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アークライセンス  作者: 植伊 蒼
第8部-地上のオーロラ-
234/259

2章『涙と、雨と』:5

 長い沈黙の後、愛はゆっくりと口を開いた。

「今日、実験がある」

 短く答える愛。

 実験だけでは普通は何のことか分からないが、二人の共通認識でなら、それがアークに関わるものであることだけは分かる。

 飛鳥は黙って次の言葉を促した。彼女の背中にあてがった手のひらはそのまま、「聞いているよ」と伝えるように。

 けれど愛から、次の言葉はなかった。いや正確には言葉はあったが、飛鳥、あるいは彼女以外の他の人に対して伝えようとするような言葉ではなかった。

「父さんは……」

 顔をうずめる膝を強く抱き寄せて、愛は声を漏らす。

 飛鳥には意図の読めない言葉ではあったが、何故か言葉を尽くされるよりもずっと、胸が締め付けられるような思いがした。

「どうして、私を見てくれないのかな……」

「……愛?」

 何かが分かりかけた気がしたが、飛鳥にはそれまでだった。飛鳥が愛について知っているのは、ほんの一部分のことだけに過ぎないのだ。

 愛の家庭のことについては、とても曖昧な言い回しではあったが、彼女自身から聞いている。普通ならハッキリと思いだすことは難しいはずだが、状況が状況だからか迷わず思い出すことができた。

 しかしその上でも、なぜ父親の話が出てきたのかは飛鳥には分からなかった。

 愛が語っていたのは、母と姉がどこにいるか分からないということと、失ったものを取り戻すためにアークに乗っているのだということ。少なくとも愛の口から、父親のことが言及されたことはなく、故に飛鳥には想像をする以上に事情を知る術はなかった。

「愛の親父さんって、アーク研究に関わってるのか?」

 一つの可能性に思い当って、飛鳥はそう尋ねた。正しくはあったのだろう、愛は黙って頷く。ただそれ以上のことを語ろうとはしなかったが。

 結局愛の口から語られない今、飛鳥に分かることなどほとんど無かった。それでも父と喧嘩でもしたのか、そのせいで実験に行きたくないのかとか、そういったありきたりな想像だけはできたが、それは今の愛の表情から垣間見える暗い感情にはあまりにも不釣り合いだった。

 愛が顔を俯けていたのもあって、飛鳥は隠さずに顔をしかめる。彼女の事情を知らないがために、何も言えない状況に、もどかしさを感じていた。

「私は、ずっと一緒に居たのに……」

 膝に顔をうずめたまま、愛は僅かに視線を上げて、ゆらりと虚空に手を伸ばす。その先にはただ飛鳥の部屋の壁があるばかりだったが、まるで誰かの背中を見ているかのようだった。

 その愛の姿と虚ろな視線に、彼女が消えてしまうような錯覚をして、飛鳥の胸中に酷く不安が渦巻いた。

「愛……」

 伸ばされた愛の手に、いつの間にか飛鳥の手が重ねられている。

 不安を拭おうとしていた。それは飛鳥自身のものでもあったが、愛の中にあるだろうものでもあった。

「私は、家族じゃないのかな」

 飛鳥の掴んだ小さな手のひらが、彼の手を強く握り返す。痛いほどに。離さないでと縋るように。

「全部終わって、そこに私はいるのかな」

 愛の声が少しずつ強くなる。

 けれどそれは活力に満ちたものでは無くて、暗い情念に突き動かされるような危うい声音だった。

 飛鳥には、少なくとも言葉では答えようがなかった。それができるほど、飛鳥は愛の胸中を理解できてはいなかったのだ。

 愛の視線が初めて飛鳥に向けられる。

「っ――――」

 雨の雫はとうに拭い去った後だ。

 だから彼女の頬を濡らすのは、瞳から溢れた涙に他ならない。

「私は、誰の、何なの……?」

 ここに至ってなお、飛鳥に言えることはなかった。だから言葉ではなく、手を強く握り返すことで答えようとした。

 今の愛の心を支えるという点で、飛鳥の行動は決して間違いではなかった。実際、その意図は果たせていただろう。ただこの瞬間に、二人の認識は決定的に違えてしまっていた。

 強く握った手からは、一層強く熱が伝わってくる。愛の背中に添えた手のひらよりも、繋いだ手の方がずっと熱く感じた。

 そこに視線を向け、そして愛へと向け直した時、彼女の酷く歪な微笑みが目に映る。飛鳥が僅かな恐怖を覚えて身体を引くように身じろぎをした直後、握った手が飛鳥の方へとぐいと押し返された。

「あ……?」

 手を握られたことを嫌がって、突き飛ばされたのかとその瞬間の飛鳥は思っていた。驚いていたからだろうか、逆らわないようにとした結果だろうか、とっさに飛鳥は愛の手を握る力を緩めていた。

 けれど押しのけられた身体がベッドに倒れ込んでも、握り合った手が離れることはなく、視線を重ねた愛の顔はむしろ一層近くにあった。

 押し倒されたと気づいたのは、すぐ近くから見つめてくる愛の吐息が口元をなぞった時だった。

「…………」

「…………」

 状況が理解できず沈黙してしまう飛鳥。その状況を作り出したはずの愛も、言葉ではない何かで意志を伝えようとしているように見えた。

 ただそれが何なのかなんて、状況の理解にすら至らない飛鳥には分かるはずもなかった。

 至近距離から見つめ合ったまま、動きを止めた二人。愛の視線は飛鳥の目を射抜き、しかし飛鳥のそれは向ける先を見つけられないで、落ち着きなく辺りをさまよっていた。

「あ、愛……?」

 ようやく絞り出した声で、飛鳥は問いかけるように彼女の名を呼ぶ。僅かに震えた声が、何よりも如実に彼の内心を表していた。

 彼の声と視線は戸惑いに満ちていて、それは飛鳥が思う以上にハッキリと愛には伝わっていた。

 そしてそれは、愛の望むものとは違っていた。

「違う……」

 飛鳥の顔とすぐ近くで向き合う場所にあった、愛の顔が不意に遠ざかる。

 身体を起こした愛は、飛鳥の戸惑いに満ちた表情を上から見下ろしていた。

「こんなの、違うよ……!」

 目をキツく閉じて、愛は何度も首を横に振る。まるでそこにある現実から、必死に目を背けようとしているかのように。

けれどそう理解したところで、飛鳥には取り乱す愛に掛けられる言葉が無いという事実は変わらなかった。

 いよいよをもって飛鳥には事態が理解できなくなっていた。いや、状況は目に見えているし、愛の心情は最初から理解など出来ていなかったが、僅かに残っていたとっかかりのようなものが、その瞬間に掻き消えてしまったように感じられたのだ。

「ッ――――!」

 一際激しく首を振った愛は、飛鳥に覆いかぶさるようにしていた状態から、ベッドを蹴りつけるようにして飛び降りてしまう。

「おい、愛!?」

 そのまま駆けだした愛の態度に驚いて、思わず叫ぶようになってしまった飛鳥の声。

 部屋のドアの前で、愛は一度立ち止まり、

「ごめん、なさい……」

 微かな声でそれだけを呟いて、彼女はすぐに部屋から飛び出して行った。

 部屋のドアの開く音に、リビングを駆ける足音と玄関のドアが閉じる音が続いた。

 静まり返った部屋に取り残された飛鳥は、何のヒントも掴めないまま、茫然と愛の走り去って行った扉を眺めていた。思考は停止しているのに、心臓だけはいやにせわしなく鼓動を刻んでいる。

 いつまでもベッドに横たわってもいられず、身体を起こした飛鳥は、額を押さえて頭を振った。混乱した頭を、少しでも落ち着かせようと思っての行動だ。

「一体、なんだって……」

 先ほどの愛の態度の変遷が、飛鳥にはどうしても線として繋がらない。ひとり言をただ呟いて、かと思えば覆いかぶさるように飛鳥をベッドに押し倒して、けれどすぐにそこから立ち去り、しかも去り際に「ごめんなさい」と一言残して行った。

「あ……?」

 そこで飛鳥はふと、根本的な事実に思い至った。本当なら最初から気づいていたことだが、今の混乱した頭では分かりきったことの方が遠かったのだ。

「おい……」

 ここに独りでやって来た愛が、ここを独りで立ち去ったということ。

 それもどう見たって何かが解決した様子ではないし、去り際の横顔を思い出せば、むしろ悪化しているような状態で。

「なんだとか、言ってる場合じゃねぇだろ……ッ!」

 飛鳥はベッドを転がり落ちるような勢いで飛び降りて、たたらを踏みながらも床を蹴って駆けだした。途中躓いて転びそうになったが、踏みとどまることすらもどかしく、両手を床に叩きつけてでも走る動作を維持した。

 走り去る際に視界の端に映ったリビングのテーブルからは、そこに置いておいたはずの、愛が持ってきていた小包は無くなっていた。

 気にとめている余裕もなく、飛鳥は勢いのままにリビングを駆け抜けて、玄関へと向かう。

 傘は減っていなかった。

「ったく、持ってきゃいいのに……!」

 そこまで図々しくなれなかったのか、それとも単に頭が回らなかったのか、いずれにしても愛はまた、雨避けの手段も持たずに飛鳥の家から出て行ったことになる。

「急がねぇと」

 適当な傘を一本引っ掴むと、鍵を掛けるのももどかしく、飛鳥はドアの閉まるより早く走りだした。エレベーターすら待っていられず、階段を踊り場単位で飛び下りて行く。

 一足ごとに、足首とひざに刺さる痛みも、頭を埋め尽くす焦りの感覚に酷く鈍らされていた。それも今ばかりは、足を止めない理由になってくれる。

 階段を走り降り、頭上を遮るものが無くなっても、飛鳥は傘を握りしめたまま走り続けた。愛に追い付けば、どうせ傘は押しつける。一時だけ雨を凌ぐ程度なら、少しでも早く追い付くことを優先していたのだ。

 二月の寒空から落ちる雨粒は、一粒でさえ刺すように冷たい。

 上着も着ずに飛び出したものだから、白のカッターシャツは肌に張り付いてその先の色を覗かせていて、布地に直接覆われる腕はもう氷でも押しあてたような感覚だった。

 走って身体を動かしているからまだマシだが、アパートを出て数分で腕はしびれに包まれていた。力を失った手からは傘が何度も滑り落ちそうになって、その度にバランスを崩しながら走り続けた。

 それでも一向に愛の背中は見えない。

「はぁっ、はぁッ! こっちじゃ、ないのか……?」

 息を切らしながら呟いてみるが、実験に行くなら駅から電車に乗っていくより他にないし、そうであれば最短ルートは飛鳥の走る道だ。

 飛鳥には、愛があんな状態で寄り道をできるとは思えなかった。あるとすれば真っ直ぐ駅に向かうか、あるいは当てもなく徘徊するか。後者であれば見つけようがないし、賭けられるのは前者だけだった。

 寒さが体力を奪い、疲れが全身を焼いている。肺が引きつり、脈打つ心臓が軋みを上げる。

 踏み出す足が鈍っているのは気づいていたが、立ち止まることも、歩くこともなかった。足は勝手に動いていた。

 もう力で身体を動かしているのではなかった。理性とも呼べない、衝動に近い感覚だった。

 だが、それにさえ限界は来る。

 しとどに雨の降る中、駅と繋がった商店街に入る、その直前にある橋の中腹で飛鳥はついにくず折れた。

「ぐっ、はぁッ……! くそっ……」

 橋の欄干に右手を預けて、けれど腕一つでは身体を支えきれず、その場に膝をついた。

 空いた左手で胸を押さえつけて、飛鳥は荒い息を吐く。

 引きつる喉と心臓の鼓動が激しく痛む。しばらくは動けそうになかった。

「ちくしょう……、っく…………」

 時折せき込むようにしながら、飛鳥はなんとか呼吸を整えようとしていた。

 せいぜい10分程度の時間だったが、その間ずっと全力で、その上冷たい雨にさらされていたのだから、体力の消耗は単純な時間以上のものだったのだろう。

 胸の痛みがなんとか耐えられる程度になったところで、飛鳥は片膝をついて、それから立ち上がった。

 顔を上げて、僅かにだが見える商店街のアーケードを見据えて、飛鳥は首を振る。

 ここから先は雨を凌ぐ手段があり、そもそも商店街に入れば程なく駅に着く。追いかける意味はほぼ無かった。

 それでも前へ進もうとする衝動はあったが、皮肉にも力尽きて一呼吸置いたおかげで、それを踏みとどまるだけの冷静さは戻っていた。

 結果としては、無駄足だったということになる。だが追い付けなかったのは、愛もそれだけ全力で走り去ったからということでもあるはずだ。そうするほどに、愛にも余裕がなかったということでもある。

「本気で走ったつもりだったんだけどな、無理だったか」

 情けなさが込み上げるが、それでもあえて言葉にすることで現状の認識を自らに促す。無用な努力をしている時間があるなら、状況把握と解決に尽力する。そのためにできることをすべきだった。

「なら……」

 少しだが、飛鳥のらしい部分が戻って来た。それはちょうど文化祭の準備の日に、伊達が怪我をした時に似ていた。もっとも肩に触れるのは、泉美の温かい掌ではなく、刺すように冷たい雨だったが。

 分厚い雨のカーテンに覆われた周囲の景色をぐるりと見渡す。目を凝らしても、愛の姿はない。

 それで踏ん切りがついた。

「鞍馬で研究があるってなら、研究所に行けば何かしら情報もあるか」

 そう呟いていから、飛鳥は自分の両腕を見つめる。上半身を覆うそのカッターシャツは学校指定の物で、だからそのまま登校しても問題はなかった。

「ああ……、ちょうどいい」

 足元に置いた傘を拾って、飛鳥は再び行く道を見据える。

 まだ僅かに息が切れていたが、身体は動くと信じた。

 雨は止まない。それでも彼は走りだした。



 そのとき駅前では、一つの交錯が有った。

「あれ、あの子……」

 小さな紙袋を手に持った泉美は、視界の端を横切った少女の姿に意識を引っ張られて振り返る。

 単に、さほど広くない道を疾走していることの危なさに眉をしかめただけの物だが、そのおかげで後ろ姿はしっかりと見止めることができた。

 低い背丈と、光を反射して青みがかって見える、肩口で切りそろえられたおかっぱ頭。

 それ以上の情報を得ることはできなかったが、ピンとくる程度にはそれで十分だった。

「如月、愛ちゃんだっけ」

 少し曖昧だった名前を頭の隅から引き出して、誰にともなく泉美は確認するよう呟く。

「鞍馬……?」

 頭をよぎるのは、形容しがたい一つの予感。

 泉美の手に握った紙袋の中には、ちょうど水城から受け取って来たバレンタインのチョコレートが入っていた。まずはそれを家に置いてこなければならない。

「なんだろ」

 曖昧な予感に急かされながら、泉美は雨降る道を早足で帰った。

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