1章『立ちこめる暗雲』:2
愛の通う中学校には、もう一人、アーク関係者である少年がいる。
伊集院正太郎、元コードE、エンペラーのライセンス所有者だ。
現状判明している限りでは、ライセンス登録は当人が死亡するまで解除ができないため、正確にはまだ彼はコードEのライセンス所有者である。
しかし彼には初搭乗時に機体を暴走させる程に精神的な負荷を受けてしまったという経緯があり、また当人の正常な判断なくライセンス登録されてしまったという点を考慮され、今はアーク研究からは離れている。
エンペラー自体も、国内に研究を行う機関が存在しないことから、現在はアメリカにある研究施設で厳重に管理されている。
とはいえアーク絡みで生活が一変してしまったこともあり、正太郎は現在、アーク関係者のサポート環境が整っている中学校に通っている。そこが、愛も通う中学校だった。
3年生と忙しくなる時期ながら、何かと振り回される立場の正太郎だったが、それでも元の環境よりは勉強にしろ対人関係にしろ、ずっと上手くやれていた。
それは教室に入ったときの周囲の反応だけで、ハッキリと分かることだった。
「おはよう」
開けっぱなしのドアを潜り、自分の席に向かう途中で、正太郎がそう声を上げる。
「よ、正太郎」
正太郎が背負っていた鞄を置いた机の、隣の席に座っていた男子が振り返りつつそう答えた。
軽く片手を上げつつ、正太郎も笑顔を向けた。
単なる朝の何気ないやりとりだが、それは正太郎にとって、かつて望み、しかし手には入らなかったものでもある。そんなことも、今となっては当たり前になりつつある。
当たり前に感じ始めている自分を、彼は贅沢であると思いつつも、当たり前だと思えることがどれだけ幸福なのかも強く感じていた。
転校してから8ヶ月、最初は馴染めるだろうかと彼自身不安に思っていたが、今はこうして、軽い付き合いとはいえ友人だっている。
もう卒業も近いが、こうして環境が変わっただけで、自分の周りも大きく変わるというなら、高校生になってもなんとかなるのではないかと、正太郎は少しだけ楽観できるようになっていた。
「さっき信也と話してたんだけどさ、正太郎は高校はどこ受験するんだ?」
先ほど挨拶をしてきた隣の席の男子が、椅子に座った正太郎にそう尋ねた。
ちょうどなタイミングの質問に正太郎は驚きを覚えつつも、少し思案してからこう答えた。
「思いきって遠いところの学校を受験することにしたよ、最初は星印学園にしようか悩んでいたんだけど……」
アーク関係者のサポート環境が整っている場所、特に教育機関は、実際のところかなり少ない。
というのも、こと日本においてアーク研究は基本的に秘匿とされており、そして単純にアーク関係者である学生の数が、片手の指で足りてしまうからである。
そんなわけで現状アーク関係者のサポート環境が整っている場所で、とくに高校ともなれば、もはや星印学園以外にないという状態なのだ。
しかし、正太郎はもうアーク研究から離れている。
アフターケアの意味もあって、愛が通うのと同じ中学校に転入させられはしたものの、立場上はもうアークから離れても問題はない。
誰かに支えられているという状況から、改めて自分の足で立つという意味も込めて、正太郎は星印学園とは違う高校に進学するつもりをしていた。ついでというわけではないが、思いきってどこか遠くの学校に進学するつもりである。
それはそれで誰かに迷惑をかけるのかもしれないが、そうしたいという自分の中の変革を、正太郎はポジティブに受けとめていた。
「星印学園って、確か一昨年できた学校だよな? どんなとこだっけ」
正太郎のあれやこれやな事情は彼の中で完結しているもので、だから友人と呼べる目の前の男子も、深い意味のない質問をする。
「どんなところっていうと……。どんなところだろ。普通、の私立高じゃないかな。結構部活に力を入れてるとか、あとは他の私立と比べると学費が安いんじゃなかったかな。新しい学校だから、校舎も寮も綺麗だったよ」
「へぇ、良さそうなところじゃん。なんで受けないことにしたんだ?」
「大した理由じゃないんだけど、いろいろと新しい生活がしてみたくて。だから遠くの学校で、一人暮らしを頑張ってみようかなって思ったんだ」
「勢いか? すげぇな、正太郎」
「そう……かな」
感心した様子の友人の言葉に、正太郎は恥ずかしそうに頬を掻いた。
決して重みのある言葉ではなかったが、こうして尊敬の念を向けられたことなど、それこそ彼の人生には一度だって無かったことだ。
出来るかどうかは二の次で、意志だけが先を進んでいるものであっても、こうして前向きに何かをやろうとしていることは、正太郎にとって誇れることだ。彼自身が自信を持って語るからこそ、友人の言葉にも疑念はない。
「でも一人暮らしって、大変じゃないか? その感じじゃ、学生寮とか入らないんだろ?」
「まぁそのつもりだね。確かに大変だとは思うけど、でも良い機会だし、挑戦してみようと思うんだ」
正太郎は穏やかな口ぶりで、それでいて強い決意を感じさせる答えを返した。
色々なものに依存していたのだと、全てを手放してから、正太郎は気がついたのだ。
最近のものに碌な思い出がないとはいえ、それでも家族の居なくなった生活を想像するのは、当時の正太郎にとっては恐ろしいことであった。
いじめを受けていたというある種最悪の学校生活も、いざ転校に臨み、その先を考えたときに肯定的とは言えない複雑な感情が沸き上がったのは、受けていたいじめや暴力以上に、孤独が怖かったからかもしれない。
冷えきった家庭は元より、自分をいじめていた相手にさえ、あるいは依存していた。孤独よりはマシだと。
そんな当たり前の弱さが、彼自身を締めつけていた。だから彼は自分の力だけでは、一度だって変化を起こすことができなかったのだ。
相談したけど変わらなかった。逆らったってどうせ何も変わらない。そんなことをしているうちに、結果としてその居場所に甘んじることになり、変わることにさえ無意識に恐怖を覚えるようになった。
そういう意味では、アークによって外から決定的に破壊されたからこそ、全てをリセットして今の彼があるのだから、アークによって救われたのだと、かろうじてそう考えることもできるだろう。
と、そんな風に考えて、過剰なプラス思考に正太郎自信笑いそうになってしまった。
(でも、これぐらいの方がいいよね)
内面の変化は大胆であって、だからこそ外からも明確な変化となって現れる。親しい友人ができた背景は、環境の変化以上に自分自身の変化が理由だと、正太郎は自分で気付くことが出来ていた。環境の変化は、ただ自分が変わるためのきっかけに過ぎないのだ。
ちなみに正太郎の少しでも自立したいという気持ちには、一つの理由がある。責任という言葉の意味を、正しく理解できる人間になりたいという、年不相応ともいえる気持ちだ。
それはアークを暴走させた結果、多くの物を失った正太郎に手を差し伸べた少年が、正しく理解していたものであり、その少年に対するあこがれのような感情が、今の正太郎の原動力だ。
「ん? どうした正太郎?」
「ううん、何でもない」
口元をほころばせているのが見えたのか、不思議そうな顔で尋ねられたが、正太郎は肩をすくめて首を横に振る。
「変な奴」と言われたが、今の彼には「そうでもないよ」と笑って返すことだってできる。
案外、余裕というのは自分で生み出せるものなのだ。
そうなってみると、今度は自分以外のものが見えるようになる。
ドアが開く音に、正太郎はふと視線を向けた。
見えたのは、どこか暗い表情で教室に入って来た愛だった。
「…………」
誰とも挨拶一つかわさない愛を、正太郎は眉を寄せつつ見つめる。
「正太郎、なに如月さんのことそんなに見てるんだよ」
「いや、ちょっと元気なさそうに見えたから」
「……いつもどおりじゃないか?」
「……まぁ、そうでもあるんだけど」
曖昧に肯定しつつ、正太郎は再び愛に視線を戻す。
転入当初の彼の学校生活を、少なからずサポートしてくれたのは愛だ。彼女個人にどうという感情を抱いていなくても、恩というものがある。
そんな理由で、多少なりとも愛のことは気に掛けている正太郎だが、かといってアーク研究からは完全に離れた今となっては、深入りすることもできなかった。
気に掛ける以上のことができない彼は、だから言い訳のように愛のことを眺めている。
ただそうしていたから、愛の視線の先に気付くことができた。
彼女がぼんやりと見つめる先に視線を向けて、正太郎は黒板の横に掛かっていたカレンダーを見止めた。
2日後の行事が目に留まる。
上手くイメージはできないが、彼にもなんとなく理由が分かった気がした。
「バレンタイン、かぁ」




