第3話 読む理由がない小説について
翌朝、僕は会社で数字を眺めていた。
数字はいい。三は三、四は四。昨日の三が今日になって「実は四だったかもしれません」と言い出したら、経理部より先に僕が倒れる。
「佐藤さん、これ、確認してもらえますか」
後輩の田中が、書類を一束持ってきた。
「数字が合っているか?」
「はい」
「合っていたらどうする」
「承認してください」
「合っていなかったら?」
「差し戻してください」
「どっちにしても僕の仕事が増えるな」
「そういう仕事ですから」
田中は僕の嫌味を受け流す技術を身につけた。会社にとっては人材育成の成功例だろう。僕の立場からすると、唯一の娯楽を失いつつある。
数字は合っていた。印を押して返す。
「佐藤さん、何かありました?」
「何も」
「昨日から、ちょっと変ですよ」
「普段は正常だと思っていたのか」
「それは……」
「迷うな。傷つくだろ」
田中は笑って席に戻った。
何もない、は嘘だった。鞄には僕の三十九年が一冊に収まっている。個人情報の持ち歩きとしては最悪だが、僕が僕を訴えるわけにもいかない。
昼休み、黒い本を開こうとしてやめた。隣の席で田中がカップ麺をすすっている。こんな場所で自分の人生を読むのは、健康診断の結果を社内放送で読み上げるようなものだ。
僕は本を鞄に戻した。
昨日、栞に言われたことが耳に残っていた。
書きたい話がなくなったのか。それとも、誰かに見せるのが嫌になったのか。
どちらでもいい。どちらも過去の話だ。過去に足を取られているほど暇ではない。
そう思いながら、午後の会議では議事録に「今後の検討事項」と三回書いた。世の中は、過去を棚上げするために未来という言葉を使いすぎる。
午後七時。退勤した僕は、駅へ向かう人の流れを途中で外れた。
古書店に寄るのは三夜連続になる。
常連を名乗るには早い。もっとも、三日通って一冊も買っていない。常連どころか売上への貢献はゼロだった。
看板はあった。
『人生相談・小説買取』
その下の小さな文字も、昨夜のままだ。
『書きかけの人生も買い取ります』
扉を押すと、ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
栞はカウンターで本を読んでいた。黒い服ではなく、今日は紺色のカーディガンを羽織っている。服装が変わっただけで、同じ人間が少し現実に近づいたように見えた。
「三日続けて来る客は珍しいか」
「相談内容によります」
「人生だ」
「では、長期戦ですね」
「短期で片づけたい」
「三十九年かけて作ったものを三日で片づけるのは、少し乱暴では?」
「君が始めた話だろう」
「始めたのは佐藤さんです。私は店を開けていただけです」
言い返す前に、栞が僕の鞄を見た。
「今日も持ってきたんですね」
「君が持って帰っていいと言った」
「読んでくれましたか」
「読んだ。面白くなかった」
「感想をありがとうございます」
「礼を言うな。悪口だ」
「読んだうえでの悪口は、読まないままの無関心より参考になります」
元編集者として、そこだけは反論しづらい。
黒い本をカウンターに置く。栞は受け取らず、下からもう一冊取り出した。
同じ黒い装丁。同じ題名。
『佐藤悠介の人生』
右下に、小さく『改訂版』とある。
「……僕の人生は、いつ改訂された」
「本日です」
「本人の許可は?」
「いただいていません」
「堂々と言うな」
「黙っていても、改訂された事実は変わりませんから」
僕は二冊を並べた。片方が現実で、もう片方が修正された現実。いや、そんなものは現実と呼ばない。校正ミスだ。
「何が違うんだ」
「読んでみてください」
「先に答えを教えてくれたっていいだろ」
「答えを知ってから読むと、間違い探しになってしまいます」
「間違い探しじゃないのか」
「佐藤さんが何を間違いだと思うか、知りたいんです」
それなら最初からそう言えばいい。
僕は改訂版を開いた。
出生地。小学校。二年生の春に死んだ金魚のポチ。高校の文化祭で、小林の代わりに壊れた看板を謝ったこと。
そこまでは同じだった。
大学三年生の項目で、文章が変わる。
『佐藤悠介は初めて応募した新人賞で一次選考を通過した。選評には、独特の視点があると記された』
「違う」
声が思ったより大きくなった。
「一次で落ちた。通過していない。選評だって届かなかった」
「それは残念でしたね」
「今さら慰めるな。しかも君の本が勝手に受賞歴を増やしている」
「受賞はしていませんよ」
「そこを訂正するな」
ページをめくる。
『大学卒業後、出版社に入社。営業部を経て編集部に異動。退職を考え始めた頃、自作の原稿を社内の先輩編集者に読んでもらった』
ここは合っている。僕は最初から編集者だったわけではない。営業部で書店を回り、編集部に移ったのは数年後だ。小説を読んでもらったのは、退職する少し前。三十歳になる頃だった。
だが、次の一文が違った。
『先輩編集者は言った。「文章は悪くない。ただ、読者が読む理由を、まだ見つけられていない」』
「これも違う」
「どう違います?」
「『読む理由がない』と言われたんだ」
「ずいぶん近い言葉ですね」
「近いから困るんだよ」
僕は改訂版を指で叩いた。
「『見つけられていない』なら、どこかにあるかもしれない。『ない』なら、探す必要もない。僕が言われたのは後者だ」
栞はすぐに返事をしなかった。
「その人は、どういう顔で言いましたか」
「顔?」
「怒っていましたか。笑っていましたか」
「……困っていたと思う」
小さな会議室だった。
冷めたコーヒーが二つ。窓の外には高架線があり、電車が通るたびに窓枠がかすかに震えた。僕が書いた原稿は、机の上で紙の角を揃えられていた。
相手は先輩編集者だった。僕より少し年上で、他人の原稿に赤字を入れるとき、必要以上に筆圧が強くなる人だった。
「文章は読めるよ」
彼はそう言った。
「でも、主人公が何をしたいのかわからない」
「何もしない人間の話ですから」
「それはわかる。何もしない人間を書いちゃいけないわけじゃない。ただ、読者がこの人のあとを追う理由がないんだ」
読む理由がない。
僕はその部分だけを、まるで判決文のように持ち帰った。
相手がそのあと何を言ったか、思い出そうとすると曖昧になる。書き直せる、と言った気もする。もう少し考えてみて、と言われた気もする。確かなのは、僕が原稿を受け取り、礼を言って会議室を出たことだ。
数週間後、退職届を出した。
給料。残業。人間関係。理由はいくつもあった。小説のことだけで会社を辞めたわけじゃない。それなのに、あの言葉を思い出すと、退職までのすべてが一本の線でつながったように見える。
まったく、都合のいい記憶だ。
「佐藤さん?」
栞の声で、カウンターに戻ってきた。
「何だ」
「今、少し嫌な顔をしました」
「いつもだろ」
「いつもより、ちゃんと嫌そうでした」
「評価の基準がわからないな」
栞は改訂版に目を落とした。
「こちらの言葉のほうが、気に入りますか」
「気に入るも何も、言われていない」
「もし言われていたら?」
「……たぶん、同じように書くのをやめた」
口にしてから、少し驚いた。
僕はずっと、あの一言のせいで書けなくなったと思っていた。けれど、少し優しい一言に差し替えられたくらいで、当時の僕が突然強くなったとは思えない。
「だったら、改訂版の意味は何だ」
「それを私が決めてもいいんですか」
「今日はやけに慎重だな」
「昨日、後付けは嫌いだとおっしゃったので」
覚えていたらしい。都合の悪いところだけ記憶力がいい。
「この本を読んで、昔の自分を許せると思ったんです」
栞がぽつりと言った。
「誰が?」
「佐藤さんが」
「許すも何も、罪を犯したわけじゃない」
「そうですね」
栞は本を閉じた。指先が表紙の端に残る。
「……外れましたね」
いつもなら、そこからもう一つ質問が飛んでくる。ところが今日は来なかった。栞は自分の見立てが間違っていたことを、思ったより気にしているようだった。
「別に、全部外れたわけじゃない」
「慰めてくださるんですか」
「訂正だ。改訂版を読んで腹が立った理由が、少しわかった」
「何です?」
「失敗したことを勝手に成功に変えられると、失敗した僕までいなくなる気がする」
言ってから後悔した。僕らしくない。あまりに真っ当で、履歴書の自己PR欄に書けそうだ。
栞は笑わなかった。
「それは、覚えておきます」
「ノートに書くなよ」
「今日は書きません」
僕は改訂版をもう一度開いた。
「そういえば、あのとき読ませた小説のことを、君は知っているのか」
「どんな話でした?」
「僕が聞いてる」
「確認したいんです。あなたが覚えているものと、ここにあるものが同じかどうか」
嫌な予感がした。
「普通の男の話だよ。仕事をして、家に帰って、何も起きない。ある日、自分の人生に意味がないと思う。でも何もしない」
「最後は?」
「何も変わらない」
「それで終わりですか」
「……そういう話を書きたかったんだ」
正確には、書こうとした。
結末を書けなかった。何も変わらない主人公を描こうとして、僕自身が途中で筆を止めた。何もしないことと、何も書かないことは似ている。似ているだけで、同じではないはずだった。
「題名は?」
「覚えていない」
「最初の一行は?」
「それも」
「では、これを見てください」
栞はカウンターの引き出しから、薄い封筒を取り出した。
中には古い原稿用紙が数枚入っていた。
右に傾く字。やたら長い漢字の払い。今よりも丁寧で、今よりも下手な、僕の筆跡。
表題は『伏線のない人生』。
その下に一行。
『人生に意味があるかどうかなんて、考えるだけ無駄だ』
僕は息を止めた。
それは三日前、あの店の前で考えていた言葉と同じだった。
いや、同じだと思ったのは、僕のほうだ。三日前の僕が昔の自分の文章を無意識になぞった可能性だってある。そう考えれば、何もおかしくない。
おかしくないはずなのに、原稿を持つ手が冷たくなった。
「どこでこれを?」
「店にありました」
「入手経路を聞いている」
「それは、まだ説明できません」
「説明できないのか、したくないのか」
栞は答える前に、一度だけ視線を逸らした。
「両方、かもしれません」
初めて聞く種類の返事だった。
僕は原稿をめくった。二枚目、三枚目。話は短く、途中で途切れている。
最後に書かれた文章は、こうだった。
『主人公は、自分の人生に伏線がないことを証明しようとした』
「……こんなことを書いた覚えはない」
「筆跡は?」
「僕の字に見える」
「それだけですか」
「それ以上、何を言えと?」
栞は封筒を僕の前に寄せた。
「続きを書いてみませんか」
「断る」
「早いですね」
「九年かけて決めたことだ。返事くらい早くなる」
「九年間、ずっと考えていたんですか」
「……考えないようにしていた」
言い負かされたわけじゃない。ただ、余計なことを口にした。
栞は封筒の口を閉じた。
「では、今日はここまでにしましょう」
「待て。作者のことは?」
「探しているんでしたね」
「忘れるなよ」
「忘れていません。ただ、あなたが探しているのは本を書いた人なのか、原稿を書いた人なのか、私にもまだわからないんです」
僕は二冊の黒い本と、封筒を見比べた。
「君は何を知ってるんだ」
「全部ではありません」
「少しは?」
「少しだけ」
「その少しを教えろ」
栞は封筒を引き出しにしまいかけて、手を止めた。
「昔の原稿には、主人公のほかに、もう一人いたようです」
「誰だ」
「原稿を読む人です」
「読者?」
「……そう呼んでも、間違いではないと思います」
曖昧な答えだった。いつもの彼女なら、もっと意地の悪い言い方をしただろう。
僕は黒い本を鞄に戻した。改訂版は置いていく。存在しなかった成功まで持ち帰る気にはなれない。
店の奥の時計は午前零時を指したままだった。スマートフォンは午後十時四十一分。時計の針は一度も動かないのに、この店に来ると、いつも時間を使いすぎる。
「また来ますか」
「質問が変わらないな」
「答えは変わりましたか」
「来ない、と言えば満足か」
「いいえ」
「じゃあ聞くな」
扉に手をかけた。
「佐藤さん」
「まだ何か?」
「昔の原稿を見て、どう思いました?」
少し考えた。
「字が下手だった」
「今は?」
「もう少し下手だ」
栞が吹き出した。
つられて口元が緩んだ。自分の冗談に笑うのは反則だが、幸い審判はいない。
店を出ると、冷たい風が吹いていた。
帰り道、スマートフォンのメモを開いた。何を書こうとしたのか、自分でもわからない。画面には白い欄と点滅するカーソルだけがある。
僕はそこに一行、打ち込んだ。
『読む理由がない』
しばらく眺めて、最後に疑問符をつけた。
『読む理由がない?』
疑問符ひとつで、断定が足元を失った。
今の僕も、似たようなものだった。
保存して、スマートフォンをしまった。
続きを書くつもりは、まだない。
ただ、消す理由も見つからなかった。




