1章『立ちこめる暗雲』:3
「そんなのもあったなぁ」
教室の後ろに掲示された年間の行事予定をカレンダー代わりに眺めて、飛鳥は寝ぼけたような口調で呟いた。
そんな気の無い返事に、憤慨したのは篠原だ。
「お前! なんだよそのテンション、一大イベントだろ!」
「いやホント、これまで全く縁がなかったから」
やたらに浮かれまくっている篠原が詰め寄ってくるのに、飛鳥は頬を引きつらせながら手をパタパタと振る。
話題にしているのは、2日後のこと。縁のある人間にはそれなりに意味のあるイベントだ。無い者には無いが。
話を振った篠原にとっては縁のあるものだが、振られた側の飛鳥にとっては、少なくともこれまでは縁の無い話だった。
これでいて交友関係の非常に広い篠原とは対照的に、飛鳥は中学時代にまで遡れば、彼女どうこう以前にさほど仲の良い友人すら居ないというなかなかに寂しい生活を送っていた。
そんな飛鳥がバレンタインに何かをもらえるとすれば、それは一部のクラスメイトがクラス全員に無差別に配る物くらいで、そんなことをするクラスメイトが居なかったという事実も踏まえれば、彼にとっては殊更縁の薄い出来事だった。
過去の思い出というか、そういったものの有無が、この二人のテンションに明確に現れている。
言われて思い出したという言葉通り、期待もへったくれもない飛鳥はあくまでどうでも良さそうな態度なのが、篠原にはどうにも理解ができないようだった。
「縁がないってどういうことなんだ……? わっかんねーな」
「わかんねーって、別にそのままの意味なんだけど、単に貰う機会とか無かったってだけ」
「え?」
「……え、なに、俺なんかおかしいこと言った?」
何言ってんだコイツ、みたいな顔で見てくる篠原に、飛鳥は居心地悪げに身じろぎをした。
「いや、貰う貰わないってあんまり関係なくね? 貰えるかどうかって、こうワクワクするほうが重要なんだし」
「わからないでもないけど、極端だな……」
なかなかマニアックな感覚を当たり前のように語られて、飛鳥はたじろぐ。
どうやらそれが篠原流の楽しみ方というもののようで、あくまで結果どうこうよりもその過程を楽しむのが中心になっているようだった。それ自体は飛鳥にとっても分からないでもないのだが、果たしてこんなことでまで貫くようなスタンスなのかという話だ。
とはいえ、あまり個人の趣味趣向にとやかく言っても仕方がない。
元より理解する気も無かった飛鳥は、早々に聞き流しモードに入ってしまう。気づいていないのか気にしていないのか、篠原は構わず続けた。
「でさでさ、お前は今年何個もらえる予定なんだよ」
「予定なんてないって、例年通りなら0個だろうさ」
「えー、嘘つけ、1個ぐらいあるだろ!」
「よくわかんないけど、篠原が思ってるほど俺は交友関係とか広くないぞ。……こんなこと自分で言いたくないんだけどさぁ」
勢いで押し切られたとはいえ、得も無いのに恥ずかしい話をさせられて、飛鳥は顔をしかめてそっぽを向いた。
「…………むぅ」
なんだかんだとあまり一つ所に留まれない生活を送っていたとはいえ、こうして改めて振り返ってみると、やはり自分自身に何も問題が無いとも思い辛い。
何かと環境のせいにしていたが、もしや……?
とかなんとか、しかめ面のまま自分の欠点探しを始めかけたところで、横合いから溌剌とした声が聞こえた。
「よぉアスカ、なに朝から辛気臭い顔してんだよ」
ぐるぐると加速するネガティブはやっぱり顔に出ていたのか、教室に来るなり伊達がそう言って、飛鳥の肩をポンと叩いた。
肩に乗せた手を軸にくるりと回った伊達は、手近な机に鞄を乗せると、流れるように反転して飛鳥達の方に向き直った。
「別になんでもねーよ」
ぶっきらぼうに飛鳥が答えると、伊達は笑いながら机の下に押し込まれていた椅子を引いて、どかっと腰かけた。
「はっはは、どう見ても何でもないって顔じゃねぇだろ」
「あーもー、っせぇなぁ。言いたくない! 篠原に聞けよ……」
駄々っ子のように頭を振り回しながら、飛鳥はそう言って説明を放棄する。
役割を押しつけられた篠原は一瞬キョトンとして、次の瞬間ニヤっと口の端を釣り上げた。
「え、俺が言っちゃっていいの? めちゃめちゃ誇張するぞ?」
「わかった黙ってろ」
ぞ、の部分を言いきるか否かというタイミングで、飛鳥は素早く篠原を制止する。鼻から息を噴き出す篠原は無視だ。
トトトトトトン、と苛立ち全開に机を指先で高速タイプしてから、飛鳥はことさら面倒そうに口を開いた。
「えーっとなんだっけ、明後日バレンタイン? とかなんとかコイツが言い出して、それで「お前何個もらえそうなんだよ」とか俺にさ。んで予定はないって返したってだけ」
「それだけ?」
「だけ。もういいだろ」
飛鳥は必要以上に短くまとめると、ため息一つで肩をがっくりと落した。
伊達は苦笑気味だ。
「いいけど、じゃあなんでそんなしょっぱい顔してんだ?」
「……過去振り返って一度も貰ってないのを思い出して萎えてたんだよ」
「あー、……うん」
「うんじゃねーよ何が言いてぇんだコンチクショウ」
振り上げた左手をズバンと机に叩きつけて、怒鳴りながら飛鳥は腰を浮かせる。
ぐぎぎと歯を食いしばる彼の横から、篠原が軽く顔を除きこんで、直後に噴き出した。
「ぶっ、ちょ、星野お前涙目じゃ……あだっ!?」
言いきる前に真上からゲンコツが降ってきて、篠原は頭を押さえて1歩2歩と後ずさった。
「黙ってろっつったろが」
「マ、マジギレかよ……」
抑揚のない、しかし異様な圧力を孕んだ飛鳥の言葉に、篠原はたじろいで口をつぐんでしまう。
荒れてんなぁ、と伊達は顔を逸らしながらぼそっと呟いた。
飛鳥は机に両手を押しあてて、あからさまなため息を吐きつつ、半端に浮かせていた腰を下ろした。
「でもあれだな。アスカはあんまり、そういうことは気にしないタイプかと思ってたんだが」
「別に気にしてない…………つもりだったんだけどなぁ」
ぐでっと机に突っ伏す。そんな彼の声は、くぐもった響きで伊達の元に届いた。
思いのほか面倒臭いことになっている友人を前に、伊達は困った表情で頭の後ろをガジガジと掻く。やがて被りを振りながら小さく息を吐くと、ブルーなオーラを振りまく飛鳥の肩にポンと手を乗せた。
「まぁそんなに気落ちすんなって。そういう奴も……ほら、どのくらいかはわからねぇけど、居るには居るだろ」
「励ましになってないだろソレ……」
僅かに身じろぎしつつくぐもった声で返事をした飛鳥は、数秒経ってからようやく気だるげに身体を起こす。一旦ブルーを経由したからか、少し落ち着いた様子になっていた。
「あーもういいわ、なんか色々めんどくせぇ。いつも通り無かったことにしてやる、こんなもん」
「なんかネガティブな解決しようとしてるけど、いいっちゃいいのか」
頬を指先でカリカリと引っ掻いて、伊達は呟く。
そこで話題は終わりそうになったが、沈黙が訪れたのもつかの間、篠原が空気を読まずにこう続けた。
「でもなんつーか、俺も今年は期待できそうにないんだよなぁ」
ともすればひとり言にも聞こえそうなものなので、飛鳥としては無視してしまってもよかったのだが、先ほど反射的にゲンコツを叩きつけたこともあり、忍びなさから適当に話を合わせてしまう。
「ふーん、なんで?」
「付き合ってた彼女と別れたから」
「へぇ……、へ? 居たんだ」
「居たよ。つっても、高校入って1ヶ月ぐらいまでだけど」
もったいつけることもなく放たれた暴露話に、飛鳥はややリアクションに困った様子で、眉を寄せて伊達の方を見た。
そんなこっち見られても、と伊達は肩をすくめて態度で語る。
如何ともしがたい空気が流れかけるが、早々にぶった切ったのも篠原だった。
「まぁいいや。伊達はどうだ? 貰える予定とかあんの?」
「お、俺? 俺はまぁ、一つぐらいは」
「みなまで言わんでいいだろ、全員知ってらー」
誰からなどという愚問はいらないだろうと判断して、飛鳥は雑な台詞で会話に割りこむ。だよなぁ、と篠原も同意するばかりだった。
勝手に話を振っておきながら生温かい視線を送ってくる二人を前に、伊達は居心地悪げに身じろぎすると、おもむろに机の上に置いてあった鞄を手にとって、ぴっと人差し指を立てた。
「ま、まぁなんだ、お前らも頑張れ」
言うだけ言ってそそくさと立ち上がった伊達は、流れるような動作で自分の席の方へと退散してしまう。
捨て台詞を頭の中で復唱して、理解したタイミングで飛鳥達は素早く視線を交差させた。
「うっわなんか今のムカツク!」
「ナチュラルに上から目線してやがんなあのヤロー」
一気にボルテージの跳ねあがる篠原と、呆れ交じりに苛立った様子を示す飛鳥。
二人は顔を見合わせる。
ぱちぱちと瞬きしてから、飛鳥は一際脱力した様子で椅子の背もたれにもたれかかる。
「やめだやめ、なんかバカらしくなってきた」
「あーあ、テンション下がっちゃったなぁ……」
肩を落とした篠原がポケットに手を突っ込み、不良チックな姿勢で飛鳥に背を向ける。
自分の席に戻って行く篠原の、その背に飛鳥が視線を向けたとき、背後から声が掛けられた。
「また不毛な話してるわね、あんた達」
「野郎なんてこんなもんだよ」
振り返ることもなく適当に答える飛鳥。声の主が泉美であるのは、いい加減に顔を見なくてもわかるようになっている。
「そう、寂しいわね」
「うっさい、余計なお世話だ」
飛鳥は頭の後ろで手を組んで、首だけ振り返ってジト目を泉美に向けた。
視線から逃れるように一歩前に踏み出した泉美は、ポンと手を叩くと、人差し指を立てた右手を肩越しに飛鳥に向ける。
キョトンとした表情の飛鳥に、くすりと小さく笑って、泉美はこう言った。
「ま、アスカ。今年は期待していいよ」
「んぁ?」
したり顔でよく分からないことを言い残した泉美を怪訝な表情で眺めて、飛鳥は考え込むように顎に手を当てる。彼女の言葉の意味を少しだけ考えてみて、飛鳥は思わず肩をすくめた。
「あぁ……なるほど」
飛鳥が何か可笑しくなって肩を震わせていると、横合いからやけに強い視線を感じた。
笑いを止めてそちらを伺うと、自分の席から、篠原が恨めしげな視線を送ってきているではないか。
黒っぽいオーラがうようよとこちらに漂ってきているビジョンに、飛鳥は顔を引きつらせると、ふぅと息を吐いて視線の主と目を合わせる。
「…………」
「…………」
「…………」ぐっ、と。
無言プラス真顔でガッツポーズを向けて見せると、途端に篠原は立ち上がって、ジョークじみた表情で頭を抱えた。
「ジィーザスッ!!」
そんな彼の悲痛な叫びは、朝の予鈴に無情にも掻き消された。




