2章『涙と、雨と』:1
日曜の朝、飛鳥の目を覚まさせたのは、玄関のドアが閉じる音だった。
ただ、その微かでくぐもった音は、それが飛鳥の家の玄関のものではないことを告げていた。
真上の部屋から聞こえた音だと理解すると同時に、彼の意識はまどろみへと引き込まれていく。
10時にセットされた目覚まし時計が彼を起こすには、まだ1時間ほどの時間があった。
下階の部屋のベッドで、少年が怠惰な二度寝に浸るころ、既に泉美は街を歩いていた。
どんより雲には似つかわしくない、軽い足取りで進む泉美。態度からわかるだろうが、目的のある外出だ。
泉美は飛鳥よりも活動的ではあるが、目的なく出歩くということはほとんど無い。その点は飛鳥とは真逆である。彼の方は予定こそそうそう埋まらないが、無くてもあちこちうろついていることが多いのだ。
スキップとまで言うとかなりの誇張になるが、ともすればそうと見えてしまいそうなリズムで歩を刻む泉美。向かう先は川向こうの商店街だった。
河川敷を少し歩き、差し掛かった橋を渡る。上流では既に雨が降っているのか、川の流れは僅かながら激しく見えた。
厚い雲の先に陽の在処は見えず、今日の空に限っては、時刻を察する術もない。
泉美は歩みを少しばかり緩めて、左の手首に巻きつけた腕時計に視線を送った。
「んー、あんまり時間無いなぁ」
そんな彼女の呟きとは裏腹に、予定の時間までは実はまだまだ余裕がある。ただし5分前行動という観点から見れば、そうそうのんびりとしていられる余裕は、言葉の通り無かった。
「ちょっと急ごうっと」
言うや否や、泉美は軽く踵を跳ねあげる。
肩が強く風を切り、小走りの泉美のポニーテールが、文字通り駿馬の尾のように、彼女のうなじの上で踊った。
ペースはそのままで橋を渡りきり、そうすると数分と経たず商店街に差し掛かる。トトンと短く地面を踏んで駆ける調子を緩めると、途端に風が凪いだ感覚がして、首から上の熱が一斉に騒ぎ始めた。
肌がひりつく寒さに、確かに指先はかじかんでいたが、血の上った頭の部分だけはまるで真夏のように暑い。
泉美は小走りから早歩き、そして普通の徒歩とだんだんペースを緩めつつ、荒くなった鼓動と短く繰り返される呼吸を落ち着かせる。
そろそろ平常と言えなくもない程度になったところで、泉美は胸に手を当てて俯き気味に一つ深呼吸をした。
「あ、泉美」
その声に顔を上げた泉美は、そこで見知った姿を見止めた。
「あれ、由紀? もう来てたんだ」
今日の目的である、待ち合わせの相手だ。
「走って来たの?」
「ちょっとね」
口元に浮かぶ白い吐息を見た美倉がそう問うと、泉美は短く答えて歩み寄った。
「まだ時間まで余裕あるのに」
言いながら、美倉は空色の耳当てを外して、首元に引っかけるようにする。
「早めに着いておきたかったから」
泉美も口元を少し隠すように掛かっていたマフラーを少しずらして、外の新鮮な空気を吸い込んだ。
冷たさが逆に焼けるように喉に刺さって、むせかえりそうになりながら、泉美はそれを呑み込んで空を見上げる。
「……雪、になるのかな?」
ひとり言のように問いかける泉美の言葉に、美倉も空を見上げながら答える。
「予報だと雨だったよ。今日降らなくて良かったよね」
「夜からだっけ? あんまり遅くならないようにしないと」
「うん、そうだね。それなら、さっそく行こっか」
「そうね」
まだこれから日が高くなっていくという時間。けれど空は暗く、白というよりは灰の色をしている。その先、雲の奥に、やがて降り注ぐだろう冷たい雫が浮かんでいるのだろう。
だがそれも、程なく頭上を覆うアーケードの屋根に隠れてしまった。
夏場と比べればいくらかおとなしいとはいえ、商店街のアーケードの内側は空調が利いている。
突き刺すような寒さが薄れたのを感じて、口元から下げていたマフラーを外した泉美は、隣の美倉に目を向けた。
美倉は今日の予定を考慮してか、大きめの鞄を持ってきていて、首元から外した耳当てをその中に詰め込んでいた。
いつも通りにポーチを手にやって来た泉美と比べても、やはり準備が良い。
「どんな感じにしたいとか、そういう希望ってある?」
ふと泉美の方を向いて、目があったのに気付いた美倉はそう尋ねる。
泉美は唇に指を当てつつ視線を上向け、悩んだそぶりを数秒見せてから、小首を傾げてこう答えた。
「具体的な形とかはイメージないなぁ。……そうね、あんまり大きくないのをいくつか作りたいな」
「あんまり大きくない、なら……。うん、一口サイズの色んな形の物を作るっていうはどう?」
「いいねそれ、楽しそう」
美倉の言う通りにイメージをして見て、泉美は言葉通りに楽しそうな笑みを浮かべた。
「たぶん時間かかると思うんだけど、お昼はどうするの?」
「あー、あたしその辺何も考えてきてないや。この辺りで食べてから、由紀の家に行くっていうのでもいいんじゃない?」
「私もそれでいいとは思うけど、買い物が終わってすぐだとお昼にはまだ早い時間になるんじゃないかなぁ」
さてどうしよう、と美倉は首を傾げて考える。
泉美も同じように頭を捻って、しかしすぐにこう言った。
「まぁ、そういうのは買い物しながら考えるのでもいいんじゃない? もしかしたら思ったより時間かかるかもしれないし」
「うん、そうだね。そうしよう」
割りきった様子の泉美の言葉に、美倉も頷いて答えた。
そこでふと、二人の歩みが止まる。
そもそも彼女らが何の話をしているかということだが、それは彼女らが足を止めた場所からある程度察することができるだろうか。
「コンビニとかじゃないんだ?」
「置いてるものの種類はこっちの方が多いから。あと、値段も安いし」
「へぇー、色々知ってるんだね、由紀。なんか主婦っぽい」
「ちょっと、やめてよ泉美」
「ふふっ、冗談だって。行きましょ」
軽口を叩いて前を行く泉美を追って、美倉もまた大きな自動ドアを潜る。そこはこの商店街に二つある、そこそこ大きなスーパーマーケットの一方だった。
店内に入ると、流れるBGMと人ごみのガヤが混じり合って、途端にすぐそばの互いの声すら聞き辛い状態になる。
「どこだっけ? 上の階?」
歩くスピードを緩めて美倉との距離を近付けると、顔を後に向けて泉美は尋ねた。
「えと……」
口を開いた美倉の言葉は、環境もあって僅かに聞き取り辛かった。
顔をしかめる泉美の表情からそのことを察して、美倉は声を張り気味に答える。
「この階だったと思う。違ったら下にあるから、とにかく奥に行こ」
ちょいちょいと向かう先を指さす美倉。
横に並ぶスペースはギリギリ取れないぐらいで、仕方なく泉美は前を一直線に歩いて店の奥へ向かう。
「この辺り?」
「たぶん。食べ物は下なんだけど、お菓子だとこっちにあることが多いあるから。とりあえず確かめてみよう」
いくらか進んでみると、いくらか騒音はマシになり、声を張らずとも互いの言葉が聞き取れるようにはなった。店内BGMは店の入口に向けられていて、客のガヤも入口やレジの辺りに集中しているからだろう。
「外から見ててもそうだけど、こっちはホント人多いよね」
少々うんざりした様子で、自分達が今まさに歩いてきた通路を振りかえり、泉美はため息を吐く。
「こっちのお店にはあんまり来ないの?」
「逆側の方にはよく行くんだけど、こっちはあんまり」
「でも、泉美の家からならこっちの方が近くなかったっけ?」
「近いんだけど、ほら、人が多すぎるし」
店内をすっと指さして、どこか恥ずかしげに苦笑する泉美。
「人込み苦手だったの?」
「得意じゃないってぐらい。ただ毎日ってほどじゃないにしてもよく来るから、楽な方がいいかなって。あと、向こうのほうがちょっと大きいでしょ? だから品ぞろえもいいかなと思ってさ、ほとんど変わらないけどね」
「そうだね、確かに向こうの方が商品は多かったよ。でも、ちょっと高いんだよね」
さらっとそんな情報が美倉の口から出てきたことに、泉美は驚いた表情を浮かべた。
泉美は星印学園まで徒歩で通学していて、つまりはこの商店街も地元と呼べる範囲なのだが、美倉は電車で1,2駅離れた所に住んでいる。
泉美がやや無頓着なのもあるが、それにしたって美倉はよく知っているものだ。
「へぇ、そうなんだ。っていうか、あたしより詳しいんだね。あたし地元なんだけど……」
「うーん、ときどき来るから、としか。私の家の近くだとあんまり大きなお店がないから、お母さんに買い物を頼まれた時はこっちに来るの。だから、良く来るって言えば良く来るんだよね」
「あー、そっか。この辺の大きな店ってここに集中してるもんね」
「うん。電車で一駅だから私の家も十分便利なんだけど、でも面倒ではあるから、ちょっと悩みどころかな」
普段あまり生活感のある話は話題に上がらないもので、さして中身の無い会話ではあったが、泉美は興味深げに頷いていた。
ちょっとしたローカル会話を繰り広げてから、二人は辺りをぐるりと見渡してみる。それから一拍置いて、ぴったり同タイミングで顔を見合わせた。
「下だね」
「みたいね」
スッと泉美が指さす方に、二人は足を向けた。
このスーパーは地上に2階と地下に1階、計3階建てになっている。もう一つある店ほどではないものの、売り場面積もなかなか広く、一通り物が揃う場所である。
エスカレーターを下った先は、食品がメインで取り扱われているフロアになる。1階が普通の野菜や肉などの食材を扱っているフロアだとすれば、地下1階は惣菜やパンなどがメインで扱われている。多少の混同はあるので、あくまでもメイン、というだけの話だが。
菓子類も1階の方に集中しているのだが、地下の方にも一部ある。今回買おうとしているチョコレートは、どうやら菓子類からは外れた物のようだった。
「よ、いしょっと」
下階に降りるなり、泉美は高く重ねられた買い物かごの塔から、てっぺんの一つを引っこ抜く。やけにきっちりとハマっていた物を力一杯引きぬいたせいでバランスを崩しかけ、美倉がその背を軽く支えた。
「大丈夫?」
「大丈夫。っていうか、これ高く詰み過ぎだよね」
下手をすれば彼女の肩の高さぐらいまでありそうなケージタワーを不満げに見つめて、愚痴を垂れつつその場を離れる。
目的のコーナーはすぐ近くだった。
カラフルなパッケージのチョコレートがいくつも並んでいるが、泉美には甘いか苦いか、その程度の差ぐらいしか違いがわからない。美倉を呼んだのは、そのための助っ人でもある。
「味とか、どんな風にするかって、決めてる?」
頼れる助っ人美倉は、ごくごく自然な様子で泉美にそう尋ねた。あれこれ並んだ商品を眺めながらの、背中越しの質問だった。
「う~ん……」
正直なところ、味と言われてもよく分からないのが泉美の本音だった。複数のメーカーからの大量の商品を前に、さあどれをベースにするんだと言われても、結論を出せる程の情報が彼女の中に無いのだ。
泉美の悩んだ様子を声で感じ取ってか、屈めていた腰を伸ばして、美倉は後を振りかえった。
「あんまり難しく考えなくてもいいよ。拘らないなら、甘さの度合いぐらいしか違いなんて無いから」
ちょっと誇張してるけどね、と舌を出しつつも、とりあえずは大体でいいよと伝える美倉。
「そうなの? それなら……、うん。あんまり甘い物食べてる所も見たことないし、好きじゃないのかも。としたら……」
「ビターのを使えばいいんじゃないかな」
「そんな感じだよね」
頷いて、泉美は陳列された商品棚に一歩近づく。
あれかなこれかなと商品を手にとってパッケージを眺めて、適当な基準で買い物かごに放り込んでいた泉美に、美倉はふとこう尋ねた。
「そう言えば、泉美。チョコレート渡したい人って、誰なの?」
「…………言ってなかったっけ?」
手を止めた泉美が、隣に視線を向ける。
キョトンとした表情で、二人は顔を見合わせていた。
それから数時間と経って、やっと買い物を終えた二人が店から出てきた。
手作りチョコレートの原材料、とはいえ単なる市販品のチョコレートだが、それを買うのも目的ではあるがソレだけではない。
上階へ上がって固めるための型を買ったりその他必要なものを、ウィンドウショッピングをしつつ揃えると、結果的にそれぐらいの時間が経っていのだ。
「結構時間かかっちゃったね。それでもちょうどお昼時、ってぐらいかな」
「12時少し前ぐらい、だね、ちょうどいいんじゃない?」
呟く美倉に、泉美はケータイの画面を見ながら答えた。
正直スーパー一店舗で経過したとは思えない時間だが、往々無駄話に躊躇がなければこんなものである。何にせよ時分どきまでちょうどよく時間を使えた形になり、当初の予定通り今から昼食をとる流れだ。
「そういえば買い物しながらご飯食べるところ決めるつもりだったのに、結局何も決めてないね。まずいかなコレ」
「今からでも決めればいいじゃない。泉美は、どこがいい?」
「あたし? んー、これといって。この辺りにある店で適当にでいいんだけ…………ど?」
美倉の質問に答えようと辺りを見渡したところで、泉美の目に、見知ったような姿が見えた。
ような、というのは、確かに泉美の知る人であることはほぼ間違いないのだが、しかしその人らしくない格好をしていたからだ。
何か頭に疑問符が浮かぶ感覚を覚えながらも、恐らく間違いはないだろうと泉美は声を上げた。
「悠乃ー!」
言いながら頭の上で手をブンブンと振ってみると、遠方にいた水城らしき人物がこちらに視線を向けた。
顔を真っ直ぐ見て、それでやっと水城で間違いがないことを確信した泉美は、さらに大げさに腕を振ってみる。
水城は周囲に視線を走らせて、しかし自分以外に該当しそうな人が居ないことを確認すると、自分の両腕を交互にチラリと見つめてから、肩をすくめて小走りで泉美達の元へ向かった。
「何してんの?」
駆け寄ってきた水城は、泉美達を交互に見てそう尋ねた。
「ちょっと買い物をね。悠乃は? っていうかそのカッコ……」
顔の高さにスーパーの袋を掲げてから、泉美は水城の格好を足から頭まで眺めつつ、やや戸惑った表情で尋ね返す。
上下グレーのジャージに身を包んでいた水城は、困った顔で頬を人差し指で掻いた。
「起きたのついさっきで。適当にスーパーでパンでも買って食べようと思って出てきたの。このカッコは……うん、寝巻」
「あー……」
「と、友達に会うとか思わなかったからっ!」
身体の前で手をぶんぶんと振って、あくまで普段からこんな恰好でうろついているわけではないことを強調しようとする水城。
泉美は「わかってるよ」と笑いつつ、こう提案した。
「そうだ。私たちもこれからご飯食べようと思ってたんだけど、悠乃もどう? まぁどこ行くかとか決めてないんだけど」
「ん―……、まぁ、いいか。うん、行く。この辺ならいいよ」
やはり自分の格好を少し鑑みた後、迷った様子ながら頷いた。
「決まりだね」
「うん」
後ろ気味に立っていた美倉を振りかえって、顔を見合わせると、二人はそう言って頷いた。
そうして二人は三人になって、またぞろ連れ立って歩いて行くのだった。




