2章『涙と、雨と』:3
月曜の朝に、目覚ましのアラームの音で目を覚ました愛。
いつも通りの休み明けの日で、気だるい朝で、けれど愛はベッドの上で小さく首を傾げた。
「…………?」
何かが違うと、愛は僅かな違和感を覚える。それが何なのか、寝ぼけた頭では分からなかった。
愛はおもむろにベッドから降りると、部屋に一つだけある、大きな窓に正対する。
冷たい風で目を覚まそうと窓に手を伸ばした時、降り注ぐ雨粒がまばらに窓を打っているのに気がついた。
窓の鍵に伸ばしていた手を愛は引っ込めるが、寝ぼけた頭はそのときには覚醒していた。
雨が入らないようにと少しだけ窓を開けてから、改めて深呼吸をしてみる。湿った、冷たい空気が肺を埋めるが、突き刺すような感覚は身体の熱がすぐに溶かしてくれた。
すん、と鼻をすすってから、愛は冷たくなった鼻先を温めるように指でこする。だいぶと曖昧だった嗅覚が、暖かさと共に感覚を取り戻して、そうして違和感の正体を捉えた。
「……起きてる?」
恐らくはパンを焼いているのだろう香ばしい香りが、僅かながら愛の部屋にまで届いているようだ。朝食を作っているだろうことは、想像に難くない。
二人暮らしの家で、そんなことをするのは愛を除くならば当然一人だ。だが、それは意外なことでもあった。
今日の予定を反芻してから、愛は手早く着替えを済ませる。
僅かに開いていた窓を閉めて、部屋から出た。
ドアをくぐってすぐの階段を下れば、臭いは強くなって、そして恐らくはテレビのニュース番組のものだろう音も漏れ聞こえてくる。
リビングの入り口からそっと顔をのぞかせた愛は、そこでスーツ姿の父の背中を見止めた。
「お父さん、起きてたの?」
おぼつかない手つきでフライパンを振るう誠は、振り返りもせずに淡々と答える。
「愛か、おはよう。今日は私が早いからな、勝手だけど、先に作っているよ」
誠が愛より早く起きるというのも、朝食を作っているというのも、珍しいものの過去に何度かあったことだ。
「そうなんだ。実験の、準備?」
フライ返しを手にとって、作っている目玉焼きをフライパンから剥がした誠は、それを皿の上に乗せながらこう言った。
「ああ。今回の実験は大規模になるし、何より場所も研究所の中におさまらない。昨日帰れたのは運が良かった」
「そうなんだ」
誠の言葉に愛はそう返答するが、その声音は興味の薄いものだった。
愛にとって研究自体には、特段の思い入れはない。いつだって言われたとおりのことをして、望まれた通りの結果を出していただけだ。
研究の目的を詳細に聞かされることはまず無い。尋ねれば答えは返ってくるが、決して噛み砕いて理解を促すようなものではなく、あくまで質問に対する回答として、最低限に近いものだ。知識が足りなければ、もはや異国の言葉で語られているに等しい。
だが同時に愛にとっても、研究の目的などどうだっていいことだった。
研究にとって、目的は至上命題だ。しかしその目的ですら、愛にとっては家族を取り戻すための手段に過ぎない。恐らくそれは、父の誠も同じだろう。
愛にとって理解したいという欲求が生まれたことはほとんど無いし、またそれを求められたこともない。
それは訓練などでは無く、どこまで行っても研究だからこそ、あくまでアークという一つのデバイスのドライバに過ぎない愛に、努力など求められるものではない。
そもそもアークにはパイロットの精神状態によって、その性能を左右される性質がある。どうあれ鞍馬研究所にとって、アークは研究のツールでしかない以上、基本的には一律のパフォーマンスを求められる。そうでなければ、実験によって得られるデータの信頼性が失われてしまうからだ。
であれば、研究対象であるアークに影響を与える立場の愛に対して求められるのは、常に一定の精神性。心を殺して研究へ望む精神だった。熱意など、役には立たない。
感情はノイズだと、いつぞや研究者の一人から聞かされた言葉だったが、おおよそ真っ当な人間が口にするような言葉でも無いだろう。
ただ今更そこに不快感を覚えることもない。だから今回も、愛はただ何も思わず言われたとおりにするだけだった。
「…………」
言葉もなくリビングの椅子に座った愛の前に、トーストの乗った皿がスッと差し出される。
誠が朝食を作ることは少ないが、少ないとはいえ過去にもあった。その時はいつもこんなもので、言ってしまえば、愛が作ったほうがよほど質は良い。
ただそんな事実があったとしても、愛はこうして父の作った朝食をとるのは好きだった。それが愛を思っての物ではなく、単に時間の都合によるものだったとしても、そうと思わなければ良いだけなのだから。
僅かに焦げ付いたトーストをほおばる愛。サクッという音が鳴ると、口の中に鈍い苦みが広がった。
文句も言わず黙々と食事を進める愛の前で、誠は目玉焼きを乗せた皿を静かにテーブルに置いてから、同じように静かに椅子に腰かけた。
「…………」
誠も誠で、言葉もなく食事を始める。
傍からそれを見るならば、穏やかな朝というよりもひり付いた静寂に感じられただろう。当の二人は慣れきっていて、それにすら気付くことはない。
沈黙するのはどちらも同じだったが、視線を送る先はそうではない。ただただ手元に向けて手早く食事を済ませようとする誠に対して、愛はそんな誠に何か言いたげな視線を送り続けていた。
意識の向く先の違いは、そのまま食事のペースにも表れていた。
誠も愛と同じで食事は早い方ではないが、それに比しても今日の愛の遅さは少しばかり極端だった。ほとんど口が動いていないような状態だ。
しかし視線を向けられ続けてなお、誠は一度たりとも気付いた様子はなく、結局は一言も発しないまま一枚のトーストを食べきってしまった。
椅子から立ち上がった誠はトーストを乗せていた皿を流し場に置いて、椅子に引っかけていたスーツの上着を羽織った。
「……もう行くの?」
「今日は忙しいと言っただろう」
少しでも会話を求めるように口を開いた愛の言葉すら、誠は一言で切り上げてしまう。
今更な質問とも思える内容だったが、答える誠の表情に浮かんでいたのは苛立った様子ではなく、心身の疲れを物語る暗い翳だった。
「お父さん、大丈夫?」
心配そうな視線を向ける愛を、誠は感情の読めない表情でチラリと横目に見るばかりだ。
「問題ない。……今日の実験が無事に終われば、政府との契約もほぼ完了。アーク研究も、やっと終わりが見えてくる」
口調からも伺える疲労は、きっと焦りから来るものだ。それを理解して、だから励まそうと愛は口を開いた。けれど、
「私は……」
頑張れる、と彼女が言おうとした直後、誠はそれを遮ってこう告げた。
「愛のことじゃない。だがアーク研究が少しでも落ち着けば、立場を引き継いでしまえる。……家族に近付く」
そう言って、誠は灯りの消えた薄暗いキッチンを見つめた。けれど二人がここにいるのだから、そこには誰もない。
もうここ数年は、その場所はずっと愛が立っていた。なのに誠が見つめているのは、テーブルに向う愛の顔ではなく、もっと遠くの、記憶の中にある妻の背中だった。
「お父さん……」
その姿に、その視線に、ずっと目を背けていた疑問が、愛の脳裏で鎌首をもたげる。
二人が家族を失って以来、誠が家族を語る時、たった一度でも、愛のことを見ていたときがあっただろうか?
(私じゃない……)
思い出そうとして、たった一度のことでもいいから思い出そうとして、けれど愛の記憶はその一つの光景すら見つけ出すことができなかった。
何故と、問うまでもない。そんな過去は無いからだ。
「そう……だね……」
視線を落とし、そして俯く愛は膝の上で拳を握って、その手は微かに震えてすらいた。
そんな愛に一瞥をくれることもなく、誠は腰をかがめて、椅子の横に立てかけてあった鞄を手に取る。
去ろうとする彼の背中に、愛は震える声で、それでも声をかけた。
「あの、お父さん」
リビングと廊下の境界で踏み出そうとしていた足を留める誠。
「今日、ね。バレンタインだから、お父さんに……」
「……そんなことか」
なんと切り出せばいいだろうかと愛が言い淀んですぐ、誠は呆れた様子でため息をついた。
「私事は後にしなさい。学校には休むように連絡をしてあるから、10時前には研究所に着いているように……これは昨日も言った通りか。とにかく実験が終わったら、友達と遊ぶのでも、後は好きにしていい。いずれにせよ、今日は実験に集中してくれればそれでいい」
「…………」
聞く耳など持たれてはいなかった。それがハッキリと分かる応対だった。
振り返りつつ肩越しに語っていた誠は視線を前に戻すと、そのままそこから去って行く。
玄関のドアが開き、吹き込んだ強い風が、降りしきる雨の香りを運んできた。けれどそれも僅かな間。ドアの閉まる重い音が聞こえれば、肌を突く冷気も湿った空気も地面を打ちつける雨の音さえも、その一切が断ち消える。
そこにポツンと取り残された愛には、雨粒が窓に当って弾ける音さえ、聞こえてはいなかった。
薄暗い部屋は、まるで隔絶されているかのような。
屋根の下、一粒の雫が愛の手の甲に滴り落ちた。
「…………っ」
嗚咽が漏れる。
「私は…………」
聞く者の居ない嘆きが溢れる。
溢れても、聞く者は誰もない。
「私は…………っ」
目をきつく閉じて、愛はひたすらに唇を噛んだ。
「誰か……」
かすれた声が、暗い部屋にいやに響く。
「…………助けて」
一人は嫌だと、彼女は独り呟いた。
助けを求め、誰かと呼びかけて、それでも彼女が想い浮かべたのはたった一人だった。
居たたまれなさを感じて、彼女は家を飛び出した。
独り、傘も持たずに。




