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左の彼  作者: まつたね
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2


「いたっ」





不運とはいったい、何回続くものなのだろう。


朝からへとへとで出勤して

案外平和な午前を過ごし、


今日はのんびりか?


なんて思っていると、

終業直前にトラブル発生。



なんならもう退勤の気持ちで

あらかたのログアウトは済ませていた。


なんならもう退勤の気持ちで、

晩御飯のことを考えていた。



なんならもう、退勤の、気持ちであったのに!!





状況把握、事実確認、上司へ連絡。


早く帰りたいと焦る気持ちは、

定時を40分越えた辺りで消えた。



残業確定、やれやれである。





退勤できたのはそれから約3時間後。


日も落ち、人の気配も減り、

疲れ以上に寂しさが押し寄せた。



今日はソテーにしようかな


下味をつけて冷凍していた鶏もも肉と、

たっぷりのコーンを付け合わせにして。



なあんて考えていたけれど、

そんな元気はどこかへいってしまった。



とぼとぼと帰る夜道。


勤務しているビルの周辺には

似たようなビルしかなくて、

稀に通る車と信号以外、

動くものは何もなかった。



それでも駅周辺に辿り着けば

多少の活気はあって、


わははは、と陽気に笑う、

酔っぱらった人の朗らかな声に

ひどく安心した。



駅のホームはまばらな人。


残業界では短い残業時間かもしれないが、

それでもやっぱり定時退社の人の圧には劣る。



疲れたな、でも、方が付いてよかった。


いつもは立って待つ電車も、

駅のホームにある椅子に腰かけて待つことにした。



ほんのりと生ぬるい風、

駅の独特な香り。


外は何も見えないくらい暗くて、

でも私が居る場所は

煌々とした光に照らされている。



明日の予定はなんだっけ

帰ったらまずご飯を食べよう


でも動けなくなるかな

真っ先にお風呂の方がいいかな


ゆっくり湯船につかると

余計に疲れちゃいそうだな


でもなにか、癒しが欲しい。



ぽろぽろころころつぎつぎと、

頭の中を流れゆく思考、ひとりごと。



とにかく疲れた。

何にしたって、疲れた。


予感がする残業も大変だけれど、

突然来る残業は心の準備ができない分

もっと大変な気がする。



でも世の中にはもっと残業している人がいて


私がさっき通ってきたビルの中にも

残っている人はきっと沢山いて。


だから比べ物にならないけれど、

でも昨日の私と比べたら

確実に疲れていて。



比べるものではないと思う私と、

無意識に、誰かに向かって私を擁護する私。




『まもなく1番線に―――』




よく通るアナウンス。

いつだって真っ直ぐなその声は、

いつだって私の視線を上げさせる。



電車が来るのは右側から。


迎え入れるように眺めていると、

その電車に乗ろうと、人が集まってくる。


まばらだった駅のホームにも、

いつのまにか列ができるほどの人がいた。



重い腰を上げて立ち上がり

私もその列の最後尾に並ぶ。



思わず座っていたけれど、

これほど人がいたら座れないかもしれないな

なんて。



ぼんやりと考えて、

停車した車両へと続く人の波の流れに乗る。



案の定座る場所は無かった。



いや。


本当はひとつ隣の出入り口付近に、

空いている席があった。



でもそこまで歩く気力がなくて、

近くの人を追い越してまで座る勇気もなくて。


そのまま立ち止まり、

振り返り、


いつ振りかの出入り口に留まった。



ポールを掴むと閉まる扉、

一呼吸置いて動き始める電車。



煌々とした光はあっという間に置き去りにして、


まばらなビルの明かりと、

鮮やかに光る看板を目で追う。



帰ったら、


かえったら、


何からしよう。





ふと気が付くと


降りる駅までもう少しであった。



減速する電車、

最寄りの駅名を告げるアナウンス。


ポケットの中の定期の感触を確かめて

ほんの少し姿勢を正す。



同じ駅で降りる人が立ち上がり、


こちらも気が付けば

座っている人の数がかなり減っていた。



減速、減速、ブレーキ。



ぷしゅーという誇らしげな音がして、

扉が開き、外の香りを間近で感じる。



何も気が付かなかったのは、

ずっと反対側の扉が開いていたからか。



大股で車両から抜け出せば

我が家まではあと少し。



歩いて、昇って、下りて、くぐって。


同じ駅といえども

最寄りの駅は少しさびれていて、


同じ電車から抜け出してきた人も

違う方向へと歩いて行った。



暗いな、と思う。

暑いのに、寒いな、とも。


歩き出すと、

電車の中で固まっていた体が

ほぐれていく感覚。



大げさに手を振れば、

なんだか夜に抜け出してきたようで

少し楽しくなった。



最寄りのスーパーは閉まっていた。

たまにお世話になるお弁当屋さんも。


コンビニはあるけれど、

なんとなく寄る気分にはならなかった。



歩いて、歩いて、歩いて。


真っ暗と、ほの明るさと、

たまに訪れる自動販売機の眩い光。



どこかで犬の鳴く声がした。


ほんの少しだけ、煮かぼちゃの香りがした。


それ以外は何もなく、

コツコツ コツコツと歩く私の足音が

ついて来たり、追い越したり。



マンションが近付いて、

何気なく振り返る。


何もないといいな、のおまじない。


何かあってからでは

遅いから。



おまじないは成功で、

そこには誰一人いなくて


ほっと息をついて、

エントランスに入る。



ポストは見なかった。


今日はいいやと思ったから。



歩き、押して、昇り、歩く。



廊下で探るのはカバンの中。


カバンの中で迷子にならないように、

短い紐でつないだ鍵を

手探りで探し、取り出す。



カチャン


と音がして

鍵が開き、


捻り、開き、入り、閉じる。



そのまま座り込んでしまいたい誘惑。


負けじと靴を脱ぎ、歩き、



そして冒頭。





「いたっ」





右足に痛み。


刺すような痛み。


反射で足を上げて、

よろめいて、

数歩跳ねながら移動して、

何事かと足に手をやって。



触れた破片の冷たさに、

思い出したのは今朝のこと。





「マグカップ……!!」





今朝落として割れたマグカップを、

端に避けた以外はそのままで。


掃除機は帰ったらやろうと思っていた。



思っていて、忘れていた。



そのバチが当たった。



破片はそれほど大きくなく、

それでも人一人跳ね上がるほどの痛み。



手探りで破片を取り、

恐る恐る寝室へと向かう。



スリッパなんて気の利いたものはここにはなくて、

尚且つ救世主の掃除機は寝室にいる。



幸い別の破片を踏むことはなく、

辿り着いた寝室に

そのままの勢いでへたり込む。



ずるずるとスーツを脱ぎ、

ストッキングを脱ぎ。


足裏を確認すると、

そこに滲むのは赤。



血だと認識すると

余計痛く感じるのは何故なのか。



じんわり滲んだ涙はそのままに、


絆創膏か、お風呂に入って血を流すか、



まずは掃除機、


ご飯、それから……






そうして気が付けば、

そのままの姿で、

美しい朝日に包まれていた。






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