑把に指さして、飛鳥は止めていた足を再び動かす。早足気味の彼を、隼斗は慌てて追いかけた。
「調べもの?」
「鞍馬で今日実験があるらしいんだが、詳細が知りたいんだ」
飛鳥の言葉に、隼斗はきょとんとした表情を浮かべる。
横目にその顔を伺って、飛鳥は眉を寄せた。
なぜそんなことが知りたいのか疑問に思われているのだと、まず飛鳥はそう思った。だが隼斗の口から出たのは、もっと根本的な話だった。
「鞍馬の、実験? いや、今日はそんなのないはずだけど」
「連絡来てないのか? まぁ、全部が全部やり取りしてるわけじゃないか。だったら調べてもらおうと……」
「違うよ」
隼斗は短く遮ってから、怪訝な表情を浮かべる飛鳥を見据えて真剣な声音で告げる。
「国内の実験は最低限場所と時間の情報は共有してる。この狭い国でアークの動作実験をできる場所は限られてるから、ブッキングを避けるのもあるし、あと一般人に見られないようにするにも下準備が必要で、それは各研究機関と政府の協力が必要になる。以前の神原の、エンペラーの実験はあっちがイレギュラーなんだよ」
だとしたら、と飛鳥の頭に嫌な予感がよぎる。
隼斗は真剣な表情を崩さず、続けてこう尋ねた。
「アスカ、その鞍馬の実験は本当……、いや、誰から聞いたんだい?」
被りを振って余計な質問を捨ててから、隼斗は聞き直した。
ごまかす必要などない。飛鳥は短く答える。
「愛だよ。急に俺の家に来たんだけどさ、様子がおかしかったから少しだけ話を聞いてみた」
続きを待つ隼斗に対して、飛鳥は首を横に振って見せた。
「詳しくは全然わからなかった。とにかく今日実験があるってのと、どうもそれに行きたくないような雰囲気があった」
「様子がおかしいっていうのは?」
きつく奥歯を噛んで、眉間にしわを寄せた飛鳥は殊更苦し気な表情で首を横に振った。
「そこが一番わからん。なんつーか、壊れそうな……、とにかく危うい感じがした。精神的にふあんていっつーか……、悪い、はっきりしたことが全然でさ。いつも以上に言葉足らずな感じだったんで、正直ほとんど理解できてない」
「みたいだね。これだけじゃ、推察するにも厳しいか」
「ああ。だから調べてもらおうと思ってたんだよ」
隼斗に向けていた視線を前に向けなおす飛鳥。その先には、おそらく遥や一葉がいる。
遥達のいる部屋にたどり着くまでに、飛鳥はおぼろげなりとも把握できている情報を隼斗に伝えた。知る限りを余さず、そのうえで飛鳥自身の感覚による主観的なものを可能な限り除いて、ある程度は確度の高い情報をだ。
もっとも、そんなことを意識的にできるほどの余裕が今の飛鳥にあるわけではない。単に隼斗の聞き方がよかっただけだ。
ともかく結果として最大限の情報は隼斗に伝わったということで、その後の遥達に対する説明は隼斗に任せられた。
飛鳥が適当に借りたタオルでしとどに濡れた髪や体を拭っている間、隼斗は飛鳥から聞いた情報を整理して遥かに伝えていた。
「鞍馬の実験、ねぇ」
壁に掛けられた大型のモニターに顔を向けながら、怪訝な表情を浮かべる遥。その視線は肩越しに後ろに立つ飛鳥たちへとむけられていた。
本来来る予定の無い飛鳥がずぶ濡れで現れたことに加え、彼からもたらされた前情報の無い実験の報せ、さらにはひっ迫した状況を感じさせるただならぬ雰囲気まで纏うものであれば、多少なりとも不信感を覚えるのは仕方のないことだ。
内心は視線に乗って、飛鳥たちにも飛んできていた。
「疑われてる?」
「突拍子がないからね。悪気があるわけじゃないよ」
視線はモニターに投げかけながら、声を落として言葉を交わす飛鳥達。彼らの雰囲気にあてられたのか、遥や一葉が纏うそれもいくらか鋭さを孕んでいて、部屋はピリピリとした空気に満ちていた。
二人はそれきり黙って、前の二人に意識を戻す。
飛鳥のもたらした情報に対して、より精細に調べるための手段の大筋は遥が示したもので、実際に作業をしているのは一葉だった。遥はとりとめもなく文字を垂れ流すモニターに向かって、腕を組み思考を巡らせている。
結果が出たのは、数分と待たずしてのことだった。
「ありました。確かに、今日ですね」
一葉はそう短く告げる。遥は被りを振った。
「……情報としての隠蔽はほぼなし、なのね。連絡忘れと思いたいけれど、どう?」
「日本政府との秘密裏のやり取りが、まだ痕跡だけですけど。これについては遥、覚えがありますか?」
椅子ごと振り向いて尋ねた一葉の言葉を受けて、遥は苦虫を噛み潰したような表情で首を横に振った。
「隠していたのは意図してのもの。そして隠蔽がないのは、私たちが探りを入れようとしないという予想から、かしら。信用されているんでしょうけど、やることは裏切りなのね。まったく……」
表情こそ呆れの色をにじませつつも、口調には多分に怒気を孕んでいる。
より詳細な情報を求めて作業に戻る一葉の背を一瞥してから、遥はゆっくり振り返って、飛鳥達の方を見やった。
「ちょっと疑っちゃっていたわ、ごめんなさい。どうやら間違いないみたいね。今日、鞍馬の実験がある。それも、それなりに大きな規模のものが」
手を合わせて謝ったのち、遥は腕を組んでそう言った。視線は再び肩越しに、今度はモニターの方へと向けられた。
いくつかの煩雑な情報が並んでは消えていくが、一葉が見ているモニターよりはいくつか情報が多い。施設の量子コンピューターが裏で作業している部分も、大モニターは表示しているようだった。
泡沫のように浮かんでは消えるウィンドウ群に、焦燥をわずかながら掻き立てられるも、それもすぐに終わった。
「ここまで、ですね」
一葉のつぶやきは端的に、現状調べられる最大限に達したことを示していた。
「実験の内容は?」
短く尋ねる遥に対し、一葉は首を横に振りつつ答える。
「詳しくは、何も。ただ概要と日時だけはつかめました。精神波によるある種の装置の遠隔制御、そして不干渉性エネルギーを用いた非接触エネルギー伝達システム、これらの実験ですね」
単語としては複雑なものが並ぶが、指すところは単純だ。
「精神波、不干渉性エネルギー、遠回しな言い方だけれど、どちらも指すのはアーク波のことね」
手早く読み解いて、遥は実験の概要を実験の内容をつまびらかにする。とすれば、と彼女は続ける。
「アーク波を動力に動く遠隔制御ユニットの動作実験、ってところね。エネルギーと制御信号の伝送を一元化するシステムか、あるいは……。まぁそれはいいとして、問題は、その実験の規模だけど……」
「一応ですが、実験が行われるのは、元神原財団の保有していた無人島の施設のようです。小さくはないですよ、施設だけでもそれなりの規模です」
「なら実験の規模も大きくなるはずね。だとすれば数か月は準備にかかるはず。これが私たちの知らない間に進んでいたということは、さすがに、キナ臭いわね」
キナ臭い、というのは感覚的な表現だったが、遥の表情は既に確信めいたものを滲ませていた。
不穏な予感は、ここにきて全員の共通認識となった。飛鳥のそれはまず直感によるものだったが、客観的な根拠が並んでも、行きつく先は同じだった。
再び、飛鳥の心中で焦燥が鎌首をもたげる。
「それで、実験の時間はいつなんですか?」
「時間は……、もう間もなく、ですね」
答えたのは一葉。言い切る前に、部屋の空気が一際張り詰める。
「間もなく」
言って、視線をわずかに泳がせると、飛鳥はおもむろに後ろに振り向いた。
「すみません、俺――」
「アスカ君」
歩き出すより先に、遥が彼を呼び止める。
足を止めて再び振り返った飛鳥に、遥は諭すような口調で続ける。
「どこへ行くかは聞かなくてもわかるけれど、行ってどうするつもり? まるで何が起こるか、判っているみたいな様子に見えるわ」
「わかるっていうか……」
正直な話、愛が去っていった時点から、飛鳥にわかっていることなどほとんどない。今も、漠然とした不安と、雨降る中をここまで掛けてきた勢いがそのまま抜けきっていないだけでもある。
しかし、かといってこの衝動をどう説明するか、となって、結局は肩の力を抜いた。
「説明にならないですけど、なんつーか、嫌な予感がして。いや、愛が来た時から、ずっと嫌な予感がしてて」
嘘を吐く意味もなかったし、吐く嘘にアテもなかった。正直に、抽象的な感覚を抽象的な言葉で答えた。
後頭部を掻きながら、言いづらそうながらも答えた飛鳥に、遥はため息を吐く。
あきれた様子にも見えたが、実際は違った。
「そう。なら、行きなさい。一葉、飛行ルートの検索と、必要ならテレポーターの要請をお願い」
あまりにもあっさりとした答えに、飛鳥は拍子抜けした様子で、俯けていた顔を上げた。
「嫌な予感というか、悪いことが起こりそうな予感は私もしているの。それだけじゃ介入するには弱いけど、今はアスカ君の言ったこともある。最低限、確認だけでもしておきたいわ」
行動を起こす際にはあまり直感などを信用せず、あくまで自他を納得させられる程度の理屈は整えようとするのが遥ではあるが、今回はそれ以上に『予感』が強いようだ。
あるいは実験が秘匿されていたこと、そして日本政府とのやりとりの痕跡が行動を起こすに十分な根拠となったか。
なんにせよ、飛鳥にとっては願ったり叶ったりだ。不安を加速させるような情報が入った以上、大げさではあるが、居ても立ってもいられなくなっていた。
遥は僅かに視線をずらして、飛鳥の隣に立つ隼斗に目配せをする。
「隼斗も、それでいい?」
「僕は初めからそのつもりでしたよ」
当たり前のようにそう言って、隼斗は軽く笑って見せた。
スカした態度が少し鼻につくが、飛鳥には今はあれこれ言う気にならない。ひらりと手を振って、振り返った飛鳥はアストラルの方へと歩き出した。
急いた態度を見せる飛鳥の背を肩越しに伺ってから、隼斗は遥達の方に向き直った。
「それじゃ、僕もこれで。細かい情報は機体の方に送っておいてください」
「ええ、わかったわ。……ただまぁ、どこまで掴めるか」
去っていく隼斗を見送って、モニターへと視線をよこした遥は、眉を寄せてつぶやいた。
小走りの隼斗が飛鳥に追いついたのは、しかしそれなりの距離を進んでからだった。
研究者や自動ロボットが行き交う通路の途中で、早足の飛鳥の肩に手をかける。
「急ぎすぎだよ、アスカ」
「ああ……」
顔だけ振り向けつつ頷くも、飛鳥は歩みをわずかに緩めただけだった。自然と、隼斗がペースを合わせることになる。
「君らしくない……こともないけど、何か慌ててやしないかい?」
「慌ててるわけじゃないが、悪い、同じことしか言えない。胸騒ぎがするんだよ。それだけで……、どうもそれが引っかかって仕方がないんだ」
「虫の報せってやつかな? 何となくわかる気もするけど」
落ち着いた風な口調ではあれども、隼斗の言葉からは得体のしれない緊張感がにじんでいる。それは飛鳥が胸中に漠然と抱くものと似た気配で、飛鳥の予感が伝播しているとも感じられた。
そう納得しかけた飛鳥と目が合って、隼斗は首を振って否定した。
「前から、確かにそういうのはあったんだよ。アーク絡みで何かある前はその、予感みたいなのが」
ただ、と前置いてから、隼斗は自分の言葉を否定する。
「でもそれは決してはっきりした感覚じゃない。そう感じるからって、何かをしようとは思わないような、せいぜいそんな程度のものだ。君は違うのかい?」
違うのなら、話は単純だっただろう。ただ事実としてそうではなく、飛鳥はためらいがちに首を横に振った。
「いや、……同じだよ。けど今回はな、愛の様子もおかしかったし」
「そこに関しては君の口から聞いたことしかわからないけど、ああでも、少し気になることがある」
相変わらず歩みは緩めないまま、隼斗は問いただすように、僅かに語気を強めてこう続けた。
「そんなに態度がおかしかったなら、どうしてそこで引き止めなかったんだい? こればかりは、君らしくないだろう」
確信を突く隼斗の言葉に、飛鳥は思わず口ごもる。
思い返すのは去り際の愛の姿。飛鳥を押し倒すようにし、そしてその目をまっすぐ見据える彼女の表情だ。
しかしあの状況を踏まえても、思い出せるものに甘い感覚などはまるでない。あるのは悲壮感に満ちた愛の表情と、ひどく胸を締め付けられるような感覚ばかりだ。
何かを求められていたことだけはわかるが、それが何なのか、飛鳥にはまるでわからなかった。それさえわかれば、引き止めることもできていただろうか。
すべてはもう、後の祭りだが。
「…………」
眉間にしわを寄せ、俯く飛鳥。反論も、言い訳も、出てはこなかった。
隼斗は短く息を吐いて、飛鳥の肩をポンと叩いた。
「言えない理由があるのはわかったよ。あるいは、君自身が理解できていないか……」
心中察したとばかりに、隼斗の側から話題を打ち切る。
そのうえで、努めて明るい声音で、隼斗はもう一つ尋ねた。
「それで? これから鞍馬の研究で何かが起こったとして、君はどうするつもりなんだい?」
「何かって、何が起こるんだよ」
漠然とした問いに、飛鳥はいらだった様子で問い返す。
「さあね。まぁ、神原のエンペラーの例で言うなら、コードI、インターンの暴走――――とかね」
嫌なことを思い出し、思わず下唇を噛んだ飛鳥に、隼斗は構わず続ける。
「そうなったとき、どうするかという話だよ。気持ちだけ逸っても、その先を考えていないんじゃ意味がない。今の君は、そういう意味で少し危うく見えるんだ。できることなら、何かあっても、今日は出撃しないでほしいよ」
諭すような隼斗の言葉はどこか高圧的だったが、声音は疑いようもなく、飛鳥を心配しての言葉だとわかるものだった。
一拍の沈黙の後、飛鳥は重い口を開く。
「俺は――」
答えかけて、「いや」と飛鳥は被りを振った。
「アークには、何ができると思う?」
隼斗は一瞬きょとんとした表情を浮かべて、
「……。……ははっ」
彼らしくもない、どこか諦めのような感情をにじませる乾いた笑みを浮かべた。
皮肉気に口の端を釣り上げて、隼斗は飛鳥を見やった。
「さあ、ね。でも見たままじゃないかい?」
アストラルとバーニング。それぞれへと向かう通路の分かれ道で、遠くにその姿を示すアークを、まるで睨むような眼で見据えると、隼斗は冗談めかして答える。
それは、どういう意図であったか。
察しの良くない飛鳥には、隼斗の心中を推し量る術はなかった。
「どうなるにしても、頭は切り替えなよ、アスカ」
言うだけ言って、隼斗はバーニングの方へと向かっていく。
その背を見送る飛鳥は、固く拳を握りしめたまま。
「ッ…………!」
唇を強くかんで、それでもアストラルの方へと再び歩き出した。
ダチュラと名乗る少女が残していった言葉と、愛の去り際の表情そして引きつった声と言葉。
いくつもの記憶と衝動が頭をぐちゃぐちゃにかき回す中、飛鳥はただ無言のまま歩き続けた。
それからほどなくして、星印学園地下研究所にインターン暴走の報せが届いた。




