第1話 人生相談と書店の違いについて
人生に意味があるかどうかなんて、考えるだけ無駄だ。
少なくとも、三十九歳の佐藤悠介はそう思っている。佐藤悠介というのは僕のことだ。三人称で名乗れば人生を客観視できるかと思ったが、そんな便利な機能はなかった。あれば履歴書の自己PR欄で苦労しない。
失敗した恋愛は「若気の至り」になり、報われなかった努力は「いい経験」になる。呼び名を変えるだけで過去の値打ちが上がるのなら、世の中の古本屋はもっと儲かっているはずだ。
僕の人生は、今のところ売れ残りだ。
家賃は払えている。仕事もある。冷蔵庫には卵が三つと、いつ買ったのかわからない調味料がある。破綻はしていない。成功とも呼びにくい。たいていの人生は、この二語のあいだに収まる。
その夜、駅からの帰り道で、僕は見慣れない看板を見つけた。
『人生相談・小説買取』
細い路地の奥に、古書店らしい店がある。「らしい」と断ったのは、本より看板のほうが目立っていたからだ。
「ずいぶん雑な事業計画だな」
「ご利用になる前から経営指導ですか?」
声が返ってきた。
扉の隙間から、黒髪の女性がこちらを見ていた。白いシャツに紺のカーディガン。二十代後半くらいだろうか。客を呼び込むには、あまりにも面倒そうな顔をしている。
「独り言だよ」
「では、独り言に返事をしただけです」
「それはもう会話だろ」
「成立しましたね。おめでとうございます」
「何がめでたいんだ」
「本日の最初のお客様です」
「客になった覚えはない」
「人生相談と小説買取、どちらになさいます?」
「どちらもしない。看板が変だったから見ただけだ」
「変なものを見るために足を止める。なかなか立派な動機です」
「立派か?」
「少なくとも、何も考えずに通り過ぎるよりは」
女性はそこで一度、僕の靴に視線を落とした。右の靴紐がほどけていた。僕が結び直すあいだ、彼女は何も言わない。
「お名前を伺っても?」
「靴紐を結んだだけで個人情報まで取られるのか」
「名前がわからないと、呼び止めるときに困ります」
「呼び止めないでくれ」
「それでは困ります」
「君が?」
「はい」
堂々としていた。接客業に向いていないというより、接客業のほうが彼女に合わせるべきだと信じている顔だった。
「佐藤。佐藤悠介」
「佐藤悠介さん。三十九歳」
僕はほどけた靴紐を握ったまま顔を上げた。
「年齢は言っていない」
「そうでしたか」
「そうでしたか、じゃない。どうして知ってる?」
「顔に書いてあります」
「額か?」
「いえ。少し疲れた目元のあたりに」
「三十九歳限定の疲れ方なんてあるのか」
「今、私が作りました」
真顔だった。腹を立てるべきか、感心するべきか。どちらも損な気がした。
「私は栞と申します」
「店員?」
「店番はしています」
「店長?」
「店を長くする仕事ではありません」
「誰が建物の寸法を聞いた」
栞は扉を大きく開けた。古い紙と木の匂いが、夜気に混じって流れてくる。
「小説を書いたことはありますか?」
今度は僕が黙る番だった。
「……昔は」
「今は?」
「書いていない」
「なぜ?」
「書く理由がなくなったからだ」
言ってから後悔した。理由がないなら、最初から書かなければいい。僕は何年も書いていた。そこだけは、言い訳のしようがない。
大学時代には新人賞に応募した。卒業後は出版社に入り、最初は営業部、それから編集部に異動した。三十歳で退職する少し前、社内の編集者に自作の原稿を読んでもらったこともある。
返ってきた言葉は、九年たっても消えなかった。
――読む理由がない。
たった七文字だ。原稿用紙を何十枚も費やして書いた小説は、その七文字に負けた。
「それは残念です」
「何が」
「書くのをやめたことが」
「君に関係ないだろ」
「そうかもしれません」
意外にも、栞は言い返さなかった。扉を押さえていた指を離し、店の奥へ消える。
これで帰れる。
そう思ったのに、僕は帰らなかった。どうしてだろう。靴紐ならもう結び終わっていた。
「こちらを」
戻ってきた栞の手には、黒い表紙の本があった。白い文字で題名が刷られている。
『佐藤悠介の人生』
「同姓同名の人間が書いた自伝か?」
「読んでみますか?」
「読まなくても、嫌な予感がする」
「それなら読んで確かめましょう」
本を受け取り、最初のページを開いた。
生年月日。出生地。家族構成。すべて僕のものだった。
小学校二年生。飼っていた金魚のポチが死んだ。犬みたいな名前だと母に笑われたことまで書いてある。誰にも話した覚えのない、庭の隅に埋めた日のことも。
ページをめくる手が止まった。
「……何だ、これ」
「本です」
「見ればわかる。誰が書いた?」
「私も、その答えはお渡しできません」
「知らないのか、言えないのか」
「どちらだと思います?」
「質問に質問で返す人間は信用できない」
「では、信用しないでください」
栞は平然としていた。僕はもう一度、本に目を戻す。
高校の文化祭。大学時代の落選。出版社を辞めた日の空模様。上司のネクタイの色。帰り道に買った缶コーヒー。
忘れたはずのことまで、活字になっていた。
「盗み見でもしたのか」
「見られたくないことが書いてあります?」
「全部だよ。人の人生を勝手に本にするな」
「まだ出版はしていません」
「じゃあ、これは何だ」
「草稿です」
草稿。三十九年も生きて、まだ下書き扱いか。
「最後のページもどうぞ」
僕は言われるまま本を裏返し、末尾を開いた。
そこには一行だけあった。
『この物語には伏線がありません』
「……は?」
「感想をどうぞ」
「失礼だな」
「本にですか?」
「本にも、これを書いた奴にも」
「伏線がないのは、悪いことですか?」
「それを決めるのは読者だろ」
「では、読者であるあなたは?」
僕は本を閉じた。
つまらない人生だと思ったことはある。何度もある。けれど、赤の他人に太鼓判を押されると話が違う。自分で自分を殴るのと、他人に殴られるのとでは、警察を呼ぶべきかどうかが変わる。
「そもそも、人生に伏線なんてあるものか」
「ないと証明できます?」
「証明?」
「この本の記述が正しいかどうか。調べてみませんか」
「僕の人生を?」
「ええ」
「調べるまでもない。本人がここにいる」
「本人だから、見落とすこともあります」
言い返そうとして、言葉の在庫が尽きた。腹立たしい。
学生時代の夢は叶わず、恋人とは別れ、出版社も辞めた。現在の仕事は嫌いではないが、夢見た仕事でもない。つながっていると言えばつながっている。だから何だ、という話でもある。
「いいだろう」
「何がです?」
「僕の人生に伏線がないことを証明してやる」
「本に書いてある通りだと?」
「そうだ。あんたの本が正しいと認めるのは癪だが、ないものはない」
「でしたら、調べる価値はありますね」
「どうして」
「ないものを、どうやって見つけずに済ませるのか。興味があります」
「君、性格が悪いと言われないか」
「よく言われます。主に今、あなたに」
栞がわずかに笑った。初めて年相応の顔を見た気がした。
「ただし条件がある」
「何でしょう」
「これを書いた作者を見つける。見つけて文句を言う」
「どんな文句です?」
「人の人生を勝手につまらない話にするな、ってな」
栞は口元を押さえた。笑いを隠すには少し遅かった。
「作者に会えるといいですね」
「会えないのか」
「私が決めることではありません」
店の奥で、古い時計が小さく鳴った。
文字盤の針は午前零時を指していた。スマートフォンを見れば、まだ午後十時過ぎだ。故障だろう。店員が変わり者だからといって時計まで付き合う必要はないが。
「もう閉店か?」
「ここは時間で閉める店ではありません」
「じゃあ、何で閉める」
「用事が終わったらです」
「ずいぶん普通の答えだな」
「普通では不満ですか?」
「いや。少し安心した」
栞は本を受け取ろうと手を伸ばした。
僕は反射的に引っ込めた。
「持って帰っていいか」
「どうぞ」
「代金は?」
「読み終えたときに考えてください」
「後払いの古書店なんて聞いたことがない」
「初めての経験になりましたね」
僕は返事をせず、店を出た。
路地には、さっきと同じ街灯がともっている。コンビニの袋を提げた男が通り過ぎ、どこかで自転車のブレーキが鳴った。世界は普通だった。少なくとも、僕以外の誰かにとっては。
『佐藤悠介の人生』
表紙をもう一度見た。
「……余計なお世話だ」
明日も仕事だ。朝九時には出勤しなければならない。
僕の人生に伏線があろうとなかろうと、その予定だけは変わらない。




