2章『涙と、雨と』:6
「愛、少し遅いぞ」
扉を開けて声をかけた愛に、誠はタブレットを片手に時計を見上げたまま、振り返りもせずにそう言った。
「……ごめんなさい」
感情のこもらない形式的な謝罪でも、誠は深く突っ込まない。実験の開始その時にさえ愛が居ればよかったのだ。
実験の詳細が事前に愛に伝えられることは少ない。まず大前提として知識が追いつかないということもあるが、それも最大限好意的に解釈してのものだ。
愛は少なくとも自分の関わる範囲に関しては、可能な限り勉強をしている。全くの無知ではないのだ。
結局のところ、少なからずの軽視はあった。それも、愛に自覚できる範囲で。
実際この鞍馬で行なう実験に限って言えば、アークのパイロットは他の研究者から指示される通りの機体制御を行うだけで、その行為に何の意味があり、得られたデータはどういうものなのかすら分からないままだ。
その点が東洞の主導するアーク研究との明確な差異だった。端的に言えば、どこを中心に添えているかという話だ。
とはいえ、それは単なる組織のスタンスに過ぎない。正しいとか、間違っているとかいう話ではなく、そういうやり方だというだけのことである。
それも一面的な見方だが。
「開始まであまり時間がない。悪いがすぐに機体の方に向かってくれ。到着したら、その場の研究員の指示に従うようにな」
「……はい」
愛には一瞥もくれぬまま、誠はただスケジュールだけを見てそう告げた。
正しいか間違っているか、それが単なるスタンスだというのはあくまで組織の話であって、ここにいる愛と誠を繋ぐのは、決して職場の人間関係などというものではない。
こうして組織に組み込んでおいて何も語らないなど、まるで機械の部品かのような扱いが、少なくとも親子の関係において、正しさなどたとえ僅かでも持つものだろうか。
うつむく愛に、向けられる視線はない。あるいは髪先から一つ零れた滴に映る、愛自身のものぐらいか。
踵を返して、彼女は所長室の出口へと向かう。
扉が開いて閉まるまで、その背に言葉が届くことはなかった。
静かになった部屋に、身じろぐ音が静かに響く。
「さて、私も行くか」
娘の背を見送ることもなく、まるで何事もなかったかのように誠は立ち上がる。
彼にはもう、これから待つ実験のことしか見えていなかった。それだけが、今の彼にとってのすべてだった。
床に落ちて砕けた滴を、彼は踏みつけて去っていく。
そこで気づけていれば、あるいは。
けれどもう、彼が真に大切にしていたはずのものは、ひっそりと、しかし確実に壊れてしまっていた。
白く、ただ長い廊下を愛は小走りで進んでいた。
道中で何度も人とぶつかりそうになっても、愛は速度を落とすことはしなかった。
いや、できなかったというべきか。
少しでも余裕を持ってしまって、ついさっきのことを振り返ってしまったら、それだけで逃げ出したくなってしまいそうだったから。
(いつも、みたいに…………)
いつもそうしているように、気持ちを落ち着けるため、愛は必死で自分に言い聞かせていた。
知らず、自分の胸を強く押さえつけながら、愛はそれでも走り続けた。
(気持ちを殺してなきゃ、いけない。だから……)
鞍馬の研究に、パイロットの感情はノイズだ。だから何があっても何も思わず、ただ淡々と実験のシーケンスを進めていくだけの機械的な存在でなければならない。鞍馬の研究はまずそれが前提であり、そうでなければ危険な部分も、事実としてあった。
機体のもとに着く頃には、何にも動じない無感情な自分に切り替えられているようにと、愛は強く意識する。
そうしていること自体が、無感情とは真逆で、いつも通りになどなれやしないことを如実に語っていることに、心のどこかで気付きながらも。
駆け足で、機体が置かれているハンガーに駆け付けた愛。
見上げた先にあったのは、淡い緑の光を灯す1機のアーク。
――アーク・インターン
暖かな桜色の装甲は、しかしどうしてか、寒気がするほど無機質に見えた。
「っ…………」
それは愛の心の最後の抵抗だった。感覚として理性にぶつける、ここで踏みとどまれという最後の警告。
「……それでも、私は」
立ち止まって、踏みとどまって、それで何が変わるだろう。きっと何も変わらない、またいずれ同じような日が来るだけだ。
ならもう、ここで終わらせてしまおう。愛は悲壮な決意とともに、凍り付いたように重い足で踏み出した。
実験の詳細は未だ愛も知らないものだが、誠の口ぶりからして相当重要なものなのだろう。決着がつけば、大きな進歩になるはずだ。
機体に向けて左手をかざす。手首に刻まれたコードが淡い桜色の光を放ち、瞬きほどの無重力感の直後、視界はコックピットの中の景色を映していた。
無機質な、暗い灰の空間。その狭い場所の孤独感は、いつだって彼女の不安をいやに掻き立てるものだった。だが今だけは、もう引き返せないという感覚に安心感を覚えていた。
他人から見れば酷く危ういものだろうが、ここには彼女しかいないのだ。
できることなら少しばかりでも静寂に浸っていたかったが、そうはいかなかった。
愛がいつものように手順に従い機体の制御システムを起動させるなり、すぐに機体に通信が入る。正面のモニタに表示されたのは、飾りのような音声のグラフで、続いて声がコックピットに響いた。
「出撃の準備はできていますか?」
声の主はここの研究員だったが、名前を思い出すのは億劫だった。
「今、起動中。少しかかる」
「そうですか。実験の開始時刻まであまりないので、起動したらすぐに出撃してください。場所はわかっていますね?」
どうせカメラの映像を拾っているんだろうと考えて、愛は黙ってうなずいた。
案の定、研究員は満足げな声でこう答える。
「では、時間に間に合うようにお願いします。余計だとは思いますが、くれぐれも民間の航空機や船舶に見つかることの無いように」
「わかってる」
市街地にある研究所から直接移動したのでは、見つからないようにというのは無理だ。だから研究所内に一つだけあるテレポーターを使って、海岸沿いにある副研究所へと移動し、そこから実験場に移動することになっている。
テレポーターは東洞グループのアーク研究組織が開発したもので、鞍馬はそれを導入している。ただ東洞自身が使用しているものと全く同じものは施設規模的にも導入できず、そのため使用時に周辺区域に短時間ながら強い電波障害が発生するという問題があった。
それもあってテレポーターの使用は政府の管理下にあり普段は使えないのだが、今回は使用が認可されている。
テレポーターの起動はすべて機体のパイロットにゆだねられている。
愛は手元のコンソールを直接操作していて、起動処理を流れるように進行させていた。
ふと、ここで手を止めてしまえば終わりになるのではないかという考えが頭をよぎり、けれど結局その手は止まることの無いまま、自嘲の笑みすら浮かべずに終わってしまう。
起動処理は絶えず進み、愛の操作を必要としないところまでたどり着いたら、あとは勝手に進んでいく。
その様子がまるでシステムにすら用済みと放り出されたように感じられて、愛は座席型にしたままのシートの上で自分の膝を抱えた。
「寒いよ……」
機体のコックピット内部は、外気温に関わらず一定の過ごしやすい温度に保たれている。それでも今の愛は冷たい雨に打たれたままの姿で、何より寒さは身体よりもずっと奥からやってくるものだった。
もうじき準備は終わる。今更退けないと諦めても、それは理屈の上だけで、近づいてくる始まりに心はずっと忌避感を抱き続けていた。
逃げてしまいたかった。咎める相手は少なくともここにはいない。独りだ。
けれど実際にはそれすらできずに、薄暗く狭い場所で、愛は一人で震えていた。
前に進むにしろ、逃げてしまうにしろ、踏み出すという一つの決断が必要で、愛にはそれをする力がなかった。
すべてを残酷に終わらせたのは、アークのシステムだった。
アーク自体の起動と同時に、テレポーターの稼働準備が終わる。あとは軽く指先を宙に走らせるだけで、インターフェイスが入力を受け付けて愛とインターンを副研究所まで運んでくれるだろう。
指先をふと宙に向けて、そこで愛は手を下してしまった。
膝を抱えて、そこに顔を埋めた。
「はぁ……」
ため息をつくと、きつく目を閉じる。
ざわめく心を愛は実感していた。
このままではまともに実験などできないという客観的な理由で、彼女は深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとする。
なんどか息を吸って吐いたとき、正面の大きなモニタが放つ光の色が変わった。
顔を上げてみれば、そこには通信室に居るらしき誠の姿が映っていた。
『何をしているんだ?』
画面越しに、険しい声で誠は尋ねる。
「父さん……」
愛は驚きから目を見開きながら、慌てた様子でこう続けた。
「少し落ち着かないから、だから……だから、時間がほしくて……」
膝を抱えたまま、震え交じりの声で愛は答える。
けれど誠はそれを遮るように、いらだった様子でこう告げた。
『そんなことは移動しながらすればいいだろう。時間はないと言ったはずだ』
「わかってる……けど……」
『わかっているなら、早く行きなさい』
それだけ言って、御影は通信を切ってしまった。
「あっ……」
慌てて愛が手を伸ばしても、再びそれが繋がることはない。本当にただ、出撃を遅らせている愛を急かしただけだった。
父は、家族を取り戻すと言った。
ここにいる愛という少女は、取り戻す家族の中に本当にいるのだろうか。この実験動物のような扱いに、そんな淡い希望を持てるだろうか。
無理に、決まっていた。
「そうだよ。父さんの思ってる家族に、私はいない……。いないんだ。だから……」
悲痛な声に、答える言葉はない。それ自体が答えだった。
前髪から一滴の雨の名残が滴って、膝の上ではじけた。
愛はもう何も言わず、シートが作る形に身体を預ける。座席型だったシートは静かに変形し、直立型、機体をフルに操作する形状へと変化する。
「だけど、私は…………」
指先を軽く振って、テレポーターを稼働させる。一瞬の不快な無重力感と圧迫感の後、愛とインターンは副研究所まで移動していた。
あとはもう、空を覆う暗い雲へと飛び立つだけだ。
砕けて空っぽになってしまった心はむしろ軽く、愛は僅かな躊躇いすらなく地を蹴った。
「アーク・インターン、出撃します」
淡い緑の残光が空へと延び、雲間に消えた。
雨は、まだ止む気配を見せない。




