2章『涙と、雨と』:4
その日彼を目覚めさせたのは、窓を打つ水の音だった。
「雨か……」
指で軽く目をこすってぼやけた視界を多少鮮明にさせてから、飛鳥は改めて窓を見た。
普段は上階のベランダが雨よけになるのだが、どうやら風も強いのか、横殴りの激しい雨はベッドのすぐ横の窓を絶え間なく打ちつけていた。
理由はどうあれ、このうるささでは二度寝など出来そうもなかった。どのみち、時間的にもそれをしている余裕はなかったが。
放っておけば程なくアラームを響かせるだろう目覚まし時計を手にとって、アラームのスイッチをパチンと落した。
頭はやけに冴えていた。眠りが浅かったのもあるかもしれないが、寝起きという感覚ではない。
ガジガジと頭を掻いて、飛鳥は上半身を起こした。
「ちっ、鬱陶しいなぁ」
ベッドを下りて立ち上がってから、激しい雨を降らせる曇天の空を窓越しに見つめて、飛鳥は苛立たしげに舌打ちをした。
飛鳥にとって休み明けの登校は、少し苦手なものだった。雨ならば特にだし、それが激しいとなればなおさらだ。
もともと朝も弱い方で、遅刻も多かった。それ自体は泉美が転入したころからはめっきり減っているものの、苦手なものが変わっているかというとそういうわけではない。
とはいえ、それがサボりの理由になるわけでもないだろう。
頭はあくまで寝起きにしては冴えているというだけで、まだ完全に覚醒したというわけでもなかった。薄ぼんやりとした頭を引きずって、飛鳥はまず真っ先に洗面所で顔を洗う。
「…………ぷはっ」
手ですくった大量の水を顔に叩きつけるようにしてから、飛鳥は頭を振り上げて息を吐いた。
寒い時期は、蛇口から流れ出る水でさえ、凍てつくほどに冷たい。
かじかんだ手でタオルを掴んで、その手とひりつく顔から雫を拭い取る。顔を上げると、手首から先と、あとは鏡に映る耳の辺りが少し赤くなっていた。
手を口元に寄せながら息を吹きかけて、合わせた手のひらを擦り合わせつつ、飛鳥はリビングへと向かう。
部屋は薄暗い。
普段は朝日が差し込む窓も、そもそも太陽が厚い雲に覆われているのだから、光が注ぐこともなかった。
結露した窓は、まるで外の雨がしみだしてきているようにも見えて、一層寒さを感じさせる。
「さっぶさぶさぶ」
飛鳥はテーブルの上に置かれていたエアコンと、そしてテレビのリモコンを素早く掴んで、それぞれ別の方向に向けてスイッチを入れた。
エアコンは風を吹き出し、テレビは映像を流し出す。時計の針が刻む音と雨の降る音だけがあった部屋が、やにわに活気づいた。
テレビには、いつも目的もなく垂れ流しているバラエティ調のニュース番組が映っている。いつもは賑やかしか、あとはせいぜい天気予報を役立てるぐらいだったが、今の空を見る限り、どうやら賑やかし以外の役目は受け持ってくれなさそうだった。
軽快なBGMをバックに、司会とゲストらしき人たちが何やら話をしているが、司会の名前もゲストの名前も、ハッキリとは思いだせない。
なんとなく内容が気になって、飛鳥は椅子を引いて腰掛けた。
頬づえをついて眺めてみると、途中からでも話の内容はあいまいだが理解できた。
「中東か、なんか言ってたなそういや」
政権の崩壊から宗派対立に起因する内戦、果ては大規模テロ組織による実質的な統治が行われるなど、とにかく波乱の続いていた中東地域。諸外国の介入によっておびただしい数の犠牲を生みだしながらも、一旦は紛争と呼べるものも収束しつつあった。
しかしここ数年で再び争いの火種は生まれ、既にそれは戦火となって燃え広がり、無関係な多くの物を巻き込んでいる。それの原因はなんだったか、飛鳥が正確に把握するところではなかった。
その終結に向けての働きかけもあるとテレビに映る専門家とやらは語っているが、状況が芳しくないのは、何も進展していない、似たような情報をここ数カ月で何度も見ていることから分かる。
深刻な問題です、と深刻そうではない口調で締めて、番組は次のコーナーへ映ってしまう。
長くはないコーナーの、単なる1テーマという扱いだった。
どんな社会問題にしてもそうだが、取り上げてあーだこーだと議論を交わしていても、情報は次第に減っていき、いずれは消えてしまう。それが未だ解決を待ち続ける問題であっても。
メディアというのはそういうものであり、そういうものでしかあれないのかもしれない。画面の向こう、映し出される映像の外側にどれほどの犠牲者が居るのか、それをリアルに感じ取れる人間に向けられたものでは、少なくともないからだ。
「……他人事だよな」
ひとりごちる飛鳥。
情報は客観的であったが、逆に言えば外から眺めて分かるような大局的な変化しか読み取れない。そこに映らないディティールにこそ人の営みは有り、踏みにじられるものがあるのにだ。
言いようのないもどかしさを感じた。
振り払うように立ち上がって、飛鳥は朝食の用意を始める。
しかし身体を動かしていても、先ほど感じたもどかしさは音の無い悲鳴のように、飛鳥の頭に反響していた。
これも彼に生まれた一つの変化。
ある種の力を得たが故に「何かできるのではないか」という思いが生まれ、しかし何をすればいいのかわからないために何もできない。そんな彼の内側の葛藤が、もどかしいという衝動になって表出しているのだ。
アークというものも大きな力の一つであり、飛鳥はそれを手繰るものであるからこそ、そういった力の煽りに消えて行くものに憐憫を感じてしまう。それは優しさかもしれなく、あるいは高慢であるかもしれないが、いずれにせよ今の彼が無知であることには変わりなかった。
ふと頭をよぎった、ある冬の日に、ダチュラと名乗る少女から投げかけられた問い。それは飛鳥に戦う意味を問うものだった。
よく知りもしない相手からのワケもわからない質問など、普通ならまともに取り合うものでもないだろう。ただ、飛鳥はそうではなかった。
彼女が遥の姿をしていることとか、飛鳥の知らない事実をいくつも知っているとか、そういったこともあるが、そんなことはむしろ枝葉だ。
ダチュラの問いがこうも深く、楔の如く突き刺さるのは、それがそもそも飛鳥の中にあった疑念だったからだ。
アークの力を深く引き出せるようになるほど、この力はどこへ向かって行くのだろう、この力は何のために振るわれるのだろうという疑問が大きくなってくる。
ずっと、もっと曖昧な感覚として存在していた不安にも似た疑念が、ダチュラに問われて以来明確になった。決してダチュラによって不安が植え付けられたのではなく、わだかまっていた不安の正体を示されたようなもので、彼女に対して悪い感情は抱いていなかった。
ただ明確になったらなったで、結局は今の飛鳥に負いきれるような問題でも無く、またそれに頭を悩ませることになっていた。
彼が戦う意味を自分の中に持つためには、まだ、何かのきっかけが必要なのだ。
機械任せにトーストを焼きあげて、飛鳥はそれ以外に一切手を加えずにかぶりついた。皿の一つも出さずに、キッチンでそのまま食事を済ませてしまう。
今日に限ってはベッドでグダグダすることもなく起きたので、もう少しまともな食事を作る時間もあったのだが、結局面倒だったのでそうはしなかった。
手早く食事を終えた飛鳥は、つけたままにしていたテレビの画面にふと目を向ける。映っている映像自体はもう興味の無いものだったので、画面の上の方に映る時計に注目していた。
「まだ少し時間あるけど、今日は早めに行くか。しっかしなんか忘れてるような……」
首を傾げながらも、飛鳥は寝巻から制服に着替える。
部屋の温度はある程度暖かく保たれているため、ともすれば勘違いしそうになるが、今は2月で肌寒いなどというレベルではない。うっかり忘れかけたところで部屋に戻って、ハンガーに吊り下げていた上着を掴み、飛鳥は玄関に戻り直す。
ばっばっと裾を払いつつ上着を羽織り、靴に足を突っ込んで立ち上がる。
そうして家を出ようとドアを押し開いた直後、飛鳥はピタリと身体の動きを止めた。
「あれ、そういや今日って……」
引っかかりを覚えたその瞬間には、飛鳥はスラックスのポケットからケータイを引っ張り出して、今日の日付を確認していた。
「2月14日、これもしかして」
頭をよぎる嫌な予感に逆らわず、飛鳥は慌ててケータイを操作して、泉美に対してメッセージを送る。文面は『今日学校休みだったっけ』というシンプルなものだ。
幸いなことに、ほとんど待ち時間もなく『だよ』という殊更に短い返事が返って来た。
「やっぱりそうだったか……」
飛鳥は額を押さえ、まるで開きかけた扉に押し戻されるかのように部屋へと引っ込んだ。
靴を脱いで上着のボタンを外しつつ部屋に戻っていると、片手に握っていたケータイがメッセージの着信を音で伝えてきた。
『これ「ある」って答えたほうが面白くなったような気がする。私ミスった?』
「しらねーよ」
いつも通り小馬鹿にするような文面に返信する気も湧かず、頭をガジガジ掻きながらケータイをベッドに放り投げる。それから羽織っていた上着をハンガーに掛けると、飛鳥は気だるげにベッドに身体を横たえた。
もともと雨だということで、活動する気の起きないテンションだったのだ。それからちょっと頑張って奮い立たせたやる気を出鼻でくじかれたのだから、今日の飛鳥は怠惰で確定だった。
「……なんか忘れてると思ったらこれだ。今日が創立記念日だっけ、聞いてはいたけど、なんでこんなワケの分からん日なんだ」
実際のところは2月14日という話ではなく、2月の第3週の月曜が創立記念日の枠としてあてがわれており、今は存在しない3年生にとってはその翌日からが受験期間、つまりは授業の無い期間と設定されている。
その他学年の生徒にとっての長期休暇、つまり春休みに当るのはその3週後である3月の2週目からなので、実質的にはこの創立記念日の配置は単なる安定した3連休というだけだ。
こうなってくると本格的に「創立記念日とは何ぞや?」という話になってくるのだが、どうせ国の祝日だって毎年移動するのだから、大した問題ではない。
とにかく、今日は休みだ。
休みだが、
「マジで今日どうしよ」
ベッドに横たわったまま、飛鳥はぼんやりと呟く。
せめて晴れてさえいれば当てもなく出掛けるぐらいのことはしただろうが、この雨ではその気にもならない。結局、飛鳥は部屋着に着替えることすらなく、うつらうつらとまどろみへと引きずり込まれていく。
「まぁ、いいか…………」
それからどれぐらいの時間が経っただろうか。
体感では一瞬だった。もしかしたら数時間が経っていたのかしれないし、あるいは数分だったか、そもそも寝落ちする前だったのか。
とにかく彼の認識では意識が暗転した直後、部屋に響くチャイムの音に飛鳥は慌ててベッドから跳び起きた。
「あ……?」
寝ぼけ眼で、飛鳥は辺りをきょろきょろ見渡す。当たり前だが、そこには誰もいない。
一拍間を置いて、自分を目覚めさせたのは玄関から響いたチャイムの音だと気付くと、素早く立ち上がり玄関へ向かった。
(なんか頼んだりしたっけな……)
記憶を辿っても、特に通販などを利用した覚えはない。
来訪者の心当たりにあたることもないまま、飛鳥は「はいはーい」と言いつつ玄関のドアを押し開いた。
短髪の少女の姿が、まず飛鳥の視界に飛び込んできた。
「え、愛……?」
「…………」
愛は何も言わず、ただ俯いたまま、背中を後ろの手すりに預けていた。
普通なら、どうしたのかと問うところだろう。
「……って」
けれど飛鳥は口を開く直前に、あることに気付いた。
「お前、ずぶ濡れじゃないか! 傘持たないで来たのか……」
どうして来たのか以前に、愛の今の状態は異常だった。この雨はここ数分で降り始めたようなにわか雨ではないし、傘を差すかの判断に迷うような雨量でもない。
何か事情がなければ、今の愛の状態にはならないはずだ。
「あー……、あー、わかった。いや何も分かんないけど、……とにかく、一旦中に入れ、そのままじゃ風邪引く」
しかしどんな事情であったにしろ、この寒さで身体を濡らした少女をそのままにあれこれ問い詰めるようなものでもない。理解できない部分が強すぎて頭の中から疑問符が尽きないが、慌てても仕方がないと、とにかく冷静さを保つことに力を注いで、飛鳥は愛に手を差し伸べた。
俯き気味でも見えていたのか、一瞬遅れて愛もだらりと下げていた腕を持ち上げる。ゆっくりとだが反応が有ったことにひとまず安心して、飛鳥は愛の手を取った。
「っ……」
不意に心臓の鼓動が強まる。
手を繋ぐ形になったからとか、そういうことではない。
握った愛の手があまりにも冷たく、何より飛鳥の手を握り返す力があまりにも弱くて、何か大事なものが欠け落ちていくような、そんな言いしれぬ不安に駆られたからだ。
引き寄せるとき、思わず手を強く握ってしまう。壊れそうに感じていながらも、その手が何かの拍子に滑り抜けてしまうのが、飛鳥にはもっと怖かった。
されるがままだった愛が靴を脱ぐのを確認して、飛鳥は手を引いてリビングへ向かう。
「いや……」
エアコンの電源を落としていたためか、リビングは既に少し肌寒いくらいになっていた。
もともと家族3人で暮らした家であり、全員が使う部屋はそれなりに広い。今からエアコンを入れても、室温が十分上がるまでにはそれなりの時間がかかるであろうことは簡単に予想できた。そうなると、選択肢としては一つを除いて他にない。
正直勢いで自室に人を引っ張り込むのは気が引けたが、立ち止まった途端に愛の身体が僅かに震えているのに気づいて、無用な躊躇いはすぐに消え去った。
「悪い、こっち来てくれ」
振り向かずに声だけ掛けて、飛鳥は愛の手を引いて自室に向かう。
ベッドの上に放ったままになっていたエアコンのリモコンを掴んで、電源を入れてからふと振り返ると、手を引かれっぱなしだった愛がベッドに腰掛ける形になっていた。
「あー、……まぁいいか」
勉強机に備え付けられている椅子に座ってもらおうと思っていた飛鳥だったが、今更立ち上がらせて移動させる気にもならず、頭の後ろを掻くと掴んでいた愛の手を離した。
手が離れる瞬間、飛鳥の小指に強く引っかけられた愛の指の感触に、何故か背筋が凍るような感覚がする。
だらりと手を下げた愛の姿。消えてしまいそうな予感は薄らいでいたが、依然言いしれない不安は残ったままだった。
距離が生まれることの不安をなんとか押さえて、飛鳥は少し離れたところにあるタンスの中からバスタオルを引っ張り出した。もっと小さなタオルでもいいかと思いもしたが、愛はまるで服を着たままシャワーを浴びたかのようですらあったし、それでは不足と判断していたのだ。
「俺ので悪いけど……」
タオルを差し出すと、愛はそれを手に取った。けれど、ぼんやりしたままで、次の動きがない。
「とりあえず、身体拭いとけ。な?」
言って愛の肩をぽんと軽く叩くと、愛はやっと気付いたように小さく頷いて、緩慢な動作で自分の体についた水気を拭い始める。
部屋が狭いことと人が二人いることもあってか、既に室温はいくらか上がっているのを感じていた。
風邪を引くかどうかはともかくとして、今のこの部屋の環境自体が苦痛にはならないはずだ。
愛が手を動かしているのを見て取って、ひとまず安心した様子で、飛鳥は愛の隣に腰かけていた状態から立ち上がろうとする。
「ぁ…………」
けれどその時に愛の手が一瞬止まって、唇の隙間から微かな声が漏れた。
「ん……」
なんとなく愛の言いたいことを感じて、飛鳥は上げかけていた腰を下ろした。
「シャワーとか、必要ないか? あと服、濡れてるよな。着替える……か? 俺のしかないけど」
「…………」
聞こえているはずなのだが、愛は何も答えなかった。何かに迷っているようにも見えたが、飛鳥には詳細まではわからない。
「俺は部屋出てくから、その間に……」
言い掛けたところで、愛はハッキリと首を横に振った。
この対応ではまるで飛鳥が部屋にいれば問題ないとでも言うかのようであったが、さすがに飛鳥としても目の前で着替えをされるのは居たたまれない。
「わかった。じゃあ、しっかり水気取っとけよ」
それでも着替えろと無理にでも言うべきだったのかもしれないが、結局そうは言えずに飛鳥は愛の行動を見守ることしかできなかった。
十分だと判断したらしい愛の手が止まったのは、それから3分ほどが経ってからだった。
変わらず無言のまま、愛は役目を終えたタオルを飛鳥に手渡した。
受け取った飛鳥の見る前で、愛は膝を抱えて、そこに顔をうずめてしまう。
「愛……」
今更だが何かあったのはもはや疑いようがない。ただ何事かを尋ねるかどうかは、また別の話だ。
愛が肩を震わせているのは、寒さのせいだろうか。わからなかったが、そのままにしておけなくて、飛鳥はベッドの毛布を引っ掴むと愛の肩を覆うように被せた。
嫌がられるかと少し不安だったが、愛はそんな態度を見せずに、下に垂れさがった毛布の端を掴んで自分の身体を覆うようにそこにくるまった。
「ふぅ…………」
とりあえず、身体が冷えてしまうことに関しては対応できたということでいいだろう。飛鳥はそう判断して、安堵のため息をついた。
けれど愛は変わらず、俯いて沈黙したままだった。飛鳥がチラリと横目で彼女を伺っても、様子に変化はない。
飛鳥は一度だけ天井を見上げてから、ベッドの上で愛に向き直りつつ毛布越しの背中に腕を回した。
そうしてできるだけ優しい声音で、こう問うた。
「愛、何があったのか、教えてくれるか?」
少しの間が空いて、愛は静かに頷いた。




