プロローグ where is "I"
母の由香にとって父の誠は、再婚相手だった。
姉の風香は母の連れ子だった。
そして私は、父と母の間に生まれた子だった。
その違いが、結局のところの理由になってしまったのか。それは今の私にも、はっきりとは分からない。
ただ事実として、私達家族は、こんな形をしていたのだ。
ほんの少し、歪かもしれないけれど、それでも私にとっては、たった一つの家族の形だった。
夕ご飯の支度を済ませてテレビを見ていたお母さんに、私はなんとなくこう訊いてみた。
「今日はお父さん帰って来るの?」
お父さんは何かの研究をしている人で、だからいつだって忙しそうにしていた。家に帰ってこない日もときどきあったから、こういう話は特別なものじゃなかった。
「今日は早くに帰ってくるみたいよ。夕飯も一緒に食べられるって」
「そっか、よかった」
お母さんと同じテーブルで、お茶を入れたカップを手に、私はそう呟く。
目を細めて、お母さんはこう言った。
「嬉しい、愛?」
「……うん、嬉しい」
少しだけ恥ずかしいと感じながらも、私ははっきりそう答えた。
当時の私はまだ小学校にも入学する前で、まだまだお父さん子だったのをはっきりと覚えている。
「不安?」
勉強机に向かっていたお姉ちゃんは、背中越しに私にそう尋ねる。
それは小学校への入学を目前に控えて、その不安を口にした私への言葉だった。
「……学校って、どういうところかよく分からないし」
「それは行けば分かることだよ」
「あと友達も、できるか分からないし……」
「あはは。まぁそれはみんな思うことだよね」
軽い調子で笑ったお姉ちゃんは、椅子を半回転させて私の方へ振り返った。
「大丈夫だよ」
どうして? と目で返す私に、お姉ちゃんはやさしい笑みを向けてくれた。
「私だって不安だったけど、行ってみれば案外どうにでもなるよ。最初から友達同士なんて相手は、居ない人の方が多いから。言っちゃえば、みんな愛と同じように「友達できるかな?」って不安に思ってるんだよ。だから気になった子に声をかけてみるだけで良いの。相手だって、友達を作ろうとしてるんだしね。だから大丈夫! 友達なんて、心配しなくても作れるよ」
私を励ますように、ガッツポーズをするお姉ちゃんに、私は半信半疑な目を向けた。
「ほんと?」
上目遣いの私の顔が、何か面白かったのか、お姉ちゃんは小さく吹き出して、いくらか肩の力を抜いた様子で言った。
「ほんとほんと。私がそうだったもん。小学校の時も、今の愛と同じようなことを思ったし。中学校の時だってね。愛は知らないと思うけど、私って昔はすっごく人見知りだったんだよ? 愛みたいに大人の人相手でも話せる、なんて全然できなかったし。だけど今は、ほら、自慢じゃないけど、私友達多いじゃない」
そう言ってお姉ちゃんは、えへんと胸を張った。
お姉ちゃんは中学1年生で、よく出かけては色んな友達と遊んでいる。だからその言葉に嘘が無いのははっきりしていた。昔のお姉ちゃんが人見知りというのは、まるで想像できなかったけど。
それでもまだ自信を持ち切れなくて、残った不安は私の表情に現れていた。
お姉ちゃんはそんな私の顔を両手の平で挟んで、にっと笑ってみせた。
「愛なら大丈夫だよ。お姉ちゃんが保証してあげる。だから、そうだね…………笑って見せて、愛」
「わはう?」
口が上手く動かせない私は、そんな奇妙な声を出す。お姉ちゃんはそれにくすりと笑いながら、頷いた。
頬を挟まれたまま、上手く動かせない顔で、私はなんとか笑ってみせた。
どんな顔だったかは、鏡も無かったし、私自身には分からない。
「うん。それでいいんだよ」
けれどそう言ったお姉ちゃんの優しい笑顔は、今もはっきりと覚えている。
お姉ちゃんにとって、私はどういう存在だったのか、それは結局分からないまま。
だけど私にとっては、お姉ちゃんは、間違いなく私のお姉ちゃんだった。
優しい姉だった。
少なくとも、この頃は。
夏のことだった。
「大出世じゃない、おめでとう」
夕ご飯を食べながら、仕事の話をしていたお父さんに、お母さんは嬉しそうにそう言った。
私にはまだ意味がよく分からなかったけど、お父さんが教授をしていた大学の一部の研究室が、大学とは別の大きな研究所に変わるという話だった。そしてお父さんが、そこで特別な研究部門の代表になるのだと。
「もしかしたら今よりもっと忙しくなるかもしれないけど、な。できる限り、ちゃんと帰って来るようにするよ」
「ええ、応援するわ」
嬉しそうに頭を掻いているお父さんと、ニコニコ笑顔のお母さん。
反対に私とお姉ちゃんは、顔を見合わせて首を傾げていた。
そんな私たちを見て、お父さんはこう続けた。
「よし、それじゃあ……ということでもないけど、今週末にでも皆で出かけようか。愛、風香、どこか行きたいところはあるか?」
「行きたいところ?」
「そんなこと急に言われてもなぁ」
首を傾げる私と、困った表情をするお姉ちゃん。
「いきなりだったかな……。じゃあ、明日までにまた考えておいてくれ。それで、週末に一緒に行こう」
お父さんの提案に、私とお姉ちゃんはもう一度顔を見合わせて、一緒に頷いた。
「うん」
「いいよ、わかった」
それは思い返すだけで温かさを感じる、思い出の一つだ。
父の立場の変化は、そのまま私達家族の変化だった。
1年ほどが経っても、父の忙しさは増すばかりで、いつの間にか、父が居ないことの方が自然になりつつあった。
「父さん、また研究所に泊まりなの?」
月曜の朝、出かける支度をしていたお父さんに、テーブルについたお姉ちゃんがそう訊いた。
お父さんは頷く。
「新しい研究が始まったんだ。そもそもその研究をするためにできた研究所のようなものでもあるからな」
「それ前も聞いたよ」
お姉ちゃんが不機嫌そうに答えると、お父さんは少しだけ顔をしかめていた。
「そうだったか……。とにかくそういうわけだから、しばらくは忙しいんだ。帰れないことが多いのも仕方ないんだよ」
そう言って、一足先に朝ご飯を食べ終えたお父さんは、静かに立ち上がった。
椅子に掛けていたスーツを羽織ると、お姉ちゃんの向かいに座っていた私の頭を軽く撫でる。
「それじゃ、行ってきます」
何も言わずに頷く私に微笑んでから、お父さんは玄関の方に向かって行った。
不機嫌そうに朝ご飯に手を伸ばす姉と、寂しそうに父を見送る母の顔を、私は未だに忘れることができないでいる。
父が研究の代表になって以来、家に居ないことの方が多くなった。
帰ってくるのも唐突な上に不定期で、だから家にいることの多い私は、姉や母と比較して、父と一緒にいる時間は長かった。
「愛。由香……、母さんは?」
リビングに置いてあるソファに座って、テレビを眺めていた私の後ろから、お父さんの声が聞こえた。
「お母さんは、今日はお仕事だよ」
「そうか……」
振り返って答えると、お父さんは少しだけ残念そうな顔をしていた。
「愛、学校は楽しいか?」
少しだけ無言になった後、私の隣に腰掛けて、お父さんはそんなことを訊いてきた。
そのころはほとんど一緒にご飯を食べることもなくなったから、学校の話をする機会は無くなっていた。だからお父さんは、そんなことを訊いたのだと思う。
私はお父さんの方に顔を向けて、笑顔を見せた。
「うん! 授業はそんなにだけど、友達もいるから、楽しいよ。来週の火曜日には遠足もあるんだ」
「へぇ、遠足かぁ。楽しみだな」
「うん、楽しみ!」
お姉ちゃんに教えてもらった笑顔を、私はお父さんに向ける。
学校で友達や先生と過ごしていて、それが人を幸せにする顔なのだと、なんとなく分かっていたから。
不意に上からドアが開く音が聞こえた。
それは2階の部屋から、お姉ちゃんが出てくる音だった。
どうしてか話が止まってしまった私たちの耳に、お姉ちゃんが階段を下りる足音が聞こえる。
「ああ、父さん、帰ってたんだ。……今日、夕飯いらないから。母さんに伝えておいて」
お父さんと私に順に視線を向けてから、出かけるときの格好をしたお姉ちゃんは、小さな声でそう言った。
玄関の方に向かうお姉ちゃんに、お父さんはこう告げる。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
一瞬だけ足を止めたお姉ちゃんは、呟くように言って、そのまま家から出て行った。
ドアの閉まる音が、なぜか、とても怖かった。
「また、家族みんなで遊びに行けたらいいなぁ」
お父さんは、それを私に言う。
まるで夢を話しているような、なんと言うか、とても中身の無い言葉に聞こえた。
「うん、そうだね」
それでも、私は楽しみにしているよと、そう見えるよう笑って応える。
父は、嘘の見抜けない人だった。
作り笑いも、同じ。
寂しさを覆い隠しているうちに、笑顔は私の仮面になっていた。
家族という枠組みが壊れつつあるのを、私は時々感じていた。
例えば、姉の誕生日の前日でも、その兆候はあった。
「またなの?」
お姉ちゃんの不機嫌そうではなくて、とても怒った声が聞こえて、私は階段を下りる足を止めた。
お姉ちゃんに詰め寄られていたお母さんの、困ったような声が続く。
「ええ、大きな実験があるから、明日はどうしても帰れないんだって」
「父さん、去年もそうだったよね。忙しいとか言ってさ、結局私の誕生日なんて帰って来すらしなかった。今年もそうなんでしょ?」
「私からもお父さんにはお願いしてみたんだけど、ごめんなさい」
「母さんが謝っても仕方ないじゃん」
床を足でつつく音がとんとんと聞こえた。
話を盗み聞きするような形になっていることに、そのとき気付いたけど、階段を上って自分の部屋に戻ろうとは、なぜか分からないけど思えなかった。
「愛の時は当たり前みたいに家にいたくせにさ」
「あの時は、お父さんたまたま仕事が無かったからで、風香の誕生日だって忙しくなければちゃんと帰ってくるつもりだったのよ」
「なんとでも言えるじゃない、そんなの。……ふん、別にいいよ、子供じゃないし」
途端に足音を鳴らして、リビングからお姉ちゃんがやってくる。
慌てて階段を上ろうとしたときには、もうお姉ちゃんは私を見上げる場所にいた。
「どいて」
すたすたと階段を上るお姉ちゃんは、私に鋭い視線を向けてから、押しのけるように2階へ行ってしまった。
言おうとした言葉は喉の奥でつっかえて、何を言おうとしていたのかも、分からなくなった。
ただ、向けられた視線が憎悪であるということだけは、当時の私でも、幼いながらに理解していた。
全てが終わってしまったのは、それからそう遠くない日のことだ。
土砂降りの雨の日だった。
学校から帰った私は、自室の机の前で、窓を叩く雨音にぼんやりと耳を傾けていた。
その日は私の誕生日だったけれど、お父さんが仕事で帰れないと聞いていたこともあって、あまり楽しい気分にはなれなかった。
降りしきる雨に、気持ちが引っ張られていたのかもしれない。
何をするでもなく、考えごとがあるわけでもなく、ただぼんやりしているうちに、いつの間にか夕方になっていた。
そんな時だ。
「ただいまー」
玄関のドアが開く音のあと、声が聞こえた。それは間違いなく、お父さんの声だった。
「え……、お父さん?」
帰って来ないと聞いていたから、私は空耳か何かだと、最初はそう思った。
部屋を飛び出して階段のところまで来て、そこにお父さんがいて、やっと本当だと分かったぐらい。
「ただいま、愛」
私を見たお父さんは、笑顔でそう言った。
階段を駆け下りそうになるのを堪えて、私はお父さんの元まで向かう。
「おかえりなさい、お父さん」
このとき私は笑っていたけど、それは作り笑いなんかじゃなくて、もっと心の奥から自然に出てきたものだった。
「愛、誕生日おめでとう」
お父さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でて、とても嬉しそうにそう言った、
くすぐったさに目を細めていると、キッチンで夕飯の支度をしていたお母さんが驚いた様子でやって来た。
「誠さん、どうして?」
「研究で本当は忙しかったんだが、無理を言って帰らせてもらったんだ。娘の誕生日くらい、って言ったら、仕方ないなと言われたよ。普段から帰れていないから、こんな時ぐらい気を使ってもらえたのかもしれない。研究は他の人に任せてきたから、大丈夫だしね。気兼ねもない」
まるで子供のように無邪気な顔をする父さんに、私も母さんも、釣られて笑みを浮かべてしまう。
「良かったわね、愛」
「うん!」
お母さんは、お父さんと同じように私の頭を撫でる。私は頷いて、嘘ではない笑顔を向ける。
そのとき、だった。
「へぇ、帰ってたんだ」
後ろから、声が聞こえた。
震えてしまいそうな、冷たい声が。
「お姉……ちゃん?」
お姉ちゃんが居た。
でもそれがお姉ちゃんなのか、不安になってしまうほど、怖い目をしていた。
「……風香?」
お母さんは、気付いていたのだと思う。だけど、お父さんは気付かなかった。
「ああ風香、部屋にいたのか。ちょうどいい、今日は皆で一緒に食べよう。愛の誕生日だから、風香も一緒に祝ってあげなさい」
「…………」
早口に語るお父さんの言葉に眉ひとつ動かさないで、お姉ちゃんは階段の途中からこう言った。
「仕事、あるって言ってなかった?」
「上司に頼みこんで、今日は帰らせてもらったんだよ。愛の誕生日だろう?」
「そうだね。……そっか、愛の時は、帰ってくるんだ」
暗い声で呟いたお姉ちゃんは、無表情のまま階段を下りてくる。
お姉ちゃんは、けれど笑って輪の中に迎えようとするお父さんの横で立ち止まった。
「私の時は……ッ」
食いしばった歯の隙間から漏れ聞こえてきた声は、怒り以外の何物でも無かった。
「風香、どうした?」
まだ何も気付かない様子でお父さんが伸ばした手を、お姉ちゃんがバシンと弾いた。
「触んないで!」
声を荒げたお姉ちゃんは、玄関に並べてあった靴を蹴りつけるように履いて、家の外へと飛び出した。
玄関のドアが開いた途端、激しい雨の音が耳を打つ。
何が起こったのかその瞬間は分からなくて、直後にお母さんの「風香っ!」と呼ぶ声で、身体の自由が戻った。
お姉ちゃんを追って、2本の傘を手に外に出たお母さんを、私も追いかける。
お父さんだけは、何が起こったのか理解した様子もなく、ただ驚いた様子で、一人その場に残っていた。
雨に濡れながら、遠くに見えるお姉ちゃんの背を、私とお母さんは追った。
気付いたお姉ちゃんは、すぐに足を止めて、私たちの方を振り返る。
「風香、急にどうしたの」
「……母さん、どうしてそんなこと聞くの」
「……? と、とにかく、こんなところで傘もささないで、風邪引くでしょう。話は聞くから、まずは家に帰りましょう?」
そう言って、傘をさしたお母さんは、お姉ちゃんにもう一つの余った傘を手渡そうと近付く。
だけどお姉ちゃんは、首を横に振った。
「いらないよ!」
お母さんの伸ばした手を払って、お姉ちゃんは顔を俯けて1歩、2歩と後ずさる。
戸惑った表情を浮かべながら、それでもお母さんはお姉ちゃんに近付こうとした。
「ねぇ風香、どうしたの? 何がそんなに気に入らないの?」
「何が……?」
俯けていた顔を上げたお姉ちゃんの表情は、私には言葉にできないもので、ただ怖いとだけ感じた。
厚い雨のカーテンの向こうで、お姉ちゃんが強く奥歯を噛むのが見えた。
「言わなきゃ分かんないのかよッ!!!!」
「――――っ」
叫んだお姉ちゃんの声に、私はびくりと身体を震わせる。思わず、私はお母さんの体にしがみついていた。
お母さんも、言葉を失って固まってしまう。
大きく息を吐いたお姉ちゃんは、引きつった笑みを浮かべていた。
「ねぇ母さん、私だって頑張ったんだよ。前の父さんが居なくなって、生活だって苦しくて、だから新しい父さんができるっていうのも、嫌だなんて言わなかったよ。だから家族やろうとした、必死で! でもこれじゃあ!……なんなのよ、結局、居なかったときと、何も変わってなんて無いじゃない! 母さんはあの人の奥さんだよ、愛はあの人の子供だよ、でも私は違う。皆は家族していられても、私だけは家族ごっこだ!」
「風香……、それは、それは違うでしょ」
「何が!?」
落ち着いて説得しようとするお母さんだったけれど、お姉ちゃんは聞く耳を持とうとはしなかった。
「あの人にとって、私は子供なんかじゃない。ただあの人の子供の、愛の姉だってだけ。それしか求められて無いって、見てたら分かるでしょ!? 応えようとだってしたよ。でもそんなの私じゃない! もういいって言ってるの。どうせ蔑にされるだけなら最初から居ない方がマシだって、そっちの方が苦しくないのよ……! 私には、父親なんていない。借金だけ残して母さんと私を置いて行ったあのクソ野郎も! 私を私と認めてもくれないあの男も! どっちも父親なんかじゃないッ!!」
両手を強く握りしめて、お姉ちゃんは叫んだ。
頬を伝うのは、雨ではなく、涙に見えた。
「……母さんがどうするのだって、私は何も言わないよ。だけど、だからせめて、私は私で居させてよ。あんなのもう、自分なんて無いじゃない。……だから、放っておいて」
「…………風香」
結局それっきり、お母さんは何も言わなくなってしまった。
少しの沈黙があって、お姉ちゃんは私の方に視線を向けた。
雨に打たれ続けたまま、だけどお姉ちゃんは震えることもなく真っ直ぐこちらを見ていた。
「ねぇ、愛……。ごめんね。私は、こんなだったよ。これが私だったよ」
「おねえ、ちゃん……?」
両手を広げてそう言ったお姉ちゃんの言葉は、懺悔のような、言葉だけでは伝えられない悲しさを抱えていた。
お姉ちゃんはそれだけ言って、背中を向けた。
「友達のところ行ってくる。……帰らないから」
呼びとめることもできずに、私たちはお姉ちゃんの背中を見送っていた。本当は、しがみついてでも止めなきゃいけなかったのに。
父はよく『大切な家族』という言葉を使っていた。それが何のことを言っているのか、どうしてか、私にははっきりとは分からなかった。
普通は意識しないから、気にはならない。でも一度考えてみると、家族という枠組みが何を指すのか、とても曖昧になる。
血のつながり? だったら、父と姉は、家族ではないのだろうか。
姉が家を出て以来、帰って来たのは一度だけだった。
母が居ないときを見計らって、着替えとかの最低限の荷物だけを持って、また出て行ってしまった。
その時の姉の表情は、どう表現すればいいのか。
ただ悲しさや寂しさを感じさせるものではなくて、むしろ充実していたように見えた。
それは本当は怖いことのはずなのに、なぜか、それでよかったのかもしれないと、結局私は、また止めることができなかった。
その後の、ある夜のことだった。
どうしても眠れなくて、私は水でも飲もうかなと、階段を下ってリビングへと行こうとしていた。
もう日を跨ぐという時間に、お父さんとお母さんの話し声が聞こえて、私は部屋の前で足を止めた。
「ええ、だからあの子の負担にならないように、ね」
「しかし……」
「いつまでも先方のご厚意に甘えているわけにもいかないでしょう? 迷惑じゃないって言って下さってるけど、そんなわけないのだし。だから……別れて、生活しましょう」
「…………」
苦しそうなお父さんの吐息が、静かな部屋から階段の方へと流れてくる。
「別れて、暮らすって……?」
私はかすれた声で、思わずそう呟いた。
聞こえるはずもなく、お母さんの言葉が続く。
「あなたの研究が落ち着いて、それであの子も気持ちに余裕ができたら、また帰ってくるから。今はあの子も受験だってあるし、ちゃんと支えてあげないといけないと思うの。わがままばかりでごめんなさい、だけど、必ず、帰ってくるわ」
「……わかった」
お父さんが辛そうに頷くのが、なんとなく分かった。
「良い父親には、なってやれなかったのかなぁ……」
お父さんは、一人そう呟いた。
私はどうしてか、それに何も言わないお母さんを、許せない気持ちになった。
辛いのは皆同じだった。
ただ父にも、母にも姉にも、そして私にも、他者のそれを慮ることができなかったというだけ。
そして私は父と、姉は母と、別々に暮らすことになった。
これは、家族として過ごした最後の日。
「……またね」
去って行くお姉ちゃんとお母さんに、私は小さく手を振る。
お父さんは、私の逆の手を強く握っていた。
「必ず、『家族』を取り戻そうな」
私ではなく、二人の背中に誓う。
「頑張って研究を終わらせて、それでまた、皆で暮らそう。協力してくれるか、愛?」
私を見て、そう願う。
「うん」
頷く以外に、何ができただろう。
それ以来、家には私と父しか居なくなった。
相変わらず父は滅多に帰って来ないから、結局は私一人の時間がとても増えた。
笑顔を向ける相手は居なくなって、だから丁寧に作り上げた仮面も、いつの間にかはがれてしまった。
私はときどき、鏡を見て、恐怖を覚える。
怖くなるほど、私の顔に感情が浮かばないから。
きっと笑顔しか作れなくなった顔が、笑顔の仮面まで奪われてしまったから。
友達も、自然と離れていった。
笑わなくなったから、笑えなくなったから、私は誰かを幸せになんてできなくなった。
だからもう、私の居場所は外には無かった。
そうして、父の研究に協力する内、私はアーク、アーク・インターンのパイロットになった。
偶然なのか必然なのかは、私にも分からないけれど、私はそれでよかった。
せめて父の元には、僅かに残った家族の中には、私の居場所があって欲しかったから。
たとえそれが、実験動物のような形でも。
だけどどうしても、こう思う。
父にとって私は私ではなく、如月愛ではなく、如月家の二女で、父と母の間の娘で、単なる家族の象徴なのではないだろうか。
もしかしたら、それは杞憂じゃないのかもしれない。
だって二人になってから、父は私を大切だとは言ってくれなくなったから。
不完全な家族の形は、父にとって大切なものではないから。
ならそれは、私という人間には、何も思っていないということになるのではないだろうか。
大切だと言って欲しいのは、認めて欲しいという気持ちと同じ。
お姉ちゃんと、私は同じだった。
人を好きになったことはない。
人に好かれたことがないから。
だけど時々、胸の奥に、よくわからない熱を感じることがある。
それが何か分かったら、それを教えてくれる誰かがいたら、きっと私は、この名前の意味を知るのだろう。
いつになるかは、まだ分からない。




