第2話 伏線と偶然の見分け方について
翌日の午後九時、僕は昨日と同じ路地にいた。
仕事帰りに寄ったわけではない。帰り道を少し外れたら、偶然ここに着いたのだ。もちろん、最初からこの路地を目指して歩いた。偶然にも程度というものがある。
黒い本は鞄の中にある。
昨夜、一度だけ読み返した。三度読んで、四度目を開く寸前でやめたのだから、正確には三度だ。自分に都合の悪い数字を丸める癖は、経理に見つかる前に直したい。
『人生相談・小説買取』
看板は昨日と同じ場所にあった。変わっていたら、それはそれで困る。僕は看板の文句を確かめに来たわけではない。
扉を開けると、ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。お帰りなさい、と言うべきでしょうか」
カウンターの向こうで栞が顔を上げた。
「昨日の客を全員、帰宅扱いするのか」
「昨日の客はあなた一人です」
「経営が心配になるな」
「ご心配いただけるほど親しくなりましたか」
「なっていない。だから心配を撤回する」
「承知しました。では、用件をどうぞ」
僕は鞄から黒い本を取り出し、カウンターに置いた。
『佐藤悠介の人生』。
自分の名前を人前に差し出すのは、名刺交換だけで十分だと思っていた。
「証明すると言っただろ」
「ええ。あなたの人生に伏線がないことを」
「その確認に来た」
「ずいぶん熱心ですね」
「疑惑を晴らしたいだけだ」
「何の疑惑です?」
「僕の人生が小説として成立しているという疑惑だよ」
栞は本の表紙を見た。
「成立していないと困るんですか?」
「困らない。むしろ、そのほうが落ち着く」
「変わった安心の仕方ですね」
「変わった店に言われたくない」
店の奥には、昨夜と同じ時計があった。針は午前零時を指している。スマートフォンは午後九時十二分。昨日から一分も働いていない。時計にも有給休暇があるらしい。
「時計、直さないのか」
「困っていますか?」
「時間を知りたい客が困る」
「あなたはスマートフォンをお持ちでしょう」
「店の時計の存在意義を否定するな」
栞は答えず、カウンターの下から灰色のノートを取り出した。角が擦り切れた、大学の講義で使っていそうなノートだった。
「こちらは資料です」
「僕の人生の?」
「ええ」
「本が草稿で、ノートが資料。ずいぶん本格的だな」
「元編集部の方なら、資料の大切さはご存じでしょう」
「元営業部でも知っている。売るものの中身は把握しておくべきだからな」
僕はノートを覗き込んだ。
最初のページには、短い文章があった。
『小学二年生。飼っていた金魚が死んだ。名前はポチ』
「またポチか」
「ご不満ですか」
「死んだ金魚を何度も登場させるな。成仏できないだろ」
「金魚にも成仏の概念が?」
「知らない。本人に聞いてくれ」
栞は次の行を指した。
『母親は水に流せばいいと言った。悠介は庭の隅に埋めた。翌日、父親がその場所を掘り返した』
僕は黙って文字を追った。
小さな水槽。水面に浮かんだ白い腹。使い古した菓子箱にポチを入れたこと。庭の隅の土が思ったより硬く、子ども用のシャベルではなかなか掘れなかったこと。
父は何も知らなかった。庭に何かを植えようとして、土を返しただけだ。
「父親を責めたのか」
栞の質問に、僕は首を振った。
「怒ったよ。泣きもした。でも父さんは知らなかったんだ。僕がそこに埋めたことを」
「謝ってくれましたか」
「覚えていない」
嘘ではない。父の謝罪は思い出せない。思い出せるのは、掘り返された土と、そこに混じった菓子箱の破片だけだ。
「僕の金魚は二度死んだんだ」
「二度?」
「一度目は寿命で。二度目は父さんのスコップで」
口にした途端、八歳の僕に怒鳴られた気がした。三十九歳になると、泣く代わりに冗談を言う。進歩かどうかは怪しい。
栞は笑わなかった。
「それを今も覚えているんですね」
「名前をつけたんだからな」
「どうしてポチにしたんです?」
「犬が飼いたかったから。金魚しか許してもらえなかった」
「なるほど。代用品だったわけですね」
「ひどい言い方だな」
「失礼しました」
彼女が素直に謝ったので、こちらの文句は行き場を失った。
ポチを飼っていた頃、僕は毎朝餌をやった。犬みたいに散歩には連れていけなかったが、水槽の前に座って、学校であったことを話した。聞いていたかどうかは知らない。金魚に聞き上手という評価項目があるとも思えない。
「これが伏線だと言いたいのか」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「どこに?」
「少し疲れた目元のあたりに」
栞はそこで、ほんの少し口元を緩めた。
「昨日の言葉を使い回しましたね」
「再利用だ。環境に優しい」
僕はノートを閉じかけた。
「大切にしていたものを、他人が知らずに壊す。そういう経験は今もありますか」
栞が言った。
「あるだろうな。三十九年も生きていれば」
「そのとき、腹が立ちます?」
「相手が悪くなくても、腹が立つことはある」
「では、ポチの件と似ていますね」
「似ていることと、つながっていることは違う」
栞は指を止めた。
「確かに」
「……認めるのか」
「似ているだけでは伏線と呼べません。そこはあなたの言う通りです」
拍子抜けした。反論の準備をしていたのに、相手が先に引き下がると、勝った気がしない。
「では、次です」
ノートがめくられた。
『高校二年生。文化祭の準備中、小林が看板を壊した。悠介は自分が壊したと申し出た』
「それは覚えている」
「小林さんは、なぜ自分で謝らなかったんですか」
「部活の先輩に脅されていた。問題を起こせば辞めさせるって。あいつ、看板の前で今にも泣きそうだったんだ」
「それで代わりに怒られた」
「たまたま近くにいたからな」
「近くにいた人が全員、代わりに謝るとは限りませんよ」
「僕も全員の行動を調査したわけじゃない」
文化祭の体育館裏は、ペンキの匂いがした。看板の板が割れた音より、小林が息を吸い込む音のほうをよく覚えている。泣くのを我慢するとき、人は妙な呼吸をする。
「その後、小林さんとは?」
「卒業まで普通に話した。今は知らない」
「お礼は?」
「言われた。何度も」
「嬉しかったですか」
「気まずかったよ。僕が善人みたいになるから」
「善人だと思われるのは嫌ですか」
「善人には善人の仕事が回ってくる。無償でな」
栞はノートの余白に鉛筆で何か書いた。
「何だ、それ」
「伏線候補、と」
「勝手に候補にするな」
「では、どういう条件なら認めますか」
僕は腕を組んだ。
「後から都合よく意味を貼りつけただけじゃ駄目だ。昔の出来事が、その後の具体的な出来事につながって、初めて伏線だろ」
「ポチの件は?」
「今のところ、ただの思い出だ」
「小林さんの件は?」
「ただの文化祭だ」
「文化祭をただの文化祭と呼ぶのは、なかなか勇気がいりますね」
「何の勇気だよ」
「青春を無駄遣いしたと認める勇気です」
「看板の修理代を払ったんだ。十分使ってる」
栞は鉛筆を置いた。
「では、保留にしましょう」
「却下じゃないのか」
「その後の出来事につながるかどうか、まだ確かめていませんから」
その理屈は正しかった。正しい理屈を、正しい人間が言うとは限らない。少なくとも、この店では。
「そもそも、人生と小説は違う」
僕は言った。
「小説なら作者が先に結末を考えて、必要なものを前に置ける。現実にはそんな作者はいない。僕がポチを埋めたとき、三十年後に君と金魚の話をする予定なんかなかった」
「ええ」
「だから、今日ここで話題になったからといって、あの日が伏線に昇格するわけじゃない」
「昇格審査が厳しいですね」
「人生の人事部だからな」
栞は黒い本を手元に引き寄せ、最後のページを開いた。
『この物語には伏線がありません』
「この一文が気に入らないんですよね」
「気に入らない。だが、ないものをあると言い張るつもりもない」
「では、どうして調べるんです?」
僕はすぐには答えなかった。
昨日、あの本を開いたとき、何より腹が立ったのは「伏線がない」という評価だった。自分でも似たようなことを思っているくせに、他人の筆跡で突きつけられると許せなかった。
「……僕が決めたいからだ」
「何を?」
「僕の人生が、どういう話だったかを」
言ってしまうと、ずいぶん幼稚な理由だった。自分の持ち物に名前を書く子どもと変わらない。しかも今回は、持ち物が三十九年分の人生である。
栞は何も書き足さなかった。
「それなら、調べましょう」
彼女はそう言った。さっきまでのからかう調子が、少しだけ薄れていた。
気づけば、ずいぶん長居していた。スマートフォンは午後十一時を過ぎている。奥の時計は、相変わらず午前零時だ。
「明日も仕事だ」
「では、今日はここまでですね」
「引き止めないのか」
「引き止めてほしいんですか」
「今の質問は忘れてくれ」
「善処します」
僕は黒い本を鞄に戻した。灰色のノートはカウンターに残す。
出口へ向かう途中、栞が呼び止めた。
「佐藤さん。ひとつだけ」
「まだあるのか」
「小説を書くのをやめたのは、三十歳の頃でしたね」
「そうだ」
「書きたい話がなくなったんですか。それとも、書いた話を誰かに見せるのが嫌になったんですか」
足が止まった。
出版社の小さな会議室が浮かんだ。冷めたコーヒー。窓の外を通る電車。原稿を閉じる音。
――読む理由がない。
「同じことだろ」
「私には違って聞こえます」
「君の耳の問題だ」
「そうかもしれません」
また引き下がった。反論を用意していた僕だけが、置いていかれる。
「次は、その話を調べましょう」
「次があると決めるな」
「ないんですか?」
「……作者を見つけるまでは、来るしかないだろ」
栞は小さく頷いた。
「お待ちしています」
扉を開けると、夜の空気が頬に触れた。
外から看板を見上げる。『人生相談・小説買取』。その下に、小さな文字があった。
『書きかけの人生も買い取ります』
昨日は気づかなかった。あるいは、気づく余裕がなかった。
書きかけ。
僕の人生は三十九年も続いている。それをまだ書きかけと呼ぶのなら、いったい何歳で完成するというのだろう。
答えは出ない。鞄の中の黒い本だけが、来たときより重い。
紙の重量が変わったわけではない。そんな現象まで起きたら、人生相談より先に警察へ行く。




