1章『立ちこめる暗雲』:5
厚い雲が、空の端の方に浮かんでいる。
そこから伸びた薄い雲が傾き気味の太陽を覆っていて、昼下がりという時間を考えると、空は僅かに暗く感じられた。
「辛気臭い天気だ」
湿気た臭いが鼻孔をつつくのに、飛鳥は思わず鼻をすする。
風は湿っぽく、べたつくような感触が肌を撫でた。
「雨近そう」
空を仰いで、泉美が頷く。
二人は並んで下校をしていた。下校というか研究所帰りだが、学校を経由する事には変わりない。
研究所内で遥の語っていた通り、今日に限ってはほぼできることがないので、簡単な伝達だけを済ませた後は帰宅することになった。正確にはその後自由にしていいとのことだったが、特にやることもないまま居座る気にもなれなく、飛鳥は自宅へ帰ることにしたのだ。泉美はそれについて来た形になる。
「こんな時間に帰るの、久しぶりね」
「そうでもない気がするけど……、まぁお前と一緒なのは久しぶりか」
「文化祭の準備期間ぐらいじゃない?」
思い出しつつそう呟いた泉美に、飛鳥は黙ってうなずく。
研究に参加している日は帰るのは日が沈んだ後で、そうでなければ二人が一緒に帰ることもない。飛鳥は一人で帰ることもままあるが、泉美は大抵途中までは水城や美倉と一緒なのだ。
加えて今日は土曜、つまりは午前だけの授業なのだから、研究が無しとなれば午後1時だか2時だかに帰路についているという、彼らにとってみればそれだけでレアなパターンだった。
ただレアなパターンだからといって、それがどうというわけではない。
むしろこういう時に普段から一緒にいるわけではないので、話題が続かない。二言三言交わしたきり、足音と乾いた風の音だけが鼓膜を震わせていた。
「元気ないね」
呟いたのは泉美だ。脈絡なく、それでいて真をつく言葉だった。
「誰が?」
分かりきったことを、とぼけた態度で飛鳥は尋ねる。けれど目を細めた泉美に横顔を見つめられて、彼は一つため息をついて瞑目した。
「…………」
泉美は顔を前に向けつつ、しかし視線は飛鳥の横顔に固定したまま呟く。
「さっき言ってた、考えごとってやつよね。何悩んでんの?」
「……聞かれないもんだと思ってたよ」
「聞かないつもりだったわよ」
泉美はゆるゆると首を横に振って、小さく息を吐いてから飛鳥の方にちゃんと顔を向けた。
「でもその感じじゃ、自分で解決できないんでしょ?」
「なんでさ」
「クリスマスパーティ、1月だったけど、その途中から様子おかしかったし。1ヶ月は経ってるじゃない。ちょっとマシになったかと思ってたけど、今日またそんな感じになってる」
否定の余地のない泉美の言葉に、飛鳥は俯き気味に息を吐いた。
「気づいてたのかよ」
「あの時は正直、ちょっとした違和感だったけど。しばらくそんな感じだったから、ね」
飛鳥は極力、内心の暗い部分は出さないように気をつけているが、今回もうまくいなかったようだ。元々顔に出やすいのもあるが、何かと察しのいい泉美が相手では結局バレてしまうのだから、今回よろしく隠し事は無理そうだった。
「それで、どうしたのアスカ?」
暗い表情を隠すのを止めた飛鳥に気を使ってか、いつもより優しい声音で泉美は尋ねる。
「今更なことだけどさ」
割りきったのか、顔を上げた飛鳥は特別言葉を選びもせずに話し始めた。
「アークに乗って、これまでなんだかんだでずっと戦ってきた。ただどれも、巻き込まれたり、流されたり、そんなのばっかりだと思ってさ」
「……確かに、今更ね」
怪訝な表情を浮かべる泉美に、飛鳥は無表情に頷いた。
「ああ。でも、ずっとそれでいいのかって……いや、良くないんじゃないかって思ってて」
「…………」
泉美は何も言わなかったが、そこで口を真一文字に結んで、眉を寄せた。横目でそれを見ていた飛鳥は、しかしあえて踏み込まず、自分の話を続けた。
「これから俺が、あるいは世界がどうなっていくかはまだ何も分からない。だけど、どんな形であれ、俺は戦うことになると思うんだ。その時にまだ何かに流され続けていたなら、ただ命令されるままに戦っていたなら、もしかしたら、何か大きなものを壊すことになるかもしれない。望まない形で、何かを傷つけることになるかもしれない。漠然としてるけど、そんな不安があるんだ。……だから、戦う意味を持ちたい。自分の中の指針を。でも、結局それが見つけられなくてさ。俺がこれから何のために戦うのか、それが俺には分からないんだ」
ともすればひとり言にも聞こえる飛鳥の呟きを、泉美は黙って聞いていた。
二人の歩みは止まらなかったが、会話はそこで途切れる。話すだけ話して、飛鳥は泉美の方を見もしない。対して泉美は逡巡しているそぶりを、その視線で何度か示していた。
それでも顔を向けない飛鳥に、泉美はため息をついてぽつりと呟く。
「……あんた、何があったの?」
「なんで」
「普通疑問に思うでしょ」
飛鳥は下唇を軽く噛んで、首を微かに横に振った。
ダチュラとの出会いも、ぶつけられた問いかけも、泉美になんと伝えればいいのか、飛鳥にはわからなかった。
「あったのはあったけど、なんて言えばいいのか分からん。……悪い夢かもしれない」
「……わかんないよ」
「ごめん、現実味の無い話なんだ」
「そう……」
遮るように飛鳥が言って、泉美は開きかけていた口を閉じる。
それでも、その話自体を、泉美は終わらせようとはしなかった。
悩んだ様子が彼女の口元に現れて、そうして数秒の後、彼女にとってはもっと長い時間に感じられたが、それだけ経ってから、こう告げた。
「戦う意味なんて、いらないんじゃない、そんなの」
悩んだ末に、しかし泉美の口をついて出たのは、そんなそっけない言葉だった。
思わず足を止めて振り返る飛鳥に、泉美はどこか悲しげな笑みを向けた。
「戦う意味なんて自分の中に持ったってさ、それでできることなんて、戦うってことだけでしょ?」
「…………」
「ねぇアスカ。それが望む形であれ望まぬ形であれ、それで出てくる結果が、何かか、誰かを傷つけたり壊したり……殺したりってことなら、後悔の種類なんて一緒だよ。だったら戦わない方がいい。意味を持つことなんかより、それが何よりの方法だと思うよ」
泉美の提案は全く正しいが、だが飛鳥にとって、それは受け入れがたいものだった。我が事ではないと、関係ないと言えるのなら、最初から心に留めなかった問題なのだ。
それぐらい、泉美もわかっていた。首を横に振ってから「そうはいかないんだよね」と彼女は続けた。
「だったら、結局は考え方だと思う。……あたしなら、何のために戦うかより、起こった戦いのなかで自分がどうしたいかを考えるかな。積極的に向かって行っても、それはただ自分の手で壊す物を増やすだけよ。なら巻き込まれてしまった時にどうするかでいい。自分から向かって行く必要なんて無い。……アスカ、あんたが何を知ってるのか、何を考えようとしてるのかはあたしは知らないけど、でも、自分から戦いに向かって行くことなんて、やらない方がいいとだけはハッキリ言うよ。後悔する、きっと。あたしがそうだった。そうするしかないなんて言い訳は、少なくとも自分にはできないんだから、傷つけた分は、壊した分は、全部自分に返ってくるよ。もしあんたが、戦争とか、そういうのまで見据えて言ってるなら、なおさら。少なくとも人の命は、一つだって取り返しがつかないものなんだから。奪った重みは、全部自分にのしかかって、そしていつか、心を潰すよ」
泉美の言葉は彼女自身の経験から来るものだから、それは言葉よりも声音や表情から真に迫る物があって、根本的な意識の違いが、大きな隔たりとなって飛鳥の前に立ちはだかった。
突放す様な彼女の言葉に、飛鳥は歩みどころか、呼吸すら止めてしまう。
暗に彼女は言っていたのだ。
ここに来るなと。この人殺しの舞台に上がるなと。
「……わかってる」
拳を握りしめた飛鳥は、悔しげに呟くより他なかった。
立ち止まった泉美は飛鳥より数歩前の位置で、ゆっくりと振りかえる。
彼女の言葉は厳しかったが、彼女は一度だってその淡い笑み崩すことはなかった。たとえそれが悲しげなものだとして、たとえそれが自嘲に満ちたものだとして、今の彼女の表情でさえ、形は笑顔を保っているのだから。
「銃口を突き付けるより、引き金を引くより……。手を差し伸べることのほうが、救えるものはきっと多いよ、アスカ。当たり前だけどさ」
優しい声音は彼を心配するが故の物で、だから飛鳥にはもう、反論の言葉はなかった。その乱暴なまでの優しさに、彼は声と意志を奪われていた。
俯いたまま歩きだす彼に、横に並んだ泉美は明るく話しかける。
それは、彼らの家にたどり着くまで、途切れることなく。
一言だって、頭には入って来なかった。
暗い面持ちの飛鳥が自宅へ帰るのと、愛が自宅へ帰るのは、ただ偶然として同じ時だった。
玄関のドアを押しあけた先にあるのは、薄暗い廊下と、そこから続くいくつかの部屋。自室へはすぐの階段を上ればいいが、愛は真っ直ぐ廊下を進んで、リビングへと向かう。
背負っていた鞄をテーブルの足元に置くと、ふと振り返って、キッチンの壁に目を向けた。正確には、そこに掛けられたカレンダーに。
彼女自身はハッキリと意識できていないことだったが、この日一日で、幾度となくそれを眺めていた。傍で見ていたクラスメイトの正太郎などは気づいていることで、気づいていないのは、彼女自身ぐらいのものだ。
そうして眺めているカレンダーでも、見ている場所はどれも同じ、2日後のことだ。
大きな研究がある。同時に、別のイベントも。
それは彼女にとっては、とても縁遠いもので、これまで意識したことはない。それがどうして今年になってこんなにも意識するようになったのか、本当は彼女自身気づいていた。
渡したい相手が居るのだ。それは父と、
「アスカ……」
少年の名を、愛は呟く。
もうどれほど会っていないことだろうか。最後に会ったのは年末で、それも本当に少し顔を合わせた程度だ。
さほど深い関係ではないのだから、会わないのだってむしろ自然なことだし、いっそ出会った時に声をかけないことだって、さしておかしなことではない。けれど愛は何故か時折、彼のことを思い出していた。それは大抵、寂しさを感じた時だ。
自分にとって飛鳥が何なのかは、理解はしないまでも、気づいてはいるのだろう。そして、胸にわだかまる熱の正体も。
けれどそれは今の彼女にとってはただ熱くて、眩しくて、触れることはおろか直視することも、少し怖かった。
「明後日、かぁ。忙しそうだけど……」
それでももし、ここから一歩踏み出すことができたら、そんな気持ちも認めることができるだろうか。
「頑張って、作ってみようかな」
バレンタインは、女子から男子にチョコレートをプレゼントする日だ。そんな形に拘るのは、古い感性かもしれないが、そうしたい理由があるのだから、拘ってみてもいいではないか。
手渡す時、愛は、飛鳥は、一体どんな顔をしているだろう。
「受け取ってくれたら、いいな」
笑顔でいられたら、笑顔でいてくれたら、どんなに嬉しいことだろう。
淡い期待が、彼女を少し幸せな気持ちにしてくれた。
それこそが恋というものだった。けれど今の彼女には、そこまではわからなかったのだろう。
それでも。
暗い部屋の中、そのとき愛は少しだけ前向きになれた。
夕食の準備の合間に、愛はチョコレートの作り方を調べていた。
今日は父が帰って来ない。普段なら暗い表情で、ただ夜が深まって、そして明けるのを待っていただろう。
けれど今日の彼女は、終始どこか、明るく見える態度をしていた。
そうして時は進んでいく。
窓の外、空の向こう、星空は厚い雲に隠れていた。
それは、次第に、なおも重く。




