after その声は誰に届くのか
年明けのある日のことだった。
年末ならともかく、年始程度は落ち着いているのが自然なものだが、そうではない場所もある。
鞍馬脳科学研究所だ。
鞍馬大学という私立の大学から独立したこの組織は、主に脳科学を中心に研究を行っている。
元は鞍馬大学の脳科学科という一つの学科だったものが、大規模な研究施設の建設に際して、大学の管理下から離れ独立して生まれたものだ。
そしてそこにはコードI、アーク・インターンの獲得という背景があった。アークを研究するための専門的な技術の開発、そして場合によっては、大学の管理下では認められないだろう危険な実験を行うために。
9年前に発足されたこの研究所は、今やアークの思考制御技術に関して並び立つものの無いほど高い技術を持っている。その一つの成果が、日米共同研究において鞍馬研究所が主導し開発を行ったアークの制御シミュレーターだ。
その際に、シミュレーターに使用する高度演算システムの開発を行ったのが東洞で、戦闘時における大量のサンプルデータを提供したのがMSCとアルケインフォースの2社だった。
そこにおいて、シミュレーターは高度な演算システムを別途要求するとはいえ、ほぼ単独でアークの実機と遜色のない制御システムを構築した鞍馬の技術は相当なものだ。
鞍馬研究所は総合的な技術力では前述の3社とは大きく水をあけられているものの、思考制御系という一分野においては極めて突出している。
その点で、鞍馬研究所は世界有数のアーク研究施設であると言えた。
それを下支えするのは鞍馬大学他の大学教授や、各分野で名をはせる専門家たちだ。だがそういったマンパワーだけでは、大規模なアーク研究は行なえない。もう一つ重要な要素が、資金だ。
他の研究機関に対してその面が弱い鞍馬研究所の方針は、スポンサーとなる組織の意向に強く左右される傾向にあった。
過去には、それが東洞グループであった時期もある。アメリカとの共同研究の終了、つまりはシミュレーターの完成をもってその契約は終了したが、鞍馬研究所がそれでアーク研究自体を止めた訳ではない。
アーク研究はあくまで鞍馬が手をつける分野の一つに過ぎないが、それでも得られる技術や情報の価値は他分野と比較しても大きい。専用の施設が必要であり維持にコストがかかるということもあるが、純粋に研究を続ける価値もあったのだ。
それ故に、シミュレーターの開発という実績を手に、鞍馬はその後新しいスポンサーを募ることとなった。
今は無事にそれも見つかり、そしてアーク研究はそのスポンサーの意向に従って行なわれていた。
こんな時期であってもだ。
慌ただしく動き続ける研究所の中、いくらか穏やかな雰囲気のある一室。PCを乗せたデスクに向かっていた白衣の女性が、椅子を回転させて後ろに振り返った。
「愛ちゃん、明日から新学期だっけ?」
「……うん」
視線の先に居たのは、小さく頷く小柄な少女だった。
鞍馬研究所が持つ唯一のアーク、そのパイロット。コードIのライセンス所有者である如月愛だ。
「木戸さんは?」
部屋に置かれた丸テーブル抑揚のない声で尋ねる愛。
彼女の前ではそれが普通なことで、木戸と呼ばれた女性は特に言及することなく質問に答える。
「私も同じだったかなー。ここのお手伝いは単位が出るから、やることは変わらないけどね」
そう語る木戸は、鞍馬大学に在籍する現役の大学生だ。
この脳科学研究所は鞍馬大学から独立したものとはいえ、母体である鞍馬大学から脳科学科が無くなったわけではない。そのため鞍馬大学自体にも研究に使用できる施設は残っているし、教員もいる。
しかしながら大学の教授だった者の一部が研究者として脳科学研究所に移籍してしまったことがあり、教員の数が少ないという事態が起こってしまっていた。その対応として、研究所での研究を手伝うことを授業の一つとして扱うという処置がなされているのだ。
ただ、同じ学科でも研究する分野にいくつかの種類はある。
鞍馬脳科学研究所はその名の通り脳科学の研究をする施設であり、前述の通りアーク研究はその中の一分野でしかない。またアーク研究はこの国では少なくとも一般には公開されていないもののため、携われる人間は限られている。具体的に言えば、とにもかくにも優秀な者だ。
つまりこの研究所にいる大学生たちの中で、アーク研究を行う区画に直接入れるのは極めて優秀な学生だと言うことだ。木戸もその一人である。
「でもこんな感じだと、卒業後もここで働くことになりそう。簡単に他のところにはいかせてもらえなさそうだし」
この研究所ではアーク研究はその他いろいろな分野と密接に関わっているものの、直接的な人の行き交いは無いようになっている。特に機体が置かれている区画への出入りは、情報の漏えいを避けるため厳重なセキュリティによって管理されているほどだった。
ある意味、施設の中でも孤立した場所と言えた。
「研究は、嫌い?」
「えー、全然嫌いじゃないよ。いっぱい発見があって、すごく楽しい」
「そう……」
訊いておいて、愛は答えてに対して感情のこもらない呟きを返した。
目を伏せる愛に、木戸は尋ねる。
「愛ちゃんは? 楽しくない?」
「………………」
視線は下に向けたまま、愛は沈黙するばかりだった。
そこから彼女の感情を読み取れる人間少ない。残念ながら、木戸にはそれがわからなかった。
「そっか。さすがに中学生には少し難しい内容だもんね」
気遣ったように言う木戸だったが、それは的外れだった。
愛が何も分からないなどということは無い。彼女はアーク研究に既に5年以上関わっている。そして必要なことは自ら学んできた。彼女はそこらの新人の研究員より、アークについてずっと詳しいのだ。
ただそこに楽しさは見出していない。その点に関してのみ、木戸の理解は正しかった。
「でも、愛ちゃんはすることがない日もよくこの研究所に来てるよね。どうして?」
具体的なことは何もわかっていないまま、木戸は愛に問いかける。
「最近は、ずっと研究があるから……」
「ああ、うん、そうだけど。もう少し前のことだよ」
はぐらかすような答えを返す愛だったが、木戸は気にした様子もなく尋ね直した。
「父さんが、ここで働いてるから」
表情を動かさず、愛は淡々と答える。
「そういえば、アーク研究の責任者は如月博士だったっけ。そっか、お父さんのお手伝いなんだね」
あれこれと語る木戸に、愛は黙ってうなずく。
この研究所の所長はまた別の人間だが、アーク研究の責任者として研究に携わっているのは如月誠、愛の父親だ。愛がコードIのライセンス所有者となったのも、そのつながりである。
愛に話す気がないのを感じ取ってか、木戸は椅子を回してデスクの方に向き直った。
カチカチとマウスを握る指を動かしながら、ひとり言のように言う。
「あー、そういえば、発注してたものが届くのって明日なんだ。これからまた忙しくなりそう」
木戸が見つめる画面には、ある装置の概観図が表示されていた。
アークの思考制御システムと計算能力を利用して遠隔制御する、ある種の兵器の。
「大型の飛行重光子ビーム砲台かぁ、よくわからないけど、出来たら凄そうだよね」
兵器の名を語ることに、木戸は抵抗がない様子だった。
アーク研究に携われるものの優秀さ。そこには研究の内容如何に関わらず、その能力を常に発揮できるかという要素も含まれる。
何事に対してもフラットであるというのは、言いかえれば何事に対しても執着を抱かないということである。
「うーん、でもこれ機体出力のこともあるし、脳への負担大きそうなんだけど……。まぁ実際に動かして確かめてみればいっか」
その点で、木戸という女性はある意味で壊れた感性の持ち主であった。
「おっと、もうこんな時間、次の研究に行かなくちゃ」
ディスプレイに表示されている時計を見た木戸は、慌てた様子で立ち上がる。
「愛ちゃんもこれから実験だっけ、がんばって。それじゃあまたね」
静寂への慰めのように続けていたひとり言の、最後の一言だけを愛に向けて、木戸は足早に部屋を去って行く。
扉の閉まる音がやけにうるさく聞こえた。それほどに、部屋は静かだった。
結局、愛がここで得た繋がりなど、利害でしかない。感情の無い、ただ他の何かに繋いでもらうだけの、絆とも呼べぬ関係でしかなかった。
「いつ、終わるんだろう……」
5年の時を、愛はただ追い続けてきた。
「お姉ちゃん、お母さん……」
失ったものを取り戻すために、彼女にできる全てをしてきた。
「お父さん、私は……」
寄りかかる先を求める弱い心を押し隠して、全てを捧げ続けてきた。
何も残っていないのは、そこにある静寂が証明している。顔を上げて周囲を見た愛は、固く目を閉じて首を振った。
静かに立ち上がり、ドアの前に立つ。
ドアノブを握る手は震えていた。縋りたい心が、孤独を嘆いていたのだ。
この研究所に居る限り、愛は一人ではなかった。色々な人間に求められてきた。だがただ一つ、そこに愛だけは無かった。
「アスカ……」
弱い心が吐きだした、救いを求める声。
言って、彼女はドアを開けて去って行く。
ドアが閉まる。
残された小奇麗な部屋には、その音を訊き遂げる者などいなかった。




