1章『立ちこめる暗雲』:1
目が覚めて、愛はベッドの上で身体を起こした。
時間は、ケータイの目覚まし機能がアラームを響かせる少し前。
愛は枕元に置いていたケータイに手を伸ばすと、それが朝を知らせる前に、アラーム機能を停止させた。
「ん…………」
やけに重い頭を、愛は軽く振る。
長く、そして悪い夢を見ていたような気がしたが、どんな夢だったかを愛は思い出そうとはしなかった。背中をびっしょりと濡らす汗が、ろくな夢ではなかったことを告げていたからだ。
一つため息をついて、愛は足に覆いかぶさっていた毛布を押しのけた。
2月の中旬。まだ温かくなり始める気配も見せない時期は、室温すらひりつくほどに冷たいが、肌を濡らす嫌な汗の感触を忘れるには、それがちょうど良かった。
愛が起きるこの時間は、彼女の父である如月誠が起きる時間よりも早い。
現在、誠との二人暮らしをしているこの家では、愛が家事全般を行っている。朝食の準備も愛の役目だった。
誠を起こさないよう、愛は足音を立てずに1階にある洗面所へと向かう。
2階の自室を出るときに、僅かに視線が横に引っ張られた気がしたが、愛は意識的に目を閉じて、1階へ続く階段へ足を運んだ。
伺う意味などない。隣室の部屋の主は、もう6年も前に家を出て行ったのだ。
顔を洗ってからリビングに向かった愛は、寝巻の上からエプロンをつけて、手早く朝食の準備に取り掛かる。
誠は家に帰らないことも多いため、そういうときは朝食は食パンなどで適当に済ませるのだが、そうでなければ簡単な和食を用意することにしている。
そう頼まれているわけではないが、愛の母である由香が居た時からの、慣習のようなものだった。単に誠の好みでもある。
さすがにトーストなどとは比べるべくもないが、和食が手間だという感性は、今日日の便利な家電が揃い尽した時代にはそぐわない。
味は言うに及ばず、栄養バランスすらインスタントで整うようになれば、そうそう拘るのでもない限りは、問題になるのはコストぐらいなものだ。学生の愛が準備をする以上、そこはある程度は妥協すべきポイントだった。
炊飯器のご飯は既に炊き上がっているし、ポットの湯は1分もあれば沸く。
なんだかんだと一番手間のかかる焼き魚ですら、軽く塩を振ってグリルに放り込んでおくだけで、裏返す必要もなくちゃんと焼き上がるようになっている。
そんな風に流れ作業のように慣れた手つきで朝食の準備をしていると、愛の耳に微かに自分のものではない足音が聞こえた。
床のフローリングに足をつけるその音は、廊下の奥から聞こえている。寝室で眠っていた父の誠が目を覚ましたのだと、愛はすぐに気がついた。
目覚ましのアラームなど一切なくても、誠は決まった時間に起きてくるのが常だった。変わってはいるが、根の真面目さがこういったところにも出ているのだ。
だいたい愛が起きて10分後ぐらいに起きてくるのが常であり、逆に愛はそれに合わせて朝食を作るようにしている。
廊下の奥から聞こえて来ていた足音はすぐに近付いてきて、ダイニングとキッチンが一緒になった部屋の前で止まった。
「おはよう、愛」
「おはよう、お父さん。もうすぐできるよ」
「ああ、ありがとう」
手を止めずに振り返った愛と短く挨拶を交わして、誠は部屋の前を通りすぎて洗面所へと向かった。
こうして誠が、朝食ができる少し前に起きて、全てが揃うタイミングに身支度を全部終わらせるのが、彼が居る時のこの家の日常的な風景である。
静かな朝だ。ポットの湯が沸く音や、グリルから聞こえるくぐもった音に混じって、廊下の向こうから水の流れる音が聞こえる。
幾ばくか、寂しさも紛れるというものだ。
僅かに口元をほころばせて、愛は朝食の準備を続けた。
一度自室に戻ってスーツに着替えた誠がリビングにやって来たのは、愛がちょうどテーブルに朝食を並べ終えたころだった。
誠は研究所から帰って来ないことも多いが、帰ってくるとしても翌日家を出るのは早い。
愛の通う中学校の始業時間を考えると、愛にとってはまだまだ余裕のある時間である。そのため、愛の方は寝巻から着替えるのは朝食が終わってからだった。
先に椅子に座っておもむろにテレビの電源をつける誠に続いて、愛もエプロンを外してテーブルについた。
「いただきます」
手を合わせるだけの誠と、一言口にする愛。
二人とも食事中はこれといってたいてい何も話さないのが常で、テレビに映るニュース番組と食器のぶつかり合う音だけが、リビングの賑やかしになっていた。
無言が苦手な人間はいくらでもいるだろうが、愛はそれが苦手ではない。無言であれ、そこに家族が居るということに、ひどく安心感を覚えるからだった。
ただこの日ばかりは、最後まで無言ということはなかった。
テレビの方に視線を送りながら、誠がおもむろに口を開いたからだ。
「愛、今日の予定は覚えているか?」
「……っん。……うん」
口に含んでいたご飯を呑み込んで、愛は視線を落したまま頷いた。
気乗りのしない会話だった。
研究のことは、愛としてはあまり家では話したくないことなのだ。それが事実として、彼女の家庭を壊す原因でもあったのだから。
ただ、愛と誠の二人が話すとすれば、その程度しか話題がないということも、残酷ながら事実だった。
「午後から、研究所で実験、だったよね」
「ああ。2時からだぞ。明後日には大きな実験があるから、その準備でもある。大事な研究だから、遅れないようにしなさい」
「……うん」
全く問題なく覚えていたのだから、愛としてはただ頷くより他に無かった。
しかしそれだけで会話が終わってしまうのがどうにも忍びなかったので、愛は場を繋ぐ感覚で誠に尋ねる。
「明後日、どんな研究するの?」
研究内容は、愛には普段からあまり詳細には説明されない。愛自身が求めないということもあったが、愛はただアークに乗って所定の操作をしているだけで良いような研究が大半だからということもある。
ただ今回の実験に対する「重要だ」という言葉に、愛はなんとなく毛色の違いを感じていた。場つなぎの会話とはいえ、その質問をした理由にはそういったことがある。
「頼まれごと……。政府からの依頼に関わる大きな研究だよ。とある装置を、アークを使って稼働させて欲しいとのことだ。内容はあまり気にしなくていい、いつも通り、指示に従って機体を動かしてくれればいいだけだからな」
「…………」
語らないだけの理由はあるのだろうが、当事者どころか中核の人物である愛にそれを伏せるということに、愛は僅かながら不信感を抱いていた。
彼女が何も言わなかったのは、ただその感情を、彼女自身認めたくなかったからだ。
「ともかく、明後日については私の方から学校には休みの連絡を入れておいたよ。朝から研究所に来てもらうことになるから、そのつもりをしていてくれ、愛」
「うん、わかった」
愛が不信感を覆い隠して頷いて見せたきり、二人の会話は止まってしまった。
二度目の沈黙はどこか息苦しいもので、それを両方が感じていたのか、少しだけ手を早めて食事に向かう。
それから数分で、誠はテーブルに置いた茶碗の上に、箸を横に並べて乗せた。
「ごちそうさまでした」
手を合わせた誠が立ち上がり置いた茶碗とみそ汁の器に手を伸ばそうとしたとき、愛がそれを制止した。
「いいよ、お父さん。私が片付けておくから」
「そうか、ありがとう。……いつもすまないな」
礼を言う誠に、愛は黙って首を横に振る。
支えるのが当たり前なのだから、と彼女は言外に語っていた。
誠は優しげな笑みを愛に向けて、椅子の後ろに掛けていたスーツの上着を手に取ると、埃を立てないように小さな動きで身にまとった。
ボタンを止めてから、軽くネクタイを締めて、誠は椅子の下に置いてあった鞄を持ち上げた。
「いってらっしゃい、お父さん」
「ああ、行ってきます」
そうして、愛は明るい声で父の背中を見送るのだ。
「…………」
果たして父である誠は、そんな彼女の表情に、笑顔が無いことに違和感を覚えなかっただろうか。
玄関のドアが開く音が聞こえて、ふと風が流れ込んできたと思ったら、間もなくドアの閉まる音が響いた。
朝の冷たい風が、そこに無かったはずの寂寥感を、愛の心に運んでくる。
その気持ちを直視しないように、愛はキッチンの方に当てもなく視線を投げかけた。
ふと、目にとまったカレンダー。
明後日は月曜日、2月14日だった。
「バレンタイン、かぁ……」
味気のない活字で刻まれた言葉を見て、彼女が何を感じたのか。
それを考えようとする者は、少なくともその場所には居なかった。
彼女の心に空いた空虚な穴は、それこそ彼女自身の気付く由もないまま、今も静かに広がり続けている。




